第8話 依頼
人間が訪れることのできない洋館に現れた人間の少年は、ぼーっと遠くを見つめたまま、動くことも喋ることもしない。初めは警戒して構えていた純子と雪那も、あまりにも長い時間そのままなので「どうする?」と目くばせし合っていた。
「動かないね」
私はドアの隙間から一緒に様子を窺う縁に囁く。縁は唸るような声で返事をした。
「焦点が合ってるように見えねぇ。操られたりしてなきゃいいが」
「うん………。ところでさ、昨日、私が見られたって言ったの、たぶんあの人だよ」
「あ?」
縁が怪訝な顔で私を見たが、その顔のまますぐに視線を戻す。向こう側ではまだ動きがなかった。
「そりゃまた、偶然か? んなわきゃねぇか」
「なんか怖いよね」
私があの人間に見られたことと、今日その人物がここに訪れたことが仕組まれていたことだとしたら恐ろしい。何がどうなって人間がここまで来れたのか、何を目的としているのか、さっぱり分からないのに何か良くないことが動いていると考えたら冷や汗が出てきた。緊張から握った手もじっとりとしている。
私が手汗を気にし始めた時、ついに向こうで動きがあった。純子がするりと前に出て、「珍しいお客様ですね。どのようなご用件でしょうか」と、普通の来客を迎えるような朗らかな声音で話しかける。私は思わず身を乗り出してそれを見たが、なおも少年の動きはなかった。しかし、徐々に目の焦点があっていき、パチパチと瞬きをし始める様子が見える。ついには視線をキョロキョロと彷徨わせ、狼狽えた表情を見せた。
「え、あれ? あの………」
辺りを見回し、小柄な二人を見下ろした少年は、弱々しい声で絞り出すように問う。
「ここは、どこですか……?」
この洋館には私も知らない部屋がある。というのも、使う時にならないと現れないドアがいくつもあるのだ。身近なところで言えば一階のトイレも、私が一階にいて催した時でないと現れない。しかも場所もランダムだ。
だから少年が連れて行かれた応接室も、私は数えるほどしか見たことがない。そして今、初めて入った。
「お前はじっとしてられないのかよ!」
勝手に入ったのですぐさま呆れた顔の雪那に怒られたが、私はずんずん進んでいく。少年はふかふかのソファーに座ってもまだ困惑した顔で、突然入ってきた私を見上げていた。
「縁も、子供の面倒くらい見とけよ」
雪那は私の後について来た縁にも文句を言う。縁は諦めたような笑顔でため息をついた。
「それが出来りゃあ、こんなことにはなってねぇよぉ」
縁の声を聞いた瞬間、少年がヒッと小さく息をのんだ。ソファーの上で身をよじり、縁から遠ざかる。あ、そうか、猫って喋らないかと私はそこで思い至った。家の中だと縁が喋っても当然だと思ってしまう。
「おい桜、お前は外に……」
「あ、あぁ、やっぱり!」
雪那が私を追い払おうとしたとき、それまで縮こまっていた少年が突然私を指して大声を出した。そこにいた私たち全員がびっくりしたが、本人も予想外のボリュームだったのか驚いた顔をして再び縮こまる。それでも言葉は続けた。
「あ、の、高木桜さんだよね。四組の」
私は名前を当てられてまた驚く。知り合いだっけ、会ったことあったっけ、うわー私この人の名前知らないよ忘れちゃったのかなと焦り出し、結局は知らないことを白状した。
「そうだけど、ごめん、もしかして会ったことある? 昨日以外でだけど」
「いや、俺の友達が高木さんのこと可愛いっていつも言ってるから」
え、何それ。誰にもアプローチなんてされたことないんだけど。私は疑問に思ったが、少年の言葉がその思考を遮る。
「ところで昨日って?」
「え、昨日、私を見たのってあなたじゃなかったっけ。私が屋根の上に乗ってるとき目が合った人」
「………待って、目が金色に光ってた人のこと?」
「そうそう。やっぱりねー、当たっててよかったー」
私は予想が当たっていたことに安堵してほっと息をついた。少年は目を丸くしてこちらを凝視し、何かを言おうと口を開いたが雪那の方が先に声を発する。
「こいつが例の人間だったのか? どういうことだよ、当人がわざわざやって来るなんて」
雪那も私たちと同じところに疑問を持ったようで、渋い顔をして考え出す。しかしすぐに本人に聞いたほうが早いと思い直したようで、不機嫌な顔で少年を睨んだ。愛らしい顔に「何故か言え」と威圧を浮かべており、すぐにその意を理解した少年はおびえた様子で首を振る。
「わ、分かりません! 俺も何が何だか……。普通に帰ってたはずなのに、気が付いたらここにいたんです」
「普通の人間は入ってこれないんだ。どうやってここまで来たのか、しらばっくれたら痛い目見るぞ」
「本当です、分からないんです!」
少年が必死になって雪那に訴える。雪那の表情は神の怒りを代行する天使のように恐ろしく、隠し事をさせないための演出だとしても少し可哀想だ。それでも何か口を出せるような状況ではないと感じていたので、私は黙って成り行きを見守る。
しかし、緊張をしていたのは私と少年だけだったようで、その証に純子が穏やかに割って入っていった。
「雪那さん、本当のことを仰っているようですし、順を追って聞いていきましょう」
「そうだぜぇ、雪那。あんま苛めんなってぇ」
縁も二股の尻尾をふさふさ振りながら純子に同意する。「俺を悪者みたいに言うなよ」と雪那はぶすっとしてそっぽを向いたが、問い詰めようという恐ろしい気配は消えたので私はほっとした。後は純子が引き継ぎ、笑顔で話し始める。
「すみません、まずはお名前から伺ってもよろしいですか」
「あ、はい、
純子が相手になったことで幾分落ち着いた様子の少年が質問に答える。私は名前を聞いてやっぱり知り合いではないなと確信した。本当に一方的に知られていただけのようだ。
透から聞くことのできた話はこうだ。自分は今日、部活を終えて帰途についていたはずで、ふっと気が付いたら既にこの洋館にいた。意識が途切れる前に何かがあったという記憶もないし、どうやってここまで来たのかも覚えていない。自分が人間以外の生き物ではないかと疑ったことはないし、家族についてもそうであるから、人間は入ってこられないと言われても自分は人間であるとしか言えない。人外と関わる機会も昨日の私以外とは一切なく、怪しげな力や術などに関わったこともなかった。
ここまで聞いて、この事態を引き起こした原因がさっぱりつかめていないことは私にも分かる。彼は私を見たり、気づいたらここに来ていたり、少し不思議な体験をしただけの人間に見えた。ただ、普通に過ごしている人間なら私を見ただけで終わりで、ここまで不思議体験をするはずはないので何かがあるんだろうが。
「それ以外にさ、高橋くんの身の回りで不思議なことって何かないの?」
私はおもむろに聞いてみた。純子もちょうど考え込んで質問を止めていたところなので、透は私を見て首を傾げる。ちょっとアバウトな質問だったかと私は補足することにした。
「ここってさ、本当は魔物たちの依頼で人間退治を請け負うところなんだけど」
「に、人間退治……!?」
落ち着いた透の顔に再び恐怖が甦る。あからさまに引かれてしまったので私は慌てて言葉を続けた。
「あ、いやいや、普通の人たちには何にもしないよ。魔物を困らせる人間を追っ払うのが仕事だからさ。それで、依頼に来る魔物たちってみんな人間に関する問題を抱えてここに来るのよ。というか、問題がないと魔物でもここに入れないらしくて」
これはいつかの折りに大家が言っていた言葉である。悪意がなく、純粋に私たちに用がある者しか通さないこの結界は、制作するのに手間も時間もかかったのだそうだ。だから普段は依頼人しかここを訪れない。ということは、結界が透を依頼人だと認識した可能性もあるのではないかと思ったのだ。
「だから高橋くん、不思議なことでなくてもなんか困ってることない? もしかしたらそれに魔物が関係してて、それを解決してほしいからここに来られたのかも」
私の言葉に透は俯いて頭の中を探り始める。「そもそも人間は依頼人にならないし、依頼されても魔物退治は俺たちの専門じゃないだろ」と雪那が突っ込んできたが、「雪那うるさい黙ってて」と早口で言って黙らせる。不機嫌な顔をした雪那を無視して透を待つと、やがておずおずと口を開く。
「あの、関係あるか分からないんだけど」
「うんうん、言って」
「この間亡くなったじいちゃんの庭に、ちょっと問題があって……」
透はそこまで言って、なんと説明すれば良いか考えあぐねるように少し黙った。私も他の住人達も口を挟まず言葉が出るまでじっと見守る。
「………うちのじいちゃんの庭はけっこう有名なバラ園なんだけど、庭を手入れするじいちゃんがいなくなったのに、まったく荒れなくて不気味なんだ。そこで女の人を見たって人もいるし」
お、なんかオカルト話っぽくなってきたなと、私は相槌を打って先を促す。透は考えながら言葉を選ぶように話し続けた。
「それに、唯一の親族である俺たち家族には管理できないから、何度か潰そうって話にもなったんだ。なのに何故かいろいろな理由で出来なくなって。じゃあ庭好きの人に譲ろうかって話も出たんだけど、それも片っ端からダメになるんだ。このままじゃ片付かないし、でも今はそんな不気味なところに足を踏み入れるのも嫌で……。それで両親が毎日ケンカしてるのが、強いて言えば困ってることかな」
透は最後の言葉を自嘲するように言い切る。親御さんにうんざりしているのだろうか。私も雪那の小言が続くと確かにうんざりするし。
「どう思う?」
小言は言ってもなんだかんだで頼りになる雪那と、純子、縁に私は問いかける。
「魔物が絡んでいる可能性はあるけど、見てみないと分からないな」
雪那が至極まっとうな答えを返した。純子もそれに同意して頷く。
「じゃあ、見てみる?」
「それはしない」
今度は期待を裏切る答えが返ってきた。なんでよ、と私が頬を膨らませると、雪那は私の目を見て説明しだす。
「俺たちは人間退治が仕事だ。人間のお悩み解決は引き受けない」
「魔物が絡んでるかもしれないのに」
「魔物が困っているわけじゃなければ手を出す必要はない」
「でも、なんで高橋くんがここに来れたのか分かるかもしれないよ」
「それを調査することと、そのガキの依頼を引き受けることは別だ」
ここまでくれば雪那が引き受けるつもりのないことは嫌でも分かった。そして彼の言うことが正しいことも。いつものように怒って言ってくれれば反撥もできるのに、真摯に向き合う瞳で言われたら反抗心も起きない。それでもなんだか悔しくて純子に助けを求めたが、困ったように微笑まれた。
「雪那さんの言う通りですよ、桜」
「………はーい」
純子にまで言われたら諦めるしかないと思い、私は気だるげな返事をする。透には申し訳ないが、ここに来た理由も分からなければ彼の問題を解決することもできない。しかし、透に力になれないことを謝ろうと思ったその時、意外なところから別の提案が上がった。
「どうすりゃいいか、アイツに聞いてみりゃいいじゃねぇか」
振り向くと縁がまったり毛づくろいをしている。猫って本当にマイペースだな。
「
純子が尋ねると縁はそれを肯定する。毛づくろいから一旦気をそらして顔を上げた。
「結局、この仕事もアイツの決定が絶対だろ。人間が来ることなんざ今までにねぇ事態だしよ、一回聞いてみろよ」
大黒さんというのは今まで何回か話に出てきたこの洋館の大家だ。私をここに連れてきたにこやかな糸目が特徴の青年で、いつも世界中を飛び回っている。たまに帰ってきても数時間でまた飛び出して行ってしまい、私の書類上の保護者であるにも関わらず年に一回会うかどうかという謎多き人物である。だがこの洋館内での権力は彼が握っており、私たちの絶対的なボスだった。
「そうですね、分かりました。連絡してみます」
そう言って純子は席を立ち、部屋を出ていく。大黒さんとは純子と縁しか連絡を取らないので、実はどうやって彼に連絡をするのかも私は知らない。普通に電話をしているのだろうか。そんなことを考えていたら、ものの数分で純子は応接室に戻ってきた。彼女は扉を開けるなり微笑んで、透に向かって話し始める。
「高橋さん、先ほどの問題解決を依頼をされるのでしたら、私たちはそれをお引き受けします」
大黒さんのゴーサインが出たのかと私はびっくりした。雪那も純子も引き受けるつもりはなかったのに。雪那はどういう反応をしているのかと振り返ってみたが、つまらなそうに頬杖をついているだけだった。
「ただし、依頼される場合には報酬を用意していただきます。高橋さんの持っていらっしゃるものから価値のある物をこちらで選ばせていただきますので、それはご了承ください」
「あの、でも、俺は特に高いものなんて持ってないんだけど………」
「値段の問題ではありません。雪那さん、見ていただけますか」
「ああ」
やる気がなさそうに立ち上がった雪那は、透のもとに近寄って視線を合わせるようにしゃがんだ。散々怖いことを言ってきた綺麗な顔が近くに来て透は狼狽えたようだが、人差し指を額に当てられてもっと狼狽えた表情になる。そのまま二人とも動かないでいたが、「お前の頭の中、読みづらいな」と言った雪那が透の額に自分の額をごっつんと合わせたので今度はこっちが狼狽えた。まるで子供の熱を測っているお母さん状態に、なんだこれと心の中で突っ込む。赤面している透が可哀想だ。
「やっぱりこれかな」
そう呟いた雪那は額を離し、やっと解放された透はほっと息をつく。雪那はしゃがんだまま透に報酬を告げた。
「バラの種をもらう」
「バラの種……ってじいちゃんのバラ園の?」
「そうだ。用意しとけよ」
「そんな、あんなところ入りたくないですよ」
「そんなの知らないな」
すがるような視線で訴えかけた透をあっさり突き放した雪那は両手を宙に出す。ボンッと火がともるような音がして、雪那の右手に羽ペン、左手に羊皮紙が現れた。
「まあ、報酬は終わった後にもらうから、その前に用意できればいい。代わりに絶対渡すってこの契約書にサインしてもらう」
急に紙とペンを出現させたことに目を丸くした透は、雪那に羽ペンを握らせられる。おろおろしながらも羊皮紙に目を通した彼は、しかし英字が書かれていることに混乱して雪那を見る。
「あの、これ、なんて書いて……」
「騙すつもりなんてないから安心しろって。報酬は必ずお渡ししますってだけだよ。名前はここ」
雪那は羊皮紙の一番下の空欄を指さして透を促す。それでもなかなかサインしない透を見て、雪那は面倒そうな顔をした。
「やめておくか? もちろん依頼しないこともできるし、これは魔法の契約だから破った場合にしっぺ返しもくらうからな」
「えっと、一日考えてもいいですか………?」
「ここで決めてくれ」
雪那に逃げ道を潰された透はもはや泣きそうな顔になる。可哀想になった私は思わず声をかけた。
「高橋くん、大丈夫だよ。雪那は本当に嘘つかないし、そんなに怖い人じゃないから。なんなら種を用意するのも私が手伝うよ」
「おい桜」
「いいでしょ、それくらい」
すぐに雪那に渋い顔をされたが、私も同じくらい渋い顔をしてやり返す。
「ね、だから依頼しなよ。困ってるんでしょ? 依頼してくれたら、私たち力になるから」
安心させるように笑顔で語りかけると、幾分和らいだ顔になった透が躊躇いながらも、意を決したように素早くサインをし始めた。そして書き終わった羊皮紙を雪那に差し出す。
「………依頼をします。どうか助けてください、お願いします」
揺るぎの無くなった瞳を見て、雪那はまごうことなき天使の微笑みを浮かべた。
「お引き受けします」
雪那が優雅な動きで羊皮紙を受け取り、初めての人間の依頼人が誕生した。
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