第223話 キスアンドクライ2014
青みがかった白いリンクの中央に立つのは黒い羽根をあしらったス真っ黒な衣装のスレンダーな体つきの少女。
右手を腰に当て、自分の顔を覆うように左手の指を広げて目を閉じ、フリー演技の曲目である「白鳥の湖」が流れ始めると同時に少女は羽根を広げるように両腕を広げて滑り出す。
正確なトゥループから安定した高さのトリプルアクセルを成功させ、会場にどよめきを起こした彼女はさらに上体を柔らかく反らし後ろに上げた片脚の先を持ったまま回るビールマンスピン。
さらに審査員席の前で黒鳥左右の足を交互に組み替えてさながら黒鳥の32回転を思わせる巧みなステップを披露し、最後に再びトリプルアクセルを成功させ、曲が終わると同時に高々と上げた両手を頭上でクロスさせながら静止し、4分半の魅惑の黒鳥の演技は終わった。
机の上のパソコン画面の動画でこの演技を初めて見た聡介と琢磨は割れんばかりの拍手に笑顔で答える少女と、二人の背後で聡介の愛猫ブライアンと遊ぶきららを見比べ、
「俺フィギュアにあまり興味なかったけどこの演技は凄え…」と椅子の上で嘆息する聡介。
「つ、つまりはこの
「うんそーだべよ~」とのんびりした声できららは答えた。
「この時は人生最高の演技だった。
けれど、太りやすい体質だから体型保つための食事制限が辛くて辛くて…ほんと摂食障害寸前でメンタル最悪でした。
高校に進学したら辞めようと心に決めたきっかけの演技でもあるんですよ」
とセーターごしでも目立つ大きな両乳房の間にブライアンを抱えて屈託なく笑う彼女は当時の苦しみを人に打ち明けるまでに5年もかかったこと。
今になってようやく打ち明けることが出来たのは戦隊結成から8か月が経過し、仲間たちをようやく信頼できる友だと心が受け入れたのだろう。
今まで封印していた動画見せて良かった…と思うきららであった。
聡介の家にきららと琢磨が連れ立って遊びに来たのは1月2日の夜9時すぎ。
きららは実家の牧場の牛乳で作られた「あかつき牧場限定アイス6種類セット」が入った紙袋を掲げて「これネット予約でもすぐ売り切れちまうんだよなー、一度でもいいから食いてえなー。って野上先生言ってたからこれ持ってきた」と言って今はまだカチカチだから柔らかくなるまでリビングのテーブルに置いとこう。
その間に…と2階の聡介の部屋に上がりあらかじめ持参したDVD-Rを渡し「今なら見せてもいいかな、って」最初の夢であったフィギュアスケーターを諦めるきっかけになった演技を見てもらう事にしたのである。
「あ、そろそろアイスいい感じに溶けてんじゃね?」
と聡介が気づいて立ちあがろうとしたところを「押しかけたのはこちらですから」と琢磨ときららが連れ立ってリビングに降りて行った。
琢磨が紙袋の取っ手を持ったところできららは庭に面するサッシを開け、
「十勝の風も冷てえけど、熊本の風も冷てえなあー」と庭の草木も押し黙る中、きん、とした、冷気に向かって呟いた。
「なんだか今夜はきららさんリラックスしてますね」
「わかる?」
「だって素のきららさん方言出てるもん」
ほんと、空気が冷たいなあ、と言ってベランダの戸口に腰掛けたきららの隣に琢磨も並んで腰掛けた。
あ、なんだかいい雰囲気。
周りに誰もいなく互いがリラックスしている時に男女の性的接触第一段階、つまりキスしたくなる気持ちが起こるものである。
琢磨ときららは黙って見つめ合い、自然と唇を寄せ合いそうになったその瞬間、きららは地球で最もガードが固い女子と化した。
渾身の力を込めた掌底を琢磨の顎に向けて突き上げ、琢磨は辛うじてそれを躱した。もし琢磨が戸隠流忍者でなかったら下顎骨折を喰らったであろう物凄い力であった。
しまった…と琢磨は自分の行いを死ぬほど後悔した。きららのミサンガに搭載されている性的接触予防機能、リビドーデストロイヤーが発動したのだ!
説明しよう。
リビドーデストロイヤーとは近づいてきた相手から分泌される性行動を起こさせる男性ホルモンに反応して装着者の意識を乗っ取り護身行動を始める恐ろしい機能であり、それは「相手を完膚なきまで叩きのめすまで」止まらない。
目突き、喉仏、水月(胃)、金的とえげつないが確実に急所を狙って来るきららに対し琢磨は苦戦していた。
ど、どうしよう⁉︎この状況できららさんを傷付けずに動きを封じる方法はないのか?
きららさんの攻撃が速過ぎて野上先生に助けを呼ぶ暇も無い!
と攻撃を防ぐため打撃に耐える(その間に3箇所頬を殴られた)前腕がそろそろ痺れてきた所で耳元で不思議な笛の音が鳴り、
「うおおおっ!合意もなく事に及ぼうとするやつ皆、
と叫びながら暴れるきららをかしぃん!と三方向から刺股でグリップして止めたのは家政夫のニニギ、聡介の叔母祥子、合気柔術柳枝流副総長にして元刑事の野村操だった。
三人とも丁度敷地内道場で冬休み明けに教師に対して行う「暴漢への防犯講座」の打ち合わせをしていたのだ。
「お嬢さん!急に気が変わって嫌になったのは解るが抵抗の度が過ぎる。これでは過剰防衛になりますよ!」
と今年63という年の功で的確に状況を察する野村さんと「この子凄い力!疲れてきたわ」と腰を落とす祥子叔母、「ひこちゃん、も一度喉笛使って!」とニニギの指示通りにちび女神ひこが一度に五人が歌っているような喉笛を鳴らして2階の聡介を呼んだ。
喉笛を聞きつけた聡介は2階の窓を開けて颯爽ときららを押さえつける刺股の上に爪先立ちで飛び降り、羽織っていた半纏できららの顔を覆って目隠しをすると、相手の後頸部に軽くとん、と手刀を入れた。
きららはその場で意識を失って倒れた。
「悪ぃ!こたつで寝落ちしそうになって気づくのが遅れた!ノムさん、きららちゃんをリビングを運んで気付けして!琢磨は2階に上がって治療を受ける!男女の痴話喧嘩は引き剥がすに限る」
「嗚呼、恋し合いそうになる二人を強引に引き剥がさんとしゅるへーき(兵器)を作った賢しき下手人はとーぜんこれを作ったやつ」
とちび女神ひこが頭のかんざしを外して一見何も無い軒下にぶん投げるとそこにはぐへっ!と襟元を突き刺され、やっと実行できた機能、リビドーデストロイヤーのモニタリングを中断されてだらし無くぶら下がる小人の松五郎の姿があった。
「うむ効果絶大…」
とカメラの録画を止めた松五郎はその後床暖房付きウグイス用鳥かごの中で三日間反省させられた。
聡介の手で殴られた傷の治療を受ける琢磨は
「何の狙いもなくお互い何となくキスしようとしたのに、残酷です。残酷すぎますよ…」
と泣きじゃくる正月2日のキス未遂アンドクライな出来事であった。
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