第66話 橘の系譜

娘時代の薬子が憧れていた光明皇后以来の国母になる女人は、皮肉にも将来の対立相手になる嵯峨帝の後宮にいた。


彼女の名は橘嘉智子たちばなのかちこ。嵯峨帝がこの世で最も寵愛する女人である。


腰まである豊かな黒髪を根元と頭頂部で結い、残りは垂らす垂髷すいけいという菩薩と同じ髪型をし、藍色の上着に瑪瑙色の領巾ひれを羽織った彼女の姿は…


まるで生きた観音さまのようにうるわしいこと。


と嘉智子づきの宮女、明鏡は我があるじをうっとりと眺め、8年前から嘉智子に仕えていることを誇りに思うのである。


庭園の何処かで小鳥がぴちち…と鳴いている。


ああ、まばゆいこと。

でもこうして生きて光を浴びていられるだけでも、有り難いことなのですね。


と廊下から御簾越しに差し込む夏の陽射しに眩しく目を細めて合掌した。が、今日の嘉智子は朝起きた時からそわそわしている。


「ねえ明鏡」


とたまらず嘉智子は傍らの明鏡に向かって、


「わたくしのお衣装はこれでいいと思う?かんざしは曲がっていないかしら?」と落ち着かなげに聞いた。


もう嘉智子さまったら…いつもなら朝のお支度は全て私まかせで、


まことにお美しいひと程ご自分の身だしなみには無頓着。


を地でいってらっしゃるお方が、もうこれで四度も同じ問いかけをするなんて…と呆れる代わりに明鏡はにっこり微笑んで


「はい、とても良く似合っておいでですよ」

と答えた。


まあ嘉智子さまが落ち着かないも無理のないこと。


だって今日は、唐土もろこしより密教の秘法を伝授された今をときめく空海阿闍梨が後宮にいらっしゃるんですもの!


なんでも少年のような美男子。とのお噂に上はお妃の高津内親王こうづないしんのうさまから下は新入りの侍女まで後宮の女人たちは皆色めき立っている。


きっかけは数日前の帝と嘉智子のねやでの会話。


夫の嵯峨帝即位に伴って嘉智子は夫人ぶにん(天皇の側室で定員は三人)となり正四位下に叙せられた。


祖父の代で謀反の罪人に貶められた橘の家を後宮での出世という形で女の身一つで嘉智子は立て直したのだ。


やれ罪人の孫だ、呪われた娘だ。と嘉智子を誹謗できる者は、もういない。


「ねえ…だから、朕に何かひとつでもいいからおねだりしてくれないか?嘉智子」


と鏡台の前で長い髪を梳く嘉智子の肩を抱き寄せて甘い声で囁く嵯峨帝に嘉智子は


「わたくしは今のままで十分しあわせですわ」といつも通り小さく微笑んだ。


「無欲なのはあなたの美徳であり、朕があなたを愛おしく思っている理由でもあるのだが…」


と声をすぼめる嵯峨帝にどうかしましたか?と心配して声をかけると夫である嵯峨帝はええい!と意を決したように顔を上げて、


「男とは、形になるものを愛する女人に与えて喜んでもらって初めて、愛されている自信を持つ生き物なのだ。

頼むから嘉智子、朕に何か与えさせてくれないか!?」


と天皇であらせられる御方にそこまで哀願されるとさすがに嘉智子は困って考え込んだ。


わたくしが今望んでいることといえば。


「そうですねえ…では、空海阿闍梨にお会いしたいのですが」


と宮中に入って8年になる橘嘉智子が初めて夫にしたおねだり事が、空海との面談だったのだ。


それを聞いた嵯峨帝はなんと無欲な。


他の女人は新しい衣装だの髪飾りだの調度品をおねだりするものなのに…と思ったが、


「それなら易き事だ、いつでも空海を連れて来るから」


と嵯峨帝が快諾すると嬉しいです!と声を弾ませて抱き付いてきた嘉智子と情熱的な一夜を過ごし、愛されている実感を得る事が出来たのだった。


あの時の嘉智子はいつもより積極的だったなあ…はっいかんいかん!僧侶の前で艶めいた事を考えるとは罰当たりな!


と気を取り直した嵯峨帝はこほん、と空咳をしてから、


「ここから先が後宮で、朕の妻子が住まうところだ。ま、坊さんには刺激の強い所だけどな」


と背後の空海を振り返り、意地の悪い笑みを浮かべてみせた。


ああら、思ったより若くて美しいお坊様なのね!


30半ばだと聞いてどんなお年寄りが来るかと思っていたら…

まあ本当!後宮でのこれからの楽しみが増えましたわねえ。


うふふ、くすくす…


後宮の女たちは帝のお越しに表面上は畏まってはいるが、身分高い姫は御簾の向こうから、その他の女官や侍女は窓枠にしがみついて外を覗き込み、忍びやかな笑い声をたてながら新入りの空海を検分している。


「…これから医僧として事あるごとに後宮に呼び出すのだから慣れて貰わねば困るぞ」


白粉おしろいと女人の香りですでに気後れしそうになっている空海を尻目に嵯峨帝は命婦の三善高子に付いて行くかたちで滑るような足取りで廊下を進んで行く。


「後宮といいますからにはあの、ここに居らっしゃる女人がたは」


どぎまぎしながら顔を上げた空海が廊下に並んで行儀よく畏まる宮女たちを眺めやりながら尋ねると、


「ああ、全部朕の妻だ」


と思った通りの答えが返ってきた。


「一体何人ご妻女がいらっしゃるので?」


という空海の問いに嵯峨帝はそうだなあ、と顎に手をやり考え込んだがいちいち思い出すのをすぐに諦め、


「命婦、朕と契った女は何人だ?」


と前方の三善高子に尋ねた。


「はい、帝の女御がたはお妃さま夫人さまがた、お手付きの宮女侍女合わせて23人でございます」


立ち止まって嵯峨帝に振り返り慇懃に答えた高子に空海は

「では命婦どのも?」

と当然のように聞くと23才の嵯峨帝と50近い高子は一瞬驚いて顔を見合わせた。


「まああ、阿闍梨に若く見られて光栄ですこと」


ほほ、ほ…と高子が引きつった口元を袖で隠して笑い、嵯峨帝も


「全くだ、命婦に手を付けたら朕は征夷大将軍に殺されてしまう!」と愉快そうに笑った。


その言葉で高子が征夷大将軍、坂上田村麻呂の妻だという事が分かった空海は「た、大変不躾なことを…」

と冷や汗をかいて詫びたが二人とも気分を害するどころか、


「空海、これでお前が女人のことにはとんと疎い『ひじり』だということがよーく解った…」


「ほんに…後宮を任せられる医僧が見つかってようございました。


最澄どのときたら、白粉の匂いを嗅ぐだけで全身に痒みを起こされ体調を崩して退出なされるほど潔癖なお方でしたから…

もしかしたら、女人が苦手なのかしら?」


と空海のとぼけた質問を何のことなく笑い飛ばした。


「それに朕は、人妻に手を付ける程浅ましい男ではないぞ」


と付け加えた嵯峨帝のお言葉は同じ内裏に住まう兄の平城上皇を揶揄したものであることに空海はすぐ気づいた。


そして空海は自分を呼び出した夫人、橘嘉智子の部屋の前に通されると廊下から地下に降りて深々と平伏し、


「空海阿闍梨、罷り越しました」


と御簾の向こうの夫人さまによく通る声で来訪を告げた。


「あなたが空海阿闍梨?

帝からつねづねお話を伺い、是非お会いしたいと思っておりましたわ…」


と辺りの空気を清浄にするほど透き通ったお声が返ってきた。


明鏡、御簾を上げてくれる?と声がし、御簾が巻き上げられる音の後で


「空海、面を上げてよいぞ」と帝のお許しをいただいたので空海は顔を上げた。


…自分は今日この時まで、この世で一番美しい女人は母の玉依である。と信じてきた。


いいや、それは母を強く慕うがゆえの自分の思い込みに過ぎなかったのだ。


帝のお隣にいらっしゃるきつの夫人さまの下弦の月のような両眉。長い睫毛に覆われた切れ長の涼しげな目元。すっと通った鼻梁に花びらのような唇。


「はじめまして、空海阿闍梨」と微笑まれた橘の夫人さまの笑顔は、まさに生ける菩薩…


橘の家は和銅元年(708年)、


即位直後の女帝、元明天皇が側仕えの命婦、県犬養三千代あがたのいぬかいみちよの長年の功を労い、


杯に浮かべた金柑を与えると同時に「橘宿禰たちばなのすくね」の姓と貴族の位を下賜した事から始まった。


この三千代という女性、敏達天皇系の皇族、美努王みぬおうと結婚して葛城王(橘諸兄)はじめ3児をもうけるが…


野心も覇気もない夫に嫌気が差したのかやがて離婚し、当時、大宝律令編纂で政治の表舞台に出たばかりの藤原史(不比等)の元へと走ったのである。


そして藤原の後妻の座に収まると史との間に安宿媛あすかべひめをもうけ、娘が17になると文武天皇の皇子である首皇子おびとのおうじの元へ嫁がせ、娘を皇后にするためにありとあらゆる手を使った。と伝えられる。


三千代が産んだ安宿媛が後の聖武天皇の后、光明皇后となり光明皇后の異父兄、葛城王が橘の姓を継いで臣に下り、橘諸兄たちばなのもろえと改名した。


そう、橘の家は女帝がかばねを与えた橘三千代という女性が初祖の家で、橘諸兄の曾孫の嘉智子は光明皇后と祖を同じくする女人なのである。


大変大変…!と宮女明鏡は逸りそうな気持ちを抑えながら早めの摺り足で内裏の廊下を進んでいた。


ええと、まずはご実家の橘家と、嘉智子さまの姉上の安子さまの夫君、三守さまにご報告申し上げなければ!


え、ということは。


報告の書類を作成するのは内侍司ないしのつかさの権限だから、今は今上帝に気を遣って出仕を控えて大人しくしているけれど、いまだに尚侍ないしのかみのままでいる「式家のあの女」に知られてしまうって事よね?


と明鏡が思い至り、急に廊下の曲がり角で立ち止まったものだから平城上皇が住まう御殿のほうから出てきた貴族と出会い頭でぶつかる破目になった。


ひゃあっ!と声を立てて倒れそうになる明鏡に慌てて手を伸ばし、肩を掴んで助けてくれた貴族の顔を見て明鏡は声を失うくらい驚いた。


「大丈夫か?宮女どの」


と優しく声を掛けてくれたのは中納言で…実の父、藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろだったからである。


同時に葛野麻呂も、いつも早足で歩く慌ただしい宮女がいるものよ…と日頃微笑ましく思って見ていた女人の顔を初めてまともに見て、彼女が亡き恋人の明慶みょうけいに酷似していることに驚き、


「もしや…明鏡か?」


と名を問わずにはいられなかった。


明鏡は顔をこわ張らせて、慌てて団扇で顔を隠す。それだけで葛野麻呂には十分だった。


まさか、実の親子の再会がこのような偶然で起こってしまうなんて!


し、失礼いたしました!と明鏡は気を取り直し身だしなみを整えるとつとてめ慎重な足取りでその場から立ち去った。


明鏡。私の小鳥。


明慶に似てすっかり美しくなったな。13年ぶりだからもう二十歳はたちか。


後宮からの伝令役をつとめるほどしっかり者になったのは誇らしく思うが、慌て者の性分は父である私に似てしまったんだな…


小鳥が飛び立った余韻が残る夕陽が差し込む廊下に葛野麻呂は一人佇み、実の父と娘が今は上皇さまの腹心と、今上帝の後宮の宮女という立場に置かれてしまった事に、


運命の皮肉。というものを痛感せずにはいられなかった。


さて、私はどう立ち回るべきかな?



明鏡が実の父との再会に心を押し殺してまで宮中に触れ回らなければならなかった一大事とは、


きつの夫人こと橘嘉智子ご懐妊の報せである。


実は空海との会談の途中急に目まいを起こした嘉智子が「ちょうどいい。空海に診てもらうのだ」と嵯峨帝の勧めで空海の診察を受けたところ…


「まことにおめでとうございます。ご懐妊でございます」


と空海が告げた瞬間、結婚して8年になるが最愛の妻である嘉智子と間になかなか子が授からなかった口に出して言えなかった嵯峨帝の悩みが一瞬にして晴れ、


「なんと…めでたい…!」と嘉智子と手を取り合って喜んだ。


天平元年(829年)の光明皇后立后以来、橘の家の果実が80年ぶりに実を結んだのである。


さて、嘉智子夫人ご懐妊のお祝いの空気に宮中がわく中でもう一人懐妊を告げられた宮女が居た。


空海にはその宮女の反応が不思議でならなかった。


ふつうの女人なら帝の御子を懐妊なされて誇らしげなお顔をするものばかりだと思っていたのに、その宮女の顔は蒼ざめて「どうしよう…」と口にされたので思わず、


「何か複雑なご事情がおありなのですね?」


と尋ねてしまった相手は他ならぬ嘉智子づきの宮女、明鏡なのである。


3年前から帝と夫婦関係である以上、懐妊は覚悟していたことだったが…いざ自分の身に起こってみるとこんなに怖くてたまらない気持ちになるなんて!


「…あとひと月したらお腹が膨らみ始めるのですか?」と明鏡は自分の下腹に手をやり、空海に尋ねた。


「はい、あなた様の働き振りではお腹の赤さまに負担がかかり流れてしまう心配もあります。今すぐにでもお体を大事になさる事です」


そう伝えられると明鏡は先程とは打って変わった晴れ晴れとした声で


「解りました、懐妊の事は私から帝にお知らせします」と空海に礼を述べた。



お父様。やっと再会できたのにごめんなさい。


私は藤原北家の姫でも、桓武帝と百済王明信の孫娘でもなく…


ただひたすら夫である帝と嘉智子さまにお仕えする宮女として生を全う致します。


と女として母として生き方を決めた明鏡は空海に向かって決然と顔を上げて笑った。













































































































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