逃避行

 ガラガラ、のスープ、ガラガラ蛇のスープ。

 ガラガラ蛇の大好物のスープ。

 細い舌で少しずつ飲むので、スープは全然減らない。

 他の蛇に取られないように、お皿を体で囲んでしっかり巻き付く。

 独占欲の強い蛇。

 ガラガラは警戒音なので嬉しい時は鳴らない。嬉しい時は見た目では分からないのだ。

 でも僕にはわかる、僕にはガラガラ蛇が喜んでいるかわかる。


 喫茶店で聞こえる人々の声と単語を切り取って、頭の中で妄想を広げている。しかし傍に置いていたスマホがぱっと光り、頭の中に描かれた「ガラガラ蛇のスープ」はばらばらと崩れ落ちる。そうやって僕は現実に引き戻された。


「いまどこ?」

妻からのそっけないメッセージ。不思議なもので、同じ文章でも楽しみなデートの待合せの「いまどこ?」と、義実家に顔を出すと言った夫が現れない時の「いまどこ?」では伝わる感情が全く違う。


 しばらく放置していると、ポンポンと立て続けにメッセージが増えていく。とりあえずスマホを開くが、返事はせずに別の会話を開く。

 妻とは違い、すぐには既読もつかない。


 喫茶店に逃避しても、スマホは全てのものをゼロ距離にする。良い面も悪い面もあると言えるだろう。嫌なものも好きなものも、どちらも平等に同じ距離にしてくれるのだから。


 通勤ピーク時間を過ぎると、喫茶店に居る人も減ってきた。時間潰しに来る社会人は多いが、見計らったように一人、また一人と去っていく。そういった人々に紛れて居座っていた人間たちが、どんどん取り残されていく。

 僕は相手からの返事を確認して席を立つ。同時に、妻に返信する。

「ごめん、仕事入った。泊まりかも」


 次の逃避先の家では、女はラフな格好でくつろいでいた。手土産のハーゲンダッツを渡すと嬉しそうに冷蔵庫へ駆けていく。

 と、思ったらスプーンを持ってリビングに戻ってきた。「やっぱり今食べる」とのこと。


 この女は食べる時に喋らない。

 少しずつ、ゆっくりアイスを掬って食べる。

 無くなるのを惜しむように。

 人の分を欲しがらないが、自分の分も人にあげない。

「何考えてるの?」食べ終わった女がこちらを見上げて言う。

「ガラガラ蛇のスープ」

「何それ?」

「僕しか分からないかもね」

「ふぅん」

 ふと、スマホを見ると新着メッセージが表示されていた。妻からだ。

「今日帰って来なかったら出ていくから」

 スマホは開かずに裏向きにして、僕はそのままソファに沈み込んだ。

 スマホは逃してくれない。ゼロ距離の鬼ごっこだ。


 台所から戻ってきた女が僕の膝下に丸まる。

「さっきのガラガラ蛇さ、アレだ」

「なに?」

「象を飲み込んだウワバミ」

「なにそれ」

「あなたは星の王子様か、それとも王子様に会いたい悲しいオジサンか…」

 女はそのまま眠った。僕も眠りに落ちた。

 次の逃避先だ。

 ここまではスマホも追って来はしない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る