第三章 賢者の自負①




「リディ、支度はできたかい?」


 隣にある居室からノックの音が聞こえて、リディは慌ててブーツの紐を結んだ。


「ええ、お兄様。もう入っても大丈夫よ」


 声を掛けるとすぐにドアが開く。

 寝室に入ってきたレオンに、リディは立ち上がって服装を見せた。

 日頃こういう服を着ないから、自分では普通か判断が付かない。


「どうかしら。どこか、変じゃない?」


 レオンは問われるまま、借り物の服に身を包んだリディをしげしげと眺めた。

 上流階級の子女の外出着のような、膝丈のドレス。ウエストの後ろには大振りのリボンがあしらわれている。

 シャツの胸元は、清楚な三つの白いリボンで留められていた。

 足元は、外でも動きやすい革製の編み上げブーツ。


 普段はきっちりと上げている飴色の髪をしどけなく下ろした姿は、いつもの王女らしい凜然とした雰囲気とは打って変わって、気取らない印象を与える。


「こんな隙だらけのリディを、俺は送り出さないといけないのか……」

「レオンお兄様?」

「ああ、すまない。とっても可愛いよ」

「そういうことではなくて」

「――冗談だ。町娘には到底見えないけれど、何とか貴族の娘くらいには見えるよ」


 額に軽くキスをしながら言うレオンに、リディは胸を撫で下ろす。


 ――良かった。仮病を装って身を隠すのに、すぐにばれたら笑いものだもの。


 変装の仕上げに、ベージュの外套をシアラから受け取る。

 ケープとフードの付いた無地の薄手の外套は無骨で味気ないが、人目を避けるにはちょうど良さそうだ。


 襟元の金具を留めていると、丈の長い外套を羽織ったアルヴァンが部屋に入ってくる。

 報酬や計画を詰めるために徹夜したせいか、その目は不機嫌そうに細められていた。


 彼は無言のままリディの横をすり抜けて、さっさとテラスに向かう。


 ――笑うのは、人をからかう時だけなのね。


 その広い背を睨みながら、柔らかい絨緞を踏みしめ後に続く。

 まだ薄暗い時間で、外はしんと静まり返っていた。

 テラスの手前で、リディは後ろを振り向く。


 本の積み上がった紫檀の机。

 彫り込みの装飾が入った広くて寝心地のいいベッド。

 曇り一つなく磨かれた鏡台。

 見慣れた自分の部屋なのに、今日はそれがどこか遠い。


「何か御入用の物がありましたら、すぐに手配いたしますから。何なりとお申し付けくださいね」


 シアラの声で、ふと我に返る。

 目を潤ませたシアラを安心させようと、笑みを浮かべて彼女の手を握った。


「ありがとう。留守をお願いね。お兄様も、何かわかったらすぐに連絡をください」

「ああ。犯人の捜索はこちらで徹底的に進めておく。合間を見て、必ず様子を見に行くよ」


 ぬくもりを名残惜しく思いながらも、リディはレオンに頷き返してシアラの手を離した。


 ――ここに、いつ戻ってこられるかしら。


 魔法が解除できなかったら。

 犯人が見つからなかったら。


 そう思うと、胸が締め付けられる。

 だがリディは首を振って、その考えを頭の外へ無理矢理追いやった。


 不安に思っていてもしょうがない。

 今は行くしかないのだ、彼と共に。


 迷いを振り切るように踵を返して、真っ直ぐアルヴァンの横へ向かう。

 地平線から強烈な朝日が射し込んで、目を細めた。


 ――夜が、明ける。


「行くぞ。日が昇り切る前には帰り着きたいからな」

「そうね。人目に付きたくな……!?」


 答える間に、アルヴァンが横で膝を軽く曲げる。

 リディの腰に腕を回すと、そのまま軽々と片腕で肩に担ぎ上げた――荷物のように。


「きゃあっ!」


 体がアルヴァンの身長まで持ち上がる。

 足がつかなくてバランスがとれない。何より、彼が長身のせいでとにかく高い。

 不当な扱いへの怒りよりも、恐怖心が勝った。


 ――……落ちるっ!


「ちょっと、下ろして! こんな、やめっ――」

「それじゃあ、これは預かっていく」

「リディ様!」

「おい、アルヴァン! 貴様」


 レオンがアルヴァンに近づこうとした瞬間、リディの耳元で弓を弾いたような鋭い音が聞こえた。


 記憶にない紋様が見えたかと思うと、テラスに強風が吹き荒れて木の葉が舞い上がる。とっさに左手でアルヴァンの背中を掴み、右手でめくれ上がったフードを押さえた。


 ――何っ、この風……。


「飛ぶぞ」


 強風の中で響く、低い声。

 ふわり、と体が浮いた。


 アルヴァンがテラスの床を蹴ったのだと気づいた時には、もう庭木が足元のはるか下になっていた。テラスにいるレオンとシアラの姿が、見る間に遠ざかっていく。


 眼下の景色が瞬く間に変わり、あっという間に上空まで来ていた。

 確かに、〈飛んでいく〉とは聞いていた。

 けれど。


 背中から当たる風に煽られて、フードが耳元でばさばさと鳴る。

 尋常ではない速度で移動していることをやっと理解して、リディは顔を引きつらせた。


 ――まさか、落としたりしない……わよね!?


 体はまだ彼の肩に担がれたままで、上半身はほぼ宙吊りだ。目を閉じるのも怖い。

 視界を、朝日を浴びて輝く王都の街並みが滑っていく。

 王宮から放射状に道が延び、その間に色とりどりの家が建ち並んだ様は、最高の職人が作ったミニチュアのように整然としている。


 けれど、見惚れるほど美しいはずのそれも、こんな体勢では恐怖の対象でしかない。


 ――魔法を解除する前に……死ぬっ!


「待って……せめてっ、せめて腕で抱きかかえて!」


 風に掻き消されながら精一杯叫んだ声は、なんとかアルヴァンの耳に届いたらしい。

 舌打ちと共に突然ぐいと腰を掴まれて、肩から引き下ろされる。

 思わず瞑った瞼を持ち上げると、アルヴァンの顔が至近距離に飛び込んできた。


 正面から見る彼の瞳は朝日が微かに射し込んで、ガラス玉のように青く澄んでいる。

 その繊細な色に、一瞬どきりとした。


「これで文句はねえだろ。ったく、手間かけさせんなよ」


 ――普通は、依頼人を肩に担がないわ。


 つい見つめてしまったアルヴァンの瞳から、リディは顔を背ける。

 抱え上げられたものの、これはこれで居心地が悪い。

 少しでも早く、この力強い腕から逃れたくなった。


「貴方の家には、どれくらいで着くの?」

「数刻だ。いいから黙っとけ。気が散る」


 昨夜の打ち合わせで確認したところによると、アルヴァンは王都の外れにある森の向こう、小さな街ベローニナにある廃城に住んでいるらしい。


 その住居に関しても、床に人を殺した血溜まりができているとか、不穏な噂は絶えない。

 とはいえ隠れ住む場所を選んでもいられない。できる限りまともな場所であることを祈るだけだ。


 リディは、ちらりとアルヴァンの顔を盗み見る。

 人を抱えて飛んでいるというのに、その表情はあくまで平然としている。

 この様子だと、城まで休みなく飛び続けるつもりだろう。


 魔法士にはそれぞれ、得意な魔法がある。誰に教わるでもなく使えるもの。

 きっとアルヴァンはそれが、『風』なのだろう。


 風で浮くのと飛ぶのはわけが違う。

 飛ぶ、しかも長距離となると大量の魔力を必要とするし、高度や速度の調整にも技術がいる。

 リディの幼馴染の魔法士も風の魔法は得意な方だが、この距離は休みを挟まなければとても飛べない。


 アルヴァンは、森を越える時に一度強い向かい風に煽られたくらいで、顔色一つ変えず飛び続けている。


――認めたくはないけれど、確かに彼は天才ね。

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