第113話 シリン都に行く

遥か昔、大陸の西方ペルシアの地でひとりの草原の民が苦難に満ちた人生の中で、


所詮人は、この世での戦いから逃れられないのだ。

という答えを得た。


拝火教ことゾロアスター教は紀元前千年以上前にザラシュストゥラ・スピターマことゾロアスターが伝えた今のところこの世で一番古い善悪二元論の教えと云われる。


この世におけるありとあらゆる現象は全て善き神スプンタ・マンユと悪しき神アンラ・マンユの永遠の戦いがもたらすものである。


とシリンは幼い頃から胡人で拝火教のマギ(司祭)である祖父にそう言い聞かされて育って来た。


古代の胡の神々の戦いが我々現世に生きる人間にもたらすものは、例えば


誕生、豊穣、平和など喜びが多い時代には善神が優位に立っていて


死、飢饉、戦乱など苦しみが多い時代には悪神が優位なのだ。


我々人間も自分の中の善と悪が常に戦い続けており神々の世界と私達は決して無関係ではない。


というの拝火教独特の教えを祖父は誇りにしていた。


では高野山の頂で暮らしていた頃、


両親が雷に打たれて死んだり、

お山の恵みである丹が掘り尽くされて麓の秦一族と仲違いしその後間もなくお祖父様が亡くなられたり、

許嫁であるムラート兄様が婚儀直前に山を降りて逃げてしまわれたのは悪神の優位の時代だったのだろう。


そう思っていないと両親を奪った落雷に常に怯え、長く厳しい冬を繰り返す高野山の頂ではとても生きていけなかったのだから。


そんなシリンこと丹生志厘媛にうのしりんひめに転機が訪れたのは十七歳の夏。


お山によそ者が近づいている!


と番犬たちの動きから察知したシリンは結界近くの木に登り里に入ろうとする四人の男を素早く観察した。

先頭の男が笛を吹いて威嚇する番犬を鎮めたのでそれが兄のムラートだと気付いて嬉しかったが、それ以上にシリンの目を惹き付けたのは…


ムラート兄様が連れてきた僧を警護している彫りの深い顔立ちの、シリンと同じ年頃の若者だった。


許嫁ムラートの帰還と十年前にこの里に来て約一年を過ごして去った私度僧の真魚さんが今をときめく空海阿闍梨として出世して帰って来た!と沸き立つ里の人びとをよそにシリンは木の上でずっとソハヤというその若者の顔を見続けていた。


が、不意に向こうから「ねえ、そこの娘さん」と声をかけられたのでシリンはどぎまぎしたが、ああ、この人最初から私の気配に気付いていたんだ。


シリンは仕方なく木から飛び降り、「あんた、名は?」と自分の方からソハヤに声をかけた。


「俺の名はソハヤ、あんたこそ名乗れよ」

「私の名はシリン。丹生志厘媛にうのしりひめともいうわ」


実はこの時代、男女が名乗り合うことは求婚と承諾の証である。


という事を知らなかった山育ちのシリンは後で、

「シリン媛は自分から殿方に声を掛けて求婚したの?なんて積極的な…」

と麓の秦一族の娘たちから呆れられ、その時は耳朶まで赤くなった。


でも結果的に今シリンはエミシの若者ソハヤと結ばれ、三人の子に恵まれお山の麓の天野の里で幸せに暮らしているのだから。


きっと空海阿闍梨がお山にソハヤを連れてきた時から善神の勝利スプンタ・マンユの時代が始まったのかもしれない。


と思ってシリンは今の幸福を噛み締めて日々暮らしている。



(…おいわらわ、お前名はなんと言う?)


そう声をかけられた童がふと顔を上げると長い髪を垂らした背の高い男の影が彼を見下ろしている。


「シルベ、賀茂の志留辺しるべ


と何の曇りもない青い目で童ははっきりとそう答えた。


(シルベか…いい名だ。エミシの言葉で風、という意味だそうだな)


「うん!おとうもそう言ってたよ。お父のお父から貰った名前だって…あれ?」


童が再び顔を上げると


(ソハヤの息子シルベよ、いにしえの神の導きのもと健やかに育てよ…)


とだけ声を残して影は消えていた。


初夏の光のもと青々とした木々に風が渡り、小さな葉っぱが童シルベの足元で舞い落ちた。


おーい、シルベ、シルベーと父が自分を呼ぶ声で弘仁十年初夏、この年五才になる賀茂騒速の次男、志留辺は我に返った。


「何?天狗に出会っただと?」


と息子の言葉に騒速は素っ頓狂な声を上げた。


草庵の炉では火に掛けられた鍋の中で牛の乳で煮た山菜や大豆がぐつぐつ煮えて室内に乳の甘い香りが充満している。


その匂いに空海はじめ食糧を受け取りに頂から降りてきた密教の僧侶たちはごくり、と喉を鳴らす。


「まだまだですよ、さいが煮えるまでしばしお待ちください」


肉食をしない僧侶たちにせめて精が付くようにと搾りたての牛の乳に野菜を入れて煮たあつもの(奈良に伝わる飛鳥鍋)を作った騒速の「はい、もう召し上がってよろしいですよ」という合図で空海、智泉、泰範は合掌してすぐに器に具をよそい、熱ちっ、あちちっ!と言いながらも乳鍋に食らいつく。


帝から重用されている空海阿闍梨とその弟子たちだけど、

美味い食い物は高僧をただの人間に戻しちまうよなあ。と無心で鍋の具を食らい熱い乳を啜る四人を前に思う騒速であった。


「で、あんたはんが見た天狗ってのはどんな顔かたちをしていたんかな?」


腹を満たして人心地ついた空海が志留辺の話に興味を持って聞いてみると志留辺はんーと、んーとね、と先程会った天狗の容貌を思いだそうとする。


「おせいが高くて髪が長くて白い衣を着ていて…」


ああそうだ、と空海が脇に置いている杖を見て「このような印が天狗さんの杖にもあったよ」と杖の焼き印の羽団扇を指差して言う志留辺の言葉に思わず顔を見合わせたのは父騒速と空海だった。


「騒速、そのお方はもしかしたら」

そうかもしれない、と騒速はうなずいて


「杖の印の羽団扇は葛城と熊野の修験者たちがお山を行き来する許可証代わりなんだ」


元修験者である騒速は息子が語る天狗の特徴に、


まさかお頭、あなたか?


八つの頃孤児になった騒速を引き取って育ててくれた修験者の長、タツミの濃い鼻梁を空海と騒速は脳裏に思い浮かべた。が、その感情は嬉しさや懐かしさというよりも…


タツミさまが何故高野にまで来て元弟子である我々ではなく幼い志留辺にだけ声を掛けて去ってしまわれたのか。


空海の唐留学のことや第一弟子の智泉との出会い等先に起こることを必ず言い当ててこられたタツミさまは、


まさしくげき(男のシャーマン)の能力を持つお方だった。


お頭は俺の子に何か託宣をなさったのか?


夏の涼しい山風が草庵に流れ込んで僧侶たちが寛ぐ中、騒速と空海だけが浮かない顔をしていた…


その夜、焚き火を囲む秦、丹生、田辺の三氏族の前で在家向けの説法をする空海の姿があった。


「そもそもわしら密教僧は、人の愚かさの身口意である三業を、

仏の知恵の身口意である三密に変えるために修行を行います。

三密とは身口意しんくい

身とはやっていること。

口とは日頃口にしていること。

意とは常に思っていることであり、我々僧侶も在家も自分が普段、何を思い、何を口にし、

どのような行動をしているのか、

常に心を落ち着け正しく捉え見ていくことが重要なのです」


真魚さんの語る真言密教の教義は自分たち拝火教徒が守る三つの徳、


善き考え(善思)、善き言葉(善語)、善き行動(善行)


と良く似ている、

それもそのはず真魚さんは昨年亡くなった大叔父クリシュよりアヴェスター(教義)を伝えられ、祈りの火まで授けられた、


この国で初めてのマギなのだから。


ということは百年前にこの国に来た胡人の血を引く拝火教徒たちだけの秘密であった。


故に天野の里で細々と教えを守る数少なくなった拝火教徒たちは空海の言葉には耳を傾け、彼の灯す火に手を合わせて祈る事を受け容れた。


「財産も家も血も残すことが出来ない、と悟ったら形を変えて思想を残せばよいではないか。ザラワシュの教えが形を変えて子孫たちに伝わる」


高齢と病で衰弱しながらも空海にアヴェスターの最後の一説を伝え切ったクリシュは最後に千年以上も前の先祖から伝わる祈りの火の火種を空海に手渡してから、

「満足だ」

と言い遺して息を引き取った。


拝火教徒たちが高野山の頂から降りて十年。麓の秦一族と胡人の田辺一族の男女がもう十五組結婚してその血は混じり合い、


両親とも拝火教徒でなければ拝火教徒にはなれない。


異教徒(ここでは仏教徒)と結婚した娘は拝火教徒ではなくなる。


という厳然とした決まりのため当然拝火教徒は減って行き、


今ではシリンの兄の波瑠玖はるく(ファルーク)、奈良で仏師をやっている次男の牟良人むらと(ムラート)、そしてシリンとの結婚を機に拝火教徒になってくれた夫の騒速だけになってしまった。


幸い三兄妹はそれぞれ結婚して子供たちに恵まれている。

波瑠玖兄様の六人の子と晩婚ながら昨年胡人の娘と結婚なさった牟良人兄様に生まれてくるであろう子、


そして、

夫ソハヤとの間に生まれた今年六歳の長男、甲斐(カイ)、五歳の次男、志留辺しるべそして来年の正月に三歳になる長女、実奈ミナたち子孫が成長してナオジョテ(ゾロアスター教の洗礼)を受ければ次代に教えは受け継がれるのだから。


高野山の頂を真言密教の僧侶たちに明け渡して麓に降りても周囲を山々に囲まれた天野の里でシリンは蕨手刀を鍬に持ち替え農作業に従事する夫騒速と仲睦まじく暮らして子供たちを育て、ゆるやかに流れる時の中で教えを守りながらここで生きていくのだろう…


と信じて疑わなかった。


あの時、懐かしい客人の形をしたつむじ風がやって来たの弘仁十年の秋の初めまでは。


朝廷の武官、巨勢清野こせのきよのが三年ぶりに白い犬を連れて天野の里を訪れた。


報せを受けて頂から降りてきた空海に清野は帝からの勅書を広げ、


「空海阿闍梨には都に帰還し、期限付きで帝のお側に仕えていただきます」


との勅命を伝えた。


そして次に「また、護衛の従者として賀茂騒速を付け、都で鷹戸たかかいべ(鷹匠)として仕えてもらう…これは帝の御意志による勅命である」


ソハヤの家で生まれて清野に育てられて立派な猟犬になった阿久仁の横で勅書を読み上げた清野は役目を果たした途端、一年どころか十ヶ月で都に呼び戻す命を下した嵯峨帝に代わって空海に済まなそうな顔をしてから、騒速に向かって


「いちおう任期は三年。単身で都に来るも妻子を連れて来るも構わないから」


と言うので慌てて騒速は家に駆け込み中で醍醐(チーズ)を作っていたシリンに向かって

「疾く子供たちを集めて荷物をまとめるぞ、都へ出発だ!」


といつになく焦って声を張り上げた。


翌朝、騒速一家は荷車一台に荷をまとめて旅姿の空海と泰範と共に天野の里から旅立った。


平安京、と呼ばれる都とは一体どんな所かしら?

珠を敷いたように美しい所なのだろうか。とシリンは末娘を抱いて夫の後ろについて歩きながらも内側の興奮が無意識に体に出たのだろう、


シリンが強く抱きすぎたため娘が腕の中で身をよじって、


「おかあ、痛いよ」


と声を上げた。



因みにゾロアスター教ではこの宇宙の始まりから終わりまでの期間は1万2000年を3000年ずつ4つに区切り、

「(霊的+物質的)創造(ブンダヒシュン)」

「混合(グメーズィシュン)」

「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分けられ、


シリンが生きたこの時代から現在に至るまで「混合の時代」と言われている。


こうして夫騒速に都行きの勅命が下された時から、


隔絶された故郷で育ったアーリア系ペルシア人の子孫シリン媛と黒髪に青い目の子供た

ちの混合の時代に相応しい激動の人生が始まるのである。








































































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