The boy becomes a hero

しいたけ農場

第1話 始動

 The boy becomes a hero


 ――星が降る夜、二人は出会った。

 その日の光景は、きっと忘れることはない。

 絶望に打ちひしがれ、自暴自棄になり、自分など消えてしまえばいいと願い。

 結局のところ、その勇気すらない少年は、言いなりになるままだった。

 自分を捨てることもできず、さりとてあるべき定めに従うこともなく。

 子供の頃の夢が終わり、ヒーローになることを否定され、諦めた少年がいた。

 欺瞞と虚飾に満ちた日々が、きっと終わったのだと思う。

 彼女はそこに立っていた。

 先程少年が描き、儀式を施した魔方陣の中央に。

 つい一分ほど前まで眩い輝きを放っていた魔術の文様は全ての力を失ったように光を消し、少女の足元には召喚の触媒として、少年の血を混ぜた杯が力なく転がっている。

 星の光を集め、月の灯りに照らされるその姿は余りにも美しく。

 彼女の美貌に、世界の全てが言葉を失っているかのようだった。

 余りにも現実離れした光景は、彼等が現実よりも遠くにある者、俗に言う、魔術師と呼ばれる者達ですらも魅了した。

 炎を、水を、風を、大地を操る彼等ですらも生み出せないその光。

 それはまるで星だ。天から降り注ぐ彗星のように明るく光に満ちて、見る者の心を奪いさり、そして何よりも。

 決して、人の手には届かない光。

 かつては誰かがいた景色。

 寂れた、街外れの工場跡。

 今はそこに誰もいない。それが何を目的としていたものかすらも、定かではない。

 そこに、彼女は立っていた。

 その瞳はルビーのように紅く、

 肌は日本人とは違う、薄い褐色。

 見たことのない材質でできた白と、所々に黒い模様が刻まれた服に身を包み、腰には鞘を帯びている。

 目を引くのは、月光を反射して光を放っているようにすら見える、背中まで伸びた銀色の髪。

 少女のあどけなさと、戦士の鋭い瞳と、触れれば消えてしまいそうな儚さ。

 それらを内包した切れ長の目は、赤い光を当てられた硝子玉のような瞳で、こちらを覗いていた。

 唇が動く。

 彼女のどんな僅かな動きでも目を奪われる。

「けい」

 彼女が呟いた言葉が、自分の――霧代慧を呼んだものであると気付くのに、若干の時間を要した。

「貴方に会える時を、ずっと待ってた」

 掠れたような、消え入りそうな声が耳に心地よい。

 草木を薙ぐ風に交じりながらも、しっかりと耳に届く。

 そうして心に絡み付くようにして、放すまいと魅了してくるのだ。

「だから、答えて」

 伸ばされた手が頬に触れる。

 身体が僅かに反応して、後退る。

 少女は更に一歩、距離を詰めてきた。

 少女の身長はほんの少しだけ高いが、殆ど顔の位置は同じ。

 長い睫毛が、小さく震えている。

「貴方が、わたしを呼んでくれた?」

 確かめるようでありながら、何処か怯えるようで。

 早く答えてあげなければ背中を向けて走り去ってしまいそうで、その姿はまるで捨てられた子犬のようだと、場違いなことを思いながら。

 ゆっくりと、頷いた。


 ▽


「ガッハッハ! 愚民共よ恐れ慄け、貴様等の目の前に立つは稀代の魔術師、マグナ様だぞ!」

 高らかな、それでいて先程までの幻想をぶち壊しにする笑い声が響いてきて、慧が咄嗟にそちらを振り返ると、手に牛丼屋の袋を持った男が立っていた。

「……お前は……」

 慧は無意識に、緊張で身体を強張らせていた。

 風が凪ぎ、牛丼の袋ががさりと音を鳴らすが、それは無視する。

 こんな時間に、こんなところに現れる相手が普通のはずがない。

 目の前に立つ男は、魔術師だ。

 世界の理に触れる者。

 人でありながら、人の器を超えた力を操る法界の破壊者。

 そして相対する中性的な見た目の少年、霧代慧もまた、同じように魔術師だった。

「お前の調べは付いているぞ! キリヨリ家の落ちこぼれ魔術師、キリヨリ慧だな?」

「キリシロな、それ」

「細かいことはどうでもいい!」

 訂正できたのは、霧代の正しい読み方だけだった。

 慧は魔術師としては落ちこぼれだ。名門の生まれにも関わらず、初歩的な魔術を不器用に操る程度の実力しかない。

 目の前の男が仮に並程度の魔術師であったとしても、まともにやりあって万に一つの勝ち目もない。

「深夜にごそごそと何をやってるのかと、たまに仕事をまともにこなそうとしてみれば、まさか今日この日の、こんな時間に召喚術を行う阿呆がいるとは思わなかったぞ」

 格好つけて片手を前に付きだしながら、呆れたようにマグナは言う。

「今日という日が何を意味するか知っているだろう? 知らないとは言わせんぞ!」

 科学の発展によって、人は最盛を極めた。

 それでも満足できなかった者達は、遥か昔にオカルトと呼ばれて斬って捨てられた、魔導の力に手を出した。

 魔導は確立し、選ばれし者達の間には広まっていった。

 そうして時は流れ。

 現代に蘇った魔導は魔術と言葉を変えて、封印されていた者達を呼び覚ました。

「幽世(かくりよ)。境界の向こうに住む者達は今日、俺達人間に宣戦布告する」

 言いながら、牛丼を取りだして器用に片手で割り箸を割って食べ始めた。

「がつがつ。だというのに、もぐもぐ。人間共と来たら、うまうま」

「食べ終わってから喋れよ!」

 思わず全力で突っ込みを入れてしまった。

 それからしばらく、マグナが牛丼を食べる音だけが響く。

「……お腹空いた」

 横から聞こえてきた少女の声には、聞こえない振りをすることにした。

「人間の足並みは揃わず。俺もここに来る間に悪魔だの獣人だの、低級な連中を何匹も処分してきた。そもそも、俺が連中を始末しなければお前だって殺されていたぞ。こんな日に召喚術を使うとは命知らずにもほどがある」

 空になった牛丼の容器をビニール袋に纏め、口を縛ってからマグナは続けていく。

「これから先は鬼や悪魔と言った化け物が現れるだろう。だというのに、未だに魔術師達に協力の気配はない」

 マグナの視線が遠くを見る。

 魔導を操る者達はお互いを利用こそすれ、協力し合うことは滅多にない。

 自分達が苦労した編み出したその力を他人に与えて、ましてや下手をすれば弱点を掴まれるようになりかねない事態を避けるからだ。

「魔術師なんてのは自惚れ屋で、世界が滅びても自分が無事ならいい。そして自分ならば生き残れると思っているのだろうな」

 両腕を組んで、大きく感心したように、マグナは頷いた。

「星が降る夜。幽世……まぁ、言い方は色々あるみたいだが。とにかく境界の向こう側に住んでる連中が定めた日だ。今日、人間達の歴史が変わる。この日を以て、人々の歴史は流転し、終息していくだろうってな。

 まぁそんなことはどうでもいい。俺様がお前に聞きたいことは一つ。そいつはなんだ?」

 慧の手を握ったままの少女を、マグナが指さした。

 慧はまず手を離そうとするが、彼女は右手を固く握り込んだまま離そうともしない。

「ごめん、離して」

「やだ」

 すっぱりと切り捨てられた。

 無理矢理振りほどこうにも、少女の力は慧よりも強く、びくともしない。

「見たところ悪魔ではない。人間の形を取ってはいるが、幻獣の類か? もしくは貴様、天使やら魔神の類を召喚したんではなかろうか?」

「そんなもん、俺の実力じゃ呼べない」

「だろうな。俺様にすらできない超高等儀式を貴様如きができるはずもないか」

 召喚魔術は魔術師達の中では別段珍しくもない魔術の体系だが、術者の技量によって召喚できるものに大きく差が開く。

 普通の魔術師が主に呼び出すのは使い魔として便利な妖精や小悪魔。それよりも危険を冒して利益を求めるのならば悪魔にもなる。

 大規模術式を使えばドラゴンを召喚することすら可能だが、現代でそんなことをすれば大騒ぎになるため滅多なことでは行われない。

「……お前、何者なの?」

 横を見て少女に語り掛ける。

 帰ってきた答えは、慧の想像を遥かに超えていた。

「精霊」

「……は?」

 開いた口が塞がらない。

 さらりと彼女が言ってのけた言葉は、それだけ慧にとって衝撃的なものだった。

「そんなわけないだろ!? お前が精霊だなんてそんな……!」

「ほう。異なる世界からの来訪者。或いは世界を生み出した神にも等しい者達。何にせよ、神々が定めたとされる階位に於ける霊獣、天使を超えて第三位に位置する高位存在か。とはいえ、下級の悪魔が語っているだけという可能性も否定できまい」

 少女を見ると、首を傾げられた。多分、話を半分も聞いていない。視線は慧と、それから積み上げられた工場の瓦礫を興味深げに眺めている。

「まずは本物かどうか。確かめてみる必要があるか」

 掌の上で、牛丼の袋が消滅する。

 一瞬にして圧倒的な熱を受けて溶け消えたそれは、風に流れて僅かに残った欠片すらも失われていった。

「腹が減っては何とやら。こうなると思って、腹ごしらえをした甲斐もある」

 急激に嫌な予感が膨らむ。

「避けろ!」

 慧は、咄嗟に少女を引っ張って木材の裏側に飛び込んだ。

 直前まで慧が立っていた場所を、不可視の衝撃が薙ぎ払う。

 足元にあった砂利が飛び散り、立てかけられている鉄板にぶつかって甲高い音を響かせた。

「どうした、落ちこぼれ魔術師! せめて防ぐぐらいはしてみたらどうだ!」

「いきなり仕掛けて来るなんて、アンタ正気かよ!」

「下級の悪魔ならば容易く葬れる。真実を確かめるのならばこうするのが一番だ!」

「そんな勝手なことを!」

 ポケットを漁り、念のために持って来た魔術武装である符を展開。

 片方の手は相変わらず強く握られているので、非常にやりにくい。

「お前のような落ちこぼれには勿体ないものではあるが、無駄に苦しませる趣味もない。せめて一撃で葬ってやる」

「正体を確かめるんじゃないのかよ!?」

 召喚された者と、術者は魂に繋がりができる。術者が死ねば、この世界に繋ぎ止められる理由のなくなった彼等は自分達の居場所に帰還してしまう。

「ガッハッハ! 俺にとって大事なのはそいつが有用などうかだけだ。主の身も守れないような雑魚ならいる必要もない!」

 マグナの手に小さな魔方陣が出現し、強く輝いたかと思うと、そこに握られていたのは一丁の拳銃だった。

 例え魔術師といえど、慧は基本的には一般人に過ぎない。

 初めて目にする、明らかに人を殺傷するものに、足が竦む。

 無論、それだけではない。

 魔術師がわざわざ取りだしたそれは、普通の拳銃よりも遥かに凶悪な代物なのだろうから。

 ようやく取りだした一枚の術符には、慧の魔力が込められているが、それはきっと何の役にも立たない。

 それだけ、目の前の男と慧の力量には差があった。

 所詮、自分は落ちこぼれなのだ。

 どう足掻いても、目の前の障壁を取り除くことはできない。

 無意識に固く握り込まれた手に、漸く少女が反応らしい反応を見せた。

 瞬き一つしてから、慧を覗き見る。

「あいつ、危害を加えようとしている」

「見りゃ判る……っていうかさっきので気付けよ!」

 少女は首を傾げるだけ。

「慧。あいつ、倒した方がいい?」

 そう言えば。

 この少女は、ただのか弱い女の子ではない。

 慧が召喚した、自称精霊だ。

 そんなことすらも失念していた。

「そりゃ、できるならそうした方がいいに決まってるけど……。相手は少なく見積もってもアダプト級の魔術師だぞ」

 魔術師の力量による階級には様々なものがある。

 瞬時に魔力波を放ったこと。手に持っている武装の威力から判断するに、相手は相当な実力者。並の魔物や悪魔は一人で狩れるだろうし、慧が逆立ちしても勝てる相手ではない。

 少女はその意味など判らないし、更に言えば興味もなかった。

 慧に危害を加えるのならば倒すだけ。

「問題ない」

 何処か誇らしげに、或いは慧を安心させるために笑顔でそう言ってから、少女は真っ直ぐにマグナに視線を向ける。

 そうしてゆっくりと、二人を繋いでいた手が離れる。

 銀色の疾風が吹いた。

「ちっ。リロード《フレア・バレット》」

 引き金が引かれ、銃声と共に爆炎が巻き上がる。

 それは明らかに少女に直撃し、彼女を炎に包みこんでいた。

 だが、そんなことは気にも留めない。

 腰に差していた鞘から、赤褐色の刀身の剣を抜き払うと、一瞬にしてその身体はマグナの眼前に到達していた。

「おわあぁぁぁ!」

 悲鳴を上げて必死に距離を取るマグナ。

 少女の速度は早く、即座に反応して彼に追いすがる。

「慧の敵は倒す」

「落ちこぼれ風情を護るのか?」

「……関係ない」

 横一文字に振るわれた剣を避け、マグナは拳銃を少女に向け、至近距離で発砲した。

「なん――!」

 驚愕に染まる声。

「遅い」

 少女は表情一つ変えない。

 飛んできた魔力の弾丸を斬り払うと、少女の背後で二つに分かれた魔術が着弾し、氷の花を咲かせた。

 直接的な攻撃が通らないのならば動きを鈍らせればいい。

 そう判断したマグナの行動は、少女の規格外の身体能力により水泡に帰した。

「洒落にならんぞ!」

 拳銃で剣を受け止めるが、一秒と持たずに粉々に砕け散る。

 その隙にどうにか障壁魔術を展開して、続くもう一撃を防いだ。

「邪魔」

 少女の手が障壁に伸びて、見えない壁を握り潰さんと力を込める。

 硝子が砕けるような音と共に衝撃が砕けると、マグナの姿はそこになかった。

 五メートル以上は積み上げられた砂利の天辺に立って、慧と少女を見下ろしている。

「ガッハッハ! やるではないか、どうやらそいつは本当に精霊かも知れん! 今日は俺もろくな武装をしていない故、見逃して……!」

 そこの言葉は最後まで続かない。

 一瞬にして肉薄した少女の剣が、コンマ一秒前までマグナの首があった場所を振り抜けた。

「貴様! 捨て台詞ぐらい言わせろ!」

「知らない」

「くそっ! お前もちゃんと教育しとけ!」

 最早捨て台詞にもなっていないことを叫びながら、マグナの姿が闇の中へと消えていく。


 ▽


 人目を凌ぐようにして、自転車の後ろに少女を乗せた慧は、無事に自宅へと辿り付いた。

 道中、警察にでも見つからないか冷や冷やしたものだが、今日という夜には関係のない一般人でさえただならぬものを覚えるのか、慧達以外に人影は見えなかった。

 住宅街から離れたところにぽつんと立つ二階建ての一軒家は、まだできてから時間が経っていないこともあってか、白く真新しい壁をしている。

 傷一つない扉をゆっくりと開けると、暗闇と耳が痛くなるような静寂。それからどれほど時間が経っても慣れないであろう冷たさが身体を刺した。

「入れよ」

 言うまでもなく少女はすたすたと踏み入っていく。

「待て。玄関では靴を脱げ!」

 言われると素直に上櫃に腰かけて、いそいそと靴を脱ぎ始める。何処から来たのか、それこそ漫画の中のファンタジーに出てきそうな白い靴を観察していると、短いスカートから覗く太ももが不意に目に入って、思わず目を逸らしていた。

「寒い」

「待ってろよ。今暖めるから。そしたら、お前が何者か教えてもらうからな」

 少女は敵ではない。

 きっと慧は召喚魔術を成功させたが、何をどうやって、本来召喚するつもりのなかった精霊を呼び出してしまったのかが判らない。

 リビングの暖房をつけ、隣り合わせになっているダイニングキッチンに入ってお湯を沸かす。

 視線が気になって後ろを振り返ると、少女はテーブルとソファの間に棒立ちになりながらまるで幽霊のようにこちらを見つめていた。

「怖いよ! 座っててくれ」

 頷いて、テーブルに座ろうとする少女を「そっちじゃない。隣の柔らかい方」と押し留めた。

「おぉ」

 感嘆の声を上げてクッションに沈んで行く少女。

 一応賓客なわけだし、お茶菓子もあった方がいいだろうか? 以前貰った高級なやつが何処かにしまってあったはずなどと考えて、相手は人ではないのだと我に返り、自分で食べるために買い置きしておいたポテトスナック(商品名はじゃが太郎)を持っていくことにした。

「で、お前さ」

 入れたての、湯気の立つお茶を目の前に置いて、彼女の座るソファの向かい、カーペットの上に直接腰を下ろしてから、改めて問いかける。

「本当に、精霊なのか?」

「多分?」

「多分って……そのぐらい判れよ」

「あんまり、思い出せない」

 指でこめかみを揉むような仕草をしながら、少女は眉を顰めていた。

「慧の声が聞こえたからわたしは来た」

 じゃが太郎の袋を持って、上へ下へと観察する少女。

「だから多分。慧はわたしの契約者」

「信じられないけどな。精霊が俺なんかと契約してくれるなんて」

 少女のじゃが太郎を奪い取って、袋を開けて再び持たせてやる。

 最初は中に入っている薄いチップ状のお菓子を興味深げに眺めていたが、やがて意を決したように口に入れた。

「……なんで?」

 ポリポリと咀嚼しながら少女は首を傾げる。

「あいつも言ってただろ。俺は……」

 お茶を飲んで、喉を潤す。

「俺は落ちこぼれなんだから」

 自分で言った言葉に傷が付く。

 何度言われても、どれだけ自覚してもその一言は慣れることはない。

「落ちこぼれ? 人より上手くできない?」

「そうだよ。魔術に関しては下の下。さっきのあいつの方が遥かに強力な魔術師だ」

 言っていながら募ってきた苛立ちを隠すように、お茶を一気に呷る。

 二枚、三枚とじゃが太郎を食べていた少女は、その手を止める。

 そうして、心底不思議そうな顔で慧に問いかけた。

「変わらないのに」

「変わらない?」

「落ちこぼれも、さっきのあいつも、変わらない。どっちもわたしより弱い」

「なっ――!」

 怒鳴り付けそうになるのを、理性で抑えた。

 彼女の言葉は真実で、慧には反論する術がなかったからどうにか感情だけで発言するのを抑えられたに過ぎないが。

「それは……。お前達からしたらそうかも知れないけど!」

 素早くじゃが太郎を口に運んでいた少女は、慧の視線に気が付いたのか、今頃になって袋の口をこちらに向けて「食べる?」と視線で訴えてきた。中にはもう殆ど欠片しか残っていない。

「でも貴方にはわたしがいる」

「だから、そのお前がなんで……!」

 じゃが太郎の欠片を指でつまみながら、名残惜しそうに一つ一つ食べる少女を見て、慧はそれ以上何か言うのをやめた。

「……お前は良いのかよ?」

「もう一個」

「そうじゃない。俺が契約者でいいのかってことだよ。お前の目的がなんだか知らないけど……」

「慧がいい。慧と一緒にいる」

 真正面からぶつけられた言葉に、二の句もつげなかった。

 その目は、少なくとも慧には嘘を言っているようには見えなかったし、小さく、それでも確かに浮かべた笑顔を見ればそれ以上追及するのが阿呆らしくなってくる。

「……そうかよ」

「……あ」

 空になった袋を奪い取ると、切なそうな顔になった。

「じゃが太郎……」

「お前、日本語読めるのな」

「慧の血で呼ばれたから、ある程度は記憶を共有してる」

「……そう言えばそうだっけ」

 むしろ記憶を読みこませるために、自らの血を混ぜるのだったが、何しろ相手が規格外すぎるので、そんな初歩的なことすらも忘れていた。

「でも、記憶が曖昧。自分のことも覚えてないし、他にもあんまり」

「俺の術が不完全だったからじゃないのか?」

 立ち上がって、空になったお茶のカップを流し台に持っていく。後ろで少女がふるふると首を横に振っている気配がした。

「何でもいいけどな。取りあえずのことは明日話すとして、今日はもう寝よう」

 召喚魔術に、アダプト級の魔術師の襲来と、疲れることが幾つもあった。

 片づけを終えて戻ると、少女はソファに身を沈めていた。

 その姿を見て、肝心なことを聞いていなかったことを思い出した。

「お前さ」

 ぴくりと少女が顔を上げる。

「名前、なんて言うんだ?」

少女はそれを待っていたかのように、わざわざソファから立ち上がって慧の傍まで来てから口にした。

「ルーヴ」

「……ルーヴね」

「うん。慧」

 鈴が転がるような声で名前を呼ばれると、くすぐったく落ち着かない気持ちになる。ただでさえ、同年代の女性との接触は極端に少ない生活をしているんだから。

「ふふっ。ルーヴと慧。いい響き」

「いや全然」

 ばっさりと切り捨てると、「むぅ」と不満そうに頬を膨らませるルーヴ。

 その日は空き部屋をルーヴに使って貰って、もう眠りに付くことにした。


 ▽


 いつもの夢。

 本当に、嫌な夢だ。

 ローブを来た者達が立ち並ぶ場所の中心に、慧は立っている。

 慧だけは学生服で、年相応の格好だがかえって異質な存在として浮かび上がっていた。

 そうして慧の両隣にずらりと並んだ奴等は、聞こえるように、口々に勝手なことを言っている。

「どうして純血から出来損ないが……」

「師を間違ったのではないか?」

「指南役の……は、責任を取ってもう関わりをなくすのだと」

「それはそれは。だが、彼にではなく素材に問題があったとしたらどうなる?」

 嘲弄と根も葉もない噂話に嫌気がさしたところで、いつもと同じように慧は顔を上げる。

 正面に立っているのは、厳格そうな壮年の男だ。

 それほど年齢はいっていないはずだが顔に刻まれた深い皺は、彼が潜ってきた修羅場の数を物語っている。

 ゆっくりと腕が上がる。

 それだけで、誰もが口を噤む。

 この場に居る者達と彼との力関係は、それで全てだ。

「慧」

 その圧が、慧の呼吸を止めた。

 言葉すらも奪い去り、ただ怯えた視線だけが向けられる。

 そうして、彼は言うのだ。

 慧の人生を変えてしまった言葉を。

 無慈悲に、それが罪であると断罪するかのように。

「お前は……」「ひょわああぁぁぁぁぁぁぁ!」


 ▽


 夢の中まで響いてきた奇声に布団を跳ね上げて飛び起きた慧は、寝起きのぼうっとした頭で現状の確認に勤めた。

「……あれは、夢だよな?」

 いつも通りの自分の部屋。

 机の上に無造作に置かれた魔導書と学校の課題。

 本棚には慧の数少ない趣味である、ヒーロー物の漫画やヒーロー映画のDVDが納められている。

 母のお古のCDプレイヤーが携帯電話の進化によって役目を終えたのはいつからだっただろうか。

「やっぱり夢だ。でもなんで……」

 いつもはあそこから、父の一言で目が覚める。

 そうして慧は数日に一度、最悪な朝を迎えていたが、今日はいつもと違うようだ。

 あの奇声は何だったのかと疑問に思ってすぐに、そんな原因は一つしかないと思い当たる。

 寝巻のまま階段を転がるように駆け下りると、床を叩くような音で、声の主が何処にいるのかすぐに判った。

 廊下を抜けてダイニングまで五秒と掛からない。

「どうした!?」

 食卓を挟んだ流しの前で、ルーヴが涙目になって俯き、シンクの上を指さしている。

 恐る恐る近付いていくと、シンクの上には彼女をこんな風にさせた犯人が鎮座していた。

「……玉葱?」

 見紛うことなき、何処にでもある、更に言うならば慧がスーパーで一個64円で買って来た玉葱がそこに置いてあった。

 先日までと状況が変わっているとするならば、形のいい歯で噛み切られた跡があるところだろうか。ついでにその部分も流しの中に捨ててあった。

「これは……毒!?」

「毒じゃないよ。辛かっただろ?」

「やっぱり毒だ。慧、危ないからわたしに任せろ」

「毒じゃないって。そもそも、なんで玉葱なんか齧ったんだよ」

「お腹空いた」

「はぁ」

 盛大な溜息が漏れる。本当に目の前の少女が、昨日マグナを退けた精霊と同一人物なのだろうか。

 床にぺたんと座ったままこちらを見上げる姿はまるで犬だ。

「ちょっと待ってろ。今、朝ご飯用意するから」

 プライパンに油を敷いて、卵とベーコンを焼きながら、トースターにパンを突っ込む。

 そうしている間に電気ケトルのスイッチを入れて、お湯を沸かす。

 部屋の中に美味しそうな匂いが漂ってくる。座っていたルーヴも立ち上がり、我慢できないと言った様子で慧の周りをうろちょろし始めた。

 一足先にルーヴの分を皿に持って手渡す。

「そこのテーブルで食べろよ」

 ルーヴは頷いて、そのまま動こうともしなかった。

「なんだよ?」

「慧は?」

「今から作るよ。お前、お腹空いてたんだったら先食べてろよ」

「いい。慧を待つ」

 皿だけ目的の場所に置いて、ルーヴは慧の元に戻ってくる。

 慧より少しだけ高い位置にある目で、同じように料理をする手つきを見つめている。

「野菜が足りないな」

 哀れな姿となった玉葱の介錯を務めることにした。

 玉葱を薄くスライス、同じように胡瓜も。トマトを買っておけばよかったと内心で思いながら、最後にキャベツを刻む。

 それらを洗ってからボウルに入れて掻き混ぜて、塩で味付け。

 後はお好みでマヨネーズでもドレッシングでもかければお手軽サラダの出来上がりだ。

 ボウルから二人分の皿に移してトーストをトースターから回収し、最後に卵とベーコンを盛り付けて慧の分の朝食も完成した。

「ほら、食べるぞ」

 お茶が入ったカップを二人分持つように促して、皿を並べていく。

 向かい合わせて座って、食事が始まった。

「ほら、マーガリン」

「ん?」

 早速トーストに齧り付こうとしたルーヴに、マーガリンとスプレッダーを手渡す。

「これでパンに塗るんだよ」

 言われた通りにスプレッダーでマーガリンを掬うルーヴだが、目の前の白い塊に疑念を抱いているようだった。

 匂いを嗅いだり、注意深く観察したりしていたが、意を決したようにスプレッダーごとマーガリンを口に咥える。

「……微妙」

「俺はパンに塗れって言ったと思うんだけど」

 今度は言われた通りにしてくれた。

 きつね色に焼けたパンの熱がマーガリンを溶かして、スムーズに塗りこめられていく。

 不思議なほどにいい匂いが辺りに漂って来て、早速ルーヴはそれに齧り付き、目を輝かせていた。

「美味しい」

「だろ? ほら、こっちも」

 二枚目のルーヴのパンにマーガリンを塗ってやってから、自分のパンにも塗っていく。

「慧、凄い」

 ドレッシングをサラダにたっぷりかけて、先程痛い目を見せられた玉葱を咀嚼しながら、目を輝かせるルーヴ。

「魔術みたい」

「魔術はもっと凄いよ」

「……何処が?」

 純粋に首を傾げるルーヴ。

 彼女の仕草に悪意は見られない。

「魔術が使えても、美味しいご飯は作れない」

「アークメイジにでもなれば、そんなことしなくても誰かが美味しい食事の支度をしてくれるよ。偉くなるってそう言うもんだ」

 魔術、という言葉には余計に反応してしまうのは悪い癖だと自覚はある。

 それでも、どうしても慧にはそれを止めることはできなかった。

 魔術はかつての慧の全てであり、今の慧を縛り付ける鎖であり、今もなお、恋い焦がれる憧れの力なのだから。

「それで、今日はちょっと出掛けてくるから。留守番できるか?」

「できない」

 いっそ清々しいまでの即答だった。

「だよなぁ」

 呆れて溜息をつく。何故かルーヴはそこはかとなく誇らしげな顔をしていた。

「もともとお前の服とか日用品を買いに行く予定だったし。一緒に来てもらう分には全く問題はないんだけど」

 ルーヴの格好を改めてみてみる。

 一言で言えばミニスカートのワンピース。背中にコートを羽織っているような状態だった。

 至る所に刻まれた謎の言語による文様の所為で、ファッションと見て取れなくもないが、間違いなくコスプレの類だろう。

 彼女が精霊である以上、余り目立ちすぎるのもよくはない。

「ちょっと待ってろ」

 首を傾げるルーヴを残して部屋に戻る。

 諸々を考慮した結果、慧が持って来たのは彼女でも着られるであろうジャージだった。これでも目立つのは違いないが。

「これ、着てけ」

 既に食事を終えていたルーヴは素直にジャージを受け取り、後ろ前を確認したり、匂いを嗅いだりしていた。

 その姿を見ながらお茶を飲んでいると、「うん」と頷いてから突然服を脱ぎ始める。

「おまっ、お前!」

 慧の口から噴き出したお茶が、食べかけのトーストに振りかかる。

「馬鹿! 隠せ、って言うかあっちで着替えろよ!」

 勢いよく、それはもう迷いなく服を脱いだので、すぐに目を逸らしたものの、避けきれず慧は見てしまった。何がとは言わないが、綺麗な色と形をしていた。

「うん?」

「うん? じゃなくて!」

「見たくない?」

「いや、見たくない訳じゃないけど……。でも見るわけにもいかないって言うか……」

「変な慧」

「変なのはお前だ」と叫び出したくもなったが、堪えて下を向いて食事を続ける。

 ルーヴは説得には応じす、慧の様子に首を傾げながらも目の前で大胆にも着替えを続行したのだった。


 ▽


『例え精霊といえど、契約者を殺してしまえば手も足も出まい。そうして消滅する直前の弱ったところを封印すれば肉体だけでも回収できる』

 小さな、掌に収まるほどの大きさの水晶玉から、皺がれた老人の声が聞こえてくる。

 どうせならば通信だけでも若い女の子にならないものか、などとどうでもいいことを考えながら、マグナはそれを話半分に聞いていた。

「それでよろしいので?」

『構わんよ。もともと、戦力は充分に揃えているのだ。精霊は魔術師としての興味に過ぎん』

 それにしても、太陽の光が眩しい爽やかな朝をぶち壊しにするような陰鬱な声だ。

 マグナも魔術師だが、魔術師という人種は余り好きではない。水晶玉の中にいる老人もその理由の一つではある。

「随分と無欲なことで」

『所詮は転がってきた幸運に過ぎぬ。最大限利用しようとして失敗するよりは必要な利を得た方が賢かろう。キリシロの連中への牽制にもなるしな』

 ここまで来ても、彼等は人間同士で足を引っ張ることを考えている、馬鹿な奴だ。

『お主も感謝することだな。はぐれ犬であったお主を、わしらの傘下に入れてやったのだからな』

「その節は、どうも」

 やはり魔術師は嫌いだ。

 連中は自分達の魔術と知識、それから勢力を拡大することにしか興味がない。

 昨日とて、マグナが自らの判断で幽世の者達を始末しなければ、行方不明者や猟奇殺人の被害者が五人は出ていたことだろう。

 そのことに対して咎めも、称賛も、何もなし。早い話が無関心だ。

『いいか。精霊を従えているとは言ってもキリシロの倅はろくに魔術を操ることもできないガラクタに過ぎぬ。出会いがしらに一撃で仕留めてしまえ』

「努力はしますよ」

『成功を祈っているぞ』

 愉快そうな含み笑いと共に、通信は一方的に断絶された。

「あの爺さん、携帯電話って知ってるか? 知らなさそうだな」

 水晶をポケットにしまい、携帯を取り出す。

 こちらの方が便利だし、喋っているところを見られても周囲の人に奇異の目で見られることはない。

「なによりこっちの気分が乗らなけりゃ出なくていいってのが最高だな」

 携帯電話は無視できるが、水晶の通信は無視できない。

 あの老人とできるだけ会話をしたくないマグナにとってはその差は大きい。

「しかしどうしたもんかね。あのガキを殺せか」

 仮にそれが、幽世の者達から人々を護るための戦力としてならば、それも吝かではない。

 だが、あの老人たちは私利私欲のためにそれを行おうとしている。

「考えれば考えるほどもやもやしてくるぞ」

 マグナは魔術師としては変人だし、人間としてもまぁ、変わっている。

 それ故に、普段は誰とも群れることはなく、自分の中のルールに従って生きてきた。

 今回に関しては人類の危機だとマグナなりに判断したからこそ、彼が最も苦手とする徒党を組む行為をやって見せたのだ。

 携帯電話を捜査して地図アプリを立ち上げると、目的地を検索する。

「あ」と声を上げるまでもなく、マグナはいつの間にか目的の家の前まで来てしまっていた。

 塀に囲まれた二階建ての家は、住宅街から少し離れたところにあること以外は何の変哲もない、普通の一軒家だ。

 こんなところに建っている理由は恐らく、少し移動すれば人気のないところに行けるため、魔術関係の何がしかを行う都合がいいからだろう。

「さて、どうしたもんかな」

 色々な考えが頭を巡る。

 その中で特に尾を引いたのは、先日の精霊だ。

 強く、美しいあの光を老人達のものにしてやるのは勿体ない。

 はした金程度の報酬でそんなことをするほど、自分が安い男だとはマグナは思っていなかった。

 扉を強く叩く。

 何度も何度も、ノックというには些か強すぎる力で。

「たのもおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 まずは行動し、結果を見てから思考する。

 マグナはいつもそうしてきた。

 だから、今回もそうすることにした。

 が、運悪くその十分ほど前に慧達は家を出ていたのだった。

「なんだ留守か。まあいい、一度隠れ家に戻って様子を見るか。別に事を起こすのは明日でも遅くはないだろう」

 言いながらマグナは踵を返す。

 今しがた彼がやってきたところ、ここから徒歩数分で辿り付く小さな山へと帰っていった。


 ▽


「あのな」

「もぐもぐ」

 既に時刻は昼を過ぎた時間帯。

 日曜日の駅前は、それなりの人が行き来している。

「色々と言いたいことはあるんだけど」

「慧も食べよう」

「うん。食べるけど。俺のお金だし」

 砂糖の甘い香りと珈琲の香ばしい匂いが充満する店内で、二人はこれ以上にないほどに人々の注目を集めていた。

 二人が今いるのは全国チェーンを展開しているドーナツ屋。ミセス・ドーナツ。

 その店内食事スペースで、トレイの上に山盛りに置かれたドーナツを挟み、睨みあっていた。

 厳密には慧が睨んでいるだけで、ルーヴはそれに対してじっと見つめ返しているだけなのだが。

「まず第一に、お前は目立つんだ」

「えっへん」

「いや、偉くないからな。で、そんなお前がじっとドーナツ屋の前で立ち止まってたらどうなる?」

「慧とドーナツが食べれる」

 結論から言えば間違っていない。

「もう少しあれだよ。人目とか気にしてくれよ」

「検討の上、善処する」

「そんな都合のいい答え方何処で知ったんだよ……」

 呆れながらも、これ以上言っても無駄だと慧は判断して、自分もドーナツを手に取る。

「それからな」

「うん」

「試着は自分でしろ」

「でも慧に着せてもらった方が二人でできる。楽しい」

「俺は楽しくないの」

「本当に?」

 じっと見つめられると答えに詰まる。

 ルーヴを着せ替えすることが楽しいかどうかは別としても、それを関係ない人が大勢いる前でやっていかどうかは別問題だ。

「……まぁ、取り敢えず服は揃ったな。後は日用品を買い足して……」

 それからもう一つ、行く場所がある。

 こうしてドーナツを食べている間にも、長身で見た目麗しいルーヴと、何処からどう見ても普通の高校生の慧の組み合わせは人目を引く。できるだけ早くここから撤収したいのが本音だった。

「早く食べろよ」

「おかわり」

 言った傍からルーヴは自分の皿を空にしているのだから、慧の要望には応えている。

「ない」

「いじわる」

「意地悪とは違う。お金の仕組みぐらいはお前も判るだろ? ここでドーナツを無限に食べさせたら、俺達の明日のご飯がなくなるぞ」

「……それは、困る」

 戦慄した表情で固まるルーヴ。そこまで深刻な話ではないのだが。

 改めて席を立とうとしたところで、店の自動ドアが開き、店員の「いらっしゃいませ」の声を背に、一人の人物が慧の方へと向かって歩いてきた。

「よぉ、慧!」

「恒也?」

 天城恒也。

 慧の友人で、同級生。魔術とは一切関係のない一般人。

 恒也は整った顔立ちに、短く切られ逆立った髪、そこに人懐っこい笑顔で慧を見ていたが、すぐに向かいに座っているルーヴに気付いて表情を一転させる。

「え、あれ、なに? 外人さんの彼女? えーっと、ハロー? ミーはケイのトモダチ。フレンド!」

「慧。変な奴がいる」

 あんまりだが否定し辛い。

「彼女じゃないよ。こいつはルーヴ。父さんの仕事の関係で家に泊まってるんだ」

 予め考えておいた言い訳を述べると、恒也は特に疑うようなこともなかった。

「えーと、ルーヴさん? 俺は恒也。こいつ、慧の友達だ」

「……慧の、友達?」

「そ。すげぇ。日本語ぺらぺらじゃん」

 言いながら、恒也は慧の方へと回り込み、その首に腕を掛けて顔を寄せて囁く。

「お前、こんな可愛い子と一つ屋根の下で生活かよ! 羨ましいぞおい!」

「恒也は一人でドーナツ?」

「んなわけあるか! 外からお前の姿が見えたから来てみたんだよ。そしたらデート中とは、まったく恐れ入ったぜ。クラスの連中が次々と彼女だなんだと浮かれるなか、お前だけは俺の味方だと思ってたんだけどな」

「だから、彼女じゃないって」

「へっ、どうだか。お前のことじーっと見てるじゃないか」

「そう言うんじゃないって」

 少し強めに言って、恒也の腕を払って立ち上がる。

「ちょっとこれから用があるから、来て早々で悪いけどもう帰るよ」

「あー、そーいうあれか」

「どういうあれかは知らないけどな」

 慧が立ち上がるのに合わせて、ルーヴも立ち上がる。そして自然に慧の手を握ったのを見て、恒也は「いやどう見ても彼女だろ」と小さな声で漏らす。

「とにかく。今日はここまで。また明日、学校で」

 本当に急ぎの用事があるわけではないが、これ以上恒也と話してぼろが出るのを避けたかった。彼は魔術には関係のない一般人で、こちらの世界のことは何一つ知られるわけにはいかない。

「おう。学校で」

 不躾とも言える慧の態度だが、幸いにして恒也は全く気にした様子はない。彼のこういったところは、純粋に友人として好感が持てた。

「慧」

 呼び止める声に振り返ると、慧達が先程座っていた席で、恒也は穏やかだが、何処か真剣な顔つきでこちらを見ていた。

「なんか悩みがあったら言えよ。ここんとこずっと元気ないみたいだからさ」

「……ああ、そうだね。他に手がなかったら恒也に相談するよ」

「おう。持つべきものは親友だからな」

 ルーヴの手を引いて店から出る。

 本当に、彼はそう言うところがずるい。


 ▽


 一度家に戻り、玄関に荷物を放ってから、慧は今度は街とは逆の方向へと歩き出す。

 別に付いてこなくても何も問題はないが、当然の如くルーヴは後ろを付いて来ている。

 真っ直ぐに、家から徒歩数分程度で付く裏山へと歩いていく。

霧代家の私有地であるこの山には、魔力を高めるための仕掛けが幾つも施してある。

 それだけでなく、もともと天然の魔力の流れが集まる山の傍に、慧の父が家を建てたのだった。

 それも全ては慧を一流の魔術師に育てるためと、幼い頃に聞かされた言葉が蘇って、慧は山を登る度に憂鬱な気分になる。

 殆ど人の手の入っていない山は草木に覆われ、普段慧が歩いている場所だけが歩道として機能している。

「慧。鳥がいる。美味しそう」

「そりゃ鳥はいるだろ。でもその感想はどうかと思うぞ」

 後ろを付いてくるルーヴがそんなことを言うたびに、憂鬱な気分を感じることすら阿呆らしくなってくる。

 木でできた、半分土に埋まった簡素な階段を昇り、山の中腹まで来ると、すぐ左手に人の手が入った道が見えてくる。

 それより上は、慧が普段身体を鍛えるためのジョギングコースになっているが、今日はそちらに用はない。

左へと進み、目的の小さな洞窟へと辿り付いた。

「慧。これはなに?」

「龍脈とか力線とか呼ばれる魔力の流れがあるのは判るか?」

「なんとなく」

 本当にこいつは精霊なのだろうかと突っ込みたくなったが、堪えて説明を続ける。

「この山全体が、くまなく龍脈が張り巡らされた類稀なる土地なんだけど、この洞窟は特にその力が集まってる場所なんだ」

「つまり、美味しい食べ物がある?」

「うん。全然違うな。お前わざとぼけてるだろ?」

 洞窟の入り口からは、二つに分かれた小さな川が流れていて、常に岩肌を湿らせているため非常に滑りやすい。

 慧は先に水の流れを飛び越えて、洞窟の前まで来てルーヴに向かって手を差し出した。

「ほら、転ぶなよ」

 その手をルーヴはしばらく黙って見つめた後、

「わたし、多分慧の百倍以上の運動能力がある」

「……うん、そうだったな。俺が馬鹿だったよ」

「でもせっかくだから手を繋ぐ」

 慧の手を握って軽やかに横に着地した。

「慧。優しい」

「……行くぞ。日が暮れる前には帰りたいからな」

 腕時計を覗くと、既に時刻は四時を回っていた。夕飯の支度を考えると、手早く事を済ませて家に帰りたい。

 洞窟の中には外の光は届かないが、前もって設置しておいた半永久的に光る小さな魔術植物が岩の隙間で繁殖しているので、それなりには明るい。

 もう何度も歩いた道を危なげなく進み、足場が悪い中を十分ほどで最奥まで到達した。

 そこには小さな祭壇があり、魔方陣と火が消えた蝋燭が設置されている。魔方陣の中心部分は窪んでいて、時折天井から落ちてくる水で満たされている。

「なにそれ?」

「符だよ。何に使うかはなんとなく判るだろ?」

「うん。魔力が込められてる。小さいけど」

「……小さくて悪かったな」

 その水に浸された符は、慧が制作し自分の魔力を込め、この場所で龍脈の水に浸して精練した代物だ。約一週間かけて数枚の符を作るのだが、そこまでやっても中堅の魔術師が一晩で作る魔術道具以下の性能しかない。

「それを取りに来たの?」

「そうだよ。幽世の連中がいつ来るか判らないだろ? 今のうちに装備を整えておかないと」

「慧にはわたしがいるから、そんなのいらない。そんなの何枚重ねても、わたしの方が強い」

 ルーヴは、自らを慧の剣だと思っている。それ故に、彼が他の武器を持つということは、その役割を否定されているような気分だった。

 当然慧にはそんなこと理解できず、拗ねたような返答をすることしかできなかった。

「ガッハッハ! その精霊の言う通りだな、小僧!」

 洞窟の入り口から声が響き顔を向けると、あの時の魔術師が相も変わらず自信満々な顔で立っていた。

「人が食料の買い出しに出ていれば、まさか拠点を襲撃されるとは思わなかったぞ」

「いや、拠点って……。ここ私有地だぞ?」

「ガッハッハ! 俺にそんな些細な常識が通用すると思ったか?」

「うん。いや、まぁ、判るけどさ。でもちゃんとしたところに住めよ」

「仕事を果たすまでの仮拠点だ。別によかろう。ちゃんと毎日風呂には入りに行ってるぞ」

「誰も聞いてないよ、そんなこと」

「そのちんけな仕掛けは貴様のものだったのか。陣をいじって効力を上げといてやったぞ」

「勝手なことするなよ!」

「礼には及ばん」

 人の話など全く聞かず、マグナは慧の元へと歩み寄る。

「折角来たんだ。茶でも入れてやろう」

「いや、もう帰るよ」

 マグナは慧の足元にあったキャンプ用のカセットコンロに何処から取り出したのか、ポットを置いて湯を沸かし始める。

「しかし貴様もご苦労な奴だな。精霊がいるならなおさら、あんなしょうもない魔術道具なんぞ回収にくる必要もないだろうに」

 先程のルーヴと同じことを言われて、慧の表情は翳る。

 折り畳みの椅子を立ててそこに座ったマグナは、立ち尽くす慧を見上げながら、挑発するような視線を投げかける。

「自慢の魔術を馬鹿にされて不愉快か?」

「お前には判らないよ。才能がない奴が足掻く理由なんて」

「ああ判らんな! 判ってるなら何故戦う? 平等ではない世界に喧嘩を売る理由が全くないだろうが」

「だから、説明しても判らないだろ!」

「いやいや、その通りだ。すまんすまん」

 激高する慧など何処吹く風で、マグナは沸騰したお湯を水筒にいれ、ティーバッグを浸す。

「……もう帰るよ。あんたも、ここはうちの土地なんだから、出てけよ」

「――ああ、ちょっと待て」

「なん……!」

 水が入った水筒が重い音を立てて洞窟の中を転がっていく。

 目の前に付きつけられた黒い物体に、慧は意識を奪われた。

「慧!」

 ルーヴの叫びが慧を現実に引き戻す。

「おっと、動くなよ精霊。この距離なら、お前が俺様の腕を斬り落とすよりも早いぞ。油断が過ぎたな、小僧」

「……何が目的だよ? ルーヴか?」

「その通りだ。精霊は小僧が持つには過ぎた力だ。俺様が有効に使ってやろうと思ってな」

「……なんなんだよ、アンタ? 何が目的なんだ?」

「幽世と戦う。それだけだ。小僧、お前もそうだろう?」

 額に銃口が触れる。

 上擦りそうな声を必死で抑えながら、マグナの質問に答えた。

「そうだよ」

「なら話は簡単だな。精霊の所有権を渡せ。俺様がお前の戦いを引き継いでやろうって言うんだ」

 視線を動かして、ルーヴを見やると、彼女は不安さと申し訳なさが同居した表情で、ただ慧を見つめていた。

 そしてその顔を見て――いや、もともと慧の答えは決まっていた。

「嫌だよ」

「判っていないようだから教えてやるが、俺様が引き金を引けばお前は死ぬぞ?」

「判ってないみたいだから教えてやるけど、ルーヴは別に、俺の言うことを聞くわけじゃない。俺を殺してもお前のものになるわけじゃないぞ」

 心の中でだけ、「多分」と付け加えておく。

「……まったく。なんで意地になる? 俺様の方が貴様より優れた魔術師なのは、まさか認められない訳でもないだろう? お前には戦う力はない。俺にはある。お前は一般人だ。大人しく戦いはヒーローに任せておけ」

 何気なくマグナが放った一つの単語に、心が騒めいた。

 例えここで殺されたとしても、これだけは言っておかなければならない。

「ああそうだな。アンタは俺よりも遥かに優秀だよ。俺がどんなに頑張っても、アンタと同じレベルの魔術師にはなれないかも知れない。けどな」

 マグナを睨む。

 命を握られた状況でこれだけ大胆な行動に出る少年を見て、マグナは愉快そうに笑っていた。

「力を手に入れるためにこんなことをするアンタにルーヴは渡せない。アンタはまた違う力を手に入れるために、他の誰かを踏み台にするかも知れないし、そんな力の使われ方をするルーヴが可哀想だ。そんなの、ヒーローじゃない」

「――ハッ!」

 嘲弄するように、マグナは息を吐いた。

「言ってくれるな、小僧。なら力のないお前もまた同じように、ヒーローにはなりえないのではないか?」

『おお! 精霊を捕らえたか、でかしたな、マグナ!』

 何処からか響く、しわがれた老人の声。

 それを聞いたマグナが忌々しげにポケットを漁ると、掌に収まるほどの大きさの透き通った水晶玉が現れた。

『キシリロの倅を捕らえるとは見事だ。やはり野犬と言われていても、なかなかに腕は立つ』

「……話がややこしくなるから黙っててもらえませんかね?」

『くははっ、そう言うわけにはいかんよ。我が人生の終着点と呼んでも過言ではないそれがここにあってはな!』

 興奮した声で、老人は続ける。

『マグナよ。そのままそこにそいつらを留めておけ。今からわしの部下を向かわせる。そうすれば、召喚者から精霊を引き剥がすこともできよう』

「……だから」

『心配はいらぬ。キリシロには貸しもある。出来損ないの息子一人の命ぐらい、黙って渡すだろうよ』

 慧は苦々しい表情で唇を噛む。

「……精霊を手に入れて、アークメイジ殿はどうするおつもりで?」

『ついさっきも言っただろう。わしらの魔導の発展の礎とするのだ。神域にあり、神とは異なり人を愛することのできる精霊だ。その人に使われるのだから、本望だろうて』

「幽世の連中はどうするんです?」

『ふんっ、そんなものわしらが手を出すまでもない。名を上げたがっている弱小魔術師が幾らでも狩ってくれよう』

「成程な。成程……くだらん」

 銃を構えたまま、マグナは手の中にある水晶玉を放り投げる。

「えっ?」

 慧の間抜けな声と共に、水晶玉は洞窟の壁にぶつかり、甲高い音を立てながら転がっていく。

『マグナ、どういうつもりだ!?』

「くだらん、くだらんよ老人。精霊は力だ。力は振るってこそ価値がある。違うか?」

『魔導の発展のためだぞ!』

「そこがなおくだらん! 魔導? こんな力はな、既にもう科学に負けているんだよ! 限られた者にしか使えない力がどうして人を平等に幸せにできる?」

 慧に向けていた銃を、水晶玉に向ける。

「こんなものは所詮、力だ。どれだけ理想を語り、思想を掲げようと何かを奪うため、護るために振るわれなければ何の価値もない」

『貴様……、最初からそのつもりで……!』

「違うぞ馬鹿め。戦力を手に入れ、それを観賞用だとほざく馬鹿に嫌気が差しただけだ。老い先短い老人の慰めよりは、落ちこぼれの小僧の元にいた方がまだ役に立つだろうさ」

『マグナ、貴様……! 目を掛けてやった恩を忘れて、わしを敵に回すことの意味が……!』

 銃声が響き、声が途絶える。

 粉々になった水晶玉の欠片が洞窟内の小さな光を反射して、きらきらと輝いていた。

「ま、見ての通り聞いての通りだ」

「……お前、何がしたいんだ?」

「俺様がその時にしたいことをするだけだ。精霊の力を手に入れようとも思ったが、あの爺と同じ扱いをされるのも気に入らん。お前が死ぬまで預けておくとするさ」

 慧が何か言おうとしている間に、マグナは背を向けて、洞窟から去っていく。

「幽世との結界はもう破壊されている。今のところは簡単に狩れるような雑魚しかいないが、今日明日ぐらいには大物も出てくるんじゃないか?」

「……お前の目的が判らない」

「ガッハッハ、凡人には理解できんのだ。……いや、一つ忘れてた。おい精霊」

「なに?」

 未だ戦闘態勢のルーヴは、敵意を込めて返事をする。

「俺と来るか? その小僧といるよりはお前の力を生かしてやれるぞ?」

「やだ」

「ガッハッハ!」

 気を悪くした様子もなく、マグナは笑いながら片手を上げる。

「気張れよ、ヒーロー」

 そう言って、今度こそ完全に消えていった。

「……帰るか」

「うん。ごはん」

「お前、それしかないのな」

「ごはんと慧が好き」

「……いちいち口に出さなくていいよ」

 洞窟の外に出ると、何故か先程去っていったはずのマグナが仁王立ちで二人を待ち構えていた。

「小僧」

 低く、重圧をぶつけるような声。

 その気迫に慧は無意識に、握っていた符を構え、それを見たルーヴも戦闘態勢に入る。

「もう一日だけその洞窟に住まわせろ。爺との契約を反故にしたから他の隠れ家は全て使えなくなったのを忘れていた」

「……晩御飯、うちで食べるか?」

「よかろう」


 ▽


 それは甘美な痛みだった。

 万力よりも強く、身体の一部が締め上げられる。

 籠った熱は慧を絶対に逃がすものかという強い意志に支えられ、耐えず苦悶を与え続けている。

 ぎりぎりと、筋肉が裂けそうな音が響き、苦痛で全身が強張っていた。

「は……なせ……」

 懇願するように枯れた声を出すのは、何度目か。

 それでも決して拘束は緩まることはなく、むしろ更に苦痛を与え、その声を絞り出させようとしているかの如くきつくなっていった。

「放せえぇぇ……!」

「やだ」

「放せよ! 学校行くんだから!」

「じゃあ連れてって」

「駄目に決まってるだろ。お前は学生じゃないんだから」

 慧の家の玄関。学生服に身を包み、鞄を持った慧は、左腕に強くしがみつく精霊を振りほどこうと苦心していた。

何故か折角買ってやった服ではなく上下を慧のジャージに包んだルーヴは、眉間にしわを寄せて、子供のような我が儘を言っている。

「学生は学校に行かなきゃならないんだよ。判るだろ?」

「判る。わたしは賢い」

「だったら……」

「わたしも連れていけば慧も安全だし、わたしも嬉しい。完璧な理論」

 ドヤ顔で披露してくれたが、残念ながらその理論には大きな穴が一つ空いている。

「お前は目立つんだよ!」

 銀髪に褐色の美人など、一度目に付いたらそうそう忘れられるものではない。

「大丈夫、慧の隣で大人しくしてる」

「意味ない!」

 教室にルーヴが入り、授業中も黙って慧の横に立つ。

 それが許されるかどうかなど、想像するまでもない。

「慧、我が儘」

「我が儘はお前だ!」

「なら、妥協案」

「なんだよ?」

「慧が学校に行かない」

「却下」

 考えないでもないが、今後ずっとそれを続けるわけにはいかない。そして今日一日ルーヴをみっちり説得したところで理解を得られるはずもないし、むしろ付け入る隙を与えることになるだろう。

 既に慧は靴も履いて、いつでも出掛けられる準備は終えているのだが、外までの後一歩があまりにも遠い。

 仕方なく一度力を抜いて、改めてルーヴに向き直った。

「頼むよ、ルーヴ。こればっかりはどうしようもないんだから」

「……むぅ」

 真剣にお願いされると向こうも我が儘を通し辛いようだ。攻略の糸口を見つけた慧は、更なる攻撃を仕掛けていく。

「晩ご飯は美味しいもの作ってやるし、駅前でドーナツも買ってやるからさ」

「……ドーナツ……じゅるり」

 後一歩だ。

 それは別にいいが、本当にこの精霊は周りが言うほど大したものなのだろうか、その辺りが疑問になってきた。

「な?」

「……帰ってきたら、一緒にいられる?」

「まぁ、同じ家だし」

「……なら、我慢する」

「よし、交渉成立だ。じゃあ、いって来ます」

「いってらっしゃい」

 半ば習慣と化した挨拶をすると、教えてもいないのにルーヴはそう返してきた。


 ▽


 慧が通う学校は、特に何と言うこともない、学力的に見ても普通の公立高校だ。

 強制されたわけでもなく、家からの距離や学力など、諸々の事情を加味してそこを選んだ。

 自転車で通学しながら、今後のことを考える。

 今はまだ何も言ってこないが、いずれは成果の報告を要求してくるであろう父。

 そして、ルーヴ。

 悩みの種は尽きず、それに加えて幽世の結界が破壊されたのも事実だ。マグナが言っていた言葉は、一日たっても忘れることはできない。

 通学途中の小中学生。

 早足のサラリーマン。

 憩いのひと時を過ごす老人。

 慧が走り抜ける商店街には多くの人の生活があった。

 宣戦布告され、彼等が地上に現れると予告した日から二日。

 今だ大きな事件は起きていないが、それも慧が知らないだけの話なのかも知れない。

 仮に慧がもっと強い魔術師だったのなら。

 才気に溢れた若者であったならば、父の評価も違っただろう。

 自分の力でこの街を護ると豪語できたかも知れない。

 それは考えても栓無きことだが、子供の頃から、慧の中では何度も何度も巡ってきた問題だった。

 ネガティブになりかけた思考は、進行方向にある自販機で屈んでいる人影を見て、一時中断された。

 その人物も顔を上げ、慧を見つけると顔を綻ばせた。

「よぉ、慧!」

「恒也、おはよう」

「なんだ疲れた顔してんなー。大丈夫か? ひょっとして昨日、彼女と頑張り過ぎたかぁ?」

「大丈夫だよ。それに何度も言うけど、ルーヴはそう言うんじゃないって」

 夜中にベッドに潜りこんでは来たのだが、それは当然黙っておくことにする。

 自転車を降りて、恒也の横を押して歩いていく。

「へっ、隠しても無駄だぜ。俺の嫉妬パワーは最早一千万馬力を超えている」

「あっそ」

 それきり、そのことに対する追及はなかった。

「それより慧。今度のやつ、日本公開日決まったってよ」 

人当たりのいい恒也には他にも友達と呼べる人は大勢いるが、中でも慧とはある種特別な繋がりがある。

「クレイマンVSミスター・ジャイアント?」

「そうそう。楽しみだよなー! 勿論、公開日に行くんだろ?」

 慧と恒也が話しているのは、所謂ヒーロー漫画の話だ。近年では人気が高まり、CGを駆使した実写映画化も数多くされている。

 始まりがなんであったかは覚えていないが、慧は恒也からそれを教えてもらい、今ではそうやって一緒に見に行くほどのファンになった。お気に入りのシリーズはDVDも購入して部屋に置いてある。

 出会いが偶然とはいえ、慧がヒーローに心を動かされたのは、自分の境遇があってのことだろうと自己分析している。

 戦いの中で迷い、決意し、立ち向かって行く。

 そんな彼等の姿に、慧は憧れを抱いた。

 彼等と似たような境遇でありながら『戦う力』を持たなかった慧は、そこに自らの理想を見つけてしまった。

 彼等『ヒーロー』の在り方に、叶うことのない憧れを抱いてしまった。

「……慧?」

「あ、悪い。なんだっけ?」

「いや、だから映画だよ。公開日に行くだろ?」

「多分ね」

「なんだよ、歯切れ悪いな。あー、ひょっとして彼女のことか!?」

 休日に出かけようとしても、きっとルーヴは放してくれないだろう。彼女がいる限り、きっと慧に一人の時間は殆ど訪れなさそうだ。

「……思ったより、嫌ではないんだな」

「ん?」

「いや、何でもない。それよりも恒也、課題やってきた?」

「えっ、課題なんか出てたっけ?」

「出てたよ。まぁ、教室行ったら見せてやるけど」

「サンキュー! やっぱ持つべきものは優等生の友達だな!」

「現金過ぎだろ……」

 呆れながらも嫌な気はしない。

 ちょうどいいタイミングで二人に追いつくように止まったバスから、同じような制服を着た男女が降りてくる。

 商店街を抜け、同じような学生服の群れに交じりながら、二人は他愛のない話を続けていた。


 ▽


 そして特に何事もなく、一日が終わっていく。

 夕飯のことを考え、ルーヴが大人しくしているかを不安に思い、心の中は慌ただしくても日常は穏やかに過ぎていった。

 帰宅部でアルバイトもしていない慧は、ルーヴとの約束を果たすために足早に駅前に自転車を飛ばして、ミセス・ドーナツで適当に十個ほど買い込む。

 この時点で時刻は四時半。ルーヴを待たせると何をしでかしているか判らないという不安から、帰りは商店街ではなく、人通りの少ない河川敷を飛ばしていくことにした。

 後ろに過ぎていく景色と、身体を通り抜ける風が心地よい。

 流れる川を横目に走っていると、少し前を歩いている女子学生の集団が目に入った。

 横に広がり道を塞ぐようにしている彼女達にやんわりと気付いてもらうため、離れたところからベルを鳴らす。

 抵抗もなく彼女達は二手に分かれ、慧が通る道を作ってくれる。

「慧」

 通り抜けようとしたところで、名前が呼ばれ、その聞き覚えのある声に慧の足が止まる。

 馬鹿なことをした。

 聞こえなかった振りをして、通り過ぎてしまえばよかったのに。

 どうして、立ち止まってしまったのだろう。

「ごめん。みんなちょっと先行ってて」

「それはいいけど、雪嘉、どしたん?」

「ちょっとね。こいつ、昔馴染だから」

「えー、ひょっとして彼氏?」

「違うって。とにかく、また明日ね」

「じゃあ言及は明日ってことで!」

 雪嘉と呼ばれた彼女と同じ制服を着た少女達は、彼女抜きでもかしましくその場から去っていく。

 慧は自転車を降りて、スタンドを立てて雪嘉に振り返る。

 深緑にも見える黒髪を長めのサイドテールに纏めた少女は、気の強そうな瞳で慧を睨む。

「……久しぶり、雪嘉」

 彼女の名前は御代雪嘉。

 慧と同じ魔術師の家系で幼馴染。

 そして親の勝手な都合ではあるが、許嫁でもあった少女。

「アンタ、一昨日の夜、何処にいたの?」

「何処って……。街外れにある工業団地跡で召喚魔術だよ」

「はぁ? アンタ馬鹿じゃないの? なんであの夜にそんなことしてたのよ! 幽世の結界が破壊される、星が振る夜って前から言われてたでしょうが!」

「そんなこと判ってるよ。判ってるけど、仕方ないだろ。俺の腕と魔力じゃ、日にちまでしっかり合わせないと失敗しちゃうんだからさ」

「あ、そう」

 堂々と言われた雪嘉は、彼女の方が気まずそうに視線を逸らした。

「それって、霧代のおじさんに言われたからでしょ?」

「そうだよ」

「で、何か召喚できたの?」

「……一応は」

「そ。ならよかったじゃない。勘当されずに済んで」

 雪嘉の言葉は冗談でも何でもない。

 慧はもう既に見捨てられているような状態だった。

 雪嘉と最後に会ったのも母の葬儀以来のことだ。

「で、何呼び出したのよ? アンタの実力じゃ妖精とかが精一杯だろうけど、頑張れば子供の竜ぐらいは行けるんじゃない?」

「……別に、何でもいいだろ」

「何よその言い方? あたしにだって知る権利ぐらい……」

 そこまで言って、はっとして雪嘉は口を噤んだ。

「ないよな、雪嘉には。もうすぐ輿入れだろうし、下手なことは聞かない方がいいよ、お互いに」

 慧に才能がないと判ると、御代の家は多額の賠償金を払って許嫁を破棄。

 本来ならば許されないことではあるが、息子の不手際であるからと、慧の父も頭を下げた。

 子供心にそれを見せられた慧は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けたものだ。

 その時そっと慧を抱きしめ、何も見ないように、聞こえないようにしてくれた母は、もういない。

 そうして雪嘉は別の有力な魔術師の家に嫁ぐことになった。幸いにして彼女は慧のようなことはなかったので、相手には困らなかった。

 子供の頃は兄妹のように遊び、冗談半分でお互いに結婚の約束すらもしていた二人の絆は、それだけで脆くも崩れた。

「……そうよ。あたしはもうすぐ輿入れする。久良岐家って、アンタも聞いたことあるでしょ?」

「……ああ、あるよ。何してたかは覚えてないけど。俺が知ってても、意味ないから」

 落ちこぼれが知っていても惨めになるだけだ。

「……なんか言うことないの?」

 雪嘉が何を求めているのかは、慧には判らない。

 判ったところで、もう意味はない。

 いつの間にか空からゆっくりと、夕日が落ちてくる。

 夕日は雪嘉の丁度背中にあって、逆光になった彼女の表情は見えない。

 それが、今の慧には助かった。

「おめでとう。それから、悪かったよ。俺みたいな出来損ないと一瞬でも許嫁になってたなんて、下手したら雪嘉の経歴に傷が付くところだった」

 言ってから、慧は失敗したことに気付く。

 余計なことを言ってしまった理由は判ってる。心の何処かで、「そんなことはない」と否定してほしかったのだ。

 そんな言葉が出てくるわけがないと知りながらも。

「アンタねぇ!」

 雪嘉の手が、慧の襟元に伸びる。

 襟首を掴まれながらも慧は何も言わず、雪嘉も何も言えず、二人の間に無言の時が流れた。

 風が凪ぎ、雲が流れ、静かな時間が過ぎる。

 雪嘉の表情は相変わらずよく見えないが、ひょっとしたら泣いているのかも知れない。

「慧?」

 沈黙を破ったのは、第三者の声だった。

 二人が顔を上げれば、慧の背後には褐色の肌に、銀色の髪をした少女。

「ルーヴ!? なんでここに!?」

「慧が帰ってくるのが遅いから。心配した」

「どうやって俺の場所が判ったんだよ?」

「……勘?」

 自分で言いながら首を傾げる。

「あんまり危険なことするなよ」

「心配ない。わたしは強いから」

「そう言うことじゃないって。道に迷ったりしたら帰ってこれなくなるだろ」

「確かに」

 本当に納得しているのかいないのか不安になる。

 それでも彼女が来たことで、慧の中にあった先程までの嫌な緊張はすっかり消え去っていた。

 もっともそれは慧だけに限った話で、

「慧。誰よそいつ?」

 ぎろりと、そんな効果音が付きそうなほどに激しく、雪嘉はルーヴを睨みつけている。

「こいつはルーヴ。俺が召喚した奴だよ」

「……召喚? こいつを?」

 じろじろと不躾に雪嘉はルーヴを睨む。

 一方のルーヴは何処吹く風で、慧の自転車の籠に乗せられているドーナツの箱を見て、満足気な顔をしている。

「スケベ」

「なんでそうなるんだよ!?」

「だってそうじゃない。一体どんなこと考えてれば、こんな女が出てくるのよ? アンタ何者よ? どうせ淫魔とかそんな類の奴でしょ!」

「違う、淫魔じゃない。わたしは精霊だ」

「せっ……!」

 突然出てきたありえない単語に、雪嘉は一瞬固まった。

「慧、帰ろう」

 ルーヴは全く状況など読めておらず、くいくいと慧の裾を引っ張って帰宅を促す。

「アンタなんかが精霊のわけないでしょ。それに慧が精霊召喚なんて……」

「あ、そう。何でもいいけど、わたしは精霊だし慧と帰る。……お前と慧が話してるのはなんか嫌」

「ちょっと待ちなさいよ!」

 雪嘉のことなど眼中になく、慧を自転車ごと無理矢理引っ張って帰ろうとしたルーヴは、数歩歩いて急に足を止める。

「な、何よ……?」

 夕日が落ちる。

 星の輝きが空に満ちて、月の光が太陽に代わり地を照らした。

 ルーヴの紅い瞳は、雪嘉を見ていない。

 その後ろに立つ影をじっと射抜くように睨みつけていた。

「やーやー、気付いてくれてよかったよ。痴話喧嘩を続けられたら、何処で声を掛ければいいか判らなかったもんでね」

 背丈は低い、ルーヴより、慧より、雪嘉よりも小さい。

 着崩した橙色の着物からは、細い肩と、下に目を向ければ太ももまで露出している。身体に緩く巻きつけられた細い縄に括りつけられた幾つもの鈴が、彼女が動くたびにりぃんと音を鳴らす。

 少女どころではない。下手をすれば中学生か、小学生程度の身長だ。

 風に揺れる山吹色の髪は長く、腰まで届くほど。

 大きな目に、三日月形に歪んだ口からは犬歯が覗く。

 何よりも異質なのは、その額から生える二本の角が彼女が人間ではない証明だった。

 幽世から現れたる妖。

「宣戦布告から二日目。ちょいと来るのが遅れたがまぁ、遅刻ってほどじゃないだろ。幽世が尖兵だ。よろしく」

 少女は笑う。

 敵の前で、さぞ愉快そうに。

「幽世の……ってことは、お前は」

「そうさ。アタシの名前は鳳几(ほうき)。かつては山より現れ人の世を荒らし回り、山の怒りと恐れられたまぁ、鬼って奴だな」

「……鬼だって?」

「確認しなくても見りゃ判るだろ。ほれ、この角」

 額の左右から小さく生える角を、指先でつつく。

「獲物が三人ってのはつまらないけどね。でもまぁ、昔っから最初ってのはこんなもんさ。子供を殺して食って、次はその親。そうしてる間に話が大きくなって大勢の人間が山に入ってくるんだ。そうしてそれを一気にやるのが楽しかったんだ」

「雪嘉こっちに!」

 呆然としている雪嘉の手を引いて、後ろに下がらせようとするが、その反対側をいつの間にか近付いていたのか、鳳几が握っていた。

「おぉっとそうはさせない。こいつからは嫌な匂いがするんだよ。西から来た、大した力もないくせに威張り散らすあたしらの亜種の匂いだ」

「ルーヴ! 雪嘉を助けろ!」

「やだ」

「こんな時に何言ってんだよ!?」

 ぷいと顔を背けるルーヴ。

「別に最初からあてにしてないわよ、そんな変な奴!」

 慧を振りほどいて空いた方の手を、雪嘉が振るう。

 その手に握られていた自らの顔面を狙って振るわれた何かを、鳳几は雪嘉の手を離し、一歩後退ることでひらりと避けて見せた。

「おっとぉ!」

「あたしだって訓練は受けてんのよ! 舐めんな化け物!」

 同じように、雪嘉の手の中で分裂した短剣が投げられる。

「……なんだ」

 鳳几は、息を吐いた。

 雪嘉の手から放たれた、彼女の魔力によって生み出されたマジックダガーの投擲を、今度は避けることもせずに。

 白い刃は次々と鳳几にぶちあたるが、その一本たりとも彼女の肌を傷つけることはなく、地面に落ちては何もなかったのように消失していく。

「つまんね。あれから千年経って、きっともっと面白いもんがあるのかと思ったら、結局人間は子供だましのつまらん術で満足してるのか。それとも、アンタが未熟なだけか?」

「……嘘でしょ?」

 驚愕に雪嘉の顔が染まる。

 牽制程度のマジックダガーだが、それでもその刃は鉄ぐらいなら容易く切り裂く威力はある。

 目の前の鬼は、それを全く意に介さない。

「まあいいや。所詮は前哨戦だしなー」

 鳳几が一歩を踏み込む。

 足が竦んで、雪嘉は動けなかった。

 ルーヴはその戦いに関して、干渉をしようとしていない。

 咄嗟に飛び出したのは、ポケットに忍ばせておいた、なけなしの武装である符を握りしめた慧だった。

「雪嘉!」

 雪嘉の片手を引っ張り、背中に隠す。

「二重結界!」

 符に魔力を込め、掌に貼り付けて突きだす。

 鳳几の拳と、慧の掌の間で火花が散り、光の壁がそれを遮ったが、その拮抗は一秒すら持つことはなかった。

「なんだそりゃ!? 豆腐の方がまだ歯応えがあるぞ、人間!」

「うわあぁ!」

 一息に結界が崩れる。

 勢いを殺しきれなかった拳が慧を吹き飛ばした。

 自らが宙に浮く異様な感覚と共に衝撃に備えていた慧の身体は、地面に叩きつけられる前にふわりと何かに受け止められた。

「……慧を傷つけた」

 慧を受け止めたルーヴの真紅の瞳が細まる。

 慧をゆっくりと地上に下ろしてから、瞬きするまでの間に、ルーヴの姿はもうそこにはない。

 紅くくすんだ色の剣を持って、鳳几に上段から斬りかかっていた。

「おっ!」

 無造作な一撃が、空気を切り裂いて鳳几に迫る。

 鳳几は片腕を上げて、それを防いだ。

 金属がぶつかるような硬質の音がして、その衝撃波が辺りに飛び散り、離れたところにいる慧と雪嘉の髪を揺らす。

「いるじゃないか、強そうなのがさぁ!」

「……知らない」

「アンタ名前はなんてんだ?」

 鳳几の拳が剣にぶつかる。

「ルーヴ」

「聞いたことのない名前だ。こっちの奴じゃないか? ってことは大陸の奴だろうけど、んー……判んないなぁ」

 ルーヴの横薙ぎを受け止めて、返す拳で応戦する。

 それが肩口を掠めてもルーヴは止まる気配もなく、攻勢に出る。

 お互いに回避を必要最小限だけとした、至近距離の殴り合いが始まっていた。

「まあいいや! 強い奴と戦えるなら大歓迎だ! わざわざアタシが出てきた甲斐もあるってもんだ! この獲物は誰にも渡せない、アンタはアタシのもんだ!」

「違う。わたしは慧の」

「ハハッ! 奪ってやるよ、それでこそ悪鬼羅刹ってもんさ!」

 超至近距離の差し合いは、とてもではないが慧が介入できるものではない。

「アレはアンタが召喚したんでしょ? 手伝わなくていいの!?」

 もし生半可な実力で戦いに割り込もうものならば、巻き込まれて簡単に命を失うだろう。

「……手伝えるもんなら、とっくにやってるよ」

 火花が散り、空気が弾け、幾重もの攻撃が交差する。

 それは、既に人には立ち入れない領域の戦いだった。

 距離を取った鳳几が大地を強く踏みしめる。

 アスファルトが砕け、粘土細工のように捲れ上がり、鳳几はそれを掴むと、無造作にルーヴの方に向けて放り投げる。

 ルーヴは表情一つ変えることなくそれを剣で斬り払い、欠片となったアスファルトが慧達の横を通り過ぎていく。

「危ない!」

 呆然とする雪嘉を自分の方に引き寄せる。

 一秒前まで彼女がいた場所を、ルーヴが切ったアスファルトの破片が通り過ぎていった。その大きさ、速度にはまだ充分な殺傷力が残っている。

「雪嘉、ここから逃げろ!」

 ルーヴは慧に被害が及ばないようには動くが、雪嘉のことは全く視界に入っていない。

 当然、鳳几は周囲の被害など知ったことではなく暴れるだろう。そうなれば、慧はともかくルーヴに護られていない雪嘉の命は危うい。

「ふざけないでよ、なんでアンタを残して……!」

「雪嘉。この戦いに君は関係ない」

 どうしてこんな言い方しかできないのか。

 ほとほと自分に嫌気がさすが、今ばかりはそれは雪嘉に対して覿面に効果があった。

 彼女は何かを言おうとして、それを堪えてから素直に慧に背を向ける。

「……慧。絶対死ぬな!」

「約束はできない」

「もうちょっと格好つけなさいよ、馬鹿」

 雪嘉が走り去る。

「充分格好いいと思うけどねぇ。我が儘な奴だこと」

 戦いを中断して、鳳几がそんな野次を入れる。

「女護って戦場に残る男。立派じゃないか、うん。アタシはそう言うの、嫌いじゃないよ」

 人懐っこい笑顔を浮かべる鬼。

 その口は段々と、三日月形に歪んでいく。

「強い弱いじゃない。戦いがいが……殺しがいがあるってもんさ」

「慧は殺させない」

 ルーヴが立ち塞がると、鳳几は溜息を一つ付いて、怠そうに視線をそちらに移す。

「お前さぁ。確かに強いよ。強いんだけどなんか違うんだよなぁ。こう、もっとさぁ、何とかならない?」

「……何が?」

「命を賭けたやり取りなんだぜ? もっと鬼気迫る勢いでさぁ、お互いに全部投げ捨てるぐらいの楽しい殺しあいがしたいじゃないか」

「……知らない」

「それだよ。その態度が気に入らない。アンタ、自分が強いって知っててやってるだろ?」

 答える代わりに、ルーヴは剣の切っ先を向けた。

 鳳几の口は笑っているが、その目には剣呑な光を帯びている。

「気に入らない。そー言うの、屈服させて、膝をつかせて、それから首をかっ切りたくなるんだ!」

 鳳几が大地を踏み鳴らすとそれに呼応するように、一度大きく地面が揺れる。

 アスファルトの一部が盛り上がり、まるで台座のようにせり上がる。

 鳳几はそれを掴み、大きく振りかぶって地面に叩きつけた。

 砕けたアスファルトの塊から顔を覗かせたのは、棘の付いた金棒。絵本にでも、絵巻にでも書かれている、鬼と言えば誰でも想像する逸品だ。

「人間ってのは基本的に弱いし、つまらない生き物だ。でも、一個だけアタシは褒めてやりたいところがある」

 金棒を振りかぶり、肩に担ぐ。

 その姿はまさに、人間を脅かし、現代にいたるまでその名を残す、鬼のもの。

「鬼に金棒ってのは良い言葉だ。これを持ったアタシが無敵だってことを、たった一言で表してる」

 鬼が僅かに首を動かし、精霊を見る。

 精霊は変わらず、表情一つ動かさずにそこに立ってた。

「さぁ、本番だよ、精霊。人の身でなく、それより尊き者でありながら人に使われる哀れな魂。アタシに見せてくれよ、単なる案山子じゃないってところをさぁ!」

 鳳几の足元が爆ぜた。

 まるでロケットが推進剤を吹かして加速を得るように、地面を割り砕く勢いで蹴った鳳几がルーヴに肉薄する。

 金棒と、剣が交差した。

「ハハッ!」

 愉快そうに、鬼が笑う。

 精霊は、表情を変えずに迎え撃つ。

 対照的な二人の打ち合いは、最初こそ互角の勢いだったが、次第に鳳几が押してくる。

「どうした精霊!」

「くっ……!」

 ルーヴの表情が歪む。

「ルーヴ! 一度下がれ!」

 無謀にも慧はポケットから符を取りだして、ルーヴを護るための結界を展開する。

 せめて一秒でも時間を稼ぎ、彼女が態勢を立て直す時間を作るために。

「人間」

 冷たい鬼の声と共に金棒が振るわれる。

 慧の張ろうとした結界など、たったその程度の動作で硝子のように砕け散って消滅していった。

「心意気は認める、アタシは嫌いじゃない。でもな」

「慧!」

 目の前に、鬼の姿。

 鳳几が踏み込んだ足が地面にめり込む。振動が衝撃波となって、辺りの大地を抉り破壊する。

 彼女の後ろに振りかぶられた金棒は、もう止まらない。

「お前は弱すぎる」

 片腕で、打ち払うように金棒が空気を裂いて唸りを上げる。

 バットで打たれた白球のように慧の身体が打ちあがり、河川敷の芝生のへと落下していく。

 衝撃を殺しきれず無様に転がるが、不思議と痛みはそれほどではなかった。

 その理由を慧はすぐ知ることになる。

「……慧…無事……?」

 すぐ耳元で聞こえる、弱々しい声。

 一瞬で慧と鳳几の元に滑り込んだルーヴが、全身を真っ赤に染めながらそう尋ねていた。

「ルーヴ、お前……!」

 慧を庇って、金棒で身体を打ち据えられたルーヴは全身から血を流し、もう立ち上がれるような状態でない。

 それでも彼女は、必死で慧の無事を確かめ、安堵していた。

「ルーヴ!」

「おぉっと」

 ドスンと、金棒が地面に突き刺さる音がすると、ようやく立ち上がった慧は、無様に態勢を崩して尻餅をついた。

 すぐ傍に、鬼が立っていた。

 半死半生となった敵を目の前にしても、全くその戦意を衰えさせることはない。

 むしろ、早くとどめを、その首を取らせろとの瞳は爛々と輝くばかり。

「格好悪いなぁ、人間」

 ポケットの中で、力一杯に符を握りしめた。

 そんなことをしても何の意味もないと判っていながら、少しでも自分を保つためにそうしていた。

 その力は、異能のもの。

 日々を暮らす人々には想像も及ばない、無形の力。

 そうして憧れて、必死で修練の果てに手に入れた力の何と頼りないことか。

「怖がるなよ、人間。一撃で楽にしてやるから……!」

 鳳几の言葉が途中で消える。

 すぐ傍で弾けるような衝撃音が響き、彼女の小さな身体は宙を舞っていた。

 その衝撃の大きさに、鳳几は思わず金棒を手放し、宙を舞ったそれが地面に落ちて、重厚な音を立てる。

 それからも不可視の攻撃は容赦なく、鳳几へと降り注ぐ。

「ちょ、まっ……!」

 腕に、足に、身体に。

 顔を上げれば頭部や顔面に。

 見えない力は一切の情け容赦なく、少女のように見える鬼の身体を撃ち抜いた。


 ▽


 河川敷に掛かる橋の上。

 車通り一つない道に伏せる影が一つ。

 二〇発の弾丸を全て打ち切り、彼が構えるスナイパーライフルのマガジンが吐き出された。

 懐を探り、次段を装填。

「リロード《インパクト・バレット》」

 手に持ったマガジンに魔力が行き渡り、その内部を変貌させる。

 普通の銃弾ではなく、マグナの魔術によって生み出された不可視の弾丸へ。

 一撃で岩をも粉砕する威力の弾丸は、既に先程の全弾が命中している。

 それでもなお、地面に倒れ伏す小鬼に向かって、マグナは次の弾丸を放った。

 スコープによって拡大された視界の中で、小さな身体が何度も弾けて、跳ね回る。

 陸に上がった魚のような無様さで動き回る間抜けな姿を見てもなお、マグナに油断はない。

「固すぎだ、化け物」

 魔力によって込められた衝撃は一撃で岩を砕き、人間に当たればその個所が粉々に吹き飛ぶ破壊力を持っている。

 対幽世の化け物のために持ってきた特注品。

 そのはずなのだが。

「まあいい。化け物の死体は欲しがる変態が山ほどいるからな。そのまま死んじまえ」

 二〇発を撃ち切る。

 計四〇の弾丸を受けてなお、化け物の身体は崩れない。

 次なる弾丸を装填すべく、懐に手を伸ばす。

 その瞬間。

 うつ伏せに倒れていた化け物の首が動いた。

 迷いなく、探るわけでもなく、ぐるりと。

 双眸は、真っ直ぐに。

 マグナを捉えていた。

「やべっ……!」

 ごぉんと、馬鹿げた音が響き、継いでりぃんと涼やかな鈴の音が鳴った。

 地震のような地鳴りと同時に、マグナが立っている橋全体に暴風が吹き荒れる。

 マグナは咄嗟にその場所から飛び退り、欄干を背にしてその場に踏ん張る。

「やぁ、人間」

 牙を剥きだしに、少女が笑う。

 つい先程まであの場所で転がっていた彼女は一切の傷もなく、マグナの正面で挑発的な笑みを浮かべていた。

「よぉ、化け物」

「なかなか面白いことをするじゃないか。矢を射ってアタシを殺そうとした輩は山ほどいたが、ついぞ一発も致命傷にならなかった」

「そりゃ残念だ。記念すべき一人目になり損ねたな」

「それ、弓じゃないじゃん」

 呆れたように鳳几が足元のスナイパーライフルを指さした。

「それじゃあルール違反だよ。鬼の身体を貫通させたいなら、神酒に一月ぐらい浸かった矢を、神木から削りだした神弓で射って、使い手が相当の腕利きから倒せると思うよ」

「生憎と神頼みばかりもしてられない状況だからな。今回ばかりはこいつで勘弁しろ、小娘」

「小娘?」

 鳳几が自らを指さし、マグナが肯定する。

「ハハハハッ! アタシを小娘かぁ。まぁこんな見た目だし仕方ない。でもそう言われたのは生まれて初めてだ。どいつもこいつも、そんな軽口を叩く前に喋れなくなっちゃうからね!」

 鬼の身体が目の前に迫る。

 マグナはスナイパーライフルを拾い上げ、砲身の部分を掴んで全力で横薙ぎに振り切った。

 肩に当てる、固定用のストックが鳳几の側頭部を撃ち抜くが、それでも彼女は止まらない。

 振りかぶった拳は一直線に、マグナの額に。

「多重結界!」

 稲妻が走る。

 予めセットしていた魔術を、ノーモーションで発動。

 鳳几の小さな拳は幾つもの結界を破壊し、硝子が割れるような音を響かせ、マグナに達する前に引かれた。

「おおう! 凄いねぇ、凄い凄い! これでも一応、全力で殴ったんだぜ」

「道理で一度に一七五枚も割れたわけだ」

 マグナの展開した結界は、一枚でも砲弾程度なら余裕で防ぎきる高度魔術。

「じゃあ次でアンタに届くわけだ!」

「もう喰らってやらん!」

 懐を漁り、そこから擲弾を取りだす。

 同時に投げた三つの擲弾が空中で破片と爆炎を撒き散らして炸裂する。

「効かないなぁ、この程度!」

 鳳几の足が地面を踏み鳴らす。

 振動が響き、現代の技術で作られたはずの鉄橋が軋む。

「正面から戦うのは柄じゃないんでな」

「だったらどうするんだよ、人間!」

「忘れたか、鬼よ! 人間がお前と戦う時はどうする? どうやって、人は鬼を打ち滅ぼした!」

「アタシ達は滅ぼされていない。少しの間、現世を預けただけさ」

「どうとでも言え」

 鎖のような何かが、背後から鳳几に絡み付く。

「あん?」

 鳳几の小さな身体は空中に釣り上げられるように引き上げられて、貼り付けにされる。

 空間が歪み、そこに姿を隠していた者達が次々と姿を現す。

 外套を着込み、手にはそれぞれの獲物を持った魔術師達が、その数凡そ二十人。

 いずれもマグナと同程度の腕と評される、アダプト級の魔術師達だ。

「野犬にしてはいい仕事をした」

「お前等魔術師はいちいち人を貶さないと生きていけないのか? ありがとうございますマグナ様下僕にしてくださいませぐらい言えんのか?」

「言えぬな」

 冗談を意に介さず、マグナの隣に現れた魔術師は杖を鳳几に向ける。

「貴様が雇い主を裏切ったと聞いたときは乱心したと思ったが、どうやらそうではないようで安心したぞ」

「簡単な話だ。俺は化け物を殺すために魔導に身を染めた。年寄りのお使いは奉仕団体でやることにした」

「変わった男だ。だが、先に宣言しておくが。あの鬼を仕留めたら精霊は我等が貰うぞ」

「好きにしろ。やれるものならな」

「召喚者を狙えばどうとでもなる」

「クッ、ハハハハハハハハハッ!」

 二人の会話を立ち割るように響く、鳳几の笑い声。

 四肢を拘束されて、最早処刑を待つ身のような姿にされながらも、彼女は愉快そうに笑った。

「――嗚呼、成程! これは合点がいった。そうだったそうだった、千年も寝てたからすっかり忘れてたよ! 人間は、こうしてつまらない、狡からいことをして、アタシ達と戦うんだっけな」

「策と言え、ガッハッハ! マグナ様が仕掛けた神算だぞ!」

「考えたのも、提案したのも我々だ」

 横の男の突っ込みは無視された。

「でもそうだな! これは嬉しいぞ、嬉しい誤算だよ人間。何処か物足りなかったんだ、歯応えがなくて、折角幽世から出てきたのにつまらないと、幻滅しかけていたんよ」

「構えろ!」

 魔術師の合図で、周囲の者達は魔力を集中させる。一触即発なその空気の中で、マグナと鳳几の二人だけは、お互いに小さな笑いを浮かべていた。

「これだよこれ! 討伐だ、戦争だ。人と鬼の最高にして至高の、遊戯の時間だ!」

 四方八方から放たれた攻撃魔術が鳳几を襲う。

 炎、雷、氷、果ては呪いの類まで。

 各々が得意とする最強の魔術で、鬼へと集中攻撃は開始された。

 その威力は凄まじく、余波だけで橋全体に罅が入り、落ちそうになっていく。

 絶えず放たれる魔術の弾幕。

 たった一匹の怪物を仕留めるのにここまでする必要があるものかと、鬼の力を知らぬ者からすれば思うだろう。

「さて。仕事は終わったから、俺は帰るぞ」

 誰にも聞こえないことが承知でそう言って、マグナは攻撃に参加することなくその場から姿を消していた。


 ▽


「小僧ー! 治癒魔術ぐらいは掛けているだろうな!」

 言いながら突然現れた魔術師は、ルーヴの傍でしゃがみこんで、手に淡い色の光を灯す慧を見て満足そうに頷いた。

 光に照らされたルーヴの傷は少しずつではあるが、確実に癒えていっている。

「でも、これじゃあ足りないかも知れない」

 治癒魔術を封じた符は、それほどの枚数を用意しているわけではない。一枚で癒せる傷も決して大きくはない。

 どうにか致命傷になっていそうな部分だけに集中させることで、効率的に回復を行っているが、それでも全快まで持っていくことはできないだろう。

 もっと強力な治癒魔術が使えれば、ルーヴの傷を一瞬で癒すこともできるのに。

 強力な魔術を操れれば、ルーヴと一緒に戦場に立って戦うこともできた。

 今の慧にできることは、こうして気休め程度の術を使うことだけ。

 それがどうしようもなく悔しくて、これまで感じてきた劣等感が慧を苛む。

「ちっ」

 マグナが舌打ちをする。

 彼の視線は幾つもの魔術が炸裂する橋の上をじっと見つめ続けていた。

 鉄橋はその支えを失い、崩れ落ちて川に大きな飛沫を立てていく。

「力が欲しいのか、小僧?」

「欲しいに決まってるだろ」

「地位でも、名誉でも、金のためでもない。なんでお前は力を欲する?」

「……そう言うんじゃないだろ、力って」

「あん?」

 懐を探って、マグナは残りの武装を確認する。

「悪い奴をやっつけるために欲しかったんだ」

 慧の手の中で、光を失った符が炭のようになって崩れ落ちる。

 ポケットから新しい一枚を取りだすと、ルーヴの傷口に翳した。

「そうすればみんなが悲しまないで済むから。俺の周りの誰かを護りたかった」

「ふんっ、子供の夢想だな。だが……っ!」

 地面が爆ぜた。

 幾つもの噴煙を上げて河川敷の芝生が、その下の土ごと捲れ上がっていく。

 身を挺して小石からルーヴを護りながら、慧はマグナの方を見る。

 その目の前には小柄な少女が、全く傷を負った様子もなく立っていた。

「戦争、なかなか楽しかったよ。でもちょっと弱すぎるな。千年前の京の陰陽師は、下っ端だってお前等よりも強かった」

 轟音。

 鉄橋が完全に崩れて落ちた。

 同時に魔術師達の張っていた結界が崩れたのか、サイレンを鳴らしながらパトカーが幾つも殺到する。

 遠くにその情景があってもなお、慧達がいる河川敷には静寂が残っていた。

「生憎と人手不足なんだよ。俺様ぐらいに強くて、物分かりのいい魔術師はそういない。力はあっても頭が足りないか、志はあっても、腕がないかだ」

「へぇ。そりゃ悪い知らせだ。じゃあアンタを殺して、そこの二人をやっちまったらしばらくは楽しめないってことだ」

「かもな。後悪い知らせはもう一つあるぞ」

「……ん?」

「死ぬのはお前だ、化け物」

 二丁拳銃が抜かれる。

「リロード《フリーズ・バレット》」

 構えた二つの拳銃から放たれた弾丸は、着弾と同時に氷の花を咲かせて、鳳几の動きを抑制していく。

「へぇ! 頑張るなぁ、お前! 誰に頼まれてるのさ?」

「別に誰にも。俺様は俺様の意思で戦っているだけだ」

 マグナは距離を取らず、接近する。

 腕と足を固定して、鳳几が動く前にその胸に拳銃の一つをゼロ距離で突きつける。

「リロード《バスター・バレット》!」

 弾丸が炸裂し、拳銃ごと炸裂する。

 鳳几の小さな身体が吹き飛ぶが、彼女は空中で上手に受け身を取ると鮮やかに地面に着地する。

「なぁ、人間」

「なんだよ?」

「逃げないのかい?」

 金棒を地面を擦るように振るう。

 たったそれだけで、削れた地面は弾丸のように石礫となってマグナに襲い掛かる。

 全身を切り裂かれるような痛みに晒されながらも、マグナは止まらない。

 残った片方の拳銃から、氷結の弾丸を放ち続ける。

「そんな子供騙しがさ!」

 例え着弾しようと、そこに氷などないかのように、鳳几は拘束を引き千切る。

「作戦は失敗なんだろ? だったら逃げて、態勢を立て直せばいいじゃないか。アンタは結構面白い人間だから、手段を変えればアタシを殺せるかも知れないよ」

「黙れ化け物。俺様に指図するな。リロード《バスター・バレット》」

 遠距離から炸裂弾を浴びせかける。

 逃げるのが得策、そんなことは百も承知だ。

 だが、そんなことをすれば後ろの二人は死ぬ。

 落ちこぼれの魔術師、力に見合わない心を持った少年。

 それを見捨てることは、マグナにはできそうになかった。

「落ちこぼれのガキが。まさかな」

 誰にも聞こえない声で吐き捨てる。

 かつて、彼と同じことを言った魔術師がいた。

 少年には才能があった。魔術師として、若くして注目されるに足るだけの才が。

 その力を誰かのために役立てると、力なき者のために振るわれる才だと信じ続けていた。

 現実は違う。

 彼を必要としていたのは、利権や研究に憑りつかれた最高位の魔術師達。

 徒党を組み、騙し合い、互いに殺しあう醜い人間達だった。

 だから一人になった。

 才能を生かせる場などない。野犬として生きてきた。 

 地位などいらない。

 名誉も必要ない。

 では何故、魔術を学び続けたのか。

 力という刃を磨ぎ、今日まで研鑽を重ねた。

 その理由は――。

 胸倉を掴まれる。

 マグナの世界が派手に回転する。

「鬼を舐めるなよ、食い物風情が」

「ガハハッ!」

 マグナは笑った。

 ぐるりと一周する視界の端で、小僧を捉えたから。

 引き倒された身体の腹を踏みつけ、鬼が見下ろす。

「楽しかったけど、終わりだよ」

 金棒を振りかぶる。

「人間を舐めるなよ、化け物風情が」 

「なん……!」

 最後の力を振り絞って、拳銃を握る。

「リロード……《バンカー・バスター》」

 貫通力を持った魔力の弾丸が、銃口より発射された。

 だが、鳳几は間一髪のところで、心臓を狙った銃弾を避ける。

 銃弾は彼女の肩口、丁度腕の付け根の辺りを貫いただけで、さしたるダメージを与えた様子はない。

「ハハッ、残念だったね」

「――ああ、まったく」

 今が心地よい。

 例え身体を砕かれようと。

 勝てようもない敵が目の前に立ちはだかっているとしても。

 一切のしがらみなく、自らの力を持って化け物に立ち向かえる今が。

 金棒を振り上げた鳳几の腕が、爆ぜる。

 内部からの爆発は鬼の強靭な肉体といえども耐えられるものではなく、鳳几の右腕は肩口から先を消失した。

 それを見届けて、マグナは自身の限界を悟る。

 これからどうするかなどは、当然考えてもいない。マグナはそういう男だった。

 まぁ、何とかなるだろう。まだ精霊もいるし、落ちこぼれの小僧もいる。

「……一飯の借りは返したぞ」

 そう楽観して、意識を手放した。


 ▽


「クッ、ハハハッ。こいつはしてやられた!」

 マグナの上から弾き飛ばされた鳳几が、地面に落ちた自分の右腕を拾い上げる。

「まさか鬼の片腕を取るとはね! 天晴れと言っていい大戦果だ。天狗にやっても当たってもらえない、九尾なんぞはそもそも戦う前に相手を殺してる。たったその程度のことだが、誇りに思っていい。アタシは鬼だぞ。その鬼を傷つけたんだ!」

 狂ったように笑い、称賛し、愉快そうに転げまわる。

 呆然とする慧の前で一頻り喜びをあらわにした鳳几は、急激に正気に戻ったような表情になり、持っていた右腕を川に投げ捨てた。

「魚の餌にくれてやる」

 次に彼女が関心を示したのは、唯一この場で立っている慧だった。

 ポケットの中の符を確認すると、ルーヴの回復で大半を使い果たしてしまって、残りはたったの二枚。

「さて人間。人間の坊や。アンタはどうする? そこの馬鹿と同じように、アタシにぶつかって死ぬか? それとも背を向けて、無様に逃げるか? 好きな方を選ばせてやる」

 残った左手で金棒を掴みあげながら、「もっとも逃げたところで、追わないとは言ってないけどね」と付け加えた。

 鳳几の全身から発する威圧感が、慧を圧倒する。

 例え片腕を失っていようと、数多の魔術師とマグナとの戦いで消耗していようと、彼女は慧が勝てる相手ではない。

 たった二枚の符に、どれだけの力を込めても、鬼を殺しきることなどはできもしない。

 それでも、慧は逃げなかった。

 震える足で立ち上がる。

「へぇ」

 にやりと、鬼の口角が上がる。

「立ち向かってくれるのかい。嬉しいなぁ」

 子供の頃に、自分が魔術師だと教えられた。

 学校の、クラスの誰もが持っていない力を操れるのだと知ったときは興奮した。

 テレビの中にしかいなかったヒーローに、自分もなれたのだと信じていた。

 今、例え現実が違ったとして。

 霧代慧には、そんな力がないとしても。心だけは、ヒーローでありたい。

 だから慧は立ち向かう。

 絶対に勝てないであろう相手に。

 恐怖に竦む身体を叱咤して。

「俺は弱いよ。そこのマグナって奴よりも遥かに弱いし、お前なんかと比べられるものじゃない」

 力が欲しいと、何度願ったか判らない。

 幽世の者達が攻めてくると知ってから今日まで、怯えなかった日はなかった。

 そして、今目の前にいる化け物は、慧が想像していた以上の怪物だ。

「弱いから、沢山のものが俺の手を擦り抜けていった。俺には触れられないものが沢山あるんだ」

 弱さは枷だった。

 慧が強ければ、才能があれば父を説得して母を救えたかも知れない。

 幼い頃から一緒にいた幼馴染の許嫁は、今も隣に居てくれたかも知れない。

「でも、弱くたった意地があるんだ。失いたくないから、必死になってしがみつきたいものがあるんだよ」

「いいじゃないか」

 牙が覗く。

 符を握る手は既に震えている。

 どんな魔術が使えるか、最早そんなものは慧の頭からすっかり消え失せていた。

 ただ、そこに立っているだけだ。

 たったそれだけの行動が、慧の意思とは裏腹に、目の前の鬼をどうしようもなく高揚させていく。

「弱いことは恥じゃない」

 鬼が語る。

 生まれながらに強い生き物が、生まれながらに弱い少年に向けて、そう語るのだ。

「強い奴は数えるほどしか出会ったことはないが、弱い奴なら山ほど見てきた」

 思い返すように鳳几の目は遠くを見ていた。

「大抵の奴は逃げる。馬鹿みたいに、尻餅をついて、足が動かなくても必死で手で地面を張ってさ。その姿の間抜けなこと間抜けなこと、一度見てみるといいよ。死を目の前にした人間の、どれほど醜いものかをね」

 山から下りれば、人は星の数ほどいた。

 だから思うがままに殺して、喰らった。

 それは鬼として、当然の在り方だった。

「強い奴もいた。でも誰もアタシには勝てなかった。結構腕が立つ奴でもさ、腕の一本でも千切られると途端に本性を露わにするんだ。何でもするから助けてくれとか、他の誰かの命を代償に助かろうとするような奴もいたね。アタシはそう言うのは嫌いだから、全部殺した」

 そうして思うがままに殺す間に、鳳几は自分が知らないものに出会った。

「中にはいるんだよ。弱いのに、その命乞いをした馬鹿より全然弱いのに、決して退かない奴。腕を千切っても、目玉を抉っても逃げない。必死でアタシに喰らいつくんだ」

 彼等が何故強大な鬼に立ち向かったか、鳳几は知らない。興味もないことだ。

 同じ人間ならば、同胞の敵討ち、愛する者を護るため、幾らでも理由など思いつくだろう。

「アタシは強いけど弱い奴よりも、そいういう奴等が好きだった。弱いけど、強いんだそいつらは。……今のアンタと同じ目をしてる」

 鳳几の笑みが、変わる。

 穏やかな、懐かしむようなものから、獰猛な本性を剥き出しにした、鬼そのものに。

「だからアタシはアンタの首を獲る! そうして、アンタは鬼に殺された哀れな人間じゃなくて、鬼に立ち向かった英雄になれるんだ! それ以上の誉れがあるものか!」

 振り切られた金棒を目の前に、慧は二枚重ねた符を突きだす。

 展開したのは結界。二重に張った、慧の全ての魔力を込めた防壁。

 勿論、鬼の力の前に脆弱な慧の魔術など何の役に立つこともなく。

 無残に結界が砕ける音と共に、慧の身体が宙を舞う。

 ――まるで時間が止まったようだ。

 全身が痛い。ずきずきと響くような苦痛が身体の奥から湧き上がってくる。

 身体の一片たりとも動かないから、今自分がどうなっているのかを見ないで済むのは救いだったかも知れない。

 ひょっとしたら何処か千切れているんじゃないかと、そんな不安が頭を過ぎる。

 もっとも、このままならどちらにせよ殺されるから変わらないが。

「慧!」

 長いようで短かった時間が終わる。

 すぐ傍に人の気配がして、慧はどうにか意識を手放さずに済んだ。。

 仰向けに倒れた頭の横に屈みこみ、ルーヴが慧の手を握っている。

 その感触が、辛うじて慧のことをこの世界に繋ぎ止めてくれているのかも知れない。

「やっぱり駄目だったか。俺、格好悪いな」

「……慧……」

 ぎゅっと強く手が握られる。

 霞む少女の顔は、哀しみと後悔に歪んでいる。

「でも、勝てなくても逃げられないよな。後ろにお前がいるんだからさ。そんなの、ヒーローじゃないよ」

 ずっと憧れていた。

 だから力が欲しかった。

「慧は、そのヒーローになりたいの?」

「……判んない」

 何かを背負う覚悟なんてない。

 それでも、一つだけ確かに言えることがある。

「でもお前ぐらいは護りたかった。だって俺の身勝手で呼び出したんだからさ」

「……慧」

 ルーヴは慧の手を持ち上げて、自らの胸に当てる。

 小さな、それでも確かな鼓動が伝わってくる。

「わたしも一つ判った」

 もう答える気力もなかった。ただ目を閉じて、彼女の言葉に耳を傾け続ける。

 掠れたような声が、夜の闇に溶けるように、心地よく耳へと届く。

「わたしは慧の望みを叶えたい。だから、慧もわたしの望みを叶えて」

「……望み?」

「わたしと一緒にいて。何があっても手を離さないで」

 ――なんだ、そんなことでいいのか。

 言葉にする代わりに、小さく頷く。

 落ちこぼれで、ろくな力のない慧がヒーローになることに比べれば、小さすぎる望みだ。

「じゃあ、ちょっと頑張ってくる」

 気配が遠ざかる。

 呼び止めることも、励ますこともできそうにはない。

 ただ、彼女が去る寸前、唇に柔らかい感触があって、それから胸の中からぐっと、暖かな何かが沸き上がっていた。


 ▽


 ゆっくりと立ち上がってこちらに向かってくる少女を前に、鳳几はこれまでにない昂ぶりを隠すこともできそうになかった。

 その目には光が宿り、口元は固く結ばれ、手に持った剣はくすんだ色ではなく、血のような深紅に輝いている。

「今生の別れは済んだかい?」

「慧は死なない」

「……んー、まぁ。見たところ、そんな感じだけどさ」

 倒れている少年の身体からは淡い光が漏れだしている。

 それが癒しの輝きであることは、術に詳しくはない鳳几でも理解できる。

「でもアンタが死ねば、アタシはあいつの首を獲るよ。久々の魅力的な得物なんだからね」

「……大丈夫。わたしは負けない」

「ハッ、言ってくれるじゃないか!」

 横薙ぎに振るった金棒が、緋色の剣に止められる。

 強大な力がぶつかりあった衝撃が空気を伝い、大地を震わせる。

 だが、鳳几がどれほど力を込めようと、その剣が動くことはなかった。

「さっきまでとは全然違うじゃないか……。まさか手加減してたってわけじゃないだろ?」

 ルーヴは頷き、鳳几を弾き飛ばす。

 空中で一回転して着地すると、真上に空から鳳几を狙う彼女の姿があった。

「っとぉ!」

 その場から即座に飛び退り、上から突き立てられる剣を回避。

 ルーヴの勢いは留まることなく、剣と金棒がぶつかりあい、幾度も火花を散らし、その度に世界が震えていく。

「手加減はしてない。わたしが強くなった。多分」

「強くなった!? 今までの戦いで、何をどう強くなる要素があったってんだよ!」

「慧と心が通じたから」

 二人の身体が離れる。

 再度、鳳几は鬼の踏み込みを試みた。

 大地が爆ぜ、圧倒的な加速で相手の眼前に迫る。

「冗談じゃない! 愛の力で強くなったってのか!」

 剣を構え、ルーヴはそれを迎撃する。

 まるでミサイルのような勢いで突き立った鳳几の金棒は、しかしルーヴの剣による防御を突き崩すことはできなかった。

「くっ、ははっ! 規格外な奴!」

 愉快だ。

 楽しい。

 嬉しい。

 これほどまでに心が歓喜に満たされるのは、何年ぶりのことだろうか。

「わたしは精霊だから。お前達とは違う」

「ああ、成程。神様の方ってことか。どうりで」

 いけ好かない。

 どれだけ地上にある者達が足掻こうと、その遥か高みで見物している、鳳几の嫌いな連中だ。

 だから幽世の住人は暴れて、壊して、天に唾を吐きかけるのだ。

 忌まわしい神々が、弱いという理由だけで寵愛する人間達の信仰を、完膚なきまでに消し去るために。

 刃と凶器が弾けた。

 仰け反りそうになる身体を強制的に立て直して、金棒を正面に放り投げる。

「……っで、どうだ!」

 剣に弾かれて、金棒は天高く舞い上がる。

 その隙を突いて、鳳几はルーヴの目の前に立っていた。

「おらああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 拳が彼女の腹に、胸に、顔面に突き刺さる。

「くっ……! わたしは、負けない」

 この神域にある正真正銘の怪物を倒すのは、地上で足掻く、所詮は人が定めた怪物の力では、全く届かない。

 失った片腕があればまだ、違う勝負ができただろう。

「でもなぁ、アタシに悔いはない! 罠にはめられ、囲まれて、挙句に腕を千切られて、それでいい、それでこそ戦いだ!」

 千年待ったのだ。

 その最初の、先兵としての仕事がこれほどまでの強敵との戦いならば、何も文句はない。

 鳳几の拳が額に突き刺さる。

 踏み込みの深さが足りない。

「さぁ、精霊! 勝負の決着を付けようじゃないか!」

 気持ちが昂る、もう止められない。例えその先に待っているのが死だとしても。

 天狗は逃げかえる。

 九尾はそもそも戦わない。

 だが、鬼は挑むのだ。

 それが矜持であり、鬼として鳳几が決めた在り方だから。

 拳を振り抜いた。

 ルーヴの身体が仰け反るが、致命傷ではない。

 彼女はすぐに態勢を立て直し、未だ攻撃の姿勢から戻れない鳳几に向けて、その緋色の刃を振るった。

「――あーあ、アタシの負けか」

 剣が首に食い込む。

 真っ直ぐに、迷いなき太刀筋は、思わず見惚れてしまいそうなほどに美しい。

「それにしても、いい夜だ」

 幽世の結界が破壊された影響か、夜の闇はより深く。

 それに伴って、偶然にも彼女が背負う月もまた、これまでよりも大きく美しい。

「お見事! あの人間にも伝えといてくれよ。……悔しいが、あんたらの勝ちだってね」

 少女の胴体と首が離れる。

 ごろりと落ちていくその表情は、今しがた殺されたとはとても思えないほどに、愉快そうに笑っていた。


                  了

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