第64話 実ちて帰る

さて、この高御座たかみくらから見る景色とはどんなものなのだろうか?


と、嵯峨帝は目の前に垂れる冕冠べんかんりゅう(宝玉の簾)の間から、今は閉じられている高御座の紫色の帳を見つめていた。


神野、お前は理想の天皇になるのだぞ…

と幼い頃から父桓武帝に言い聞かされて育ち、とうとうこの日を迎えた。


これから始まる儀式で、「朕」の天皇としての人生が始まる。


大同4年4月13日(809年5月30日)、嵯峨帝即位礼。


ほどなく帳は開かれ、真っ直ぐ顔を上げた嵯峨帝の眼前には初夏のまばゆい光に照らされて大極殿前庭は白く輝き、四神旗をはじめとする幡が立ち並ぶ中で臣たちが畏まる。


その厳粛さはまるで、空からの光とこの場の空気全体が質量を持って高御座に入り込んで自身の体を押し包むような感覚を嵯峨帝に与えた。


それは、自分がこの国の天地と民を背負う国父となる、責任という名の重圧だった。


成程、これが高御座から見た景色か…


父桓武帝の御気性なら跳ね返したかもしれぬ。

兄上皇の御気性なら内心怯えて耐えたかもしれぬ。


だが、朕はこの重圧を背負って皆と共に生きるぞ。


と決意した嵯峨帝はこれからの人生全てに立ち向かうように高御座の中で威儀を正した。


帝王としてまずする事は、やりたい事ではなくやるべき事からだ。


と父桓武帝は言っておられたが…


「平城宮を手入れして離宮として住みたいのだが」

という平城上皇の提案に、嵯峨帝は成程、新たに離宮を建てるよりも経費削減になるしこちらとしても助かる。と思っていたのだが、


「兄上が離れた御殿に移られたのはよいのだ。

だが、結局修復が終わるまで同じ大内裏の中でお互いの家族が暮らす事になる。やるべき事も、やりたい事もいちいち兄上に気を遣ってやらなきゃならない…」


と嵯峨帝は幼なじみで即位に伴い従六位下から従五位下右近衛少将と四階級も上の位に昇進させた藤原三守を夜御殿よのおとどに呼び寄せ不満をこぼした。


「では、帝のやるべきこと、やりたいことを書き出しては?」


と言って三守は黒い碁石をぱちり、と碁盤に置いて「次は帝の番ですよ」と顔を上げると目の前に差し出されたのは分厚い紙の束。


なんだ、もうご準備なさってたのか。

と三守は感心し「私めが読ませていただいてよろしいので?」と一応尋ねると、


「よい、この世で一番信じられる人間にまず読んでもらいたいのだ」


という嵯峨帝のお言葉に三守は内心胸を熱くし、では拝見。と主の長い計画書を時間をかけて読み終えた時には…


このような遠大な計画を、帝は何年も前から構想なさっておられたのか…!

と感服した三守は震える手で紙を折り畳み、腹の底から深いため息をつくと計画書を嵯峨帝にお返しした。


「今やってはいけない事から申し上げますと、伊予国に流罪中の藤原雄友はじめ南家の貴族を復帰させることと、伊予親王さまのお子様方を呼び寄せるのは…無理です」


ああ、だから帝は伊予親王の政変で徹底的に失脚した南家の私を今宵呼び寄せたのだな。と気付くとなんと有難い…と目頭を熱くした。


そうか、と嵯峨帝は指先で白い碁石を弄んでわざと素っ気なく答えると、


「では、今やるべき事は何かな?」と分かりきっていながらも尋ねた。

「それは平城宮の改装工事。一刻も早く上皇さまにはここを出てもらわないと」

「そうか、では急がせよ」


は…と畏まってから三守は顔を上げると、


「でも、私はやるべき事よりやりたい事を優先させた方が帝の御気性に合うと思うんですがねえ。

私にまで本心を隠してはなりませんよ、帝。いま一番呼びたい人物を呼ぶべきです」


と悪戯を思いついた時の癖でぎゅっと片目をつぶって笑いかけた。

「やはりそう思うか?」とこちらを向いた嵯峨帝の眼は、面白き書を見つけた童のように輝いていた。


「これから帝がなさろうとする事は、この日の本の国土ぜんぶを碁盤に見立て、その白い石で陣地を全て取ろうとする大勝負。あの男はその要石です。ぜひとも」


解った。と嵯峨帝は強く頷いて、


「三守、謹慎中の空海を朕に謁見させよ。そのためにはどんな手を使っても構わぬ」


と23才の青年らしい明るく弾んだ声で命じ、三守の手のひらに白い碁石を託した。


「おーい、そろそろ休憩にしないかい?」


と師に言われて畑仕事をしていた円澄と泰範は「はい!」と返事し、師のもとに駆け寄る泰範が右足を少し引きずるのを見て最澄は、


ここまで回復したか。と喜ぶと同時に刺客に襲われたあの恐ろしい夜を思い出しては、


泰範、不肖の我が身を庇ってくれて済まない…

と平城帝に命を狙われた。という最澄自身の深い心の傷が疼くのであった。


こうして茶の葉の香りを嗅いでいると、あの理想郷だった天台山での留学の日々を思い出す…


と農作業で疲れた最澄は畑の脇に腰を下ろし、あの仙境でただ仏の教えを学び、考えるだけの幸せだった日々が記憶の中で遠くなっていく事をひしひしと実感していた。


そして虚しさを覚えたら弟子たちを連れて比叡山の麓にある坂本という集落に降り、唐から持ち帰った茶の種を植えて苗から定植して作った小さな茶畑を育てるのが最澄の日々の慰めとなっていた。


帰国してからはや四年。

全ての衆生は等しく救われなければならない。という理想を掲げて海を渡り、天台教学を修めて帰国したものの…


全てが滞っている。


と半ば諦め気味に塩をまぶした握り飯を食い、竹筒の水筒で水を飲んで弟子たちと休憩する最澄のもとに、懐かしい客人が来た。


「なんだなんだお前は、坊さんを辞めて実家の農業でも継いだのか?」


と従者を連れてわざわざこの畑まで最澄を訪ねて来た貴人は和気広世。


3年前に暗殺者から最澄の命を救い、形だけは最澄と物別れして距離を取っていたが、


此度の平城帝の退位に伴い天皇の侍医としての任も解かれて今やっと、こうして同い年の親友として再会することが出来たのである。


「ああこれで、あの気まぐれな小才子から解放されたよ…」


と笑って地べたに座り、とても宮中では言えない上皇の悪口を呟くと勧められた握り飯を旨そうに頬張る広世を見て最澄が、


「これでやっと自由になれたというところですか?随分人間らしいお顔におなりだ」


と思ったままを口にした。


自由。


とつぶやいた広世は、


「いったん貴族家に生まれてしまったら、真に自由になれるのは死ぬる時のみ」


と少し曇りがかった近江の空を眺めながら言った。


その様子を見ながら、


主は本来の目的をお忘れではないか?


と心配した従者がえへん!と咳払いすると広世はあっそうだ。と受け取った文箱を最澄に渡し、

(本当に忘れていたのだ)

「指定の日にちと刻限に参内せよ。との帝の仰せだ。


…最澄、お前の本当の仕事は何だ?

お前は優秀で善良な僧侶で、天台宗の座主で、桓武帝から役目を授かった国家鎮護の僧侶ではないか。

やっと…やっとお前が陽の目を見る時が来たんだ」


と広世に掴まれた作務衣の肩に大粒の雫が落ちたのを見て最澄は、

「もしかして泣いておりますか?」

と尋ねると、馬鹿を言え!と広世はうつむき、「雨が降りだしたからさ」と袖で顔を拭いながら答えた。


「では作業小屋で雨宿りしましょう、なあに、三年ぶんの愚痴は聞いてさしあげますよ」


やがて大粒の雨が降り出し、きぬかづいだ広世を囲むように最澄と弟子たちがその場を離れ、大人の膝ほどの高さの茶の木からなる小さな畑は存分に恵みの雨を受け入れた。


最澄が種を蒔いて育てたこの畑が、日本で最初の茶畑だと言われている。



空海が大宰府から出立する少し前のことである。


宗像の邸に呼ばれて智泉と共に訪れると、入り口には背中が黒く、口元と腹が白い猫がふてぶてしく二人を出迎え、短い尻尾をぴん、と立てて主のいる部屋まで案内してくれた。


「叔父上、猫がほら、あちらにもいますよ」と智泉は主の部屋まで辿り着くのに計4匹の猫を見つけ、いちいち空海に告げた。


唐にも猫はいたが、雄か雌一匹で家一軒ぶん、つがいで家三軒ぶんの値で取引されている位高価なのでさすがの空海もであがなうのを諦めたほどである。


古来より広い領土を持ち、大陸の渡来人たちとの取引で財を成してきた海洋豪族、

宗像氏の財と権力を見せつけられているような気さえしてくる。


「わし自身、金も力もある方の豪族の子だと思ってたのが間違いでしたわ。すごいもんですなあ…宗像は」


と宗像の女頭領イチキの饗応を受けつつも部屋を飾る唐の最新流行の調度品を誉めるとイチキは微苦笑しながら、


「当然さ、宗像は今の天皇家より金も力もある。

宗像は百五十年前に高市皇子たけちのみこをお産みまいらせた国母、尼子様を出した家。

ねえ空海さん、これでお別れになるから好きなだけ食べな」

と気前よく言って夫たちに接待させた。


「へえ、では遠慮なく」


合掌してから悠然と杯を受けて口をつけるだけの空海を次女のタゴリと三女のタギツが名残惜しそうに見つめる。


「ねえ姉様あねさまぁ、空海さんをどうしても引き留められない?姉様の六人目の夫にするとかさあ」


六人目の夫。と聞いて空海はぶっ!と吹き出し杯の中の酒を膳の上にこぼしてしまった。


「え…ちょ…五人も夫君がいらっしゃるのですか?」

「ここにいる全員、私の夫さ。欲しいと思ったら、手に入れなければ済まないのが私の性質たちでねえ」


と、上はイチキの正式な夫で表向きの頭領を務める30代半ばの男から一番若い20代前半までの5人の男たちを見回し、一妻多夫で女頭領が夫たちを顎で使い、領地を仕切る母系社会。


こういう家族のあり方でも円滑に回っている一族もあるんやなあ。


とほとほと感心していると、


「馬鹿をお言いでないよ、大事なつとめを果たしに旅立とうとしている男を止めるもんじゃない!」


とイチキが妹たちを叱り空海に向き直ると、


「最初に会った時はうぶだったけど…この数年であんた男の顔つきになったねえ。もう都に出しても大丈夫だ」


私が育てたんだから保証する!とでも言わんばかりにイチキはにんまりと笑った。


いいかい?都の貴族どもの見た目は金銀玉枝で飾られていても、心は化け物な連中ばっかりさ。

仏の教えを掲げ、そんな奴らと命懸けで渡り合うのがこれからのあんたの役目さ…気を付けな。


と写経で疲れた頭を休めに床に頬杖付いて寝っ転がっている間、空海はイチキの忠告を思い出し何度気を引き締めたことだろう。


空海と智泉が和泉国の槙尾山寺に逗留してから一年近くが経った。


伊予親王の死を知らされた叔父、阿刀大足はもう我の生きる望みは無くなった…と意気消沈していたところに空海と智泉が太宰府から駆けつけ、顔を見せるなり


「我の生きる望みは、伊予さま最後の望み…それはお前たちだったのだ」


と正気づいて空海と智泉を抱き締めた。しばらく声を上げて泣くと大足は過去を振り切るように、


「決めた。これからはお前たちを助ける事に余生を捧ぐ。もう泣き言は言わぬ」


と50代半ばの浅黒い顔を屹と上げてそう宣言した。


あれから一年。ここの僧たちに密教を教え、密教論を研究した書き物に追われてあっと言う間に月日は過ぎた。


叔父の助けも借りて古からの祭祀国家であるこの国でどう密教を浸透させていくか、他の宗派とどう落としどころを付けて共存していくか。自分なりの答えが解りかけていた頃に…


都の太政官より和泉守に向けて

「空海を京に住まわしめよ」

との太政官符が下った。


太政官とはこの時代、律令制下にあったこの国の司法、立法、行政と司る国家最高機関であり、太政官符とは国家が発行した公文書のことである。


つまり空海は国家の命で留学放棄の罪も許されもう咎人ではなく堂々と入京できるのだ。


使者より渡された太政官符を押し頂いた空海は、

「仏の教えを掲げ、命を懸けて貴族たちと渡り合え」という宗像の女頭領の教えを思い出し、

戒明さま、恵果さま、そして、伊予親王さま。


わしの僧侶としての生き様見ていて下され。と、今は泉下にいる師匠たちと伊予親王に向けて語りかけた。


大同4年7月、入京した空海は


「また会えましたなあ」


と高雄山寺講堂に保管されていた曼荼羅、仏像、密教法具たちに語りかけ「残りのお仲間も連れて来ましたえ」と槙尾山寺から運んで来た残り半分を正しい位置に直させて安置した。


恵果さま、あなた様の形見すべて揃いましたぞ。

この空海、大事に使わせていただきます…


と向かって右に胎蔵界曼荼羅、左に金剛界曼荼羅の両部一体の密教のご本尊を前に順宗皇帝から下賜された翡翠の数珠を手に掛けて合掌してから、


「あのう、さっきからええ香りさせてこっちを見ているのは、どなたはんで?」


と講堂の隅から自分に注がれる視線を感じ、空海は振り返ってそこにいる背の高い僧侶に話しかけた。


あ、あの…とその40過ぎと思われる帽子もうすを被った僧侶は緊張し、いい香りのする紙袋を抱いてもじもじしている。


さては、極度に人見知りな僧侶なのかな?


と思って空海はいきなり歩み寄ろうとはせず、

「我は空海阿闍梨。本日入京致し、高尾山寺に参りました」

と合掌すると、僧侶の紙袋からぷん、と香る懐かしい香りに、


「それは唐の茶、ですか?もしや、貴方は」

「さ…最澄です。どうぞよろしく」


と数歩近づいて来た最澄は空海に向かって律儀に頭を下げた。

この方が、天台宗座主の最澄さま?

想像してたより恭謙そうなお方だな…ここはとりあえず相手の心をほぐそう。

と思った空海が取った行動は、


「いやあ、実はわしも最澄さまにお会い出来ると聞いて贈り物を用意してたんですが」


と、講堂の壁際に置いた背負い籠から引っ張り出した紙袋を開いて見せた。芳ばしい唐茶の香りが最澄の鼻腔をくすぐる…


なんと、互いに同じ品を贈り物として持って来てたのか!


可笑しくてたまらなくなった最澄は、あはははは!と空海を指差して笑い出した。


「よいですか、初めての謁見だからといって緊張しすぎて粗相をしてはなりません。


帝に話しかけられるまでは、頭を垂れて黙っていること。

おもてを上げよ、と言われて初めて顔を上げるのです。

それと、目線の高さは決して帝より上になってはいけません…」


と応天門をくぐり、謁見の場である大極殿まで向かう最中、くどいくらい宮中での礼儀作法を説明しながら先導する最澄に、空海は律儀にはい、はい、と返事しながら、


最澄さま、相当な教え好きやな…


と少し呆れつつも神妙に彼の後を付いて行く。

やがて大極殿に辿り着いた空海は

「この位置でお待ち下さい」と藤原三守と名乗る若い貴族に指示され、それを合図に最澄は空海の傍から離れて、向かって左斜め前の位置の、ちょうど自分と天皇の座の中間にあたる場所で頭を垂れた。


「俗名、佐伯の真魚こと空海、罷り越しました」


三守に促されて空海は名を名乗り、


「お前が空海か…朕は」と頭上からかかる朗々としたお声が感極まったように止まり、

「よい、面を上げよ。大足からお前の話を聞いて8年…やっと、やっと会えたな」


帝に促されて空海は顔を上げ、そこで初めて嵯峨帝と空海は目線を合わせた。


年は35だと聞いたが…なんと、少年のような顔つきではないか。


と嵯峨帝は驚き、


思っていたよりは随分お若い、覇気溢れる帝やな。


と空海は心躍った。


それが、この国のあり方をことごとく刷新した二人の出会いであり、学生佐伯真魚が都の崩壊で政治に絶望し、世を見限ってから17年。


虚しく行きて実ちて帰った空海は満を持して嵯峨帝に謁見した。


昔、一匹の魚から広大無辺な空と海となったある僧の長い旅が、あるじとの出会いで終わりを告げた。



遣唐終わり、第三章「薬子」へ続く。




































































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