発売御礼書き下ろしショートストーリー
「王女の異文化交流記録 ブラッシングは好きですか?」
春の心地よい陽気が、絹糸のように繊細な毛をきらきらと輝かせている。
リーデリアがその表面にブラシをそっと滑らせると、柔らかな感触が柄を通して手のひらへと伝わった。
「あんまり動いちゃだめよ。もう少しだから」
「あはは、リディ様。くすぐったいです」
朗らかに笑う二人に、ふらりと長身の陰が差す。
だるそうに垂れ下がった暗褐色の尾。眉間の皺は、彼が平素から不機嫌な表情をしていることを差し引いても十二分に深かった。
「お前ら、何やってんだ」
「何をって……」
リディは右手にブラシを握ったまま、ごろりと横になったブランとともにアルヴァンを見上げた。
「ブランのしっぽをブラッシングしてあげているのだけど」
周囲をぐるりと城壁に囲まれたアルヴァンの城。
入り口に最も近い位置にある主塔以外にも、城内には中庭を取り囲むように住居棟や大広間――といっても、部屋は余っているので内部は放置したままだ――がある。
中庭の石畳に布を広げて、ブランは寝転がっている。リディはそのすぐ背後に、ドレスの裾を乱れなく整えて腰を下ろしていた。
前々から、どうやってあの大きな尾を手入れしているのだろうとリディは気になっていた。
先日、好奇心に堪えられずブランに尋ねてみると、定期的にブラシで梳いていると言う。そして、尾は背後にあるからなかなかうまく手入れができない、とも。
もしよければと、リディはブラッシングする旨を自ら申し出た。
日頃からよくしてくれることへの純粋な感謝の念以外にも、ブランの尾に触ってみたいというささやかな邪念があったことは否定できなかったが。
「すっごく気持ちいいんですよ、リディ様が用意してくれたブラシ。今まであんまりブラシって好きじゃなかったんですけど、ずっとしてもらいたくなるくらいで」
「駄目だ。今すぐ止めろ」
「えーっ、そんなあ」
「もしかして、普通こういうことはしないものなの?」
アルヴァンの眉間の皺がみるみる深くなっていくのを見つめながら、リディは表情を曇らせる。
ブランは、どうもヴィロンよりもライオールに住んでからの方が長いらしく、持ち合わせている常識はリディのものに近い。アルヴァンには時々、とんでもない行いに見えることがあるらしかった。
――美容の一環程度の位置づけだと思っていたのだけど。
「……やらせるわけねえだろうが」
「そうなんですね……」
ブランが円らな瞳を潤ませながら、白い耳をしょんぼりと垂らした。リディに謝意を告げ、
「お夕飯の支度をしてきます」と言い残し、とぼとぼと調理場の方へ歩き去っていく。
その小さな後ろ姿が建物に入って見えなくなると、リディは眉尻を下げながら自分の手に残ったブラシに視線を落とした。
――折角、ブランに喜んでもらえたのに。
このためだけに、国中からありとあらゆるブラシを取り寄せ吟味を重ねた。いつも私費にほとんど手を付けないリディがここまでするなんて、と侍女のシアラも苦笑したほどだ。
その中で見つけた、力を入れても傷がつかないと評判の高級天然ブラシ――期せずして、それは愛玩動物用になってしまったのだけれど。
「毛艶もよくなるのに……」
「自分でやらせりゃいいだろ」
「でも、ブランはまだ子どもよ?」
「ヴィロンでは、十三はもう成人だ」
いつになく威圧的な視線と正論でアルヴァンに責められて、リディは唇を噛んで口ごもる。
確かに、ブランはヴィロン人なのだから、ヴィロンの習慣には馴染んでいた方がいいのかもしれない。
――でも、怒る必要はないじゃない。
ブランが自分ではやりにくいと言うから、手伝ってあげただけなのだ。大体、アルヴァンに常識をどうのこうのと言われたくない。誰よりも、恥じらいがないくせに。
少し手に馴染んできたブラシを、リディは胸の前で固く握り締めた。
「ここはヴィロンじゃなくてライオールなのだから、別に問題ないはずよ。それに、私がどうするかを貴方に決められたくないわ。私とブランの問題でしょう?」
「……ふうん」
気のない返事をしながら、アルヴァンが口の端を上げる。突然その場に屈み込み、膝で頬杖を突いた。
不機嫌そうだった表情はすっかり意地の悪い笑みに変わっている。先程までだらりと下がっていた尾が、リディの視界の隅で左右に揺れた。
――……嫌な予感がするわ。
直感に従ってアルヴァンから離れようとした時には、彼の腕が体を包み込むように背後に回り込んでいた。長い指が、リディの艶々とした後ろ髪に差し込まれる。
「離しっ……」
リディの言葉を無視して、アルヴァンの指が撫でるようにゆっくりと頭をなぞる。いつもの粗雑さからは予想もできないほど優しい手つきで、髪をさらりと掻き分けた。
頭から背筋へと、こそばゆい感覚が走って肩がすくむ。微かに吐息のかかる耳元で、笑みを含んだ低い囁きが響いた。
「お前がやってんのは、こういうことなんだよ」
「はっ、離して!」
リディは力いっぱい、両手でアルヴァンを突き飛ばす。思っていたよりも、彼の腕に込められていた力は弱くて、リディはすんなりと居心地の悪い体勢から逃れることができた。
「いつも言っているでしょう!? 勝手に触らないで」
「自分が何をしてんのか、理解しねえからだろ」
――それなら、言葉で説明すればいいじゃない……!
相変わらず、なんて男なのだろう。王女の身分を気にしないだけ、王宮で言い寄られるより性質が悪い。
顔が赤くなるとともに、じりじりと怒りが燃え上がる。けれど、真面目に相手をしても時間の無駄だ。
リディはアルヴァンを無視して踵を返すと、一人主塔に向かって歩み始める。憤然と息を
吐きながら、手元のブラシをもう一度見下ろした。
自分がブランにしてあげたことが、あのアルヴァンの無礼と同じとはとても思えない。けれど――。
「これは大人しく、ブランにプレゼントするしかなさそうね……」
つい、尾の感触を思い出して落胆のため息が漏れる。
人肌よりも少しあたたかい、心落ち着くぬくもりだった。細やかで吸い付くような毛並み、空気を含んでふわふわとした手触り……。
陶然としながら、ちらりと振り返る。
アルヴァンは、ブランが寝そべっていた場所にごろりとその長身を横たえていた。大きな尾は、今は力なくぱたりと地面に垂れている。
あれをブラッシングしたら、どんな感触がするのだろう。
――ブランのものより毛が太いから、弾力がありそうね。乱れもあるから、梳き甲斐もあっ
て……。
足を止めたリディに、城外から舞い込んだ花びらを吹き散らしながら、春らしい強い風が吹き抜ける。舞い上げられた後ろ髪を手櫛で落ち着けると、先程、アルヴァンに触れられた部分に指がかすめた。
こそばゆい感触が思い出されて、ぎゅっと腕を抱く。
アルヴァンの尾も、梳いてみたくはある。けれど、そんなことはとんでもない。
――また、こんな見せしめをされたらたまったものではないわ。
賢者、危うきに近寄らず。
リディは乱れた髪をさらりと後ろに回しながら、心の中にくすぶった好奇心を羞恥心で抑え込むと主塔の入り口をくぐる。
居心地の悪い感覚が過ぎ去っても、何故か落ち着かない鼓動に苛立ちながら。
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