第233話 鍵は開かれた

カフェのテーブルの上には半分飲み残されたコーヒーカップと空になったクロック・マダムの皿が二つ。


1975年初夏


東ドイツの諜報員、マティオ・クラウゼはつい40分前に再会した娘イリスと孫娘アガーテとベビーシッターのアマーリエが去った後のテーブルをぼんやり見つめていた。


愛する我が娘、イリス。


先程私がお前にしてしまった事は強引が過ぎたかもしれない。


お前は私を恨むかもしれない。


だけれど、


お前とアガーテを守るためには仕方のないことだったんだ。


私がお前の夫、チャン・ハオユウの正体全てを伝えたらお前は激しく「違う!あの人はそんな人じゃない!」と激昂したね。


イリス


お前が国を出て音楽の道で努力し、楽団の奏者として活躍してきた事を父さんは誇りに思う。


だけどお前が出会って結ばれた男はこの世にいてはいけない存在なんだよ。


イリス


お前とアガーテを守るために私は国を捨て組織を裏切り、単身で標的の元へ向かう。


最後に


孫娘アガーテを抱かせてくれてありがとう。アガーテの頬の温もりから伝わってきた血脈という私が生きていた証。


それを実感した私は最高に幸せなんだ。


人生これで何も思い残す事はない。


マティオは呼び出したギャルソンににランチの料金とチップを渡してから席を立ち、パリ10区の石畳の上を歩き出した。


この日の午後5時。


拠点の香港からパリ7区の高級住宅に帰宅した実業家、チャン・ハオユウはいつもの妻子の出迎えが無い事に怪訝な顔をし、


もしかして育児で疲れて休んでいるのかな?と思いながら


いつもヴィオラを弾いている妻の私室に入り、電灯を付けるとソファの上にある筈のヴィオラケースが無くなっている事に気付いた。


「イリス?…アガーテ⁉︎」


狼狽したハオユウが室内に踏み込んだ瞬間、クローゼットの隙間からぷしゅっ!とサイレンサーが鳴り一発の銃弾がハオユウの左胸に当たりぱっと鮮血が散った。


悲鳴を上げる暇もなく壁にもたれる形で倒れたハオユウを見てから


うむ、手応えあり。


とクローゼットから出てきたのは…イリスの父、マティオ本人であった。


東ベルリンの郵便配達人、マティオ・クラウゼの本当の顔は東ドイツの諜報組織シュタージの「当局にとって邪魔な人間の処刑」を遂行する役割でいわゆるヒットマンである。


一撃必殺、心臓命中に後腐れ無し。


がマティオの処刑のやり方であり彼の狙撃能力はシュタージNo1を誇る。


そして「標的」ハオユウの死亡を確認するためマティオが彼の前に屈み、頸動脈に手を触れようとした時、死体の目がくわっ!と開き、


「ばかめ」


とにたりと笑ったハオユウが左手を挙げた瞬間、マティオの左半身は心臓を残して四散した。


だがその直前にマティオはハオユウの右腹部に銃弾を撃ち込み、ハオユウの顔が苦痛で歪んだ。


ぐ…と腹を押さえながらもハオユウはマティオの手の拳銃を取り上げ、残りの銃弾を引き抜いて床にばら撒く。


「心臓を撃っても死なないのは何でだ?とうろたえているね?教えてあげよう」


とハオユウはシャツの胸をはだけて中にある防弾チョッキを指し示してみせた。


「中に豚の血のパックが仕込んである。


狙撃手を怯ませるのに有効なんだ…しかし装甲の隙間を狙って内臓を撃つとは老人、やるな。


…ははあん、お前シュタージの殺し屋か」


右半身だけになったマティオはあと2、3分で自分は死ぬな。と自覚しながらも深い緑色の目で相手を見つめ、最後の力でハオユウに思念を送った。


(愚かなのはお前の方だ。


貧困層の若者から臓器を取り出し富裕層に移植手術する事で巨万の富を得たアジアの闇、ハオユウよ。


まさかお前が娘婿で私と同種族だったとはな…)


マティオに思念を送られたハオユウは


こいつがイリスの父親で同じ観音族の能力持ちだと⁉︎


と知るや否や顔から色を無くし「妻と娘を何処にやった⁉︎答えろ!」と詰め寄ったが時既に遅く、


(『大事なもの』は既にお前の手の届かない所に送った。すまない、イリス…)


と痛みも苦しみも感じないままマティオの緑色の瞳の中の瞳孔は散大し、そのままこと切れた。


臓腑を引きちぎられそうな苦痛も忘れて


「教えろ、教えろじじいめ!私からまた家族を奪う気か!!」


と舅の骸を揺さぶるも腹から血が流れ気が遠くなる。


これはあと15分以内に処置をしないと、死ぬな。


ぬかったな、このハオユウさまが…


と観念した時、自分の左右に人の気配を感じた。


観音族形態の部下2人がハオユウのただならぬ事態を察知して瞬間移動で来てくれたのだ。


女医である片腕の部下、蔡梓晴さいしょうせいが


「ボス、喋らないで下さい。今止血処置をします」


と輸血と手かざしの両方で応急処置を始め、左側から彼の秘書で気功師でもある麻星宇ましんゆうがハオユウの体を一瞬で透視し、


「すぐに外科手術が必要です。安全な所まで運びます」


と言い、ハオユウの手を取って直ちに瞬間移動した。


次にハオユウが目覚めたのは病院の集中治療室だった。ぴっ、ぴっ、ぴっ…と心電図のモニターが耳元で鳴っている。


「ボス、お目覚めになりましたか」


と梓晴が瞳を輝かせてハオユウの顔を覗き込む。


「私は何日眠っていた?」


「7日間です。肝臓の弾を取り出しました。処置はパーフェクトです」


と梓晴は答え、さらに星宇の気功で治癒力を上げあと一週間以内で回復する。と告げられた。


そうか、と枕の上で鷹揚に頷いたハオユウは星宇を呼び出し、ここ一週間の事件を扱った新聞全て持って来させた。


「東ドイツスパイの惨殺事件。消えた香港人実業家。…そしてイリスの亡命か。パリは大騒ぎだな」


「…申し訳もございません、あの時はボスの処置で精一杯でした」


「梓晴」

「は」

「記事を総括すると私は東ドイツのスパイに殺された事になっているようだ。


落ち着いたら私の顔と指紋の整形をやってくれないか?」


「それは結構でございますが…全くの別人としてやり直すおつもりで?」


「ああ、妻子を奪った舅を手に掛けた私は一度死んだも同然。


そうだ、この際名前も変えよう…


蔡玄淵という名はどうだい?」


と傍らの若い部下の手を取った。


尊敬する上司に急に手を取られた若い女医が「蔡の姓を名乗るということは…あのつまり…」と照れながら尋ねると、


「ああ、書類上のことだが私と夫婦になってくれないか?」


とどんな女性でも蕩かしそうな魅力的な笑顔を向けた。


こうして張浩宇チャンハオユウ改め蔡玄淵の二度目の妻になった梓晴は9年後、彼との間に娘、紫芳しほうをもうけることとなる。




…私の腕の中の何もないところから愛用のヴィオラがケースごと出現したのは、既にスイス行きの列車の座席に座っている時でした。


向かいの席には娘を抱いたアマーリエ。


「フラウ、気がつかれましたか?」


とアマーリエが心配そうに私の顔を覗き込んだ時私は正気を取り戻しました。


あのカフェで父から夫の正体を聞かされて激しく否定し、「イリス、聞くんだ」と再び父と目を合わせた後の記憶が定かではなく、ぼんやりとした状態でアマーリエに付いてここまで来てしまった。と言った感じでした。


(貴女が取りに帰る!と言い張ったそのヴィオラはマティオが最後の力で飛ばしたものなのですよ)


(最後の力?まさかお父さんは…)


(ええ、ハオユウを狙って返り討ちに合ったようです。


フラウ。今の貴女には出来ます。マティオの最期の想いを楽器から読み取ってみて)


そこで私たちが心で会話出来ている事に気づきました。


私は元々精霊族の血を引く特殊能力者で生まれつきの力を幼い頃私の将来を案じた父によって封印され、 


あのカフェで再会した父によって再び封印を解かれてしまったのです。


最初の心でのやり取りでアマーリエも実は父の部下で東側のやり方に嫌気が差し、私と娘を守り一緒にスイスに亡命するよう父から頼まれていた祖国のスパイだった事が解ったのです。



アマーリエの言う通りケースから愛用ヴィオラを出して抱きしめ、この楽器に込められた父の最期の思念を読み取りました。


管理人に変装してパリの自宅に侵入し、私の部屋のクローゼットに潜んで夫の胸を打ち抜き、近づいたところで左側の視界が欠ける光景。


夫が父に向けた凶悪な笑み。そして腹に銃弾を受ける夫の体が揺らぐ処まで「まるで自分が見ているかのように」父と夫の殺し合いと最後に交わした言葉を観させられました。


そして最後の父の思念。


愛する我が娘、イリス。


お前と孫娘をハオユウから逃すために強引な精神操作をかけてしまった私を許してくれ。


願わくばお前とアガーテが安寧な人生を送れるように…


そこで思念は途切れ、私は父の死を実感しました。


夫が私の父を殺してしまった。その事実に耐えられず打ちのめされた私はアマーリエに支えられながらも一旦列車を降りてタクシーに乗り換え西ベルリンのとある瀟酒な建物に連れて行かれました。


ヘルガという白髪の初老の穏やかな女性が私たち親子を迎えてくれ、


「初めまして、フラウ。ここは特殊能力を秘めた子供を預かる施設です。


アマーリエから聞きました。あなたの娘さんは大きくなったら精霊族形態になる可能性があります。


12、3才になるまで世間から隠して見極めて育てなけれはまなりません。…そうです。


いま貴女に大変辛い決断を迫っています。


アガーテの名を変えてこれから十年、私達に預けてくれませんか?」


と施設の園長ヘルガはアマーリエに渡された精巧な偽造書類に目を通し、


「貴女は列車でチューリヒにまで行き亡命する。アガーテは今からクリスタと名を変え10年間私達が育てる。


これで国も組織も裏切って命まで捨てて貴女を守りたかったお父様、マティオの計画が完遂されるのです」


そうすれば私たちの親子の安全は保障される。


辛い選択だけれど娘を一旦手放すのだ。


精神操作、という父の呪いは今抱いている娘をヘルガに引き渡す事で解かれるのを承知で私は心では嫌がっていても行動ではすんなり彼女に娘を手渡していました。


そうです。


私は父の精神操作により自ら娘を手放してしまったのです。


特殊能力に目覚めたばかりの精神的に不安定な私にアガーテの育児は無理。


という結社、正プラトンの嘆きのマスターの判断でした。


そのままアマーリエに連れられて再び鉄道に乗り、私達はチューリヒまで辿り着いて正プラトンの嘆きの協力で亡命を果たすことが出来ました。


「…これが私の人生と娘クリスタを手放した経緯よ。


本当は手放したくなかった。だけどそうするしかなかった」


三人の日本人客の前でイリスは涙ぐみ、話してしまった過去に潰されそうになるのを耐えるかのように頭を抱えた。


「…ファーター(お父さん)!ファーター!ファーター!クリスタ!!!」


突然イリスがそう叫んだ途端三人は脳をシェイクされそうな振動と電撃に襲われ悟ときららは鼻血を噴いて昏倒してまった。


今解った!


フラウが長年厳重に軟禁されているのは彼女の持つ能力が強力かつ制御不能だからだ、と。


ひとり耐えていた聡介はフラウを止めなければ!

このままじゃ勝沼ときららちゃんが死んでしまう!


と判断し当身を喰わらそうと素早くフラウの懐に飛び込もうとした。が、その瞬間、


「彼女は観音族の王家プライムの血を引く重要人物です!ヘル野上!」


と食パンを咥えたまま2人の間に割って入って来たのは観音族形態のアレクシスで、


「そーすけ!危ない!」


と聡介のトレーナーの右胸のポケットから黒髪16才の少年天使ルシフェルが飛び出してきて、


パンを咥えたアレクシスとルシフェルが額ごっつんこして互いに「痛てっ!」と叫んだ。


黒い羽根を全開させたルシフェルのひと睨みでイリスは昏倒し、彼女の力の暴発は治まった、が、勝沼ときららちゃんは⁉︎


「大丈夫です。お二人をスキャンしましたが命に別状はありません。しかしすぐに医療処置すべきです」


とアレクシスが言うと、


「それは俺が処置に当たる」


と聡介が両肩に悟ときららを担ぎ上げ、部屋を出る直前、心から気の毒な気持ちでソファで眠るフラウ・イリスを見遣った。


親を殺され、娘とも引き離され、生きている孫の葉子ちゃんにも会えず閉じ込められているだなんて。


人生閉じさせられたフラウもまた玄淵の被害者なんだよな…


「私は人を癒す力もありますので手伝いますよ、ヘル野上」


と悟を担いでくれたアレクシスに向かってルシフェルは、


「ねえアレクシス。パンを咥えて慌てて来た君と僕がおでこごっつんこした。これは運命の出会いだよ」


「…そこの黒い天使どの、貴方何を仰っているのです?」


と訝しむアレクシスと読者に向かってルシフェルは意味深な笑顔で、



「それは次回のお楽しみ」


と予告した。








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