第118話 正子と正良

正子内親王が叔父、淳和帝の元に入内じゅだいしたのは弘仁十四年(823年)頃と思われる。


確かに大伴の叔父さまには何度かお会いした事があるし、穏やかでお優しい方だとは思うのだけれど…


「ねえ明鏡みょうきょう

「なんでございますか?正子さま」


この日、正子の部屋は両親である嵯峨上皇と皇太后嘉智子があつらえて下さった季節ごとの衣装や化粧道具、文箱や絵の道具が廊下まで溢れていた。


それらをひつに入れる前に最終確認するのが明鏡の役目でまるで天女の衣のように柔らかい絹の衣装や全てに吉祥紋を施されたお道具を手に取る度にご両親の祝福とご結婚後の幸福への願いが伝わってくる。


あと数日で私のお乳を飲んでお育ちになられた正子さまがご結婚なさる…


という寂しさを脇に置いて作業に集中していた明鏡は内親王の不意の呼び掛けにぴたり、と手を止めて背後の正子に向き直って居ずまいを正した。


「明鏡はお父さまと結婚した時、具体的にどんな感じだったの?」


今年数えで十四になったばかりの内親王のあからさまな質問に明鏡は夫、嵯峨上皇との不意打ちをくらったような初夜。


その時の夫の体から立ち上った香の匂いまで思い出し、内親王の前でそのような事を思ってしまった自分が恥ずかしくなり、しばし言葉に詰まった。


いけないいけない、私は十七の生娘ではなくもう三十過ぎの古参の宮女なのだ。動揺から僅かの間で立ち直った明鏡は、


「わたくしたち側仕えの者と内親王さまとでは結婚の形が違いますゆえ具体的な事は申し上げられず残念ですが…大丈夫です、

帝はお父上と同い年の落ち着いた大人ですから正子さまを大事にして下さりますよ」


とゆったりとした微笑みまで浮かべて肝心な事をうまくはぐらかす回答をした。


ふーん、と正子は団扇を膝に置いて伏し目がちになり、


「きのうお母さまにも聞いたけれどあなたとまったく同じ答え。宮中の人たちって肝心な事は何にも言わないのね」

と肩を落とす。


あの人一倍恥ずかしがり屋の嘉智子さまは娘にそのような質問をされて私よりも動揺なさっただろう。


明鏡は内心嘉智子を気の毒に思い、正子さまはお顔立ちは母上ゆずりで美しいのだけれど好奇心が強過ぎるところと物事をはっきりさせなければ気の済まないご気性はそのままお父上の嵯峨上皇ゆずりだ。


それは聡明さの証ではあるのだけれどこのようなご気性の正子さまがさらに窮屈な後宮に入って大丈夫だろうか?


と明鏡は将来皇后になる予定の正子の今後を危ぶんだ。


わかりました、明鏡はこほん、と一つ咳をして


(…皆が出払ったら改めて私からお話しましょう。決して怖いことでは無いのですよ)


「ありがとう明鏡、あなたのそういうところ大好き」

正子は明鏡に抱きつき、彼女の肩に額を付けた。正子の体は小さく震えていた。


やっぱり正子さまも本当は殿方との結婚が怖いのだ。


「私ね…私、あなたのお乳を吸って大きくなってあなたに育てられたんだから。あなたは第二のお母さまなんだから離れるなんて、嫌!」


と腕のなかで小鳥のように震える正子の背中を明鏡は「大丈夫ですよ、大丈夫」と言葉を掛けながら優しく撫でて抱きしめ、豪奢な結婚道具が片付けられていく中、内親王と長年仕えた乳母は別れを惜しんだ…


正子内親王、淳和帝に入内。


久しぶりの天皇と内親王の結婚なので

目の前に儀式用の食膳が並び神官達が唱える祝詞の中、代々伝わる形式に沿った長い長い婚儀が行われ、


夜着に着替えさせられた正子が寝所に入ったのはもう夜中近くだった。


大丈夫ですよ、「せっかちなお父上」とは違って帝は辛抱強いご気性。すぐには私が教えたようにはなりませんから。


って明鏡は言ってくれたけれど…


寝所に座って夫を待つ正子は儀式の疲れで瞼が落ちそうになる位眠いのに初夜を前に胸の高鳴りが止まらないという感覚を不思議に思っていた。


帷帳をめくる音がして夜着に着替えた淳和帝が寝所にお入りになると正子はぴくっと身を強張らせる。


「そんなに畏まらなくていいのですよ」


幼い新妻を安心させようと淳和帝はいつもの微笑みをお浮かべになるが、その表情には疲れが滲んでいる。


「正子、疲れたでしょう?朕も疲れましたから今宵はこのまま休みましょう」


そう仰ってふあぁ、と欠伸をなさる帝に、


儀式の間は怖いくらい無表情だったけれど…良かった。中身はやっぱり大伴の叔父さまのままだ。


安心すると視界がぐらり、と揺れる。過度の緊張が解けて座った姿勢から前のめりになって熟睡してしまった。


おやおや、と正子内親王を抱きかかえて床に入れた淳和帝は、


きょう一日内親王らしく気丈に振る舞っていた姪をいじらしく思い、


確かに朕は十四年前に最愛の妻、高志内親王こしないしんのうを亡くし、事実上正妻不在ではあるが、まさか兄上皇が愛娘を朕に差し出すとはなあ…


幼い頃より我が子同然に慈しんで何度か膝に乗せた姪っ子を妻として迎え入れる事に淳和帝も本当は戸惑っていた。


ん…と枕頭でかすかに瞼を震わせる正子の寝顔を見つめ、


まあ時間をかけてゆるゆると夫婦らしくなればいい。その内なんとかなるだろう。


と自らも正子の隣で熟睡した。


弘仁十四年四月、正良親王立太子。


正良親王の顔つきは母嘉智子ゆずりで鼻梁整って美しく、色白で細面の顔に皇太子の礼服である黄丹袍おうにのほうがよくお似合いになる。


これぞ君子の品格であらせられるよ。


と立太子礼に参列した参議たちの評価を夫で右大臣の冬嗣から聞いて冷泉院に持ち帰った尚侍ないしのかみ、藤原美都子は嵯峨上皇と嘉智子皇太后に報告し、


「そうか、あの正良が立派に役目果たせたか」

「春宮さまももう大人におなりなのですね…」

と新春宮の両親を涙ぐませた。


「尚侍よ」

「は」

「立太子から間を置かずして結婚、と春宮にとっては忙しくなる。新女御にもよく言い含めておくれ」

は、と美都子は団扇を掲げ、


「我が娘の事で恐縮ですが、女御さまはどこに出しても恥ずかしくないよう夫冬嗣が作法と教養を身に付させました。

常に春宮さまをお支えするよう言い聞かせております」


ときっぱり言ったので嵯峨上皇は目を見開き、

「尚侍よ」

「は」

「行幸の折、最初に貴女に会った時はただただ大人しく内気な人だと思っていたが、十年の宮仕えで強くなったねえ…」


としみじみと仰せになり、ま、まあ…と美都子は困り笑いをした。


立太子から数日後の吉日に藤原冬嗣と美都子の娘、藤原順子ふじわらののぶこ。春宮の女御として入内。


変だなあ、今日は体調がいいはずなのにこの胸の動悸は何だろう?


床入り前の着替えの間、正良まさらは何度か深呼吸したが咳が出ないし襟元と夜着の帯もこころもち緩めてもらったし持病の喘息でもない。


「よいですか春宮さま、女御さまもまだ幼いのでご無理をせず最初はお添い寝するだけでいいのですよ」


う、うむ…とぎこちなく頷いて床入りした正良は灯火のほのかな灯りの元でうつむく少女に向かって「顔を上げてもいいよ」と優しく声を掛けた。


はい…という返事の後に相手がゆっくり顔を上げた時、深みのある黒い大きな双眸がこちらを捉えた。少女は目尻が少し垂れた愛らしい顔立ちをしていてふっくらとした頬にぎこちない笑みを浮かべる。

薄暗い寝所の中なのにそこだけ光が強くなったように正良には見えた。


「私は正良、あなたの名は?」


「順子、藤の順子と申します」


「ずいぶん幼く見えるけど年齢としはいくつなの?」


「ことし十二になりました」


「そうか、大人になったばかりなんだね」


豊かな黒髪の下で再びうつむく順子の頬に手を添え正良はしげしげと新妻の顔を見つめる…


急に春宮さまに触れられた順子は恥ずかしさで胸が高鳴り、相手はさらに空いた手で胸に触れるので母から教わった閨の作法なぞ忘れて頭が真っ白になる。


ふいに順子から手を離した正良は自分の胸に手をやり動悸が止まらないのを確かめた。


「ああ、やっぱりだ。これ具合が悪いんじゃなくて恋をしているからなのか。安世が言ってたのは本当なんだ!」


ああ、良かった…と胸撫で下ろしている春宮さまに順子は「今はお加減がよろしいのですか?」としか言えなかった。


「ああ、右大臣から聞かされているとは思うが私は生まれつき体が弱い。

時々咳の発作を起こしてあなたを困らせると思う…いや、必ず困らせる。こんな私ですが好いてくれますか?」


生まれた時から正良の妻となるべく育てられた順子は私がお仕えする親王さまとはどういうお方なのかしら?


と幼い頃から思いを巡らせてきた。春宮というご身分でありながら好いてくれますか?と仰る正良の謙虚な人柄に順子は強く惹かれ、


「はい…はい!」と大きな目を輝かせて答えた。


もそっと近う、と言われて床に座る正良のすぐ傍までいざって行くと柔らかくて温かいものが唇に触れた。


「こ、今宵はここまでにしておきます。もう寝ましょう…」

口づけをしただけの幼い夫婦は並んで床に入り、緊張のためか明け方近くまで眠れなかった。


これが次代の皇后とその次代の天皇になる橘嘉智子が生んだ姉弟、正子と正良の結婚の初夜である。


唐から来たばかりの祆教徒けんきょうと(唐でのゾロアスター教徒)たちと会ってみないか?


という阿保親王からの文を頂いた空海は指定の日時までいてもたってもいられない心持ちだった。


わしが唐から帰国してはや十八年。


唐に残してしまった霊仙和尚りょうせんおしょうの消息が聞けるかもしれない。


と思い、ことし二十四才の年若い弟子、真済しんぜいだけを連れて阿保親王邸に向かった。


「真済」

「はい」

「あんたには常にわしの側に居てわしの言ったこと全て書き残すように言い付けている。が、親王様のお邸での会話は一切秘密や」


「承知しました」


真済は十五の時空海の弟子になり、優れた文人を輩出してきた紀一族であることに加え、


持統朝に活躍した歌聖、柿本人麻呂の又従兄弟にあたる血筋であるためかどうか解らないが、


聞いた事はすぐ覚え、決して忘れるという事が無いので空海は彼を自分の書記係に付けた。


以来真済は師の期待以上の働きをしてくれている。


阿保親王邸の奥まった一室に通された空海はそこでソハヤとシリン夫婦に実に三年ぶりの再会をし、

「お互い忙しくて会えんかったな」

「ええ、子らも大きくなりました」

と互いに笑顔を見せた。


では、とソハヤに促されて隣にいた褐色の肌の男女が顔を上げ、


「私はアラム、唐名では廉絹索こうけんさく。代々絹織物を扱う家です。これは妻のレイリ。共に拝火教徒です。十四になる息子が一人おります」


とたどたどしい日の本の言葉で夫妻は自己紹介した。


「拙僧は空海。恵果阿闍梨の弟子としてこの国に密教を布教しております。ご夫妻、早速で悪いのですがあなた方が知っている限りの唐の情勢を教えていただけますか?

特に霊仙という留学僧の消息を知りたい」


そう聞かれてアラムはああ…と嘆息し、


「この国の僧の霊仙どのと三蔵法師霊仙さまが同一人物ならばそのお方はいま大変お可哀想な目に遭っておられます」


定期的に都に来る唐商たちの噂で般若三蔵さまに取り立てられた霊仙どのが出世なさっているとは聞いたがまさか、最高位の三蔵法師になっていたとは!


空海たち遣唐使が帰国してから五年後の唐の元和6年(811年)、カシミールから来た師、般若三蔵から受け継いだ「大乗本生心地観経」の梵語から唐語への翻訳事業を見事成し遂げ、憲宗皇帝より日本人唯一の三蔵法師号を授かっていた。


しかし当時仏教に傾倒していた憲宗皇帝は仏教の秘法が海外流出する事を恐れ霊仙を故国に帰る事を禁じてしまった。


「憲宗皇帝が宦官たちに暗殺された事は知っています。ご乱心で戯れに宦官たちに毒を盛って殺していたと」


そうです、とアラムは頷き、

「陛下は跡継ぎの李寧太子が若死になさったのは宦官が毒を盛ったからだと疑心なさっていた。だから報復を…これが長安に住む祆教徒たちにまで伝わる宮中の噂」


そこまで自分で言ってああ恐ろしい、唐はなんて国になっちまったんだ!腐っている、何もかも腐っている!と胡語でまくしたてた。


「後ろ楯を失われた霊仙さまはさぞかし不自由なさっているであろう」


「主だった僧侶がたは皆五台山に脱出なさいました。

憲宗皇帝亡き後道士たちが威張るようになり異教徒への弾圧が始まりました…ここでの話ですが我々一家も唐から脱出してこの国に来ました。唐は今やもう地獄です、助けて下さい!」


霊仙さまは三蔵法師号を授かり、今は五台山にいる。


という情報を得た空海は励ますようにアラムの手を取り、


「ずっと知りたかった唐の情勢を教えてくれて有り難うございます。あなた方の処遇についてはこの空海、全力で叶えてみせます」


そこで夫妻はやっと安堵の色を浮かべありがたい、ありがたい…と涙をこぼす。


きっと長安を発って唐から出るまでいつ命を奪われるか、この国で受け入れてもらえるか、と怯えながらここまで来たのだろう。


空海よ、十年後にはまた会おう!


長安を出る時、師僧たちに混じって見送ってくれた霊仙の声と笑顔を今さらながらに思い出す。


恨まれてでもいい、

あの時強引にでも国に連れて帰れば良かった。

いま何処にいらっしゃいますか?息災でいらっしゃいますか?


日来弥ひきねさま…」


と彼を本名で呼び掛けずにはいられない空海だった。










































































































































































































































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