菊川駅(都営新宿線)
当時は本所南横堀と呼ばれた地域である。
この辺りには江戸初期、紅葉山掃除之者という東照宮や江戸城西丸北東部にある紅葉山を掃除する役職の者が住む屋敷があったが、後に武家奉公人達の住まう地域となった。
さらにその後になると、現在の菊川三丁目に時代劇でも有名な鬼平こと長谷川平蔵、そして遠山の金さんこと遠山金四郎景元が暮らす屋敷が現れる。
時代は当然異なるが、長谷川平蔵の屋敷と遠山景元の下屋敷は同じ場所である。
今回は少々趣向を変えて、江戸の司法、そして遠山の金さんに触れてみたいと思う。
遠山金四郎景元と言えば天保11年に北町奉行、さらに5年後の弘化2年に南町奉行に任命されている。
当時、町奉行という役職は江戸の町と町人に関わる行政、司法、立法、警察、消防といった全てを監督するという、とんでもない激務。それ故、早死する者も多かったという。
北町と南町にそれぞれ奉行が居る訳だが、これは江戸を二分していたのではなく、一ヶ月交替の月番勤務で、一ヶ月ずつ月番と非番を繰り返す訳ではあるが、月番の時に受理した事件に関しては、その奉行所が継続して担当する為、北町と南町で業務の引き継ぎなどは行わないのが決まりである。
よく時代劇などでは取調べなども町奉行が首を突っ込んでいたりするが、実際には
民事訴訟などは、争いに関わる双方を呼び出して調べてから和解をすすめ、出来る限り裁判にしないのが常道であった。
また、時代劇と異なる点で言えば、有罪判決に於いても大きな違いがある。
時代劇におけるお白州で、奉行がその場で「打ち首獄門! 引っ立てぇい!」などと言う場面があるが、実際には遠島以上の刑罰となると老中への書類を作成し、お伺いを立てなければならない。
いくら町奉行とはいっても死罪などは勝手に決定してはならないのだ。
その為、奉行は遠島以上の刑罰を考えている場合、とりあえずその場では「追って沙汰する」とだけ言い渡す事になっている。
さて……遠山金四郎景元の話である。
一介の町奉行に過ぎない遠山が何故、後の世まで語り継がれるようになったのか……。
そもそも彼は何故、町人達に人気があったのか。
時代劇で名物となっている桜吹雪の刺青に関しては諸説あるという事はご存知の方も多いであろう。
実際に刺青をしていたという確かな文献も無いそうで、真相は定かではない。
ただ、彼は複雑な家庭環境に生まれ育ち、若い頃には家出して町で遊び惚けていた——即ちヤンキーになってしまったのである。
だが、やがて家督を相続すると、能力を認められてか、天保11年(1840年)には北町奉行に任命される。
北町奉行時代、老中水野忠邦の行った天保の改革が遠山を一躍人気者にしたと言って良い。
水野忠邦はとにかく庶民の暮らしを知らない典型的な高級武士であった。
天保の改革はいわゆる贅沢を禁じた政策ではあったが、水野は歌舞伎などの娯楽も贅沢の象徴だとし、何とか廃止させようと、芝居小屋を江戸の繁華街から移転させるよう命令を下した。
繁華街に芝居小屋が無ければ、いずれ廃れてしまうだろうという狙いなのである。
そこで庶民暮らしをしていた遠山は、庶民の娯楽を奪ってしまっては、江戸はますます活気を失ってしまう。さりとて老中には逆らえない。
知恵を絞った遠山は老中の命令通り、芝居小屋を江戸郊外へ移転させる決定を下す。ただし、その移転先というのが最大の遊郭である吉原の手前。
吉原へ足を運ぶ庶民は多いから、繁華街と何も変わらないという訳だ。
こうした機転によって庶民の娯楽を守った遠山金四郎景元。庶民の味方として後世まで語り継がれる事になったのである。
遠山金四郎景元の屋敷跡は現在、それを示すモニュメントが建っている。
気ままな本所散策でもしてみると、他にも思わぬ発見があるかもしれない。
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