子雀の行方
真夜中 緒
第1話 むらさきのゆかり
誰かが縁子を見ている。
うかがうように、慈しむように。
それでいて舌なめずりして狙うように。
縁子の脳裏に古い光景が結ぶ。巣から落ちた雀の子と、それを狙っていた黒い猫。
「あっちへ行って。」
猫と子雀の間に割り込んだ縁子は、手にした枝を振り回して猫を撃退した。
そっとすくい上げた子雀が本当に小さくて、温かかったのを覚えている。遊び相手の犬君が下女に飼い方を聞いてきて、縁子と一緒に世話をしてくれた。
ふわふわの羽根の生えた子雀は、本当に縁子に懐いていたのに、ある日いなくなってしまった。犬君が世話をしているときに逃してしまったのだという。
あの子雀は、結局どこに行ったのだろう。
六条院の華やかさには欠けるけれど、二条院の落ち着いた佇まいが縁子は好きだった。実家を持たない縁子にとっては、この邸こそが帰る場所だ。北山の祖母の家から攫うように連れ出されてから、長い間ここが縁子の家だった。
もう、自分は長くはない。
縁子はその自覚を持って、自分の生命を見つめている。削りとられやせ細った縁子の生命は、風に揺らめく炎のような、ひどく頼りないものになってしまった。
出家を願ってはいたけれど、それも果たせそうにはない。
縁子は、縁子自身のものではないのだ。
縁子を攫い、育てた縁子の背の君。彼こそが縁子の所有者だ。
縁子は彼に育てられ、導かれて生きてきた。
何を好み、何を厭うか。
傷つく事も、悲しむ事も、喜ぶ事も。
全ては彼によって、そして彼の為に。
「今日は顔色がいいようだ。」
脇息にもたれて庭を見ていると、御簾を上げて彼がやって来た。
彼、縁子の背の君にして所有者。
いや、今では源氏の院と言う方が正しいのだろう。一度は臣下に下った身でありながら、今や彼は太上天皇の尊位を贈られた、皇族であるのだから。
「院。」
光に太上天皇の御位の贈られたとき、縁子は進んで光を呼ぶ名を「院」に改めた。稀に見る「天孫の光」の持ち主でありながら、後ろ盾なきが故に立坊どころか親王宣下さえ果たせなかった光にとって、その名で呼ばれることがどれ程に喜ばしいことであるのかを理解していたからだ。
美しい見た目と神々しい力故に見逃されがちではあるが、光は決して権力や権威に無欲な人間ではない。幼い頃からずっとそば近くに仕えてきた縁子は、誰よりもその事をわかっていた。
「もう少し病状が落ち着いたら、どこか物詣にでも行こうか。あなたの身体さえ大丈夫なら少し遠くでもいい。」
縁子はふわりと微笑む。
光は決して縁子を手放さない。
たとえそれが「死」という名の別離でも、光は縁子を手放すまいと足掻くだろう。
離れてみたいと縁子は思う。
離れれば、恋しくて気遣わしくて、たまらないだろうとわかってはいても。
可哀想なあなた。
可哀想なわたし。
縁子は抱き寄せてくる光の胸にそっと身を寄せた。
縁子は親王の父が通いどころにしていた母に産ませた娘だ。幼い頃に母を亡くし、母方の祖母のもとで育った。すでに出家の身であった祖母は北山に庵を結んでおり、そこが縁子の覚えている一番古い住処だ。
尼僧の侘住まいであるそこは決して広くはなく、家の囲いも檜垣の簡単なものだったが、明るい気持ちの良い家ではあった。
その頃の縁子はけっこうなお転婆で、猫と渡り合って子雀を救ったようなことさえある。近隣にも出家の庵が多く、僧や尼僧の多い北山の地でそれでも縁子は伸びやかに育っていた。
縁子の生活に影がさしたのは祖母が寝付いてからだ。年寄りらしい不調はあっても、大病もせずにきた祖母が、急に寝付くようになった。あれは、光が縁子の前に現れて、それほどたたない頃からではなかったか。
生命というものがこぼれ落ちていこうとする時、人にはどうすることも出来ないのだということを、縁子は学んだ。
祖母の死後、縁子が光に引き取られるまでの事情は大人になってから知った。
幼い孫娘への求婚に、祖母が戸惑っていたこと。
祖母亡き後の縁子の処遇に父が煮えきらなかったこと。
血の繋がった父よりもよほど熱心に、光が様子を見に来ていたこと。
縁子もまた、光に懐いていた。
なぜ、懐かずにいられるだろう。祖母亡き後浮足立った周囲の大人の中で、光だけが揺らぐことなくまっすぐ縁子を見つめていたのに。
それに光にはなんとも言えない慕わしい輝きがあって、それも縁子をひきつけた。それこそが天孫の血に宿る力だと知ったのはずいぶん後になってからだ。
結局光は、乳母や遊び相手の犬君と一緒に、縁子を二条院へと連れ去った。
二条院で縁子は「むらさきのゆかりの君」と呼ばれることになった。縁子の名も光が選んだものだから、おそらくそこから来たのだろう。
一体何の、誰のゆかりなのか。
そんな事に疑問を感じることもなく、縁子は二条院での暮らしに馴染んだ。
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