第67話 背徳

それは延暦4年(785年)の秋の盛り。


野の焚火に炙られた鳥や獣の肉がいよいよ脂を垂らして香ばしい匂いを漂わせはじめ、従者の男たちがごくり、と唾を呑み込んだ時に、


鷹戸たかかいべ(鷹匠)が肉の焼け具合を見て「火が通るまでもう少しお待ちくださいませ」と焦らすので随行の従者が暇つぶしに、


「そういえば縄主ただぬしどの、式家の姫との結婚生活はどうだ?」


と新婚の藤原縄主ふじわらのただぬしに問いかけると皆、一斉に縄主の方を見てこの際とばかりに内に秘めていた言葉を遠慮なくぶつけた。


何でも美しいと評判の姫だそうだな…うらやましいやつめ!


と貴族の若者たちが口々にからかっても縄主は髭を掻いて照れて俯くばかり。


その様子がいかめしい見た目に似合わないのでひとりの貴族がつい、


「よりによって熊と美女が添わねばならぬとは、相手の姫が哀れでならぬのう」


と酒に酔って口を滑らせたので周りの者たちにどっ、と笑いが起きた。


熊と呼ばれた縄主自身も見た目を揶揄されることには慣れきっていたのでそのままにしていたが、それを聞いた宴の主は、険しい顔つきをして声を低めてこう言った。


「縄主の妻は朕が信を置く種継の娘であり、その婿の縄主は朕の息子同然である。


今度公の場で縄主を侮辱する奴が居たら、その者朕に二心あり。と見なすが、よいかな?」


と桓武帝はいま笑った貴族たちを睨み付け、軽薄な彼らの首をすぼませた。が、すぐに、


「まあ今回のことは朕の胸に納めておこうではないか…ちょうど肉が焼けたぞ、大いに飲んで食うが良い!」


とさっきの威圧を打ち消すかのように鷹戸に鷹狩の獲物の肉を切り分けさせて、それを朴葉の上に乗せて味醤みしょう(味噌)を添えて皆に配った。


当時の味醤は貴族階級の給料として現物支給される程の高級食材だったので、今回の鷹狩りに参加した貴族や武人たちはやれありがたや!このような馳走を頂けるなんて帝は実に鷹揚なお方であるよ…


と大喜びで肉に味醤を付けてそれを肴に酒を飲んだ。


「若い者たちが喜んでいるので今回は良しとしますが」


と自分も馳走を楽しんでいるくせに桓武帝の従弟いとこ弾正伊だんじょうのい神王みわおうはそこで声をひそめて、


(やれ殺生禁止、と坊さん連中が五月蠅い中でこのように堂々と鷹狩をし、獣肉を喰らうのは仏教勢力への当てつけですかな?)


と笑いながら桓武帝の耳元に囁くと、意外にも「違うよ」というお答えが返ってきた。怪訝な顔をしている神王に、


(朕が当てつけているのは、東宮に住まうもと坊さんだ)


と桓武帝がしてやったり、という笑いを浮かべながら従弟の耳元に囁くと神王はああ、と得心した。


ここで言うもと坊さんとは桓武帝の13才年下の弟で、桓武帝即位時に他に近親者が居なかったために僧侶の身から無理矢理還俗させられた皇太子、早良親王さわらしんのうの事である。


桓武帝はこのごろ、


「仏教勢力をないがしろにして急ごしらえの長岡京に遷都するなど以ての外。直ちに奈良への再遷都の勅を出して頂きたいっ!」


と顔を合わせる度に無理なことをわざと大声でどなり散らす弟に辟易していた。


天皇として激務の日々に、頑迷で世間知らずの不仲な弟。ああ気が滅入る…


「鷹狩は軍事教練としての帝王のたしなみぞ」と言い訳しては、

こうして野に出て狩りを愉しむしか天皇である自分には憂さ晴らしの術が無いのだ。


即位してみてはじめて分かるが、内裏とはほとほと息の詰まるところよ。


それに。


火を囲んで肉を喰らい酒をあおる己が欲に正直な若者たちを見ながら桓武帝は、


「なあ神王よ」


と齢48の両の瞳に炎を映してから一番信頼している従弟を振り返り、


「背徳とは、人として生まれた者の最大の快楽じゃないのかね?」


と焼き肉の脂でぬらぬらとした唇に老獪な笑みを浮かべて言い放つのであった。



「…と、いう訳で帝は宴の席で私を息子同然と仰って下さったのだよ」


と妻の薬子に太刀を預ける縄主の話に薬子は、まあ、なんと有難いこと!

と我が夫が帝に認められている事を誇らしく思うのであった。


薬子と縄主は婚儀後すぐに父種継の任に伴い、長岡京の邸に移り住んでいた。

結婚して三月みつき、優しくて誠実な夫との暮らしに薬子は満足していた。


「今宵は飲み直したい客人が来てくださっているが」と縄主はちら、と客間のほうに目をやったが、

「無理して出て来て接待しなくてもいいからね」

と懐妊を知らされたばかりの薬子を労って太刀を持たせるのでさえも落ち着かない程の心配ぶり。


薬子はそんな夫を相変わらず優しいお方…と思いながらも、


「でも、殿のご親友なのでしょう?なおさらご挨拶をしなければ」


と使用人に酒肴しゅこうの支度をさせて客間の手前で膳を持って失礼致します。と言ってから客の前に膳を置いて瓶子へいしを持ったまま客人を見上げた。


「はじめまして、式家の姫君」

と挨拶する客人のあまりにも整った眉目とその笑顔に薬子の眼と心は吸い寄せられた。

このような美しい殿方を見るのは初めて…と薬子は思った。


客人は藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろといい、ことし従五位下に徐爵したばかりの30才の貴族であった。


「これは…なんと美しい奥方だ。おい縄主、お前は果報者だな!」


と葛野麻呂どのは白い歯を見せて快活そうにお笑いになり、時節や風流の事などにに詳しく、人を飽きさせぬ彼の話しぶりに薬子も夫と共に何度も笑った。


「さあさ、邪魔者は新婚夫婦の前から退散するとしますか」と夜が更けない内に葛野麻呂は、爽やかな余韻を残して去って行った。


ああ楽しかった。今夜は気持ちよく眠れそうだこと…それにしても、と薬子は寝床の支度をしながら、


「父上は今夜も帰って来てくださらないのかしら?もう3日めですよ」


と父、種継の多忙ぶりをもうお年なのにお体に障らないかしら?と心配していた。


夜着に着替えた縄主はそんな薬子を親思いの心優しい妻だ。といじらしく思い、


「お父上は造営大夫というこの上ないお役目を与えられたのですよ、薬子どの。

気候も良く、水利整った新都長岡京が完成したら我々式家の栄達も間違いなしだ。大丈夫、これからいい事ばかりですよ」


と年若い妻を励ますように後ろから両肩を抱き、髪飾りを取って垂髪になった薬子の豊かな黒髪を撫でた。


それが夫からの閨事の合図だと薬子には解っていた。


薬子は夫のごつごつとした手を握り、もう一方の手で髭に覆われた唇を探し当ててまずは指で撫でてから夫の唇を吸った。


夫の舌先がおずおずと口中に入って来るのに焦れて、挑むように薬子が自分の舌先を押しつけるとそれが夫の欲情を掻き立たせて舌を絡め合いそのまま縄主が薬子の夜着を脱がすと、そこには身籠って三月になる女の瑞々しい裸体が現れた。


夫の指が妻の背筋をなぞり、首筋から乳房へ夫が唇を這わせると妻はあ…と声を上げてのけ反り、夫の首にしがみついて座りながらの姿勢で夫を受け容れた。しばらく体を揺らすと夜着をかけた広い背中に汗が滲み出す。


貼りつく夜着を片手で脱ぎ、裸体をさらした夫に妻は震える瞼を閉じながら、


「灯りを消してください…ませ…」と懇願した。


初めての閨の時から薬子はそうだった。恥じらいのある女よ。

と縄主は喘ぐ薬子の瞼に口づけしてから灯火を消し、闇の中で26才と18才の夫婦は満足感するまで若い裸身をぶつけ合った。


あの夜に縄主が言ったこととは反対の事件が起こってしまったのは、ちょうど半月後である。


延暦4年9月24日(785年10月31日)、

その夜更け、急いで内裏からお越しになられた葛野麻呂さまの端正なお顔からは血の気というものが失せてまるで蘇った死者のようだ。と思った。


「縄主、薬子どの、落ち着いて聞いてくれ…」

と聞かされたそれは、父種継が視察中に背後から弓で射られ、暗殺された。という凶報であった。



実行犯の大伴竹良おおとものたけらその場で捕まり、厳しく尋問した結果、大伴継人おおとものつぐと佐伯今毛人さえきのいまえみしの命令だと解り両人共に捕縛。詮議を受けている…皆、早良親王さま寄りの春宮坊や貴族ばかりだ。


帝も直ちに平城京からこちらに向かって下さっている。


私も詮議の役人の一人なので直ぐに内裏に戻らねばならぬ、二人はここで報せを待っていて欲しい…


と伝えて下さった葛野麻呂さまの言葉がが頭に入って来ず、


父上が、殺された?


という混乱だけが頭を占め、私は震えながら夫の縄主にしがみついていた。


果たして布にくるまれた父の亡骸が家に着いたのは翌朝だった。


「顔から下は見ない方がいいかと。損傷が激しゅうございますので…」


と言い置いて憔悴した使用人たちが布を外して父のお顔を露わにすると、意外にも眠っているかのような穏やかな死に顔。


私は父のお顔を両手で包み、その冷たさに初めて父の死が現実なのだと思い知ったのだ…


父の弔いから最初のお産までどのように過ごしていたかはっきりとは思い出せない。


「実行犯も首謀者たちもその夜の内に首を刎ね、謀反の首謀者である早良親王も配流の途中で死んだ。お父上の仇は取りましたから、どうかお気を取り戻して下さい…」


と夫に励まされても生きる気力というものが失せてしまって床に臥し、喉が渇けば水を飲み、お腹が空いたら胃の腑を満たすまで食事を摂りながら生きるだけの日々を過ごした。


そう、あの頃の私は魂が抜けて生存しているだけの生ける屍だった。

年が明けて邸の軒先のつららが初春の陽光を受けて光っているのを見て、


ああ、この美しい光を見ていられるのは、生きているからだ…!


と感動し、この時初めてお腹の子が動いたので私の心はうつつに還る事が出来たのであった。


桃の花が開く頃に私は女の子を産んだ。喜んで赤子を抱く夫に私が、


「父種継から名を取って、継子つぐこと名付けてよろしいでしょうか?」とお願いすると夫は


「もちろんだ!あなたに似て美しい赤子で良かった…」と涙ぐみながら快諾してくれた。


私は夫のその言葉を聞いて、容姿に自信のない者の苦悩を垣間見た気がした。


娘の誕生のお祝いに帝から豪勢な調度品を賜ったり、父と懇意だった貴人たちの来訪を受けたりと、

それは父種継の死の悲劇を払拭するような華やかな宴だった。


勿論、あの葛野麻呂さまもお祝いの品と共に


「やあ、薬子どのに似てまことに美しい姫君だ!先が楽しみだな」


と心からの祝福を下さったのだが、この頃この方は何かお悩みでもあるのか?と思うくらい表情に翳りが出ていた。


親友である夫縄主や内裏に勤めるご同僚が気づかないあの方の苦悩が何故私に解ったのかって?


それは、私が初めてお会いした時から葛野麻呂さまに恋をしていたからだ。


父と兄弟と使用人しか男というものを見たことがない貴族家の娘の初恋の相手が、まさか夫の親友だなんて!


いけないことだ。

と私は子を産んでからつとめて葛野麻呂さまのお顔を見ないようにしていたが、恋多き葛野麻呂さまは私の気持ちなぞとうに見抜いていたようだ。


だって、夫の宿直とのいを狙ってあの夜我が家を訪れた葛野麻呂さまはお酒に酔った勢いで私を犯してしまったんだもの。


いいえ、実は私もその状況を期待していたのだ。


娘を乳母に預けた私は物憂げな表情も見がいのある葛野麻呂さまのお酌をしていた。あの夜の葛野麻呂さまはいつもの饒舌を何処へやったのか?というくらい無口であった。


お互い無言なまま気まずい時が流れ、「酌はもういい」とあの方が私の手首を取って顎を引き寄せ、唇を押し付けられた時に瞼の裏が白く弾けてもうどうなってもいい、と躰から力が抜けてしまった。


そうして何度か唇を吸われ、衣を脱がされ全身の肌を愛撫されて葛野麻呂と肌を密着させて、生まれて初めて味わう恍惚感に薬子は死ぬのではないか?と思ったが、


好きな殿方に抱かれているのだから、もう死んでもいい!と迫り来る歓びを受け入れ、喉を反らして心も躰もいつ終わるのかも解らない波のように打ち付ける快楽を味わうだけの存在となった。


一体どれほどの時が経ったのだろうか…


薬子が目を覚ますと、隣で寝ていた葛野麻呂は夢でも見ているのだろうか、うなされて何事か呟いている。


お風邪を引きますよ…と薬子が彼の逞しい全裸に衣をかけてあげようとすると、


中納言…謀殺…命令…帝…


というあまりにも不穏過ぎるいくつかの言葉を聞いて薬子は衣を取り落とした。


躰に落ちる衣の重みで目覚めた葛野麻呂は全裸の薬子が青ざめてこちらを見ているのに気付き、


自分が抱えているとんでもない秘密を寝言でばらしてしまった事に気付いた。


「それってどういうことですの…?」


ええい、仕方ない。

と葛野麻呂は、


帝が早良親王と彼を支持する貴族たちを粛清するためにわざと早良親王と敵対していた種継を殺させたのだということ。


夜も明けぬ内に首謀者たちを処刑したのは彼らに冤罪を訴えさせぬため始末したのだ。


という、自分が知っている限りの種継の死の真実を打ち明けた。


「あなたの本当の仇は死に処された大伴一族でも早良親王さまでもない。

中納言種継どののご親友でもあった…今上の帝さっ!

どうする薬子どの、加担していた私を訴えるか?」


と初めて会った時から欲しかった女を手に入れた満足感と疚しいことを白状した清々しさで葛野麻呂はもう完全に居直っていた。


いいえ、と薬子はかぶりを振り、

「今度は貴方のお体を見せて」と灯火で部屋を明るくし、葛野麻呂の顔から肩、胸板、腹、大腿を隅々まで見て触ると、


なるほど、これが殿方の体というものなのですね。


と呟いてから「焦らさないでおくれ」と抱きつく葛野麻呂と明るい中で今度は遠慮なく交わった。


実は薬子が夫との閨で灯りを消すのは恥じらいではなく…


体毛の濃い夫の体と、熊のような男に抱かれている惨めな自分を直視したくなかったからだ。



こうして夜が明ける前に一人貴族の男が目立たないように裏口から抜け、見送る人妻と今度は十日後の、次の夫の宿直の晩に逢う約束をした。


人生は、公明正大でいるよりも隠れて悪事を行って生きている方が数倍愉しい。














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