第一章 はるかなる故郷
その1-1 これは現実、これが現実
「……動いたんです」
戸惑うように唇を噛み、床へと落としていた視線を元へと戻すと、
窓から差し込む
思わず見惚れてしまう程整った顔立ちの少女だった。
ややウェーブのかかったセミロングヘアーに包まれた、逆卵形の輪郭の中にある、細い眉、高い鼻、薄い唇に大きな瞳。
そしてホワイトアイボリーとブラックのチェックスカートに、白のカッターシャツ――所謂、彼女が通う高校の制服から覗く手足は色白ですらりと長く、同年代の少女と比較しても日本人離れした体型の持ち主であることが見て取れる。
動いた――
その大人びた容姿故に、周りの男子生徒からは敬意を持って『
「……動いた――とは?」
はたして、彼女の言葉を受けてその人物は尋ね返していた。
少女と同じ高校のブレザーを着た中肉中背の青年である。
細い眉に、ぱっちりした女性のような二重の目と、高いとは言い難いが形の良い鼻。
顔の
そう、あくまで上半分だけを見ればだが。
残念ながら顔の下半分、即ち彼のその口の周りから顎にかけて見えたのは、青々としたヒゲの剃り跡であった。
そうでなくともそれなりにくっきりとした顔立ちである彼は、若干伸びかけたその青ヒゲによってさらに拍車をかけられ、濃厚熟成とんかつソースばりに顔の濃さが強調されてしまっていたのであった。
そんな濃い顔の青年――
そして近くにあった椅子に腰かけ少女に先を促した。だが少女の少女の意図が読めず、未だ彼の表情は曇ったままだ。
いざ切り出したものの、少女は先を続けるのを躊躇っているようだった。
しばしの沈黙。
外の広場から、子供達の遊び声が聞こえてくる。
二人が今いる場所は、集会所として使われている一室だ。
年季の入ったログハウスのその一室は、入口から向かって縦に長く、中央に置かれた、一本の木から起こしたのであろう武骨なテーブルは、裕に十数人が座ることができる程の立派なものだった。
「正確には
そのテーブルに腰を掛けて、足をプラプラとさせていた少女はようやくもって口を開く。
「だから、なにが動き出したというのだ?」
「その……宿屋のロビーにあった『机』や『椅子』が……」
「……君が奏でた音色にのって?」
「はい。それと『箒』も……道具が
馬鹿げた話だ。自分で言っていて今でも信じられない――
だが事実だ。少女は薄い唇の端に自嘲の笑みを添える。
ただただ、彼女は興味本位で愛用の楽器を奏でいただけだった。
はたしてその曲は、今度の卒演(卒業演奏会)で演奏予定であった前座曲、ポール=デュカス作曲『魔法使いの弟子』――
だが彼女が奏でたファゴットの音色にのって、それはまるで踊るようにぴょんぴょんと跳ねながら動き出したのだ。
箒や椅子、桶に花瓶に食器、ついにはテーブルまで。例えるならそう、
一笑に付しておかしくないはずのその報告を受け、だが青年はやにわに俯きながら大真面目に唸り声をあげていた。
法螺話にしても笑えない。もし本気で言っているのならば、是非一度精神科での診察をお勧めする――と、徹底的な理論主義である普段の青年ならば、そう皮肉めいた言葉を返していただろう。
だが今は違う。
断言できぬ事象が起こりつつあるこの時、この場所では、
加えて目の前の少女が、TPOもわきまえず、嘘や冗談を言う類の人物ではないことを彼はよく知っている。
「――他に変わった様子はなかったか?」
「他にですか?」
「例えばそうだな……楽器や君の身体はどうだった?」
「ファゴットが光って……それが徐々に強くなっていきました」
「他には?」
「そうですね……凄くいい音で楽器が鳴り始めました。同時になんかこう、力が抜けていくような感覚に襲われて――」
「力が抜ける?」
徐に顔をあげ、青年は鸚鵡返しに尋ねる。
独白するように床を見つめ話していた少女は、顔にかかった髪を右耳にかけ直し、コクンと頷いてみせる。
「まるで楽器に生気を吸い取られるようなそんな感覚でした。それで恐くなって演奏を止めたんです」
「なるほど……それで、その後は?」
「光が止んで……道具もピタリと動きを止めました」
その場にぱたりと倒れた箒を少女はしばらくの間、目を皿のようにして凝視していた。
だが徐々に込みあげてきた恐怖によって、彼女は即座にその場を去っていたのだ。
以上がつい先刻、起こったことの全て。
報告を終えて小さな吐息を漏らすと、少女は見解を求めて青年の様子を窺う。
はたして青年は腕を組み、顎に手を当てながら、少女の報告に対しての仮説を脳内で組み立て始めた。
「――
「はい」
「そして君がファゴットで演奏したのは『魔法使いの弟子』で、今度は
「そうです……」
「そうか――」
なるほど、確かに自分で言っていて脳みそは正常か?――と、疑いたくなるほど『ありえない』出来事だ。
今一度確認するように尋ねてから、青年は頷いて見せる。
「会長、何かわかりませんか? 一体何が起こっているんでしょうか?」
明らかに常識では考えられない現象が起きている――途方に暮れたようにまたもや溜息をつき、少女はその端正な顔をより剣呑なものに変えながら、思わずスカートの端を握りしめていた。
彼女が不安になるのも無理はない。だが妄想でも幻覚でもなく、確かに起きた『現実』なのだ。まさに事実は小説より奇なりだな――長考の末、青年はこめかみを指でトントンと叩き、やがて少女を向き直った。
「いくつか原因として考えられるものはある」
「それは一体?」
「例えば……そうだな、
『こいつ』――
青年はそう言いながら、テーブルの上に置かれていた直径六十センチ程の球体を親指で指す。
つい先ほど青年の手によって仮の修理が完了したばかりのその銀色をした球体は、煤だらけの体表を、窓から差し込む夕陽によって鈍く光らせていた。
青年の視線を追ってその球体を複雑な表情で眺めた後、少女は細い眉をハの字に顰める。
「この球体が遠因――?」
「いや訂正する。やはりなんともいえないな……現時点では情報が少なすぎるし、仮説の範疇を飛び出していない」
「……そうですか」
彼なら何かわかるかもしれない――
そう思って打ち明けた少女は、無念そうに肩を落としていた。
「一人で思い悩むのはやめておけ日笠君。別に楽器を吹かなければ良いことだろう?」
「……そうですね」
「しかし、実に興味深い話だった。私もできる限り調べてみることにするよ」
「よろしくお願いします」
少女は青年に向かって目礼するとテーブルから身を降ろした。そして右手に付けていた腕時計に目を落として時刻を確認すると、外へと続く扉をちらりと眺める。
そろそろ宿屋に戻らなければ、演奏の途中で倒れてしまったあの子が心配だ――
「ありがとうございました会長。それじゃ私、戻りますね」
「今日は早めに休むようにな。明日、出発するのだろう?」
「はい、なっちゃんの様子を見てになると思いますけど。ところで、会長はこの後どうするんです?」
「私はもうしばらくここにいることにするよ。引き続きこいつの修理もしたいし、それにぺぺ爺さんに借りた本も読んでみたい」
――と、彼はテーブルの上に積まれていた幾冊かの本の表紙をポンと叩いてみせる。
地理、歴史、生物等――この世界に関わる文献をこの家の主である老人に頼み、借りてきていたのだ。
わかりました、と微笑んで少女は踵を返した。
ややもって扉の閉まる音が聞こえると、一人部屋に残された青年はやにわに椅子から立ち上がる。
そして腰の後ろで手を組みながらゆっくりと窓辺に歩み寄り、黄昏に染まる外の様子を眺めた。
そこには牧歌的な光景が広がっていた。
点在する家々は木と藁葺屋根でできたこじんまりとしたものばかり。
そこは通い慣れた学校でもなく、はたまた住み慣れた街でもなく。
まさに御伽噺やゲームの中に出てくるような、中世の『村』だった――
我々は受入れ。
我々は動かねばならない。
元の世界へと戻るために――
「光る楽器に踊る箒――ね……まるで魔法の世界だ。『運命』は、我々に魔王退治でもさせるつもりかコノヤロー……」
双眸を細め、彼は自嘲気味に呟いた。
楽器の巻き起こした不思議な現象――頭の中では朧気ながら一つの仮説が完成しつつある。
踵を返してテーブルへと歩み寄り、彼は銀色の球体のボディを静かに撫でた。
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