第178話 家政夫のニニギ1

「つまりね、人間ってのは地球の外に出る事ばかり夢見てるけどさあ、

肝心な地球の内部の研究がてんでなっていないんだよ」


と、画面の向こうの端正な顔立ちはしているけれど、

灰色の髪をだらしなく束ねた灰色の瞳の青年は手元のビーカーに乗せたコーヒーサーバーにケトルのお湯を丁寧に回し淹れて抽出したコーヒーをビーカーに口を付けて直飲みした。


「それ…見るの『引く』からやめてくれないか?ミシェル」


と野上聡介は5歳年上の従兄弟であるミシェル・オスカー・ガーラントに英語でそう指摘すると、


「これはコーヒー専用のビーカーだから何の問題もない」と何のことでもないという風に返された。


現在熊本市内は午後8時。ネット回線で会話しているミシェルが住むカナダのモントリオールは朝の7時。


ミシェルの背後で叔母の祥子が「カイルを学校に送る時間でしょ?」と息子の肩をつついている。


「とりあえずデータ送るからまたね!」

とダウンジャケットを羽織ったミシェルが慌ただしく画面から退場すると入れ替わりに叔母の祥子が疲れた顔で椅子に座り、


「そっちはどう?元気?」と聡介に声を掛けた。


「こっちは家政夫さんがいるから不便なことは無いよ、叔母さんは?」

と聞かれると祥子は額に手を当て、「寒さと時差ボケにはまだ慣れないわね…」とこめかみを抑えて少し顔をしかめた。


聡介の叔母、野上祥子は11月は必ず息子ミシェルと孫カイルが住むカナダのモントリオールで過ごすことにしている。


バイオリニスト野上祥子が息子ミシェルを置いて離婚して野上家に戻って来たのは聡介が5才の時だからもう26年前。


離婚の理由はカナダ人物理学者の夫、ヘクターがあまりに研究熱心過ぎて家庭生活や育児に全然向いていない人だったからである。


それでも祥子が書き出した付箋を貼ったメモ書きを電化製品や家具調度品、果ては自分の服の衿に貼り付けてやっとメモ通りに遂行できるまでには夫は成長した。


しかし、自分は演奏活動が出来なくなるほどに身も心もすり減らしてしまった…家族に愛情が無くなった訳ではないが、このまま夫の世話と育児に追われていると、演奏家として終わってしまう。


ならば、と


夫と子供の世話はハウスキーパーに任せて離婚して帰国してきた祥子に父親の鉄太郎は


「どうして我が子を置いて出てきたんだ?」


とその一点においてだけ娘を非難した。が、娘の「日本よりもカナダで育った方が、ミシェルが幸福になる選択肢は多いから」という一言に反論出来なかった。


「芸術を仕事にする人間は結局自分のエゴを優先するのか…」


と縁側で呟いた祖父の言葉がなんだか仕事大事で自分を捨てた母、緋沙子を非難されたような気がした聡介の心に深く刺さり…


ああ、だから俺は叔母と口論してまで演奏家にはならずに、医師になったのかな?


と思った聡介はエゴで家族を捨てるような芸術家なんて俺は死んでもならない。とまで言って叔母を傷つけた高2の自分も、家族に構われたいというエゴのかたまりだった。


という事に気づいて、あの時は俺酷いこと言ったなあ…と心から叔母に済まない、と思った。

「ヘクターさんは元気?」


「元気よ、孫育てが出来るまで成長するなんて思わなかったわ。新婚当時、私が構いすぎたのがいけなかったのかなあ…って後悔するほど」


「離婚を後悔って…まさか復縁とかありなの?」


無い無い!と祥子は笑ってそこは否定した。


「予定通りクリスマス前に帰国するわよ。気がかりなのは、ミシェルまで奥さんに逃げられちゃった事なのよねええ…」


と親子二代で妻に逃げられ、シングルファーザーになった息子ミシェルと、孫のカイルの養育だけが気がかりだ。と祥子はノートPC画面の向こうでこぼした。


「研究熱心過ぎるのはヘクターさん似なんだからそこはしょーがねーよ」


と聡介はミシェルの、温泉に棲息する藻目当てに危険な火山地帯にまでフィールドワークに出向く藻類学者ミシェルの研究熱心さを嫁に逃げられるレベル、と評した。


「鉄太郎の血を引く男は学者向きなんかなあ…それじゃ風邪ひかないようにね!」


と聡介は通信を切り、ミシェルから送られてきたデータをUSBに落とし込むと、


よし、後はこれを勝沼に渡せば!


机の引き出しに入れて鍵をかけて鼻歌まじりに階段を降りた。


「今夜はお鍋ですよ!聡ちゃん」

とエプロンを取った銀髪銀目の家政夫、天孫ニニギがウサギ柄のキッチンミトンをはめて伊賀焼の鍋の蓋を外すと…


その中には鶏団子と椎茸と豆腐と長ネギと人参がぐつぐつといい匂いをさせて煮たっている。


「これが小田巻部屋のまかないちゃんこかぁー。差し入れあんがと、モモさん」


「構わぬ。スープと鶏団子はレトルトで他の具材切って煮込んだだけなのだから」


同世代の男性に珍しくお礼を言われた百目桃香は少し照れたのかわざと素っ気ない口調でそう言うと、自前のかっぽう着を脱いで椅子に腰を下ろし、


「野上聡介、お前のお陰でこいつが『からす』だと解ったのだからこれぐらいの礼はしないと」

おびえた様子で隣の席に座るルシフェルを片腕で抱き寄せてもう一方の手で彼の黒くて豊かな髪を撫でた。


「や、やめてよう…」と見た目15,6才の堕天使ルシフェルが、「お前、可愛いな」とわざとらしい笑いを浮かべる女性に頬擦りされて、怯えている。


百目桃香、31才は表向きの仕事は整形外科医で両国で四代続くクリニックを父と二人で切り盛りしている。のだが、


彼女の人に言えない裏の顔は、自宅ベランダの鳥の巣箱に来る


からす


と呼ばれる秘密結社からの指令通りに合法非合法関わらず任務を遂行するだけの現代に生きるくの一である。


昨夜も桃香は巣箱に入った文を見つけた、と同時に知っている人物の匂いを嗅ぎ分けた。


そして自分の全身の瞬発力を集中させて匂いのする対象の背中にまたがり、海老ぞりにしてヘッドロックをかけた相手が黒い翼を持った少年だった事に一瞬驚いたが、拘束をそのままにして

「お前が『からす』だったのか。先祖代々百目の家に汚れ仕事させやがって…

どうしてお前は野上聡介の匂いをまとわりつかせている?

言え!」


もちろん首をヘッドロックされた状態で何も言える訳が無いが…


つまり、桃香は堕天使ルシフェルを素手で捕まえ、居候先である野上家まで連れてこさせる恐ろしい女。

とゆーことは聡介にはよーくわかった。


「わー、モモさんすごーいるーちゃんを捕まえたのは貴女が史上初ですよー、さ、食べましょ」


とお気楽極楽なゆるい口調で適当に桃香を誉めそやすとニニギは皆にご飯をよそい、手を合わせていただきます。を全員にさせてから食事にとりかかった。


「しっかしまあモモさんのクリニックが小田巻部屋のタニマチだったなんてねえ…」


「しっかり治療費いただいているし、他の部屋の力士の診療もするからタニマチかどうかは解らん。

でも小田巻親方と親父は小学校の同級生で、所属する寿関ことぶきぜきは彼が新人の頃からうちの患者だった」


「あー、今朝引退宣言した横綱ね。日本人力士の引退は残念だよねー」


「頚椎を痛めてしまっているからドクターストップだ。仕方がない…」


と寿関の話題はここで打ちきりにし、鶏団子とキャベツを取ってかぼすのポン酢を付けてはふはふ言わせながら、


「うん!熱いけど美味しい」と目を輝かせた彼女に、


聡介は初めて彼女の人間らしい一面を見た。と思った、


「で、からすことそこのるーちゃんの指令通りなら人をっちゃってたりする訳?」


「明治に入ってからは殺人はしていない。と聞かされている。祖父も父もそうだった」


「じゃあ、殺人以外の事はやっちゃってるんだ…」


「法や立場に守られたお偉いさんに犯した罪に相応しい制裁を加えたりはしたようだ。父の若い頃はいろいろと剣呑な時代だったから」


あの人懐こくて大人しそうな院長さんがねえ。


聡介は桃香の父である百目院長が忍び装束で要人の寝床の天井に貼りついて、制裁を加える隙を伺う様を想像し…


あかんあかん、ドラマの見すぎだ。と自らも食事に集中した。

「聡ちゃん、きちんとたんぱく質を摂るんですよ」


とテーブル越しにニニギが鶏団子やら豆腐やらを箸でつまんで聡介の小鉢に突っ込むので、桃香は傍目で見て「まるでお母さんだな」とふふ、と笑った。


「あ、この人お母さんでなくて俺のひいじいさんなんだ」


と聡介が本当の事を言っても下手な冗談だな。と桃香に一笑に付された。


いいですねえ、いいですねえ。


聡ちゃんとモモちゃん、何だかいい感じですよ。


このまま恋に落ちて結婚してくれたら…どんな強い子が生まれるんでしょうねえ。


と女性遍歴が散々だった曾孫と桃香の互いに心がほぐれてきて会話が進むのをニニギは小春日和みたいな笑顔で見守った。


「ゆうべ依頼を受けたって事はその内またやらかすのか?こないだの合成麻薬みたいに」


とかるーい会話のノリで聡介が聞くと桃香は「言えるかそんな事」

と箸も止めずに返答を拒否した。


かしん、かしぃーん!と赤樫の杖が鳴り、やがてかっかっかっかっかっ!と打撃音だけが道場じゅうのあちこちから鳴り響く。


それは、普通の人間が見たら道場にラップ現象が起こっているように見えるだろう。


しかし人であらざる身のルシフェルには見えるのだ。


白い道着の上に黒袴を着けた天孫ニニギを野上聡介が追いかけて杖で叩こうとするのを杖で受けたニニギに流され、なぎ払われ、反撃するニニギが喉を突こうとするのを聡介が後転して畳を手で叩き、その反動を使って聡介がニニギの鳩尾を狙って蹴りを入れる。


その刹那、ニニギは杖で畳に突きいれて地に垂直になるかたちで聡介の蹴りをかわした。


左手の空いたニニギがどんな攻撃を仕掛けてくるか解らないので聡介は背中を軸に仰向けのまま駒のように半回転し、素早く立って態勢を整える…


ここふた月近く聡介に稽古をつけてやって来てるが、彼に足りなかった俊敏力とスタミナが回を重ねる毎に付いてきている!


「いーいですねぇ、いーいですねぇ。顕著に修行の成果が現れて来てますよぉ」


と袴が重力で落ちないように両足をぴったり重ねて右手の杖一本で逆立ちしてあはははは!と軽やかに笑うニニギに向かって聡介は汗だくになりながら、


「認めるよ…あんたじーちゃんの親だけあって、強い。それにしつこくてえげつねえ。俺が出会った中で一番強い相手だが…ぜってー尊敬はしねえからな!」


と呟いて指差して野上家の始祖である天孫ニニギをなじる修行の毎日が続いていた。


そんな時、「おっ、やってますねえ」と覗き込むように道場の入り口からひょい、と顔を入れてやって来たのは都城琢磨。


「差し入れついでに仕事の愚痴です…」


と彼は仕事帰りに買ってきたお好み焼きのパックとペットボトルのお茶をテーブルに並べるとコートを脱いで最近異動になった職場のことを話し出した。


「でもお前、料理研究家とタイアップして地方の農産物売り出すプロジェクト、って農水省の中では花形な職場なんでない?同僚は女性ばかりなんでしょ?」


と着替えてシャワーで汗を流した聡介がタオルで頭を拭きながら琢磨に尋ねると、


「既婚女性官僚ばかりの職場っすよ…お陰で僕はマスコット扱い」


「うん、女職場4~5人に若くて可愛い男の子ひとり配置しとくとすっげー円滑に回るんだ。うちの病棟も3~4人にひとりは男性看護師を採用し出したぞ」


「…何でですかねえ?」


「そこに、癒しがあるからさ。

キャリア女性の競争意識ってのは俺たち男が思ってるよりも火花散らしあってるとこあるからさ、職場の中で上ばかり見て疲れないために『目線』をずらす対象が必要なんだよ」


「それが、男性アイドルの存在ですか?」


そ、と聡介はお好み焼きの箸で琢磨を差し、


「おばちゃんがなぜ異国の美形タレントに萌えるか解るか?

選び方を失敗した残念な夫、思い通りに育たなかった残念な子供。という現実から目を反らすためだよ…

要は娘時代に憧れていた素敵な夫と可愛い坊や、という叶わなかったきれいきれいな夢を感じのよい笑みを浮かべるタレントに投影してんだね。

人間、現実ばかり見てると死にたくなるからそれでもいんじゃね?」


「少しは逃げたっていいじゃない。という野上先生なりの独断に満ちた持論ですね…」


「で、きららちゃんとは会えない忙しい日々って訳?」


「きららさんも後期試験で忙しいんですが…僕のやってる事が若い料理研究家のご機嫌取りみたいなもんで…たらば未知って知ってます?」


「知ってますよ~、ブログでレシピアップして有名になった料理研究家でしょ?」


と聡介に代わって答えたのは風呂から上がってスウェットスーツケースの上に半纏を羽織ったニニギであった。


「そう、お昼のバラエティ番組にも出てますよ。って、野上先生バラエティ見ないか…まあその人にレシピ考案してもらうためのご機嫌取りが今の僕の仕事です…」


と下唇を歪めて琢磨は肩をすくめた。


休日のお料理番組で見て顔ぐらいは知っているたらば未知は、圧しが強くてテンション高めで…琢磨の好みとは正反対のタイプの女性だった。


「お前も大変だなあ」と聡介はしみじみと言いい、コップにサイダーを注いであげた。


「で、その人料理の腕は確かなの?」


「ええそれはもう、僕の大好物のチキン南蛮作ってご馳走してくれた時は感激しましたね」


と医師と官僚という肩書きはついてながらも俺たちは、


所詮は日本のサラリーマンでしかないんだな。

とシルバーとイエローの愚痴を小一時間聞いてやりながら思った…





































































































































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