夢の中のバレンタインデー

那詩 ごはん

夢の中のバレンタインデー


「今日は、バレンタインにするからね!」


 と唐突に彼女は言うと、じゃあまた後でと手を振って教室を出て行った。突飛な行動はいつものことで、時期的に雪も融けてきたからという判断なのだろう。暦の上ではもう少し早くに執り行われるべきだったのだろうが、ことバレンタインデーのような一方的に受け手側に回らなければならないイベントの開催日にこちらが口を挟むことは勿論できるはずもない。


 さらに、今年は節分はまだ開催されておらず、常識的な考えからまずそちらが先だと思っていた僕は、去年や一昨年のように『そろそろバレンタインだろうから、今日こそはチョコが来るかもしれない』などと不自然にソワソワしたりなどは微塵もしていなかった。故に彼女の発言は不意打ち的に心を揺り動かす。彼女がいつ帰って来るのかは知らないが、それまでの時間はやけに長く感じられる予感が今からしている。彼女は往々にして、焦らしたがりだから。


 初めのうちは僕が無理やり開催してたような各季節行事を彼女が仕切るようになったのは、一体いつ頃だっただろうか。そもそも僕らは、一体どれほどの年月を共に重ねてきたのか。いつからか数えるのをやめた僕にはそれがわからない。ただ、それは大分前のことだったのは覚えている。


 僕らは現実に生きていない。僕らは『夢』の中で、ただ揺蕩っている存在だ。

 僕が今立っているこの教室も、校舎も、蒼い空も、僕自身も、彼女も、彼女が作ってくれるチョコレートも、仄かに浮かび上がっては沈み行く、一時の幻想に過ぎない。

 これは『夢』だ。僕らはこの現状を、この世界をそう名付けた。時間の止まった世界。人は消え、街は風が掛ける音だけが静かに響く、そんな世界。そんな『夢』の中で僕と彼女は二人だった。

 人はいない。でも電気もガスも水道も動く。スーパーには新鮮な食材が並び、無くなった商品は作り手も運び手もいないはずなのにいつの間にか補充されている。ゴミを回収に出せば、いつの間にかそれらは消えている。

 人がいないのに誰かが僕らを生かしている。そんな都合のいい街、そんな御都合主義な世界は『夢』以外の何物でもなかった。


 そんな『夢』の中で出会った彼女の名を、僕は知らない。一人しかいない人間を名前という記号で呼ぶ必要はないからだ。多分、彼女も僕の名前は知らない。度々、最近だと季節に一度ぐらいの頻度で彼女は僕の名前を訊くが、その度に適当な名前を答えていたら彼女も僕の名前を知ろうとするのは諦めたらしい。実際のところ、名前を持って生きていた期間よりも名前を名乗らなくなってからの期間の方が長い……ような気がするので、どちらかといえば名前のない今の状態が僕のスタンダードである。彼女の中で、男でも彼でも少年でもあの人でもなんでも、好きなように呼んでくれて構わないのだ。それらは事実上僕の固有名詞なのだから。

 ちなみに彼女はいつも僕を呼ぶ時は「君」と言う。僕は「お嬢さん」と呼ぶ。呼ぶ機会はそうそうないから、滅多に呼ばないけど。深い意味はない。


 僕らは四つ隣のクラスの生徒だったらしい。

 あの日、普段通り登校した僕を待っていたのがこの世界だった。いつの間にかありふれていたはずの人々は消え、僕は一人で『夢』の中にいた。僕の順応は意外に早かった。だってこれは自分の夢なのだから。

 その寝ても醒めても出ることができない『夢』で生活を始めて、一週間ぐらい経った頃。偶然学校の教室で見かけたただ一人見かけた少女は、ただひたすらに感情の無い顔をしていた。無表情で着席し、ただじっと黒板を見つめている。そんな彼女を廊下から見つけた僕は、初めは人間じゃ無いと思ったぐらいだ。何か、こう、世界が置いた異性の人形のような不気味さがあった。今となっては彼女にそんな面影はなく、不気味さと言えばその代わりように対してぐらいしか持つところは無い。今の彼女が素なのか、それとも僕が作り上げてしまった偽りの仮面を被った人格なのかは、判断できないところではあるが、まあどちらにせよ良好な関係を築けているので良しとしよう。


 彼女とのファーストコンタクトの際、僕はそれはもう無視されまくった。彼女は僕を通してその後ろを見ているのではないかというほど、僕は空気扱いされた。もちろん、こちらを向いたということは物体としては認識されていただろう。が、そんな僕を彼女は人間だとは認識していなかったように思える。その時の記憶は曖昧らしく、彼女に尋ねた時に僕の第一印象を正確に教えてもらうことはできなかった。おそらく個人的には、虫嫌いでない人間が自分の傍を飛んでいる小さな羽虫に対する程度の扱いだったのではと思っている。そんな彼女を振り向かせるため、僕は色々と画策した。彼女は平日律儀に学校に通ってきていたから、僕も毎日学校に足を運び、色々と準備をしたものだ。


 無視されたせいで一人でやる羽目になった体育祭や、マラソン大会は記憶によく残っている。僕はもちろん優勝した。僕は勝手に彼女のクラスに編入したから、クラス単位で結果が出る体育祭なんかは自動的に彼女も優勝した。賞状をプリントアウトして渡したら、怪訝な目で見られた。初めて見た彼女の感情のある顔に、僕は『これはいける』と息巻いた。

 夏休みは課外と称して学校に行き、やる事もなかったため合宿という名目で学校でキャンプをした。二週間ぐらい過ごした。僕はキャンプ部の部長だった。ちなみに余談ではあるが野球部の部長でもあったし、テニス部の部長でもあった。ここ数年はどちらもろくに活動していない。何せ彼女はマネージャーとして僕を見物するだけで、一緒に何かをしてくれるわけではないからだ。やることと言えばどちらも壁当てしかなく、非常に虚しい。それでも時折バッティングセンターに出かけては、隣に併設されたフィッシングセンターで釣りに勤しんでいる。僕は釣り部の部長でもあるのだ。

 閑話休題。そんな彼女に夏休みという概念はないらしく、暦通りに平日は彼女に顔を出す彼女は、いつも僕を一瞥しては自分の教室に入って行き、夕方になると僕を一瞥して帰って行った。

 秋頃は頻繁に調理実習をしては彼女に料理を持って行った。もちろん食べてもらえるわけはなく僕はいつも二人ぶんの食事を彼女がパンを食べてる横で食べる羽目になった。

 冬は一人でカマクラやら雪像を作っていた。数週間かけたそれは、作っている間はカッコいいロボットのはずが、校舎の二階から見下ろしてみるとただの物体Xであり、自らの造形センスの無さに嘆いた。ガ○ダムというよりもベト○トンだった。嘘かと思うかもしれないし僕も嘘だと信じたかったが、初めての作品はそんな感じだった。無理に大きいやつを作ろうとしたのは愚かな行為だったと反省した。今はあれよりマトモなものを作れるはずだ。忘れずに言っておくとただ遊んでいたわけではなく、彼女には毎朝シンプルな手乗りの雪だるまを持って行った。勝手に僕の席にした彼女の隣の席にそれを置いて校庭に出かけて、放課後彼女が帰った後に融け切ったそれを拭いに行くのが日課だった。その時彼女が何を思い僕の雪だるまを見ていたのかは知らない。というよりも、多分見ていなかっただろうな。

 クリスマスは校庭にクリスマスツリーを立てたし、正月は家で寝正月をした。バレンタインはスーパーから持ってきた板チョコをワイルドに齧っていた。春になれば新しいスニーカーを履いて彼女に話しかけに行った。そんな日々だった。いつだったか彼女が僕に関心を向け始め、会話が成立しはじめた。半ば無理やり行事に参加させた時の諦めたような彼女の顔は、それはもう見飽きるほど見た。何せその頃の彼女は一日中同じような顔しかしてなかった。今となってはコロコロと表情が変わる女の子になったが。

 そんな感じで、僕は色々とやった。色々とやったらいつの間にか時は過ぎていた。季節は何度も巡った。今思うとなると、あれは別に彼女のためにやっていたのではなく、自分が色々やりたいがために彼女を理由にしていただけなのだろう。独りでやるのは寂しいから、例え一人だとしても、そこに誰かの存在が必要だったのだ。それは僕の精神を保つために。もっとも彼女が今のように積極的に、というよりも僕より余程イベントを企画するようになってからは、自分のためという感覚は薄れて行った。今はただ、彼女との日々が愛おしい。こんな狂った何もない夢の中だからこそ、日々の変化を感じ取れる彼女とのコミュニケーションは掛け替えのないものに感じる。


 彼女はどこかへ、家か家庭科室だろうけど、出かけてしまったので手持ち無沙汰だ。意味もなくフラフラする。窓際に立つ。窓枠をそっと指でなぞる。手に埃はつかない。それは埃が積もっていないわけではなく、僕らの身体の問題だ。僕らの身体は、今この瞬間の状態を保とうとする傾向にあり、埃という異物は例え表面に張り付くだけだとしても、それを許されない。でも服は着れる。ある程度から髪は伸びない。でも髪は切れるし、切った分はそのうち伸びてくる。

 そして、何より。僕は彼女に触れない。触れ合うはずの指先はお互いの身体を透過する。彼女と僕は決してぶつかる事ない、平行線の上に立っているようなものだ。もちろん僕は物に触れるし、重さに限界はあれど持ち上げる事だってできる。でも彼女にだけは、決して接触できない。なぜならこれは『夢』の中で、僕らはきっと精神体か何かだからだ。というよりも、この事実などがあったからこそこの世界を『夢』だと定義したわけだが。

 でも彼女と会話はできるし、貰えるチョコはきちんと食べることができる。実のところ接触の必要はほとんど感じない。今はそれで十分なのだと思う。そんなことを思いながら教室で、着席して脚をプラプラさせながら待ちぼうけをしていた僕は、いつの間にか机に突っ伏して浅い眠りに落ちていた。


 今日は夢は見なかった。




「起きて、ほら、起きて」

 ゆさゆさと身体を揺さぶられ、意識は次第に明瞭になっていく。聞き慣れた優しい声。そっと目を開くと、夕陽に目が眩んで慌てて閉じる。……というかいくらなんでも寝すぎだ。もう夕方なのか。

「まったく、人が頑張ってる中居眠りなんて、不届きものだね君は」

「うーん、ごめん。そんなつもりはなかったんだけど、気づいたら」

「冗談だよ、冗談。怒ってないよ。というか別に怒る理由がないよ。でもほら、起きて起きて」

 そういうと彼女は僕を急かした。もう一度ゆっくり目を開けると、夕日を背にして彼女は立っていた。カーテンのレースがふわりと揺れ、それが彼女の存在自体も曖昧にしているように思える。一種の儚さすら感じるほどに。

 なんだか、いつも見るより彼女は、その、輝いて見えた。笑顔がキラキラして見えた。

 もっと有り体に、陳腐な表現で言えば、とても可愛く見えたのだ。

 うーん、バレンタインマジックか?


「……どうしたの? そんな、狐につままれたような顔して」

「いやあ、お嬢さんがめちゃくちゃ美少女に見えてビックリしてるんだよねえ」

「え、えぇ? 何よそれ、元から私はび、美少女です……けど」

 自分で言って恥ずかしいのかモゴモゴと口ごもりながら彼女はそっぽを向いてしまった。

「うーん、それもそうだね。あー、おはようございます」

「はいはいおはようおはよう。寝ぼけてあんまりバカなこと言ってると色々大変なことになりますよー? 今年はチョコ0個でもいいならそれでいいんだけどね?」

「うわあ、起きた起きた、起きたってば」

 ピシッとその場に立って、優雅に一礼。お嬢様に敬意を称する執事か騎士の如く。いやあ、どうにも僕は雰囲気に酔っているらしい。


「じゃあ、はい。勿体ぶるのもあれだから、さっさと渡しちゃうね。チョコどうぞ」

「あ、あざーす!」


 彼女のことだから、もっと引っ張って焦らしてくると思っただけに、内心少し驚いた。そんな感情を隠すように必要以上に恭しく、可愛くラッピングされた小包みを受け取る。中身は見えないけど、見た目から想像してたよりちょっと重い気がする。


「……今ここで開けても?」

「恥ずかしいからダメって言ったら?」

「毎日お互いに料理作ってるのに今更恥ずかしいも何もないと思う理論を振りかざして、制止を振り切ってでも開ける」

「サイテーだよ、サイテー」

「何とでもおっしゃい。モテない男に餌を与えた事を後悔しても遅いのだよ」

「まあ、別に恥ずかしくないからいいけどね」


 許可が出たので、机に載せて、リボンを解く。中には粉砂糖がまぶしてある黒い物体。真ん中が少し凹んだそれの名前は——


「おお、フォンダンショコラ?」

「そうそう、前君食べたいって言ってたでしょ?」

「うわあよく覚えてるねえ。いつ言ったのか自分でも覚えてないんだけど」

「まあいいから、食べて食べて。まだあったかいと思うから」

 と言うとどこからかお皿とフォークと取り出す。用意がいいなあと素直に感心する。

「教室でこういう風に食べるのも、オツなもんだね」

「そうだね。あっちなみにもちろん私も食べるよ」

「あはは、ご自由にどうぞ」

 教室の机に、二枚のお皿。フォンダンショコラと、向かい合った椅子。

「それじゃ、頂きます」

「どうぞどうぞ」

 サクリとフォークを突き刺すと、中からチョコレートが溶け出してきた。それらをすくうように乗せて口に運ぶ。柔らかな温かさが下を滑り、甘い香りと味が口いっぱいに広がった。

「……どう? 大丈夫だと思うんだけど」

「ああ、うん。いやあ、なんていうか、幸せだなあ。そんな味がする」

「漠然としすぎ。でもまあ、良かった」

「美味しいよ。ありがとう」

「うん」

 そのまま二人黙ったまま、フォークを動かす。聞こえるのは、フォークとお皿がぶつかる音と、サクサクとした自分の咀嚼音。それらを堪能していると、あっという間に無くなってしまっていた。

「もう食べちゃった。名残惜しいなあ」

「その名残惜しさは、来年まで取っておいてね。きっと最高のトッピングになると思うから」

「そうだね」

 どちらともなく、ふっと笑いをこぼす。当たり前のように来年があると思うようになった。それが自然となるほど長い月日が流れた。ここには二人しかいない。来年の話をしても笑ってくれる鬼さえいない。

「今度は節分だねえ」

「あっ、忘れてた。そっちが先じゃない」

「些細な事だよ。僕らにとっては」

「それもそうか」

 僕らの身体は成長しない。僕らには食事は必要ない。太ることもなければ痩せることもない。『夢』の中にいる限り、多分ずっとこのままだ。

 それでも、何かを食べて、彼女と過ごすことに幸せを感じられる。感じていられる。あの日彼女がいたから、僕の心はまだ生きている。先ほどのフォンダンショコラのように、温かな鼓動を刻みながら。


「それじゃあ、帰ろうか」

 どちらからともなくそう言って、僕ら学校を後にした。夕日はいつの間にか姿を隠し、宵闇が迫ってきていた。車一台も走っていない道を、点り始めた街灯に導かれるように二人、歩いていく。


「ねえ、言いたいことがあるんだ。いい機会だと思って」

 彼女は俯いたままそう言った。

「あのね、……えっとね、あのね」

「慌てなくて、いいよ。ゆっくりで」

 それを聞くと彼女はゆっくりと息を吸い込んだ。そしてゆっくりと吐き出す。歩みが止まる。僕は振り返って、彼女の顔を見た。顔を上げた彼女と視線がぶつかる。身体は触れ合えないけど、目線は合わせられる。

「私ね、君と会えて、良かった。この『夢』の中で。だから、ありがとう」

 そう告げた彼女の頬は、薄暗くなってきた中でも、しっかりとピンク色に染まっていた。

 一足先に春が来て、桜が咲いたように。

「お礼を言うのは、僕の方なんだけどな」

「ううん。私の方だよ。いや、どっちでもいいんだ。少なくとも、私は君にお礼が言いたかった。私と出会ってくれて、いっぱい話しかけてくれて、ありがとう。私は、幸せです」

「そっか」

 そうしてまた、歩き出した。この果てしない『夢』の中で、一体僕らは何処へ、何処まで行けるのだろうか。

 彼女が隣にいるなら、何処でもいいか。


 いつか『夢』は覚めて現実に連れ戻される時が来ると、何の根拠もなくそう思う。それがいつかはわからない。

 少なくとも、ずっと永遠に幸せな『夢』を見続けるわけにはいかない。彼女がくれた温もりを心が忘れてしまう前に、あるべき場所に帰らなければならない。僕らは『夢』を見たいわけではなく、しっかりと『生きて』いかなければならない。そのために、いつかはこの『夢』を捨てて現実に戻らなければならない。僕が目覚めた時、僕はこの『夢』を覚えていられるだろうか。それも、わからない。

 それでもまだ僕らは『夢』を見て、『夢』の中で生きている。明日ここに居られるのかも知らぬまま。

 この『夢』が、この日々がいつ終わっても良いように、毎日幸せを噛み締めてはいる。でもまだもう少しだけ、ここにいたいと思うのは我儘だろうか。贅沢だろうか。そう思いながらそっと横の彼女を見ると、恥ずかしくて居心地が悪いのか、髪の毛をくるくるといじっている。そんな仕草を見て、僕は笑った。

 口の中にはまだ、彼女のくれた甘さと温かさが微かに残っている。それで充分だった。

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