第一章⑤

 紫晃ともう一人、黄色の袍に身を包み、頭上には冠を帯びた、妙に華のあるその人を見て、陽琳は声を上げた。

「やあ。紫晃から陽琳が来ていると聞いたから、様子を見たくて来たんだよ」

 そうあっけらかんと告げるのは、陽琳の従兄――他でもない、清琉国皇帝である蔡輝瑛だ。

 稀代の美姫と称えられた、今は亡き生母――甘皇太后の血を色濃く継いだのか、輝瑛の容姿は歴代の皇帝随一の美貌と謳われている。

 輝瑛が戴冠した当初、国中の女性が色めき立ったものだ。

 その場にいるだけで空気が華やぐのは、陽琳の気のせいではないだろう。

 だが、そんな今を時めく皇帝陛下は執務も大変忙しい。こんな場所で油を売っている場合ではないのではと、陽琳は自分のことは棚に上げ、おそるおそる聞いた。

「皇帝のお仕事って、物凄く忙しいんじゃ……」

「だからって、妹のような可愛い君に会いに来てはいけないのかな?」

 両親をすでに亡くした彼は、陽琳のことを数少ない肉親の一人として、大変可愛がってくれている。そんな経緯もあり、陽琳もまたこの従兄を、幼少時からずっと『兄様』と呼んで慕っているのだ。

「もちろん、私に会いに来てくれるのは嬉しいけど……」

 だが、それで執務が滞るようなことがあると、何やら申し訳ない気がする。

「ふふ。陽琳は優しい子だね。でも僕はいいんだよ、今日は朝議も早めに終わったし、やるべきことをやってから出てきているからね」

 陽琳には耳の痛い言葉を聞きいて、ちらりと紫晃を見やると、彼は何とも言い難い表情を浮かべていた。

「実際どうなのかは存じ上げませんが。……そんなことよりも、私はどうしてここに陽琳様がいらっしゃるのかの方が気にかかるのですが?」

「……そ、それは、その……」

 うまく話をそらしたと思っていたが、やはり見逃してくれるはずもなかった。

 陽琳が口籠ると、紫晃がすんと鼻を鳴らし、じろりと陽琳を見下ろした。

「ふむ。陽琳様の袖からほのか香る火薬の匂いと、そして甘い香り……これは、眠りの香ですか? よもや講師を眠らせてまで抜け出そうとするとは……」

「……ご、ごめんなさい! つい、好奇心が抑えきれなくて!」

 慌てて言い訳する陽琳に、紫晃はわざとらしく大きなため息をつくと、懐から一枚の紙を取り出した。

「せっかく、後であの場所を掘ることができるよう、私がわざわざ陽琳様のために許可を取ってきて差し上げたというのに」

「えっ、そうなの⁉」

「そうですよ。許可もなく皇宮内を掘っては、それこそ警備兵に叱られます。……ですが、約束を守れぬ陽琳様には、不要だったようですね。輝瑛様。この許可書はお返しいたします」

 許可書と思しき紙を輝瑛に差し出した紫晃の腕を、陽琳は必死に掴んだ。

「ちょ、ちょっと待って! ちゃんと勉強する! するからっ!」

「本当ですか?」

「はいいいいい!」

「……仕方ありませんね。では、しっかりと課題を終わらせれば、掘らせて差し上げます」

 紫晃の根回しに、陽琳は泣く泣く頷いた。

 そんな陽琳を見てか、輝瑛がからからと楽し気に笑った。

「陽琳も大変だね。まあ、授業を抜け出したくなる気持ちはわかるけれど」

「え? 兄様もそんな風に思ったことがあったの?」

 驚いて顔を上げた陽琳に、輝瑛は苦笑する。

「まあね。好きなように生きることができたらって思ったことはあったよ」

 それに紫晃が思い出すように嘆息した。

「実際、お一人での講義をよく抜け出しては、宮廷学士院にいらっしゃっていましたからね」

 清琉国では宮廷学士院と呼ばれる、未来の官吏を育てるための学舎が皇宮内に設けられている。才能のある子供達に、身分の分け隔てなく教育を与えるというものだ。

 何の因果か高級官吏になる道を捨て蔡家の家令に収まってはいるが、紫晃もまた、その宮廷学士院の出身だ。

「懐かしいね。紫晃は優秀だったからね。講師と話をするより、よほど有意義な時間が過ごせたと思っているよ」

「確かに私も、輝瑛様の授業に呼び出され、机を並べることもありましたが。だからといって、今もそのようなことを続けていらっしゃるというのは、どうかと思いますが」

 うそぶく輝瑛に、紫晃が冷ややかな視線を送る。

「抜け出す頻度が多いことは認めるけどね。ただ、執務とは関係なく、気心知れた人と会いたいと思うことは普通のことだろう?」

「そこに、私まで巻き込まないでいただけるとありがたいのですが?」

「冷たいね。かれこれ十五年来の付き合いじゃないか」

 そう嘆きながらも輝瑛は、そんなやり取りでさえ楽しんでいるように見える。

(輝瑛兄様にしてみれば、紫晃が変な距離を持たずに話してくれることが、むしろ嬉しいんでしょうね)

 実際、紫晃の言葉には礼儀はあっても遠慮はない。

 皇帝という立場の輝瑛にそのように接してくれる人など、肉親を除けば誰もいないだろう。紫晃がどこまでそんなことを意識しているのかはわからないが、輝瑛の楽しそうな様子を見ていると、陽琳も嬉しくなる。

 思わず笑みをこぼすと、輝瑛はちらりと陽琳を見て茶目っ気たっぷりに言った。

「まあ、仕方ないか。紫晃は照れ屋さんだからねえ」

「つまらない冗談をおっしゃらないでいただけますか?」

 わずかに眉をひそめて紫晃が一刀両断するのに、輝瑛は肩をすくめた。

「ほらね。この通りだ。いつでも僕を受け入れてくれる可愛い陽琳とは違って、紫晃は今日みたいに、僕から用事を作らないと会ってもくれないんだよ」

「なるほど、そういうことだったのね。二人で来るなんて珍しいから、何かあったのかと思ったわ」

「やむを得ず、ですよ。陽琳様のご様子が見たいとのことでしたのでご案内しましたが……私の推測ではそろそろ……」

 紫晃がちらりと周囲を見渡したその時だった。

「しゅじょおおおーーー! どちらにいらっしゃるのですかーー⁉」

 そんな叫び声が聞こえてくる。

「おやおや、追手が来たようだ」

 輝瑛がわざとらしくため息をついていると、先ほどの声の主が息急き切って到着した。

「はあ、はあ、はあ……! やっと見つけましたよ、主上!」

 たどり着いた青年の身に着ける朱色の袍は、高級官吏の証だ。

 なかでも腰に帯びた白玉の帯飾りが、他の高級官吏よりも更に位が高い――宰相という地位にあることを示している。

 年は紫晃や輝瑛と変わらない。だが、きりっとした真面目そうな目つきが印象的で、どこか艶やかさのある紫晃や、華やかな美貌を持つ輝瑛とはまた異なる魅力を持つ美青年だ。

「さすがだね、苑達。お疲れ様」

「何を他人事のように言ってらっしゃるのですか!」

 そんな青年宰相――梁苑達は顔を真っ赤にしてそう憤慨してから、輝瑛の隣に立つ陽琳達に気づいた。

「……はっ! こ、これは陽公主様に紫晃殿、お見苦しいところを見せてしまいました」

 息を荒らげながらも、周囲を気遣い丁寧に挨拶してくる。

「え、苑達さん、いつも大変ねえ……」

「相変わらずご苦労をなさっているようですね。私も人のことは言えませんが」

 他人事のようにつぶやくのを紫晃がちらりと見やるのに、陽琳は首をすくめた。

 輝瑛いわく「仕事熱心である」という苑達は、たびたび執務室を抜け出す上司を捜すため、日々こうして駆けまわっている。

 そんな姿を陽琳もよく目にするのだが、こうなっては有能な宰相というより、ただの苦労人にしか見えない。

 苑達を憐れむような陽琳と紫晃の言葉に、彼は「本当にその通りですよっ!」と憤慨しながら大きなため息をついた。

「まったく、主上は……目を離した隙に抜け出されるので、お側に仕える私達の身にもなっていただきたいものです」

「心外だねえ。皇宮外に出かける時は、ちゃんと苑達に報告しているじゃないか」

 悪びれた様子のない輝瑛を見て、苑達は頭を抱えた。

「そういう問題ではありませんっ。貴方がいらっしゃらなければ滞る決済がどれほどあると思っているのですか」

「それについては、一理あるね。こんな僕を補佐してくれる君には、いつも感謝しているんだよ?」

「ありがたきお言葉……って、そんなことを言って誤魔化そうとしても、無駄ですよ?」

 不審の目で上司を見る苑達の表情を見て、陽琳はぷっと噴き出してしまった。

「何だかんだで、お二人って――気が合ってるわよね」

「そう思うかい? よかったねえ、苑達」

「笑いごとではありませんよ、陽琳様! 全然よくないですからっ」

 半ば涙目になりながら主張する苑達をよそに、輝瑛は華のような笑みを陽琳に向けた。

「それじゃあ、迎えも来てしまったし、そろそろ退散するよ。陽琳。君も、あまり紫晃を困らせないようにね?」

 そう言って、輝瑛は手を振りながら、半ば苑達に追い立てられるように帰っていった。

 残された二人に沈黙が落ち、陽琳はひきつった笑いを浮かべながら、隣に立つ紫晃を見る。

 紫晃の顔に張りついた美しい笑みがとても怖い。

「輝瑛様も戻られたことですし、陽琳様、わかってらっしゃいますね?」

「……はい」

「では、講師を叩き起こしに行きますよ。……勉強が終わったら、思う存分センカツをさせて差し上げますから」

「はーい……」

 こうなってはもう観念する他ない。今の陽琳にできることは、苦難を乗り越えた先に待つお楽しみのために、一心不乱に学問に打ち込むことのみだ。

 紫晃に促されるようにして、熟睡中の講師が待つ部屋の中へと舞い戻るのであった。

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