第68話  真言の灯

高雄山寺とは延暦の時代、平安京北西の愛宕山中腹に建てられた寺である。


その一室では火鉢に水を入れた鉄鍋を置いて注意深く湯を沸かす僧侶とその客人が火鉢を挟んで向かい合っていた。


鉄鍋の中の湯が沸いて泡が鍋肌に着いた頃合いに最澄は茶葉を淹れ、中で華のように広がる茶葉を見ながら柄杓で一煎目を汲み取り、均等に器に注いだ。


「これは…甘い!」

と最澄自ら淹れてくれた茶を啜り、空海が感嘆の声を上げた時である。


「実は、貴方にこの高雄山寺をお譲りしたいと思うのですが。いかがでしょうか?空海阿闍梨」


と、講堂での初見の後で最澄から唐突に切り出されたのが、高雄山寺の譲渡の話であった。


頂けるものなら遠慮なく頂いておきなさい。


というのが佛の教えであり空海もその信条を貫き、残り物の飯でも、砂の入った飯でも、


腐ったもの以外は器に頂いて喰らい、飢えをしのいで托鉢の旅を続けた私度僧時代を送ったからこそ今の自分が在るのだが…


いきなり寺一つ譲る。と言われてはい、そうでっか。と安易に答える訳にはいかない。


器の中の琥珀色の液体に目を落とし、空海は考え込んだ。

「それはわしの一存で決める事ではありまへん」

言葉を濁して空海はこの日、一旦話を引き取って高雄山寺から辞した。


理由は高雄山寺開基の背景にあった。


「よりによって、父清麻呂がお前の為に建ててやった寺を出会ったばかりの私度僧あがりの異教の僧に受け渡すとは何事かっ!?」


普段政治に無関心で怠惰な兄の広世より真面目で温厚篤実な人物よ。と宮中での評判高い清麻呂の五男、和気真綱わけのまつなは空海の報告を受けた嵯峨帝から高尾山寺譲渡の話を聞いてさすがに怒り、場をわきまえず最澄に怒鳴り付けてしまった。


「は、まことに申し訳ありません…」と恐縮して頭を垂れる最澄の帽子に「大体だ」と真綱は怒気を含んだ声を投げつけ、


「事を行う時に人に相談しないのはお前の悪い癖だ。だからお前は無意識に敵を作りすぎる」


と最澄の決定的な欠点を指摘したところでおほん!と空咳をしたのは藤原冬嗣。


「色々説教したい気持ちは解るが、帝の御前で剣呑なことは止めていただけますかな?」


見られただけで弓矢で狙われた心持ちになる。


と評判の鋭い目つきで冬嗣にひと睨みされた27才の真綱はしまった、御前であった…と大層恥ずかしがり「た、大変失礼いたしました」と笏を掲げ、目の前の嵯峨帝に恭しく謝した。


「よい、真綱」と嵯峨帝は軽やかに笑ってお許しになり、真綱の今の発言から、


私度僧上がりの異教の僧。


それが都の貴族たちの空海への認識なのか。


父上の政策でしばらく仏教とは距離を取っていたがこれではあまりにも。

と貴族たちの密教への無知と見識の浅さを垣間見た気がし、空海のこれからを憂慮した。


よし!ここはひとつ。


「確かに檀乙(檀家)の和気氏に相談も無く空海に譲渡しようとした最澄も悪い。

が、真綱よ。持ち主が誰に代わろうと高雄山寺が和気氏の氏寺であることには変わりは無いであろう?」


改めて帝に指摘されると、そうでなのある。


しかし、

この高雄山寺を守り最澄を助けよ。

と遺言を残された父上のご遺志の象徴である高雄山寺がいともたやすく最澄に放り出され新入りの密教僧、空海の手に渡るのが真綱は悔しいである…


「して、お前の兄広世はこの件に関してどう言うておる?」


は、と真綱はわずかに顔を上げ、


「譲るも何も、高尾山寺は唐土から持ち帰った密教の宝物に埋め尽くされているではないか。

既に高尾山寺は密教の寺であり、最澄が空海に譲り渡すのは当然だ。と」


広世め、と嵯峨帝は片頬で笑った。

出仕は最低限。医師のつとめ以外は怠惰なくせに肝心なことは理路整然と語れるではないか!まあいい、この意見使わせてもらうぞ。

と日頃政治に無関心なふりをして宮中に敵を作らないようにふるまっている左中弁広世の意見を是とした嵯峨帝は、


「じゃあ決まりだな、高尾山寺は空海にやる。手続きはお前らに任せるからもう下がってよいぞ」


とお取り決めになり、これで空海に高雄山寺という拠点が出来たぞ。と内心ほくそ笑んだ。

あとは…

「冬嗣」

「は」

「新居の住み心地はどうだ?」

「使用人たちの部屋も出来てなんとか家族が不便なく暮らせるようにはなりました。が、完成まではまだまだです」

「じゃあ空き部屋も多かろう」

「は、寒々しい限りで…」


と冬嗣が帝との雑談に応じていると

「ところで都での住処すみかに困っている人物がいるのだがな」

と急に困った話の流れになった。


「その者、入京したばかりで今は仕方なく学者である兄の家に居候して不便しておるのだ。内裏に近いお前の邸にしばらく置いてやってくれると助かるのだが」


帝はいったい何を仰せになっておられるのだ?


と眉根を寄せた冬嗣に「その者と弟子の暮らしに必要な経費は全て朝廷が持つから」嵯峨帝が畳みかけるように言うと、


「ああこの冬嗣、客人が誰か解ってしまいましたぞ。明日には阿闍梨をお迎えできますゆえ」と冬嗣が快諾すると

「こいつめ、二を語れば十まで先読みする男よ!」と嵯峨帝は腹心の怜悧さを喜んだ。


それから七日後、一台の牛車が新帝即位のお祝い気分覚めやらぬ都の大通りの人だかりをゆるゆると抜けて藤原冬嗣の新築の邸に着いたのはお昼過ぎ。

牛車から降りた僧侶の一人は冬嗣に案内されて客室で部屋で待っていた僧侶たちの顔ぶれを見るなり開口一番、


「歩いたほうが早かった!」


と毒づいてから勤操は唐に送り出してから実に5年ぶりに再会する空海に走り寄って抱き付き、そのまま押し倒すと「会いたかったぞ…」とむせび泣いた。


「おい、止めなくていいのか?」と冬嗣は智泉の袖を引いたが、


「ああ、あのお二人にとってあれは挨拶がわりですから」

と笑って言われたので、


唐では男同士が情を交わし合う男色が最新流行なのだ。とこの前空海から聞かされたばかりだが、


さては空海も嗜んできたかな?


と思い、

「そういうものか」と空海阿闍梨と勤操和尚の仲を完全に誤解したまま客間から辞した。


しかしあの顔ぶれ。我が家の客人空海阿闍梨と、その第一弟子智泉。三論宗の講師として名高い勤操和尚。藤原南家出身で法相宗の後継者、徳一和尚。

勤操と徳一がそれぞれ連れてきた僧侶ふたりはよく知らないが、いずれも優秀な僧なのだろう。


これからの仏教界を牽引する者たちの会談が今、俺の邸で行われている…


そう思うと冬嗣は何かとても愉しみになり、妻から「何かいいことでもありましたの?殿」と聞かれるぐらい口元が緩んでくるのであった。


「彼の者は杲隣ごうりん。法相と三論の教えを学んだ東大寺きっての切れ者だ」


と徳一が紹介すると杲隣は一重まぶたの目をぱっちりと開いて「ほな、宜しくお願いします」と年下の空海に手を付いて礼儀正しく挨拶をした。


次に勤操が連れてきた若い僧侶の肩を抱き寄せ、

「こいつは実恵じちえ、まあ空海と同じ讃岐佐伯一族の出身なんで空海の弟子にちょうどいい。と思って引っ張って来た大安寺の僧や。で、実恵と空海、あんたらどれくらいの血の繋がりなんや?」


改めて勤操に聞かれてそうですなあ…と26才の実恵はくりくりとした丸い目を一旦天井に向けてから、

「お互いの祖父同士が兄弟なんで、またいとこぐらいになります。でも故郷では真魚兄まおあにぃに読み書き教えて貰ったってぐらい近しい仲で」


と空海を子供の頃の呼び方で気安く呼んでしまい、あ、失礼。と照れて頭を掻く実恵。なかなかの好青年だと一瞬周りに思わせたが…


「真魚兄ぃが私度僧だった頃は佐伯の恥だと思ってましたが、阿闍梨になって帰って来られてからは佐伯の誉れだと思っています」


とずけずけ本音を言ってしまったので、やはりこいつ空海の血縁者だ…


と他の僧たちを妙に納得させた。


さてお集まりの皆さま、と空海は皆の前で頭を下げ、


「やれ密教の継承者だ、新しい宗派を立ち上げる阿闍梨だ。

などとお上から過大な期待を込められているこの空海ですが…

その実態は弟子たった一人。

寺も都の外れの高雄山寺を頂いたりばかりで


そこに常駐してもらう弟子にも事欠く無いないづくしの未熟な宗派です…


此度はわしの嘆願に応えて新しい弟子を連れて来て下さって誠にありがとうございます」


と床に手を付いて最大限の感謝の意を表した。


「堅苦しい挨拶は止せ。お前らしくないぞ」徳一が空海の肩をつつき、

「せやせや。いつもの図々しいお前に戻れ空海!」と勤操がはやしたてると空海はこらえきれずにふふ…ふ、と笑い出し、


「ほな、佛の教えにある通り頂けるものは有難く頂いておくのがこの空海の信条…杲隣と実恵を密教の弟子として、頂きます」


と顔を上げてにんまりと宣言した。


空海、智泉、杲隣、実恵。この僧侶たちが後にこの国の仏教、政治、文化、精神性全ての礎を作る「真言宗」という密教の宗派の、最初の四人である。


「取り敢えず智泉と実恵には高雄山寺に常駐してもらい、参詣者の接待などは叔父上に助けていただきたいのですが」


と甥の空海に頼まれた元学者、阿刀大足あとのおおたり

「成程、あの寺には役人も貴族も訪れるゆえ世事に長けた年寄りが要るな」と快諾し、若い弟子二人に付いて行った。


さて、部屋を借りている藤原冬嗣の邸から呼び出しがあれば宮中に通う事になった空海と杲隣だが…


「い、忙し過ぎる…!」

と参内した僧侶の休憩室で後宮の女人たちの診察。というひと仕事を終えた43才の杲隣は息を切らし、床に手を付いて座り込んでしまった。


「へえ、ちょうど後宮にはきつの夫人はじめ身籠られた女人が13人おられます。皆様年が明けたらご出産予定…杲隣どの、来年の後宮がどんな様子か想像してごらんなさい」


赤子の泣き声が途切れぬ後宮の様子を想像した杲隣は、

「めでたい事だが医僧にとってはとんでもない激務だ…」

と絶句した。


「そうなのだ、我ら内供奉だけでは人手が足りないのだ。いつも済まぬのう阿闍梨」


と宮中の内道場に勤める内供奉ないぐぶ(皇族付きの医僧)の長が年老いた顔に疲労の色を滲ませ、空海に向かって合掌した。


「内供さまがたのご苦労、お察し申し上げます…」

と空海が真言の新弟子と並んで老僧に合掌しているところに、


何かに当たり散らすような甲高い男の声がしたので内供たちはまた上皇さまか?いえ、東宮の方から声がしました!


と確認し合い、居合わせてしまった空海たちをちら、と見てから、

「宮中で一番見せたくなかったものをお見せします事になりますが…致し方ない。付いてきて下され」


と固い表情でうなずくと急いで東宮に向かい、騒ぎの現場となっている廊下で細面の貴人が目を剥いて室内を睨み付け、部屋の中では十歳の皇太子高岳親王を膝に抱いた嵯峨帝が落ち着き払った顔でその貴人に対峙していた。


「落ち着いて下さい兄上。天皇が春宮に会いに来て何が悪いんですか?」


「黙れ!神野」


と嵯峨帝を諱で呼び捨てたその言動で廊下の貴人が平城上皇だと空海には解ってしまった。


おやおや、穏やかでない。と嵯峨帝はふふん、と鼻を鳴らしてお笑いになり、その様子が上皇である自分を嘲弄したように見えた平城上皇は、


「高岳の父である私がいつ何時我が子に会いに来て何が悪い?いちいち我が住みかである内裏でお前に気を遣わなければならないのか!?」


と口角泡を飛ばしながら部屋に入り、怯える高岳と彼を抱く嵯峨帝に詰め寄る。


「上皇となられた今は、そうですよ。今は朕と春宮との面会の刻限。勝手に来られては東宮の者たちが困ります」


と嵯峨帝が高岳を庇いながら当然の事を言ってのけた。人は図星を突かれると、怒りとして反応する。怒りがすぎて蒼白い顔色になった平城上皇はひとりの宮女が慌てて止めるのを乱暴に突き飛ばした。


あれ!と叫び声を上げて倒れた宮女を抱き起こした空海が、

「ご無事ですか?」と声を掛けると「その小男は何だ?春宮の母に気安く触るな」と今度は怒りの矛先が空海に向いた。


小男、と呼ばれて空海は内心怒っていたが初めて夫である上皇に暴力を振るわれて震える伊勢継子を背後に庇い、


「たとえご妻女であろうと弱者に暴力はいけまへんなあ」


と穏やかに笑いながら、

これは、重度の疳気の病や…宮中でご自分を抑えて過ごされているからその反動で激しい発作が起こり周りも手が付けられんのや。


と平城上皇を診察し、少しずつ距離を取りながら継子を供奉に預けた。


「お前なんぞに用はない」と言い捨てた平城上皇は来い高岳!と強引に我が子の手を掴んだが、高岳の


「怖い。父上…」と最愛の息子が初めて自分に怯えて泣くのを見てやっと平城上皇は正気に却り、


「きょ、今日はこれで帰るからな」と息子に発作を見られた自分を恥じて舎人たちに囲まれて帰って行った…


わっ!と泣き出す高岳を母の継子が抱き締めて慰める横で、


「…いずれ知られると思っていたが、これが宮中の一番の問題でな。いま面会中だと使者を通して伝えた筈なのに、もう耳にも入らない程兄の病は進んでいる」


と嵯峨帝が兄が去った方向を見て目を伏せている横で空海は、


あのお方が先の帝で、わしの一番恩人である伊予親王さまに死を賜った張本人か…


と別のことを考えていた。


後ろから杲隣が肩をつついて、


「怖い顔してまっせ、阿闍梨」


と小声で指摘してくれたので慌てて空海は調息して心を鎮め初めて沸き上がる黒い感情に気付いた。
























































































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