プラネタリウム

雨季

第1話「友人、隣人、嘘人」

近所に年上のお兄さんが住んでいる。

幼い頃から一緒に居た為に俺とそのお兄さんの間には上下関係は一切ない。

名前は涼。

苗字は何度も教えてもらったが下の名前ばかりで名前を呼んでいた為に直ぐに忘れてしまう。

だからそれ以上の名前は分からない。

「こんな所で何してるの?」

夜中、親に内緒でこっそりと家を抜け出して公園の中で一番高いジャングルジムの上で満点の星空を眺めていると下の方から涼の声が聞こえてきた。

ゆっくりと、冷や汗をかきながら下を覗き込むと無邪気な顔をした年相応の顔に見えない幼い顔をした涼が立っていた。

半袖の白いワイシャツに黒い長ズボンという格好で手には黒い学生鞄を持っている。

恐らく、学校から帰って来てずっと制服のままで過ごしていたのだろうと俺は思った。

「涼こそ、学校から帰ってきたんだったら服くらい着替えてから外出しろよ。それに、こんな遅い時間にお前こそ何の用で此処に来たんだ?」

ジャングルジムの頂上を目指して上ってくる涼に冷ややかに言った。

すると涼は眉を顰めながら静かに微笑した。

「ある人と待ちあわせしてるんだよ。そしたら瀧が此処に居たっていう事かな。」

そう言うと涼はジャングルジムの上から二段目に腰を掛けてうまく座った。

「ねえ、瀧はこんな時間に何しに来たのかな?」

その質問に顔を顰めずにはいられなかった。

今日は7月7日・・・。

つまり七夕の日である。

いくら晴れだからと言っても彦星と織姫がちゃんと出会えているか気になってうまく眠れず、家から飛び出してきたなんて恥ずかしい事は口が裂けても言えない。

「が、学校の理科の宿題だよ。俺は真面目だからちゃんと宿題をこなしに来たんだよ。」

気温が急に上がったのか顔が先程よりも熱くなった。

すると涼はニヤニヤした顔で俺を見てきた。

「へぇー。毎回宿題提出しない瀧が宿題か・・・。明日は雷が降るかもしれないな・・・。」

「な、何だよ!!ちゃんと宿題は提出してるぞ!!」

図星を付かれて咄嗟に涼にそう言った。

「瀧のお母さん直々に聞いた事なんだけど・・。」

頭の中に満面の笑みを浮かべて大声でその事を話している我が母の顔が浮かんだ。

落胆せずにはいられなかった。

「ねえ、本当は何しに此処に来たの?瀧のお母さんには黙っておくから教えてくれないかな?」

俺よりも年上のくせに子供みたいな無邪気な顔をして聞いてきた。

最初、言おうか言うまいか悩んだが後に勝手に夜中に家を抜け出したのをバレタときに涼が助けてくれるかもしれないと思った。

一旦、溜息を吐いた。

涼は相変わらずな顔をしている。

「彦星と織姫が・・・ちゃんと出会えているか心配になったんだよ・・・。」

笑われるのを覚悟して言ってみた。

しかし、涼の反応は想像していたのと全く違うものであった。

「瀧、恋って自由なものの筈だよね。」

落ち着いた雰囲気の感じられる声で涼は言った。

「普通そうだろ?」

心の中で何故そんな質問をしてきたのだろうと思いながら俺は言った。

「なのに、戦国時代の頃は・・特に大名とかは恋愛とか結婚とかは政治のうちって考えてる人が多かったんだって。まあ、それがその時代では一般的な常識だったんだよね。」

涼は空を見上げて右手を伸ばした。

「彦星と織姫は仕事しないでサボってたから間を引き裂かれたんだろ?それとこれと関係ない気がするけど・・・。」

すると涼は静かに笑った。

「それもそうだよね。でも、本人たちの意志はどちらとも尊重されてないと僕は思うんだ。戦国時代の方は親が決めた結婚相手と・・・。彦星と織姫は仕事をしなくなって一年に一回だけの出会いに・・・。」

「彦星と織姫は自業自得じゃないのか?仕事をサボってたんだし・・・。」

「瀧は、好きな子が出来たらずっと傍に居たいと思わないかな?」

頭の中で好きな子が出来たときの想像をみた。

確かに、好きな子とは一分一秒でも長く居たいと思った。

「そんなとき、瀧のお父さんが‘いつも一緒に居てばかりで仕事しないなんて情けない!!仕事しろ!!“って言って彼女と間を引き裂かれる。そして、一年に一回・・・しかも晴れた日の夜だけしか会えない・・・。瀧はそんなときどうする?」

何故か涼は楽しげに言って見せた。

「そ、そんなの耐えきれない・・・。一年に一回だけって何の拷問なんだよ。その間に彼女が俺の事忘れて他の男と付き合ってたらどう責任取ってくれるんだ!!」

想像上の怒りに瀧は急に立ち上がった。

ジャングルジムという足場の不安定な場所で急に立ち上がった為に足を滑らせた。

目を見開き、上に居る驚いた顔をしてこっちを見ている涼の顔が見えた。

涼は右手を伸ばして掴もうとしているが届かない。

「瀧!!」


「こんな小さな子を危ない目に合わせる何て・・・。」

誰か知らない人の声が聞こえてきた。

「僕にも予想外の事だったんだよ。」

その次に涼の声が耳元に聞こえてきた。

恐らく俺はいつの間にか涼に背負われているのだろう・・・。

目を開けて今の状況を確かめたかったが眠すぎて目が開けられず、意識が朦朧としている。

「瀧!瀧!!」

突然、母親の怒鳴り声が聞こえてきた。

勢いよく飛び起き、目を擦りながら開けると両手を腰につけてこちらに向かって立っている母の姿が見えた。

「全く、何時まで寝てるのよ!!早くしないと学校に遅れるよ!!」

母はそう言って俺の学校の着替えを投げると部屋から出て行った。

先程まで涼が傍に居た筈なのにその姿は何処にも無く、何故か自分の部屋のベッドの上で眠っていた事に驚いた。

しかも、昨日はジャングルジムから落ちた筈なのに体の何処も痛みを感じなかった。

そんな事に疑問を持ちながら母親から投げ渡された服を急いで着替えて食卓テーブルへと向かった。

テーブルには既に朝ごはんが並べられていて父は優雅に新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。

俺が姿を現したのに気が付くと父は読んでいた新聞から顔を上げて爽やかな顔をしておはようと言ってきた。

母は台所で父の弁当を作っているのか忙しそうだった。

昨日の出来事はもしかしたら夢だったのかと思いながら俺は軽く父に挨拶をして皿の上に置かれているトーストを忙しく口の中に放り込んだ。

そして、少し気持ち的にも余裕が出来た為に時計に視線を向けると8時だった。

学校が始まるのは9時からなのだが今日は日直であり、直ぐに家を出ないともう一人の日直に怒られてしまうからもう出ないといけない時間なのだ。

「や、やばい!!」

食べかけのトーストを皿の上に置いて玄関に向かって走って行こうとしたとき、母の待ったという掛け声とともに服の袖を掴まれた。

後ろを振り返ると行き成り黒いランドセルを突き付けられた。

「ちょっと、ランドセルも持たずにあんたは学校に何しに行くつもりなんだい?」

呆れた顔をして母は言った。

「今から取りに戻ろうと思ってたんだ!!」

そう言って母からランドセルを奪い取る様にして受け取ると騒がしく家を出た。

もう一人の日直は性格が悪く、一分でも遅れるとネチネチと嫌味を言ってくる。

さらに、それが一日中続くから困ったものである。

暫くは知っていると欠伸をしながらトボトボと眠そうに歩いている涼の姿が目に入った。

いつもちゃんとセットすればもう少しカッコよく見えるのに涼は面倒なのかいつもボサボサ頭だ。

そんな涼を驚かせてやろうと思い、速度をさらに加速させて涼の背中に向かって体当たりをした。

涼は驚いた声を出して前のめりに数歩前へと出た。

訳が分からないと言いたげな顔をして振り向いてきた。

「た、瀧?」

そんな涼に向かって満面の笑みを顔に浮かべてピースサインをして見せた。

「おはよう!!」

涼は背中を摩りながらおはようと言った。

「涼、聞きたいことがあるんだけどさ・・・。」

腕を頭の上で組みながら言った。

「昨日、ジャングルジムから俺が落ちた後どうなったんだ?起きたら自分の部屋で驚いたし、母さんとか父さんも分からなかったみたいだしさ・・・。」

すると涼は何故か微笑した。

「瀧が地面に落ちそうになった後、正義のヒーロースーパーマンが現れて瀧をうまくキャッチしたんだよ。それでその後、‘後は全て私に任せなさい“って言って瀧を連れて空へと飛んで行ったんだよ。」

そんな非現実的な事は絶対ないと思った。

「そ、そんな現実離れした事起きる筈ないだろ?俺はもう子供じゃないんだ!!そんな事に騙されるわけが無いだろう?」

手を組んで涼を睨んだ。

すると涼は俺を指さしてきた。

「なら、何で瀧はジャングルジムから落ちたのに怪我一つせずに誰にも気が付かれずに家に戻れたのかな?」

その言葉に瀧は確かにそうだよなと思った。

それでもスーパーマンは理想の世界の住人であり、現実に絶対に現れる物ではない。

しかも、そんな空想物語を信じられる程俺は子供じゃない。

「りょ、涼が俺を背負って二階の部屋まで連れて行ったんだろ?」

「残念ながら、此奴にはそんな運動神経は無いよ。」

昨日、意識が朦朧とする中で涼が会話していた相手の声が聞こえてきた。

驚きながら涼を見るとそこにはいかにも不良と思えるような顔つきをした男が涼の肩を無理やり組んでいた。

涼と同じ制服を着ていた為に学校の友達なのだろうと思ったがこんなタイプの人とも友達になれる涼は凄いなと思った。

「此奴、体育の授業中に跳び箱三段が飛べないわ、50メートル走なんか恐怖の15秒台なんだぜ?」

楽しげに男がそう言ったその時、男が行き成り悲鳴を上げた。

見てみるとその男の後ろにもう一人女らしい顔をしたこれまた涼と同じ制服を着た男が立っていた。

何故か顔は殺気に満ちていた。

そんな状況に混乱していると女らしい顔をした男が俺に向かって手を合わせて謝っているポーズをとって見せた。

「‘丸内が無神経な事言ってごめんね‘って武蔵野が言ってるんだよ。」

涼はいつの間にか俺の隣に立っていた。

「痛いなぁ・・・。行き成り何すんだよ!!武蔵野!!」

するとも一発武蔵野の鉄拳が丸内の頭に入った。

そしてその次に武蔵野の冷たい視線が丸内に注がれた。

その視線に耐えきれなくなったのか丸内は武蔵野から視線を逸らした。

「叩かれた方が丸内で、叩いた方が武蔵野って言うんだ。」

武蔵野は俺に向かって満面の笑みを浮かべてあいさつのしるしなのか手を振ってきた。

俺もつられて手を振った。

「何だよ・・・ちょっと本当の事言っただけじゃないか・・・。」

丸内は頭を摩りながら涙目で言った。

「武蔵野が‘それでも言って良い事と悪い事がある‘って言ってるよ?」

涼は楽しげに丸内に言った。

武蔵野は深く頷いた。

「そう言えば瀧、最初息切らしてた様に見えたけど急がなくて大丈夫なの?」

その言葉を聞いて今日日直で会った事を思い出した。

しかも同時に相手が嫌な相手だという事も・・・。

「や、やばい!!遅れたら面倒な事になる!!」

そう言って涼達に向かって手を振り、急いで学校へと向かった。


「ち、遅れずに来てくれて嬉しいよ。」

驚く事にもう一人の日直相手の高藤は教室の入り口の前で仁王立ちして立って待っていたのだ。

声色や顔は笑みを浮かべているのに雰囲気では嫌な気配しか感じられない。

しかも、一番最初に舌打ちをしたという事は遅れる事を期待していたのだろう。

なんとも嫌な性格をした人だと思いながら無理に笑顔を作っておはようとあいさつをして見せた。

高藤はおはようと軽く言うと行き成りプラスチックで出来た緑色の如雨露を渡してきた。

最初それはどういう意味の物なのかと思い、高藤の顔を見ると笑みを浮かべてノートを握っていた。

「私、教室の仕事をするから野上君は校庭に言って草花に水やって来てね。後、邪魔になるだろうからそのランドセル机の上に置いといて上げるね。」

高藤は反論を許さないという雰囲気を漂わせながら手を俺に向かって伸ばしてきた。

しぶしぶとランドセルを高藤に渡し、俺は如雨露を受け取った。

すると高藤はよろしくと言って教室の扉を閉めた。

高藤の態度に対して文句を心の中で思いながら校庭に向かっているとおはようとクラス一番の美人の菊地に下駄箱で声を掛けられた。

予想にもしていない出来事だったので胸が高鳴った。

「お、おはよう・・・。」

顔を赤くしないように言ったつもりだったが熱が顔に籠っているのが自分でも分かる位発熱していた。

その様子をみた菊地は心配そうな顔をした。

「顔、赤いけど大丈夫?何処か体調とか悪くない?」

その優しさに感動しながら俺は大丈夫と言って早々に靴を履きかえて外へと出て行った。

外へ出ると五月蠅いくらいに聞こえる鳥の声が聞こえてきた。

そんな鳥の鳴き声に顔を顰めながら朝早くに来た奴らが校庭の遊具で無邪気に遊んでいる姿を見ながら自分のクラスの花壇まで歩いた。

今日は快晴で鳥は元気に鳴いている。

そして子供たちの無邪気な笑い声が聞こえてくる状況・・・・。

テレビドラマなどでよく、そんな幸せな日常生活が送りたいという人が居るが今の俺にはそうは思えない。

朝は遅刻ギリギリまで寝ていたいし、自分勝手な教師とは極力顔を合わせたくないし、こんな朝早くから遊んでいて午後の授業まで体力は持つのかと思いながら背後から聞こえる笑い声を聞きながら俺は花に水をやった。

こんな事を思う俺は他人から見たら何て爺臭い事を思う小学生だろうと思うだろうがこれが現実だ。

こんな所に居るよりも涼と過ごした方が楽しい・・・。

そんな事を考えながら花に水をやっていると頭に何かが辺り、花壇の土に向かってダイブする羽目になった。

幸い、まだ何も植えられていない花壇だった為に何も壊れなくて済んだ。

しかし、当の自分は土まみれになってしまった。

「悪いな。そんな所に人が立ってるとは思わなかったんだよ。」

全く悪気のない声が背後から聞こえてくる。

俺はゆっくりと起き上り、服についた土を二、三回叩くと後ろを振り返って睨んだ。

相手は隣のクラスの柿崎。

この学校一の問題児でクラス替えの時は何時も先生達はこんな性格の悪い子の押し付け合い合戦に頭を悩ませていると噂で聞いた事がある。

この学校の先生はどれもプライドが高く、なるべく成績の悪い生徒と性格、家庭に問題のある生徒は他の先生に押し付けようとする傾向がある。

「その態度、ムカつくんだけど・・・。」

そう言うと柿崎は俺のお腹を勢いよく蹴った。

行き成りの出来事に俺は驚き、痛みに顔を歪めてお腹を抱えて地面に蹲った。

「おい!!良い遊びを思いついたんだけど!!」

柿崎は大きな声で腰巾着達を呼び集めた。

そして、俺をサッカーボールにして遊ぼうと提案してきたのだ。

とんでもない奴らだと思いながら俺は唯、じっと耐えることしか出来なかった。

始業の予冷のチャイムが鳴り始めた。

柿崎たちは急いで蹴るのを止めて教室へと走って行った。

俺はというと蹴られた処の痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がり、地面に虚しく落ちている如雨露を拾い上げた。

何故か不思議と涙は出て来なかった。

「あんな態度を取るからあんな腐った奴らにやられるのよ。」

その声が聞こえてきた方へと振り返るとそこには同じクラスの沢南がポツンと立っていた。

沢南は何時も教室の隅っこで本を読んでいる大人しい女子である。

そして、あまり人と会話をしない影の薄い少女だ。

「あんな奴ら・・・死ねばいいのに・・・。」

俺は、こんな影の薄い少女がこんな言葉を言うのに心底驚いた。

確かにあんな事をされれば誰だってそう思うかもしれない・・・。

「何も・・・抵抗しようとは考えなかったのか?」

直ぐにこんな事を言わなければ良かったと後悔する羽目になった。

すると沢南は今まで見た事のない般若顔をして見せた。

「抵抗したって無駄よ。失敗したとき、今以上に酷い目にあわされるに決まってる。それにあんな奴らにあんなにされた野上君に何が出来るって言うの?」

確かに、沢南の言う通り俺には何もする力なんて存在しない。

それでも・・・指を銜えてされるがままは嫌だ。

「俺は動く事に決めた。」

すると沢南は大げさに溜息を吐いて教室へと向かって歩き去っていた。

俺もそろそろ戻らないといけないが蹴られた処が激しく痛むためにうまく歩く事が出来ない。

教室に戻ったのは授業開始してから15分経っての事だった。

ボロボロになった俺が教室に入ってきたとき、担任が顔色を真っ青にしてこっちに駆け寄ってきた。

しかし、この時の俺は面倒な事になるのは嫌いだったので転んだだけと言って無理に席に着いた。

担任はその嘘を信じていないのか顔を顰めていた。

授業が終わった後、俺は担任に質問攻めにされるのが嫌で学校から逃げ出した。


普段は誰も入ってこない街を一望に見渡せる丘の上に立って俺は何も考えずにただ眺めた。

こんな事をしたらきっと先生たちは血眼になって俺を探しに来るだろう・・・。

そして、母さんも父さんも俺を心配して探すことだろう・・・。

そんな暗い事を考えながら項垂れていると背後で深く生い茂った草が揺れる音が聞こえてきた。

まさか見つかったのかと思い、額に冷や汗を浮かべながらその草が不自然に揺れている所を凝視した。

すると、今朝初めて会ったばかりの武蔵野がひょっこりと現れた。

武蔵野は頭に小さな葉っぱを付けていて俺に気が付くとニッコリと笑い、右手を上げてあいさつをして見せた。

俺もそんな武蔵野の態度につられて同じように挨拶をした。

すると武蔵野は服に付いている土埃を落としながら俺の隣に座ってきた。

もしかしたら涼から俺が学校を勝手に出た事が伝わって探しに来たのかと思ったがそうは見えなかった。

何故なら武蔵野は行き成り持っていた真っ白い鞄から水色のハンカチで包まれている弁当を取り出したからだ。

そして、何事も無いかのように穏やかな顔をしながら弁当の中に入っていたおにぎりを食べ始めた。

そんな姿を驚きでまじまじと見つめていると武蔵野は弁当の中に入っていたもう一つのおにぎりを取り出して俺に差し出した。

どうやらお腹が空いているのだろうと思ったらしい・・・・。

俺はゆっくりと武蔵野からそれを受け取るとそれを口へとゆっくりと運んだ。

塩の味がほんのりと口の中に広がった。

その時、視界に真っ白いハンカチがちらついた。

何なのかと思い、見ると武蔵野が心配そうな顔をしてハンカチを差し出していた。

それに疑問を持ちながら痛む体に手を当ててみると少し血が出ていた。

俺は礼を言って受け取るとそのハンカチを傷口に当てた。

暫くの間、おにぎりを食べながら俺は沢南に言った一言に苦しんだ。

自分は動くと言っておきながらその場から逃げ出してしまい、本当に情けない奴になってしまった。

その時、頭に何かが乗った。

何かと思い、顔を上げると武蔵野が穏やかな顔をして頭を撫でていた。

「武蔵野―!何処に居るんだ?」

そのとき、丸内の大きな声が聞こえてきた。

武蔵野と俺はその声に驚き、一瞬動きを止めた。

そして、武蔵野と同じ場所から丸内がひょっこりと出てきた。

何でこんな午前中の平日にこの二人はこんな場所に来れたのか不思議に思った。

丸内は俺の存在に気が付くとニッコリと笑ってまた会ったなと言った。

俺は茫然とした様子で武蔵野の隣に座り込んだ丸内をじっと見つめた。

「お前も、その年で俺達と一緒で授業サボりか?」

そう言いながら武蔵野の弁当の中に入っている最後のおにぎりに向かって手を伸ばしたとき、勢いよくその手は叩かれた。

「な、何だよ!!俺にもくれたっていいだろう?昨日の夜、母さんと喧嘩して夜ご飯食ってないんだよ!!」

しかし、武蔵野はそんな懇願するような目で見てくる丸内を威嚇した。

すると丸内は溜息を吐いて持っていた茶色い鞄から弁当の包を取り出した。

「俺は武蔵野が握った握り飯が食いたかったんだよ。」

からかう口調で丸内はそう言うと弁当を開けて食べ始めた。

武蔵野を見ると鳥肌を立てて寒い時にするポーズをとっていた。

そんな二人の間のやり取りが可笑しくてつい、笑ってしまった。

「お前も、俺の作った焼きそば食うか?」

そう言って丸内はコゲ気味の焼きそばを差し出してきたが武蔵野が丸内の脇を突っついた。

「食えるに決まってるだろ?俺だって味見したんだからな。」

すると武蔵野は両手を上げて溜息を吐いて見せた。

「失礼な・・・。そんな事言うとお前には絶対に食べさせないからなって、そんな顔するな!!俺、傷つくよ?」

武蔵野は安心した顔をし始めた。

「その傷、どうしたんだ?」

最初、誰の事かと思ったが丸内の視線が俺に向いていたので直ぐに俺の事だと分かった。

どう言い訳をしたら良いのか分からず、少し戸惑った。

「転んだだけだ。」

そう言って二人から視線をずらした。

すると丸内に両肩を掴まれた。

「転んだだけでそんな傷、つくわけが無いだろ?誰にやられたんだよ!!」

丸内の目を覗き込んだ。

その目は真剣に怒っている様に感じられる目だった。

「ちゃんと言えよ!!俺がそいつら今すぐにでも殺しに行くから!!」

その時、武蔵野の鉄拳が丸内の頬に見事にクリンヒットした。

「何余裕ぶっこいたことするんだ!!相手は小学生だけど礼儀の分かってない奴にはきっちりお灸をすえてやらないと分からないんだよ!!」

そう言うと丸内は武蔵野の両肩を掴んだ。

しかし、武蔵野はそんな丸内に怯えずに睨んだ。

「はい、はい。二人ともそこまで。」

いつの間にか二人の間に涼が割って入っていた。

もしかして俺が学校を飛び出した事を知って探しに来たのではないのだろうかと思ったがその考えは直ぐに崩された。

「あれ、瀧こんな所でどうしたの?」

この状況に理解していない様子の涼は呑気な声でそう言った。

しかし、俺のボロボロの姿を見た涼はその呑気そうな顔を一瞬にして崩し、そして険しい顔をして近寄ってきた。

「その怪我・・。誰かにやられたものだよね。」

俺はその言葉に唯目を逸らす事しか出来なかった。

すると涼は小さな溜息を吐き、そしてゆっくりと地面に座り込んで右手で前髪を掻き上げて空を見上げた。

「武蔵野、僕が理性を失った時は全力で止めてくれないかな?自分で押さえられる気がしないんだ。」

すると武蔵野は丸内を押さえながら力強く頷いた。

「瀧、詳しく状況話してくれないかな?」

声は優しかったがその顔は笑っていなかった。

こんな真剣な顔は初めて見た。

こんな状況になっては後で必ず面倒な事が起こると思い、溜息交じりに俺はこうなった経緯を全て話した。

三人は一言も俺のいう事に口を挟まず真剣に聞いてくれた。

話終わると涼は静かに目を閉じた。

「瀧は・・・この事をどう考えてるつもりなの?」

涼は静かにそう言った。

当然、昨日まで自分はこんな事になるとは予想していなかった事だから何も思い浮かばなかった。

「分からない・・・。でも、このまま指銜えて耐えるのは嫌だ・・・。」

「なら、そいつらを闇討ちするか?それなら俺は喜んで賛成するぞ。」

丸内は両手をポキポキと鳴らしながら言ったその時、武蔵野からは平手打ちされ、涼からは額に凸ピンされた。

「丸内・・・そんな事をしたら瀧がその後どういう立場になるか分かるだろ?それに、そんな事をしても何の解決にならないんだよ?」

その意見に賛成なのか武蔵野はやはり深く頷いて見せた。

丸内はそれでも・・と言おうとしたが武蔵野に睨まれてその先を言わなかった。

涼は暫くの間唸り、何かを考え込み始めた。

その間、俺は地面を眺める事しか出来なかった。

「瀧、その子達は何人くらいなの?」

突然涼は顔を上げて俺を見つめて言った。

あの時、俺を蹴った奴らの顔をムカつく思いをしながら思い出して指でおって数えてみた。

「全部で4人・・・。」

すると涼は何故か笑って見せた。

そんな様子を見て俺は涼に不快感を覚えた。

「瀧、そんな顔しないでよ。うまくいけばその子達と友達になれるかもしれない事思いついたんだよ。」

その言葉に俺は自分の耳を疑った。

涼の口からそんな予想外な言葉を聞く事になるとは思わなかった。

「な、何か良い手があるのか?」

丸内は武蔵野を押しのけて涼に詰め寄った。

「僕達が瀧を襲うんだよ。その子達もろとも・・・。」

急に涼の顔が怖いように感じられた。

丸内と武蔵野は目を見開いて驚いて見せた。


六時間目、俺は涼に言われた通りに学校に戻ってきた。

行き成り失踪した俺が戻ってきた事に担任もクラスの皆も驚いていた。

俺の机に視線を向けると机の横に俺のランドセルが掛けてあった。

ちゃんと高藤は掛けてくれたのだなと思った。

担任は俺の姿を見ると血相を変えて近寄ってきた。

「とりあえず、職員室に来なさい。」

担任は俺にそう言うとクラスの皆に大声で実習と言って俺の小さな手を引っ張った。

職員室に向かう途中、担任は無言のまま俺を引っ張るようにして先を歩いた。

何故だか俺は囚人になったような気分になりながら見慣れた廊下を歩いた。

職員室につくと担任は扉を開けて俺を先に入れる為に軽く背中を押した。

俺はその通りに職員室に入ると何故か中には涼の姿が見えた。

幼い頃からずっと涼と一緒に居た為に涼の真剣な顔が直ぐに演技だという事に気が付いた。

その隣には女装した武蔵野が座っていた。

その事に驚きながら俺は涼達と向き合うように座った。

俺の隣には担任が座った。

武蔵野は出会った当初から女らしいなと思っていたが変装をするともう一般の女性にしか見えない。

そして、ハンカチを顔に当てて泣いている。

そんな武蔵野の背中を摩りながら涼は俺の担任の顔を見た。

俺は何故担任が武蔵野はともかく、涼の外見を見て年齢を疑わないのかと疑問に思った。

「あの・・・学校とかは大丈夫なんですか?」

此処で担任が普通に思う疑問を口にした。

「僕は野上君の幼馴染です。今日はちょうど試験最終日だったので学校から家に帰るのが早かったんです。僕が家に帰ろうとしたその時、野上君のお母さんが家の扉の前で泣き崩れているのを見ていると気が気ではなく・・・・。」

そう言いながら心配そうな顔をして涼は今も泣き続けている武蔵野に視線を落とした。

「そこで、僕が学校まで付いてくる事になりました。この通り、野上君のお母さんはショックのあまり、喋る事もままなりません。そこで、幼馴染である僕もこの場に同伴させてもらったんです。」

そう言う理由で涼はこんな所まで入り込めたんだなと心の中で俺は関心した。

それでも、担任はクラス替えがおこなわれる度に家庭訪問をおこなっている。

今は7月だ。

4月の間に家庭訪問は終わっている筈だし、授業参観だっておこなわれているのだ。

だから俺の親の顔をいいかげん覚えても良い筈なのではと思ったが俺の親は共働きであるがために滅多に授業参観や運動会や懇談会に来ない。

運動会だけは忙しい俺の親に代わって涼が毎年来てくれる。

そんな調子ではこの物覚えの悪そうな担任には分からないのだろうと俺は判断する事にした。

「瀧、一体何があったか話してくれないかな?」

担任の視線が俺を刺した。

その視線に逃れるように俺は打ち合わせ通りに言った。

「朝、沢南さんと一緒にサッカーをしていたら柿崎がやって来て僕のボールを奪い取ったんです。返してって言ったけど・・・殴られて・・・。」

そう言って今朝蹴られた腕を担任に見せた。

担任は血相を変えて立ち上がり、少々お待ちくださいと言って職員室から出て行った。

職員室では暇な先生達がこっちをじっと興味深そうに見ている。

その時、突風が職員室を襲った。

夏の暑さの為に開けていた窓から風がまるで波打つように次々と入ってくる。

そして風は音を鳴らしながら開け放たれていた職員室の扉から抜けていく。

職員室の中は風のおかげで滅茶苦茶になった。

暫くすると風はピタリと止まった。

それと同時に担任が問題の柿崎と校長を連れて職員室の中に入ってきたが三人とも職員室の現状を見て口を開けたまま茫然と立ち尽くした。

俺も行き成りの自然現象に驚き、開いた口が塞がらなかった。

武蔵野も驚いた様子で少し顔を上げて職員室の中を見渡していた。

涼も職員室の中を驚き顔で見渡していたが何処となく演技している様に見えた。

い、一体・・・これは・・・。

校長がそう言った瞬間、また突風が職員室の中に入ってきた。

今度の風は校長のカツラを吹き飛ばしていった。

校長は自分のカツラが風によって飛ばされた事に気が付くと急いで閉ざされたカツラを追って行った。

その様子を職員室に居る全員が驚いた顔をしながら見つめた。

柿崎もこの場に居る皆と同じ顔をしていた。

その時、少し涼に視線を向けると微妙に表情が変化しているのに気が付いた。

その事に疑問を持っているとやっとカツラを捕まえた校長が頭に雑にセットした状態で戻ってきた。

「いや~。行き成りの凄い風でしたね・・・。」

ハンカチで校長は汗を拭いながら言った。

そして、校長は後ろの方でまだ散らかった職員室をまじまじと見つめている柿崎の背中を軽く押して前へと出させた。

暇そうにしていた先生達は慌ただしく散らかった書類を片付けている。

「本当に君は彼を殴ったのかね?」

すると柿崎は悪気のないような目をして見せた。

「俺は、唯一人で花壇に居た此奴がかわいそうだと思って一緒にサッカーしようって言っただけだよ。そしたら此奴、行き成り腕を花壇にぶつけたんだ。それで俺達が駆け寄ったら此奴、先生に言ってやるって言って俺を突き飛ばしたんだ。」

驚きの発言に俺は自分は耳鼻科に行くほど耳が悪くなってしまったのかと思ったが涼の表情を見てそれが現実の出来事なのであると思った。

「本当に君はやってないのかね?」

すると柿崎は深く頷いた。

「そんな事・・・。」

その言葉に反論しようとしたとき、涼に足を軽く蹴られた。

涼に顔を向けると静かに睨まれた。

その顔を見て俺はその先の言葉を言うのを躊躇った。

俺は黙り込んだ。

すると校長は眼鏡の位置を直して俺に顔を近づけてきた。

「はっきり言わないと分からない事があるんだよ。誰も君を傷つけたりしないから言いなさい。」

柿崎の顔をちらっと見ると凄い剣幕でこちらを睨んでいる。

言ったらそういう目に合うか分かってるんだろうなという顔だった。

「すいません・・・。僕の狂言です・・。」

俺は力なく、柿崎の目の前でそう言った。

校長は大げさに溜息を吐いた。

涼は冷たい視線を俺に向けた。

その視線から逃れるかのように俺は視線を逸らした。

柿崎は満足そうに鼻で俺を笑うと帰り際に俺の足をわざと踏んで行った。

痛みに顔を歪ませて柿崎を睨んだが睨み返され、また視線を逸らした。

それから30分して俺は職員室から涼達と共に出た。


放課後のまばらになった教室に彼女は居た。

彼女は何時もの様に静かに教室の隅で本を読んでいた。

俺はそんな彼女の側まで近寄り、そして机の前に立った。

彼女はゆっくりと活字の海から顔を上げて俺の顔をあどけなく見た。

何もかもに興味を失くし、何も期待していないかのように見えるそんな目で俺を見つめてきた。

「野上君の事、ますます分からなくなったわ。何であんな腐った奴らに喧嘩を売るようなマネをするの?どうして自分から傷つきに行こうとするの?」

彼女は静かに、興味なさそうにそう言った。

恐らく、彼女はあの柿崎たちに脅かされ続けて夢を見ることを止めてしまったのだろうと思った。

「このままにしたくないから・・・。」

すると沢南は一度軽蔑を送るような溜息を吐き、読んでいた本を静かに閉じた。

「なら、野上君はあの時学校から逃亡するべきじゃなかったのよ。結局、野上君もあの腐った奴らの事が怖くて逃げだしたんでしょ?」

退屈そうな目で沢南は訴えるように言った。

それを言われると違うと言いたいが今の俺が何を言っても信じて貰えないだろうと思い、口を閉ざした。

「私、野上君は昔から頭が良いと思ってたの。面倒な事から目を背ける。それが頭の良い人がする事だと思ってたから・・・。でも、今日で野上君がこんなにも馬鹿だったなんて思わなかったわ。」

そう言って沢南はもっていた本を赤いランドセルの中に仕舞い込んだ。

その時、ちらっと覗いたランドセルの中には汚い文字で罵り言葉が赤で書いてあった。

「ねえ、この後野上君は如何するつもりなの?私は野上君みたいにボロボロにはなりたくないから正直言って関わりたくないの。」

涼と同じことを言ったと思った。

「一緒に・・・沢南さんと帰りたいんだけど・・・。」

いつの間にか俺は沢南の右手を握っていた。

その事に気が付き、直ぐにその手を離そうとしたその時、沢南はポロポロと涙を流し始めた。

それに動揺して教室の中を忙しなく見回した。

「言ったでしょ?私はもうこれ以上傷つきたくないの。帰るなら一人で帰って・・・。お願いだから・・・私はもう、傷つきたくないの・・・。」

その声は弱々しく聞こえた。

「大丈夫・・・。俺が全て今日で終わらせるから・・・。だから一緒に帰ろう・・・。」

そう言って俺は沢南の震える小さな手を両手で握りしめて言った。

沢南は歯を食いしばって涙目で見てきた。

俺は沢南に武蔵野から借りたままになっていたハンカチを差し出した。

そのハンカチは俺の血がついていており、あまり綺麗と言えるものではなかったが沢南はそれを受け取り、ハンカチを綺麗な面に折り返して涙を拭った。

そしてポケットの中にそのハンカチを入れると沢南は夕日のオレンジ色に光るランドセルを背負って俺の手を握った。

「一緒に・・・帰るんだよね・・・。」

その声は何処か震えていたが先程までの冷たい何かは何も感じなかった。

俺は沢南の手を強く握りしめながら自分のランドセルを手に取り、教室から出て行った。

そして、下駄箱で靴を履きかえているときに待っていた事が起こった。

それは柿崎が腰巾着を連れて4人組で現れた事だ。

俺は素早く沢南を後ろへと促して柿崎を睨んだ。

「さっきはよくも大問題を起こしてくれたな。俺に怯えきってるお前がよくそんな勇気出せたと思うよ・・。」

ニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべて柿崎達は俺達を囲むようにして言った。

そんな顔にムカつきながらも沢南に視線を素早く移した。

そして俺は柿崎達を押しのけて学校に出ようと思い、沢南の手を強く握って一番ガードの弱そうな奴に向かって突進した。

ひょろひょろの腰巾着は俺の突進が予想外だったのか目を見開き、そして怯えた顔をして頭を両手で抱えた。

俺は、一分一秒でも柿崎の手に掴まらないようにと願いながらその壁を突破した。

ひょろひょろの腰巾着は怯えきった顔をして地面に尻餅をついた。

一瞬、時が止まったのかと思ったが直ぐに柿崎の罵声が聞こえてきて時が止まってない事を確認し、そしてそのまま学校から飛び出した。

柿崎達は自分より弱いと思っていた存在が行き成り逃げて行ったのを心良く思わず、追いかけてきた。

学校から随分離れたにも関わらず、鬼のような顔をした柿崎達が追いかけてきた。

「野上君!!前!!」

突然、沢南のその声が聞こえてきたと思ったその瞬間、体が宙に一瞬浮いた。

一体何が起きたのかと思った次の瞬間、背中に激痛が走った。

「野上君!!」

沢南が何故かしゃがみ込み、泣きそうで怯えきった顔をして俺の顔を覗き込んでくる。

何故かオレンジ色の空が真正面に見えた。

そして、100円ショップなどで売っている様なパーティー用の覆面を被った男が俺の顔を覗き込んでいた。

そこでようやく俺はあの男に何かされたおかげで地面に倒れているんだと気が付いた。

その直後、柿崎達が息を切らせながら俺達の元へとやって来た。

ゆっくりと沢南に助けてもらいながら起き上り、俺は此処が見晴らしの良い廃屋である事を確認した。

柿崎達はこの状況にまだ理解できていないのか真っ赤な顔をして怒っている。

「もう逃げ場はねえ!!」

柿崎は調子よく俺を指さしながら言った時、覆面男が視線を柿崎達に向けた。

覆面男が顎で誰かに合図みたいなのを送ると大きな瓦礫からジェイソンが付けている仮面をつけた男が出てきた。

右手にはメリケンサックを持っている。

覆面と仮面を付けた男達が柿崎達を取り囲み始めた。

「野上君が言ってた事ってこの事だったの?」

恐怖と涙交じりの声で沢南は俺に訴えるように言った。

覆面を被った男は柿崎達を蹴り始めた。

そして、仮面を被った男も同じように柿崎達を蹴り始めた。

時々男の笑い声が聞こえてきた。

これは・・・いくら何でもやり過ぎじゃ・・・。

俺はそう思った瞬間には地面を蹴って仮面を付けた男に向かって体当たりをしていた。

行き成りの俺の行動にボロボロになった柿崎は驚いた顔をして見ている。

「なに邪魔するんだよ。弱い者いじめは楽しい事なんだぜ?」

覆面を付けた男の視線が俺に注がれた。

体当たりされたせいで体勢を崩した仮面の男がまた真っ直ぐに立った。

ちらりと柿崎達に視線を向けると今までこんな事を体験した事が無いのかすっかり怯えきった顔をしている。

「お前、邪魔するとまたさっきみたいな事するぜ?」

そう言って男はジーパンのポケットの中から折り畳み式のナイフを取り出した。

そんな予想外な物を出されて俺は心底驚いた。

「ああ、お前も俺らのおもちゃにされたいんだな・・・。」

男の声が低くなった。

そして、男は俺に向かってナイフを振りかざしてきた。

柿崎達はこの危険な状況にやっと気が付いたのか急いで起き上り、そして逃げ出そうとした。

覆面の男はその行動を見逃そうとはせず、俺に一歩で歩み寄って突き飛ばして柿崎を狙って殴った。

柿崎は思いもしない攻撃に驚き、吹き飛ばされて地面に肘から着地した。

見るからに痛そうだと思っていると覆面を付けた男がゆっくりと柿崎に近寄り、そしてナイフの先をお腹に向けた。

「俺、まだ人って刺した事が無いんだよな・・・。刺したらどんな声で泣くか楽しみだ・・。」

恐怖の為に声を出すことが出来ないのか柿崎は涙を目に浮かべてぶるぶると頭を震わせた。

「まず一刺し!!」

男が景気よく言ったその時、何故か俺の胸にちくりと痛みが走った。

一体、この痛みは何なのかと思っていると何故か覆面を付けた男の顔が正面に見えた。

そして、後ろには怯えきった様子の柿崎が居る。

何で・・・なんだ?

「野上君!!」

悲鳴のような沢南の声が遠くで聞こえた。

「野上!!」

何故かあの柿崎の声まで聞こえてくる。

そして、俺は男の顔に向かって無我夢中で拳を一発入れた。

男はあっけなく飛んでいき、そしてもう一人居た男に抱えられながらこの場から去って行く姿が見えた。

「瀧!!何処に行ったの?」

遠くから涼の声が聞こえてきた。

見ると廃屋の2メートル位の高さのもんの側に涼の姿が見えた。

その場に居た全員が涼の姿を見つけると泣きながら廃止って行くのが見えた。

「野上が・・・野上が・・俺をかばって・・・。」

何故かあんな嫌な奴だった柿崎が泣きながら俺の事を言っている。

一体俺に何が起こったのかと思い、先ほどちくりと痛むと感じた場所に視線を移すとそこにはお腹に真っ赤な血が広がっていた。

しかも、ナイフの短い柄まで見えた。

俺・・・刺されたのか?

そんな事を思っていると血相を変えた涼が走り寄ってきた。

「野上!!しっかりしろよ!!」

今まで俺を散々蹴ってきた奴らが泣きながら俺に声を掛けてきている。

「駄目だよ。あんまり揺らすと出血がひどくなるから・・・。」

そう言って涼は柿崎達を遠ざけた。

涼はそっと俺を抱きかかえると柿崎達に向かってここは僕に任せてと言ってその場から離れた。


目を覚ますと満点の星空が目に飛び込んできた。

ゆっくりと起き上ると胸のあたりが水にぬれている様な感触があった。

その上にそっと右手を乗せて何かと確認してみると気が遠くなっていくような気がしたその時、穏やかな顔をしてこの夜空を眺めている涼の姿が視界に入った。

涼は俺が起き上った事に気が付くとニッコリと笑って手の平をひらひらとして見せた。

「今日は遅くなるらしいから僕の家でご飯食べて来てっておばさんとおじさんから連絡があったんだ。だから、安心して大丈夫だから。」

俺は辺りを見回しながらここが何処なのか辺りを見回すと昼間に武蔵野と丸内と一緒に弁当を食べた場所だった。

涼をよく見るとその隣には武蔵野の姿があった。

しかし、丸内の姿だけは何処にも見えなかった。

「涼・・・・一体何がどうなってるんだ?お腹刺された筈なのに痛みは感じないのに服は真っ赤だし・・・。予想外の事だらけだったぞ?」

すると涼は申し訳なさそうな顔をして苦笑いをして見せた。

武蔵野も同じような顔をして俺に謝る姿をして見せた。

「実はね、この計画は瀧が刺されるところまで計画のうちだったんだ。」

刺されるって・・・え!?

学校に戻る前、涼は俺にこの計画を隅々まで話してくれた。

沢南と一緒に帰り、わざと柿崎に掴まったフリをして廃屋までおびき寄せる。

そして、柿崎達をボコボコにしてその間に俺が履いてかばい、仮面と覆面を被った丸内と武蔵野を倒すという計画だった筈だった。

「おい、もし俺が柿崎の事をナイフが出た時に庇わなかったらどうする気だったんだ?」

怒り交じりに涼に聞くと何故かニッコリと笑顔で返答が返ってきた。

「瀧は僕の事何だと思ってるの?それに、お腹何処も痛くないだろ?」

言われてみれば服は真っ赤に染まっているのに何処も痛くない・・・。

すると涼はポケットから先程のナイフを取り出して見せた。

「実はこれおもちゃなんだ。」

そう言って涼はそのナイフを自分の左手のひらに思いっきり刺したが刃物は左手を突き抜けなかった。

なのに、左手の平からは真っ赤な血が滴り落ちている。

それを見て俺は驚きのあまり、口をパクパクとした。

「このナイフ、刺すと刃の方が引っ込む仕組みになってるんだ。それを利用して中に血のりを仕込んだんだ。だから、こうやって刺すと中のビニールが割れて血のりが滴り落ちてくる仕組みになってるんだ。」

満面の笑みを顔に浮かべて涼は言った。

だからそんなにも落ち着いた様子で居られるのかと思った。

「今回の計画は集団心理をちょっとだけ利用したんだ。」

そう言って涼は得意げな顔をして見せた。

「人は多くなれば多くなるほど流されやすくなるんだ。そこで、リーダー的存在の人が現れると皆そっちのいう事がどんなに間違っても見えない恐怖に怯えて聞いてしまうんだ。ある映画で見たんだ。仲が悪かった国同士が未知の生物エイリアンが来たことによって手を取って戦ったっていう内容の・・・。」

それを聞くと何だかおかしな気持ちになった。

「武蔵野、こんな時間までこんな所で居て大丈夫なの?」

涼は急に気が付いたかの様に言った。

すると武蔵野は苦笑いをして立ち上がった。

そして、俺達に向かって手を振ると初めて会った時に出てきた草の茂みへと姿を消した。

「なあ、何で武蔵野は一言も喋らないんだ?」

俺は今まで思っていた疑問を涼に言った。

「さあ、僕には何も分からないよ。」

そう言って涼は両手を頭につけて寝転がった。

俺は暫くの間、眠っているのか目を閉じて横になっている涼を見つめた。

「瀧・・・。」

突然、涼が眠そうな声でそう言って静かに目を開けて俺に向かって伸ばしてきた。

その手を俺は何となく握ってみたそのとき、その手が酷く冷たいと感じた。

何かに怯えているのか微かに震えているようにも感じた。

「十三年後の世界はどうなってるかな・・・・。」

唐突なそんな言葉に俺は一瞬どう答えて良いか分からず、目をキョロキョロとさせて答えを探した。

「運が良ければ結婚してるんじゃないのか?それで子供が何人かいて・・・。」

すると涼は穏やかな顔をして笑った。

「そっか・・・。そうだったら僕は幸せ者だよ。」

そう言うと涼は起き上り、俺に向かって手を伸ばして頭を撫で始めた。

「そろそろ帰ろう。母さんが瀧の分のご飯を作って待ってる。」

そして、俺は涼と共に涼の家に向かって歩いた。

それは纏わりつくような暑さを感じる夏の日の夜の事だった。


「瀧ちゃん、いらっしゃ・・・。」

涼のお母さんは俺達が玄関に入って姿を現すと穏やかな顔をしていつも決まりごとの様に言う言葉を言いかけて驚いた顔をして見せた。

まあ、誰でもこんな俺の姿を理由も分からずに行き成り見られたらこんな反応するだろうと思いながら俺はおばさんに向かって苦笑いをした。

「ど、どうしたの!!その血は!!」

おばさんは顔を真っ青にすると俺の両肩を掴んで気分は悪くないかとか大丈夫かと忙しなく聞いてきた。

「母さん、これ血のりだから安心して良いよ。それよりもお腹空いたなぁ・・・・。」

涼はこの話をさらっと流そうとそう言って土だらけの赤い運動靴を脱いで家の中に上り込んだその時、おばさんに首根っこを掴まれたために動きを止められた。

冷や汗を流しながら涼は引き攣った笑みを見せながら振り返った。

まるで鬼の様に怖い顔をしているおばさんがじっと涼を睨んでいる。

「涼、これは一体如何いう事なのか説明して貰えないかしら?」

顔は笑っているのに声は全く笑っていなかったので怖いと思った。

おばさんから視線を逸らしながら涼は右手の人差し指で右頬を掻いた。

「か、母さん・・・。遊びに説明なんてする事ないよ。ほら、早くしないとご飯覚めちゃうよ?」

しかし、おばさんは涼を掴んだまま離そうとしない。

「あら、ご飯はまた温め直せば美味しく食べられるわよ。瀧ちゃん、ちょっとおばさん涼とゆっくり話をしたいからその間お風呂にでも入ってて。着替えはもう脱衣所に置たから安心してね。」

そう言うとおばさんは涼の首根っこを掴んだまま近くにある和室まで涼を引きずって行った。

襖を閉める直前、おばさんは笑顔でゆっくりしてねと言って閉めた。

閉まる直前、涼の声が聞こえてきたが何を言っているのかまでは分からなかった。

俺は襖から漏れ聞こえる声を聞かない様にしてその部屋の前を通り過ぎ、脱衣所へと向かった。

脱衣所に辿り着くと鏡に映る自分の姿が視界に入った。

服の袖口から見え隠れする今朝蹴られて出来た痣が見える。

それを見ると眉を顰めずにはいられなかった。

一度、体の中に溜まった訳の分からないものを溜息と共に出して上着を脱いだ。

そしてもう一度鏡に自分の姿をもう一度映した。

今度は自分の体についた痣をもう一度見る為ではなく、自分の今の体系を見る為だった。

こんな事をしたのはほんの思い付きだった。

ふと、鏡に映る自分の右の肩の付け根に黒い痣が見えた。

最初は今朝の出来事のおかげでついた痣だろうと思っていたが体中についている痣とは少し違う物の様に見えた。

何処となくアルファベットの‘T“の様にも見える痣だった。

首を傾げながらその痣を見つめていると脱衣所の扉が開いた。

扉の入口に酷く疲れ切った顔をした涼が立っていた。

「あれ、瀧まだ入ってなかったの?」

疲れ切った声で涼はそう言うと手に持っているバスタオルを俺と同じ位の高さの茶色い棚の上に置いた。

「少し・・気になって・・・。」

黒い腕の痣を見ながら言うと涼は眉を顰めて俺の右腕を掴んで凝視した。

一瞬、涼の目が大きく開いたような気がしたがもう一度ゆっくりと顔を覗き込むと真剣な眼差しだった。

「やっぱり許せないね・・・。瀧、痛みとかは大丈夫なの?」

俺はゆっくりと首を左右に振って見せた。

その返答に対してと呟くように何かを言うと俺の頭に手を置いてきた。

「また・・・」

涼はそう言おうとして言葉を詰まらせた様な顔をして見せた。

「瀧はもう子供じゃないんだ・・・。」

意味ありげなその言葉を言うと涼は俺の頭から手を離した。

子供扱いをされるのは好きじゃないがこういう言い方をされると何だか複雑な気持ちになる。

「涼・・・一体どうしたんだ?」

今の俺の気持ちが分かったのか涼は苦笑いをして見せた。

「何にも無いよ。瀧がそんなに心配するような事は何もないから安心して。」

無邪気な笑みを顔に浮かべて涼は浴室から出て行こうと背中を向けた。

後になって俺は無理矢理にでもあの時聞いていればもしかしたら未来は変わっていたのかもしれないと後悔する事になる。

「ゆっくり入ってて良いよ。ご飯はまだみたいだから。」

そう言って扉を開けて涼は出て行った。

扉が開いたその時、何かを温めている音が聞こえてきた。

涼の様子に疑問を持ったがあまり目立った事ではなかったから俺は風呂へと入った。


「瀧ちゃん、美味しい?」

おばさんは笑顔でご飯を黙々と食べている俺に向かって言った。

涼は隣で気まずそうに黙々とご飯を食べ続けている。

先程の小言が相当効いているらしい・・・・。

「美味しいです!!」

出来るだけ場を涼を和まそうと俺は疲れる位の元気を振るいだして言った。

しかし、涼は未だに上がる気配を見せない。

おばさんは良かったと言って俺に色々と質問してきた。

俺のお母さんはどうかとか、学校では今何をしているのかと日常に当たり障りのない会話が続いた。

その間も涼は黙ったままだった。

気が付くと俺は暗い夜道を涼と共に歩いていた。

空を見上げると申し訳ない程の雲と少なめの星、そして存在感大いに感じさせる月が見えた。

そうか、涼の家でご飯を食べた後に自分の家へ向かって歩いているところなのか・・・。

「今日一日、本当に色んな事があったね・・・。」

涼はしみじみとそう言った。

「まあな。でも、明日からまた学校だ。今日という日をどんなに沢山の事を経験しても何時もの日常を過ごすことで簡単に消えるんだ・・・。」

明日というありきたりな日々を過ごさなければいけないと思うと憂鬱である。

すると、涼は珍しく溜息を吐いた。

その事に驚きながら涼の顔をまじまじと見つめた。

「瀧、そんな子供のうちから達観しても面白くないよ。もっと子供は子供らしい事考えなくちゃ。」

簡単な事を言うな・・・。

今という現実に興味を抱けない俺にどうしてそんな事が言えるんだと思った。

「ほら、こういう子供のうちしか言えない事ってあるんだよ?例えば、授業中に突然立って窓を指さして宇宙船が見えるって、大声で言ってみたりとか・・・。ランドセル学校に置き忘れて下校とか鶏の声が聞こえるとかさ・・・。」

何故だろう・・・。

涼は例え話のつもりで話しているのだろうが全くそうは聞えないのは・・・。

唖然としていると涼が舌を少し突き出して笑った。

「実はさっき言った事、僕が小学校低学年の時に全部やった事なんだよね。」

その言葉を聞いて納得がいった。

二回頷いた所で先程の誰も想像のつかない様な事をやった涼に対して驚きを覚えた。

「ほ、本当にやったのか?こんな・・間抜けな事・・・。」

余りの驚きのおかげで開いた口が全く塞がらなかった。

すると涼はブイサインを右手でして見せた。

「こんなの当たり前だよ。しかも皆乗ってくれて結構楽しかったよ。」

時々涼は何を考えているのか分からなくなる。

常識的な事を言うくせに何故か突然、非常識的な発想をしてそれを実践する・・・。

そんな涼を幼い頃から見ている俺はそろそろ涼の考えている事が分かって良い筈なのに、未だに考えている事がさっぱり分からない。

「よく、そんな勇気があるな・・。俺だったら・・・。」

そう言いかけて頭の中でその先の作った言葉をもみ消した。

本当に軽蔑するのだろうかとそんな疑問を抱いたからだ。

突然言葉を切った俺をどうしたのかと思った涼が顔を覗き込んできた。

「いきなりどうしたの?」

なんの悩みもなさそうな顔をして涼は言った。

俺はそれに対して首を振って答える。

「もっとすごい事する。涼が想像つかない様な面白い事をする。」

両手を広げて軽快に言って見せた。

すると涼は口元を釣り上げて噴き出すように頭を片手で抱えて笑い始めた。

「へぇー。それは楽しみだな。その時は僕も参加しても良いかな?」

俺は勢いよく首を上下に動かした。

「良いぜ。その時は絶対に協力しろよ。」

俺は笑顔で涼に向かって言った。

「もちろん。喜んで協力するよ。」

その時、夜なのに昼間みたいな明るさが俺の視界を襲った。

あまりにも強いその光に何が起こっているのか分からず、固く目を閉じた。

その瞬間に誰かに突き飛ばされた。

そしてそのまま俺は壁に強く体を打ち付けた。

クラクションの大きな音が聞こえてくる。

一体何が起こったのかと思い、痛みを堪えながら目を開けようとしたが余りの眩しさに開けていられない。

手探りで何が起こっているのか把握しようとしたが全く分からなかった。

涼の名前を呼んでもクラクションの音で自分の声がかき消されて聞こえない。

しばらくすると光は弱まり、目が開けられるくらいのものになった。

ゆっくりと目を開けて、先ほど何が起こったのかを確認した。

目の前に電柱に激突した車が見えた。

その車はまるでプレス機に掛けられたようにへこんでいた。

どうやら車が事故を起こしたらしい・・・。

運転座席は人が入れない位へこんでおり、恐らく運転手はもう生きてはいないだろうと思った。

その時、涼が何処に行ったのかが気になり、辺りを見回したが何処にもその姿が無かった。

急に心臓が握り潰されそうな気持になった。

「りょ・・・涼・・。何処に居るんだよ・・・・。」

しかし、返事は無い。

辺りを忙しく見回しているその時、まだほんのり暖かいアスファルトの上に横向きに倒れている人が見えた。

ゆっくりとそれに近づいた。

ピクリとも動かないそれに歩み寄る。

近づけば近づく程その倒れている人物が誰なのか嫌でも分かる。

「涼・・・。」

無意識のうちに伸ばしていた右手でまだ温かい涼の肩を掴み、仰向けにした。

「た・・・き・・・。」

弱々しい声で涼は言う。

呼吸するのが辛いのか大きく口を開けて息をしようとしている。

「良かった・・・何処も傷が無くて・・・。」

柔らかい笑顔で涼は血に染まった右手を伸ばして俺の頬を撫でた。

この言葉が一瞬にして嫌いになった。

まるで、涼が俺の知らない所へ・・・二度と会えなくなるのではと思ったからだ。

「絶対に・・・協力しろよな・・・。」

その声はいつの間にか震えていた。

すると涼は歯茎を見せて微笑んで見せた。

「当たり前だろ。瀧にだけ・・・・面白そうなこと・・・させる筈ないだろ?」

そう言って涼はまるで眠るかのようにして目を閉じた。

それと同時に俺の頬を撫でていた手がいつの間にか血だまりになっているアスファルトの上に落ちた。

落ちた右手を急いで両手で拾い上げて胸の前で握りしめた。

彼の命がまだ続くようにと思って・・・。

「絶対に協力するんだろうな?絶対だよな!!」

しかし、その叫び声に近いような質問に対しての答えは返ってこない。

遠くの方で救急車の鳴る音が聞こえてきた。

いつの間にか周りには野次馬が沢山居た。

まるで、劇か何かを見ているかのような物珍しそうな目でこの光景を見ている。

ザワザワと耳障りな声が聞こえてくる。

「道を開けてください!!」

暫くすると救急隊員らしき男二人が野次馬の間から出てきた。

手には担架を持っている。

「君、大丈夫かい?」

一人の男は俺に呼びかけ、もう一人の男はもう動かなくなった涼の側で応急処置などを施している。

突然の事に俺はこの状況がうまく飲み込めない。

今、この二人の男たちが何をして何を言っているのかまるで分からない。

何故か涼の側に居た隊員がもう一人の隊員に向かってゆっくりと首を振った。

それを見て俺の側に居た隊員が苦虫を噛み潰した顔をした。

嫌だ・・・。

隊員達は涼を担架に乗せて救急車に運ぼうと準備し始めた。

救急車に向けて運んで行く。

それがたまらなく嫌になった。

「待てよ!!涼を何処に連れて行こうとするんだよ!!止めろよ!!」

すると現場検証の為にやって来た警官が俺を羽交い絞めにして押さえた。

「離せ!!離せよ!!」

必死にもがいてみたがびくともしなかった。

その先から記憶が無い。

気が付いたら俺は真っ白い天井を見つめていた。

隣には目を赤く腫らせた母さんが居た。

「母さ・・・・ん?」

すると母さんは目を大きく開いて俺が目覚めた事に喜んだ顔をして見せた。

「夢だったのか・・・。」

声に出してそう言うと母さんは酷く悲しげな顔をして見せた。

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