第7話 訪れ

 急いで帰ってきた私はリビングのドアをズバンッと開ける。きょとんとした顔の純子と、驚いて毛を逆立てた縁がいた。

「桜、どうしたんですか。そんなに急いで」

「見られたの」

 早口でそれだけ言って、私はぜーぜーと息を整える。さすがに長時間の全力疾走は体に負担がかかるようだ。いつもの状態を忘れたように体を弾ませた呼吸しかできない。純子はそんな私を見てとりあえず座るように言い、キッチンに立って水を持ってきた。それを一気に飲み干すと少し楽になった気がして、ふぅ、とひとつ息をつく。呼吸が正常になったことを確認した後も、どう切り出せばよいか分からず私はしばらく黙っていた。それでも、純子も縁も急いで問い詰めることはしない。だが見つめられることによって視線に責められているような気になってきたので、結局は自分から口を開いた。

「あの、仕事終わって、帰ってたら後ろに人間がいて、見られました………」

「歩いてる後ろ姿なら問題ねぇじゃねぇか。そうじゃなくてか?」

「うん。屋根の上を伝ってて、しかも振り返ったから目も合っちゃったし、だから目が光ってるのも見られたと思う………」

 最後のほうはほとんど消え入るような声で伝える。これからどうなるのだろう、凄まじく怒られるのは確かだという恐怖で身がすくみあがった。昔、純子の怒りを買った時は半日ほど音も光もないどこかの空間に閉じ込められたし、縁には猫とは思えぬ力でぶっ飛ばされたことがある。雪那には弓矢や槍、剣を携えた恐ろしい精霊を呼び出されて追いかけられたし、蓮太郎には失禁するほどの殺気がこもった視線で永遠と圧をかけられた。もしそれらを一度に受けることになったら、正気を保っていられる気がしない。

 それに最悪の場合、危険は私の身に降りかかるだけでは済まなかった。人間は自分たちとは違うものを拒絶し、排除しようとする。この街に私たちのような得体の知れないものが紛れ込んでいると知られれば、その排除の対象になることは明らかだ。私はもちろん、ここに住む全員が居場所を追われ、悪ければ殺されるだろう。

 だから雪那が気を付けろと口酸っぱく言うのも理解しているつもりだった。彼の一族は迫害を受けた歴史があるから、人間に見つかった者たちがどのような末路をたどったのかを知っている。人間は危険だ、自分たちが正義であると思い込み、魔物を殺すと自分が勇者であるかのような顔をする、と何時か雪那が呟いていたことを思い出した。そして、それに対して皆が無言で肯定していたことも。私は分かっているような気になっていただけだったと痛感した。

 私は反省と恐怖で深く項垂れ、二人の沙汰を待つ。しかし、頭上に振ってきたのは意外な言葉だった。

「まぁ、大丈夫なんじゃねぇか」

 憤怒のかけらもない縁の言葉に、私は驚いてバッと顔を上げる。「へ?」という間抜けな声が漏れたが、それでも縁の態度は変わらなかった。

「一人の人間がちぃっと不思議なもん見たぐれぇで騒ぎになんざなんねぇって。なぁ、純子」

 縁が純子に同意を求めたので私も彼女を見遣る。純子も至っていつも通りで、そうですねと首肯した。

「昼間に写真を撮られたというのでしたら問題ですが、夜にちょっと見られたくらいでは大丈夫でしょう」

「で、でも、目も合っちゃったよ、割としっかり………」

「誰でもおめぇみたいに暗いとこで見えてるわけじぇねぇよ」

 縁に言われて、それもそうかと納得してしまう。自分が昼でも夜でもバッチリ見えているので失念するが、人間は暗闇ではよく見えないのだった。そこまで気づいて私も安心してきたが、もうひとつ重大なことを思い出して再び慌てる。

「で、でも、その人間、うちの制服着てたっぽいんだよね。私のこと知ってたらどうしよう」

「知ってる顔だったのか?」

「ううん、私は知らなかったけど」

「じゃあ向こうも知らねぇだろ」

 確かに人数の多いうちの学校では、同じ学年でも顔を知らない人のほうが多い。しかし不安を拭いきれない私を見て、純子が微笑みながら私の肩に手を載せた。

「私たちもこのお仕事を何年もしていますから、人間に見られたことくらいありますよ」

「え、そうなの?」

「もちろん。でも、大事になったことはありません」

 純子の言葉に縁も頷く。

「街で噂になっても、俺たちがそうだと見つけられたためしがねぇな。それどころか、居場所すら掴まれたことがねぇ」

「そう、だから安心してください。桜はまだお仕事を始めて一年なんだし、失敗は必ずありますよ。何かあったら、私たちがフォローすればいいんですから」

 純子に優しく語りかけられて、私はうっかり涙腺が緩む感覚を覚えた。しかし格好悪いと思って泣くことは我慢し、明るく笑ってみせる。

「ありがとう。でも私、明日から学校でそれっぽい人がいるか見てみるね」

「それでも良いですが、危険なことはしないでくださいね」

「うん、気を付ける。あー、もうこんな時間じゃん。お腹空いちゃったよ」

 本当に今まで忘れていたのに、安心した瞬間に空腹を思い出した。純子はすぐに用意すると言ってキッチンに消えていく。私はそのまま座って縁を抱え上げ、背中からぎゅっと抱きしめた。

「なんでい、ガキみてぇに」

「ガキだもん」

「……まぁ、そうだな」

 おとなしく抱っこされる縁の頭に私は顎を乗せる。「重ぇぞ、おっさんを労われ」と文句を言われたので私は少し顎をずらし、彼の後頭部に鼻をうずめた。そのまま呼吸をするとお日様のような縁の匂いが体に染み渡るような気がする。懐かしく安心する匂い。昔はよくこうしていたっけ、と思い出しながら、私は最後まで残った緊張の糸がほぐれていくのを感じた。




 その後に帰宅した雪那には怒られかけたが、「おめぇらが一人にするからだろ」という縁の言葉に彼は反論できず黙った。一応謝っておくと、次から気を付けろという一言で済んだので、縁には何か好物を買ってこようと決める。

 翌日には前言の通り、私は昨夜の人物を探し始めた。学校で何か不思議体験をしたという噂が流れていないかと探ってみたが、そんな噂が出る気配はない。誰かに吹聴しているわけではないと分かって安心したが、ならばしらみつぶしに探すしかないかと嫌にもなった。それでもおぼろげな記憶を頼りに、休み時間の度に教室を飛び出してそれらしき人物がいないかと目を凝らす。他のクラスも不審者のように覗いてみたが、「誰かに用事?」と聞かれて逃げた。優美と清加にも不審がられながら、結局、今日は収穫なく終わろうとしている。やっぱり簡単には見つからないよね、と私は盛大にため息をついた。

「桜ぁ、疲れてるのぉ?」

「なんか今日、行動が変だったよね」

 優美と清加が私の顔を覗き込む。本当のことは言えないので少し視線をそらしながら「ちょっとね……」と私は答えた。

「そしたらぁ、あたしのバイト先においでよぉ。美味しいケーキいっぱいで元気出るよぉ」

「いや、昨日もらったケーキまだあるし」

 優美はとても良い提案のように言ったが、私は冷静に考えて断る。確かに優美がバイトしているケーキ屋のケーキはどれも可愛くて美味しいが、走ったために少し崩れた優美のお母さんお手製ケーキがまだ家の冷蔵庫に収まっていた。これ以上ケーキを増やしても仕方ないだろう。

「えー、昨日のうちに食べなかったのぉ?」

「ホールケーキは一日じゃ食べきらないでしょ」

「うちも三人家族だからまだ半分以上あるよ」

「うちも三人家族だけど残らないよぉ。え、よそのおうちって皆そうなのぉ?」

 優美がびっくりするのを見ていたら和んできて、また頑張ればいいかという気になってきた。私は心の中で彼女にお礼を言って、別のことを口に出す。

「あんまりゆっくりしてたら、そのバイト先に送れるんじゃないの」

「あ、そうだねぇ、もう行かないとだぁ」

「私も今日バイトあるから、もう行くわ。桜は? 全然帰る準備してないけど」

「ちょっとやることあるから残る。また明日ね」

 そう言って友人たちと別れた私は、今日の最後のあがきとして部活中の生徒を観察し始めた。昨夜のあの時間帯に制服を着て歩ていたということは、部活帰りだった可能性もある。私は窓から校庭を眺め、校内をウロウロして部室を覗き、本を探すふりをして図書館で勉強中の人間たちを注視した。似ていると思う人はいるが、何か違う気もする。曖昧な記憶が頼りでは確かなことは言えないので、もはや野生の感も駆使して捜索したが、当たりはなかった。

 そうして私はとぼとぼと帰宅し、出迎えた純子に見つからなかったと報告すると、彼女は笑っておやつを差し出す。夕食まで待てない私にいつも手作りのお菓子を用意してくれているのだ。今日は卵たっぷりのプリンで、私は塞いでいた気持ちが上がっていくのを感じる。甘いもので元気になるのだから、優美のことをとやかく言えないなと反省した。縁も帰ってきたので、私は彼のために買ってきたサバ缶を渡す。二人で並んでおやつタイムとなった。

 七時にみんな集まって夕食を摂り、食後に優美の家のケーキを食べる。私はこれくらい食べても腹八分目だ。それどころかあまり遅くまで起きていると再びお腹が空いてくるので、日付が変わる前には寝るようにしている。しかし、まだそんな時間でもないので食後はリビングでだらだらとテレビを見ていた。蓮太郎は仕事へと出かけたが、雪那はここで本を読んでいるし、縁は私と同じソファーに伏せてまったりしている。純子は何かと家事をしてるのだろう。姿は見えないが、すべていつもの光景だ。

 だが、今日はそんな時間を妨げる来訪者があった。家に近づいてくる足音を私が拾い取る。

「誰か来た」

「依頼じゃねぇか」

 耳の良い私と縁が動かないままのんびり言うと、雪那がぱたんと本を閉じて立ち上がった。

「最近、依頼が多いよな」

 文句を言いながらも雪那はドアへと向かう。客の対応は主に純子が行っているが、純子がいなければ雪那がしていた。子供と猫と無口な吸血鬼の面子から消去法で決まった節はあるが、彼はするべきことをきちんとするので結局頼りにしてしまう。しかしドアを開けた雪那はすぐにそれを閉じた。純子がすでにスタンバイしていたのだろう。彼女は神出鬼没なので気付くと居るというのはよくあることだ。雪那は再び椅子に腰かけて本を読み始める。

 この洋館は大家の作った結界に守られているので、悪意のあるものや人間は立ち入れないようになっている。純粋に私たちに用がある魔物にしか入口が見つけられないのだ。この結界のおかげで、ひとたび足を踏み入れれば魔のものに迷わされ、二度と出てこられないと言われる魔の山に建つこの洋館にも住んでいられる。私は満月の夜にも敷地にいれば変身せずに済むし、この結界の効果がなくなれば命にかかわる緊急事態だ。まぁ、そんなことは未だかつてないのだが。

 だが、雪那が戻ってきたのを見て再びテレビを見始めた時、私はある違和感を感じ取った。匂いが違う。魔物はこんな匂いはしない。この匂いは日中にいつも嗅いでいる――――――。

「人間の匂いだ」

 私がそう言い放った数瞬後、雪那と縁は弾かれたように立ち上がった。雪那は猛然とドアへ走り、縁は私を庇うように躍り出る。私がついていけないまま呆然としていると、扉を勢いよく開けた雪那が叫んだ。

「純子、人間が来る!」

 広間で来訪者を待つ純子は、その言葉に「まぁ」と少しの驚きを見せたが、その場を動くことはしない。それどころか微笑みさえ見せた。

「では、雪那さんは桜を守っていただけますか? さすがにまだ心配なので」

「お前、一人で迎える気なのか!?」

 純子の言葉に驚愕した雪那が叫んだが、純子はなにも慌てることなく是と答えた。

「人間なんて束になっても敵ではありませんよ」

「そう言って何人が殺されたか知ってるのかよ」

「もちろんです。油断はしません。いざとなれば本気を出しますから」

 そして純子は一層笑みを深めた。

「だから、大丈夫ですよ。ねぇ、雪那さん?」

 この言葉に、離れていた私でさえぞぞっと悪寒が走ったのだから、雪那は相当に寒気がしただろう。純子の本気なんて想像するだけでも怖い。しかし雪那は私と縁をちらっと振り返って、外に出たままドアを閉めてしまった。「縁がいるから桜は大丈夫だろ。俺はここにいるからな」と声が聞こえる。あんなに圧をかけられてよく純子に逆らえたなと私は感心してしまった。

「ねぇ、大丈夫かな」

 先が見えない不安に駆られ、私は思わず縁に問いかける。

「まぁ、どんな人間が来んのか分かんねぇが、あの二人なら大丈夫だろうよ」

 そう言いながらも縁は警戒を解かずに、私を庇うように立ったままだ。そして私はその厚意を無視するように彼の脇をすり抜けて、ドアを少し開けて外の様子を窺い始める。

「って、おい! 近寄るんじゃねぇよ!」

 縁が怒りながら駆けてくるのを感じたが、私はドアの向こう側を見続けた。純子と雪那が並んで人間を待ち受けている。私は足音からもうそこまで来ているのを感じ取っていた。数秒後にドアが重い音を立てて開く。

 ドアの先にいたのは、どこか遠くを見つめた一人の少年。制服を着た………。

「あ」

 思わず声が出た。縁にたしなめられたが、驚いてそれも耳に入ってこない。

 そこにいたのは、昨夜、私と邂逅した人間だった。

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