第40話 救済
地下牢は確かにそこにあった。
地下牢への扉はまるで特殊な作りはしておらず、そこに潜む狂気すら存在しないかのような当然を装って、廊下の一角にあった。
他の扉と区別がつかない何の変哲もない木の扉を開けると、石造りの階段が地下へ伸びていた。
ホークは黙って階段を降りる。
灯りは壁に取り付けられている小さな蝋燭の灯のみで、一メートル先も満足に見えなかった。
階段を降り切って地下牢へと辿り着いてもそれは変わらなかった。
かろうじて牢屋がいくつも隣接していること。その内のいくつかには人が収監されていることがわかった。
地下牢に入ってまず刺激されたホークの五感は嗅覚だった。
思わず顔をしかめるほどの悪臭。血、臓物、吐瀉物、排泄物の入り混じった臭いが鼻をついた。
こんな場所に数日間放り込まれるだけで、まともな者なら気をやってしまってもおかしくない。
かすかな蝋燭の灯りを頼りに、一人ずつ顔を確認していく。
――生きている者を見つけるのは困難だった。
失血死、衰弱死、ショック死。死因は様々だが、皆一様に絶望の表情を浮かべて死亡していた。
動いている者を見かければ、案の定というか大抵はグールへと変貌しており、ホークはせめてもの慈悲として死を与えた。
数名だけ生き残っている者を見つけたが、いずれも廃人と化していた。
ホークの呼びかけにも応えず、白目を剥いたまま微動だにしなかった。
彼女らの治療が可能かは不明だが、おそらく難しいだろう。
この廃人化した犠牲者の姿にこそ、ブラッディ・リーチの残虐性が表れている。身体だけでなく心までをも蹂躙する悪魔の所業。それがブラッディ・リーチの拷問なのだ。
そこでは誰もがブラッディ・リーチに支配され、ブラッディ・リーチに植え付けられた恐怖によって命を落としていた。
人もエルフも区別はなかった。
攫われたという報告があったエルフの少女たちの姿も何人も目にしたが、ブラッディ・リーチの拷問を耐えきれた者は一人も目にしなかった。
「誰か……生きてる者はいないのか」
もうエルフじゃなくてもいい。人間でもいいから、誰か生きている者を見つけたかった。
あれほど憎んだ種族だが、この空間においては誰もが平等だ。誰もが救済を待ち望む、憐れむべき者たちだった。
「――な」
ホークが驚愕し足を止める。
暗くて見えなかったが、どうやら地下牢の端まで着いてしまったようだ。
まさかという焦りがホークの胸を掠める。
ここまで一人たりとも人影を見落としていない。ならばミリアはどこに――
「――ぅ」
そのとき、ほんの微かな呻き声を聞きとがめ、ホークは弾かれるように一つの牢を見た。
僅かな蝋燭の灯しか届かないその牢の中に、一つの影が見えた。
「……ミ」
その人影は、確かにホークの記憶にある姿とよく似ていた。
ホークと同じ赤い髪。ホークとよく似た顔だが、その目だけはホークとは違いいつも優しくまん丸だった。
見間違えるはずもない。それは……
「――ミリア!」
牢の扉を蹴り破り中へ飛び込む。
彼女のすぐ傍まで駆け寄ると、手に持っていた二丁の銃を地面に放り出し、両手を彼女の頬に添えた。
「ミリア! ミリア! 私だ、ホークだ! 助けに来たんだ!」
光源がほとんど届かないためその姿がはっきりと見えるわけではなかったが、それでもかすかに見えるその顔は間違いなくミリアのものだった。
「……う……ぅ……ぁ」
ミリアの口から声が漏れる。
生きている。衰弱し切っているが、それでも確かにその命が繋がっている。
「私が分かるかミリア。お前の姉だ。ホークだ。お前を助けに来た!」
ミリアの肩を掴み勢いよく振る。筋肉にまるで力が入っていないのか、がくんがくんと首が揺れる。
ミリアから意味のある言葉が発せられることはなかった。ただ口から小さな呻き声が漏れるだけだった。
「ミリア、お前……まさか……」
心臓を氷の手で鷲掴みにされたような悪寒が走る。
ミリアの牢に辿り着くまでに見てきた者たちの末路は似たようなものだった。
死んでいるか、グールになっているか、廃人になっているか。
死んではいないようだが、最悪の場合、ミリアは既に……
「頼む、何か言ってくれ! なあ! 私を見ろ、ミリア! ホークだ! 私が分かるか!」
決死の願いを込めてミリアを声をかける。
ミリアはやがて微睡みから覚めるように目の焦点が合いだし、それはゆっくりとホークへと移った。
そうしてホークとミリアの視線が交差し、数秒後――
――こくん、とミリアは頷いた。
「……!」
ホークが目を見開いた。
今確かに、ミリアはホークの言葉に反応した。
「……わかる、んだな? 私が……私の言葉が分かるな、ミリア!」
そう問いかけると、ミリアはもう一度、こくん、と頷いた。
ホークの口から安堵の息が零れる。
胸中を覆っていた全ての不安と絶望が、霧が晴れるように散っていくのを感じた。
ミリアは生きていた。グールにもなっておらず、ホークの言葉が理解できるほどに意識を保っている。
これならば問題ない。十分治療可能だ。ミリアの命は、失われてはいなかった。
「良かった……良かった、ミリア……!」
ホークはたまらずミリアを抱きしめた。
ミリアの温度は弱々しくも確かに命の熱を伝えてきた。それだけで、ホークは全てが報われる思いだった。
いつまでもその温度を感じていたかったが、今はそんな時ではない。
まだ目的の半分しか達成できていない。ミリアをこの館から無事に連れ出さなくては意味がないのだ。
「――ミリア、今すぐこの館を出るぞ」
ホークはミリアから離れて牢を出た。
幸い、まだブラッディ・リーチが帰還した気配はない。
パンダの策が上手くいっているのか、それとも今こちらへ向かっている最中なのかは不明だが、どちらにせよ急ぐ必要がある。
牢の奥を確認する。
グールもいない。仮に何体出てこようと問題じゃない。今のホークなら何百体のグールが相手でも突破する自信がある。
「よし、今なら大丈夫だ。歩けるか、ミリア? もし辛いようなら肩を貸すから、頑張ってついてきてく――」
――カチャリ、と音が鳴った。
「……?」
何の音か分からずに周囲を見回すホーク。
しかし今やこの地下牢は無人も同然。音の発生源などあるはずがない。
あるとすればそれは……ミリアがいる地下牢からしか有り得ない。
「ミリ――」
そこでホークは言葉を詰まらせた。
牢の外から僅かに見えるミリアの姿。
ミリアの手には、赤い拳銃が握られていた。
力なく揺れるミリアの両手が、それでもしっかりと銃を握りしめ……その銃口が少しずつ上がっていく。
「……ミリア?」
その時、亡者のようだったミリアの表情に、はっきりと一つの感情が浮かぶのが見えた。
苦しみではない。恐怖ではない。絶望ではない。
それはあらゆる負の概念から解き放たれた……満ち足りたような安堵の表情だった。
「――――よせ!!」
その表情のまま――ミリアは静かに銃の引き金を引いた。
ホークの伸ばした手は間に合わず、薄暗い地下牢に一発の銃声が鳴り響いた。
世界の時が止まったかのような錯覚に襲われ、ホークは呼吸の仕方を忘れたように固まった。
自身の額に向けて放たれた銃弾に撃ち抜かれ、ミリアの身体がどさりと倒れ込む。
その衝撃で、壁につけられていた蝋燭がぐらりと揺れ、吸い込まれるように地面に落ちた。
ボロボロに切り刻まれた衣服の上に落ちた蝋燭の炎が少しずつ大きくなっていく。
――その炎の光が、それまで闇に隠されていた地下牢の全てを暴き出した。
ミリアが囚われていた牢屋。そこは真っ赤な色に支配された空間だった。
床も壁も天井も、目につくもの全てが赤い血で塗り潰されている。
まるで何度も何度も赤いペンキで上塗りしたかのような赤。それは全て、元はミリアの体内にあったものに違いなかった。
その赤はミリア自身をも浸食していた。
全身を余すことなく支配する赤い血。そしてミリアの全身に刻まれた数多の傷跡。
凄惨な拷問の痕は、ともすれば他の誰よりも苛烈だと思わせるほどにむごたらしかった。
「――――」
ホークの膝ががくんと地に落ちた。
何が起こったのか受け入れることが怖かった。ただ今、眼前にある真実から目を背けたかった。
それでもホークの脳裏に、最後のミリアの顔が浮かぶ。
ミリアは最後、安堵に満ちた表情で引き金を引いた。
彼女は最後までブラッディ・リーチに抗い、ついに屈することはなかったのだ。
今この瞬間まで耐え続け、それがようやく報われた。
ミリアはいつ終わるとも知れない絶望の中で、ただ一つの救いだけを希望に縋り続け、最後にそれを手に入れたのだ。
死という、全ての苦痛から解放してくれる救済を。
「ああああああああああああああああああああ!!!!!」
マリーが館に到着した時、最初に感じた違和感は灯りだった。
マリーの館は広大だが今はほとんどの光源が使われていない。夜になれば月明り以外はほとんど館を照らすものがないほどだ。
そんな館に、遠くからでも分かるほどの大きな光源があった。
「……燃えてる?」
近づいてみると、確かに館が燃えていた。
それも館の一部……おそらく地下牢あたりから出火したようだ。
「ああ、あの子たちを助けに来たんだね」
とすればやはり侵入者はあの赤いエルフで間違いないだろう。
妹を救うためにマリーに二度挑み敗北したエルフが、性懲りもなくまたやってきたようだ。
時間的には救出する時間はあっただろう。
別にマリーとしても、今更あんな少女達に興味はない。もう骨の髄まで嬲りつくした後だ。
――もうあの地下牢には、壊れた玩具しか残っていない。
だからこそ、あの炎なのだろう。
あの場にいた全ての者を焼き払う浄化の炎。それが答えだ。
マリーの拷問を受けた者は皆最後には同じことを口にするようになる。
――殺してください。
それは、この世界が苦痛と恐怖で支配されているという真実に至った者の切なる叫び。どこにも希望はないと知った者たちは、最後には死という安息を渇望するようになる。
だがマリーは最後の最後まで、彼女たちに安息を与えることはなかった。
死という自由すら奪い、ただひたすらに彼女たちの世界を恐怖で満たし続けた。
……そういう意味で言えば、一人のエルフの存在だけがマリーの心残りではあった。
おそらくはあのホークとかいうエルフが探していた妹なのだろうが、彼女だけは最後までマリーに死を請うことはしなかった。
どれほど痛めつけようとも最後まで抗い続けた。
だが結局は同じことだ。マリーはあのエルフの中に、確かな『恐怖の味』を感じていた。
あのエルフもいずれ自由になったその時に、自ら安息を求めて死を選ぶという確信があった。
そしてそれは現実のものとなったようだ。あの炎が何よりの証拠。
もしあのエルフが正気を保ったまま救出されたのなら、無我夢中で館から逃げ出すはずだ。火を放つ暇などあるわけがない。
だからこの燃え盛る炎こそが、マリーが最後まで館の支配者であった証なのだ。
館まで行くと高度を下げた。
玄関扉を開くと、既にそこにも炎の浸食は進んでいた。
エントランスの左側だけが炎に包まれている。激しい熱と煙が充満し、視界を遮った。
「……ここは私のお家だよ?」
そんなエントランスに、一つの影。
「空き巣のくせに家の主人を出迎えるなんて、身の程知らずじゃないかな」
燃え盛る紅蓮の炎を背に、彼女が立っていた。
両手に二丁の銃を携えて――ホーク・ヴァーミリオンが、マリーの帰還を待っていた。
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