第63話 譲位

自分が何もない闇に落ちてから、一体どれくらいの時が経ったのだろう…


生温かい闇に背中を押されて水面に浮くように平城帝は意識を取り戻した。


まず視界に入ったのは首の脈を図ってくれている広世の緊迫した面持ちと、

「良かった…」と涙を浮かべる薬子の安堵した顔。

途端に口中に広がる強い苦味を感じ、「苦い」と舌の裏に張り付いた何かの欠片を吐き出そうとすると、

牛黄ごおう(牛の胆石の漢方薬)が心の臓の発作に効いたのです。もうしばらくくわえておいて下さりませ」

と広世が止めるので平城帝はうなずき、苦味に耐えて固く唇を結んだ。


やれめでたや、帝のご無事に安堵致しましたぞ。


と言いながら側でひれ伏すのは藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろ藤原緒嗣ふじわらのおつぐ藤原仲成ふじわらのなかなり


顔を伏せた近臣たちの背中を平城帝は目だけ動かして一瞥し顔を背けると、やがて広世の許可で牛黄を白湯で飲み下し枕に頭を預けて天井を見つめながら、


「春宮を呼べ」

と命じた。


右大臣藤原内麻呂を従えて平城帝の病床にやって来た神野は、

「春宮神野、罷り越しました」とよく通る声で来訪を告げ、神妙に頭を垂れている。


会う度に頼もしくなって来たなと思っている反面、相変わらず堅苦しいやつだ。

と内心苦笑する平城帝は病床から半身起こして「よい、面を上げよ」と声を掛けた。は…と顔を上げた神野に向かって平城帝は、


意識を取り戻してすぐに心に決めていたことをそのまま言葉にした。


「神野、お前に天皇の位を譲る」


平城帝の突然の譲位宣言に狼狽えて「それだけはしてはなりません!」と叫んで立ち上がろうとした仲成の袖を荒っぽく引いて「帝の勅の最中であるぞ、控えよ!」と葛野麻呂が一喝して留めた。


「…畏れながら、私は受け取る器ではありません」


いにしえから伝わる譲位の慣習通りに


勧められたら最初の二回は断る。という儀礼に則って神野は答えた。


「私の体はもう限界だ、お前こそ天皇の器に相応しい」


「我はまだ未熟者でそのような徳はありません」


次に来るご兄弟の会話はこの国の将来を決定する最重要事項である。

その場に居た全員、息をするのも許されぬ程の緊張感で見守った…


「お前は心も体も十分に育った。神野、この国を頼む」


「謹んでお受けいたします」


と答えた神野はこの瞬間天皇となった。


大同4年4月1日(809年5月18日)、晩春の頃である。

神野はそれまで恭しく下げていた頭を上げて上皇となった兄と再び目を合わせた。


…神野は鷹の眼をしている。


と平城上皇は初めて弟の本性を垣間見た気がして戦慄を覚えたが、すでに遅かった。

「即位の条件としてだが」

と敢えて縋るような声で平城上皇は付け加え、


「我が子高岳を皇太子にしてやってくれないだろうか?」


という要求を神野は「ええもちろん。兄弟間で位を譲り合うのがならわしゆえ」と笑顔で承諾した。


この時、なぜか阿保親王はえも言われぬ恐ろしさから高岳親王を強く抱き寄せていた。


それは、一年後に起こる悲劇を予感していて弟を守ろうとする兄としての本能からだろうか?


それとも皇統という深い血の河に弟が巻き込まれることに恐怖を覚えたからだろうか?


「あの時の怖さ、というものは皇族になってみないと解らないよ…

今思えば両親を同じくする父平城帝と叔父嵯峨帝があんな事になったのは当然の成り行きだったし、

我が父は皇位を手放した時点ですでに負けていた」


と後年になって阿保親王が息子たち行平王ゆきひらおう業平王なりひらおう(在原行平と在原業平)に語り、

「だから、くれぐれも皇統争いに巻き込まれるような愚は犯すな」と念を押して忠告した。



行ってらっしゃいませ、と送り出した夫が「ただいま」と言って東宮に帰って来られた時にはすでに践祚を終えて天皇になっていらした。


と知った時の驚きを生涯忘れる事は無いだろう…

と橘嘉智子は晩春の夕焼けを見るにつけ、思うのである。


ちちうえ、ちちうえ。覚えた言葉を繰り返す有智子内親王は2才の可愛い盛り。

東宮に帰ると真っ先に交野女王の所に行き、彼女との間に生まれた有智子を膝に抱くのが神野の習慣となっている。


「なあ有智子、父はさっき天皇になったぞ」


と神野が廊下から部屋に入り込む夕焼けを肩に受けて愛娘に語りかけた時、


部屋にいた交野や嘉智子、乳母や侍女たちがしばし時を止めたように静止し、


「そ、そういう一大事はお帰りになる前に使者を寄越して伝えるものですよっ!こちらにも準備というものが」


と叱ってくれる明鏡に向かって神野はすまんすまん、と笑い返し、

「仰々しく拝跪されるよりも、いつも通り迎えてもらいたくて黙っていたのだ。こうして気楽な時を過ごすのも最後ゆえ」と照れ臭そうに詫びた。


「それでは今からよろしいですか?」

本来なら伝令役であった筈の命婦、三善高子が目で許可を求めると、

「うむ、高津おいで」

と神野はうなずいて有智子を乳母に預け、


新しく天皇の妃となった正妻の高津内親王を呼んで自分の右側に立たせると、


それを合図に藤原緒夏、橘嘉智子、多治比高子ら側室たちと幼い頃から仕えてくれている明鏡、百済王貴命、百済王慶命ら東宮の宮女たちが一斉に拝跪し、


「此度はまことにおめでとうございます。おほきみの御代が幾久しく続きますように」

という言祝ことほぎを受けた嵯峨帝は


「めでたい」


と柔らかい笑顔で答えた。


これより、平安京を真の平安たらしめる嵯峨朝が始まる。



「父上でも夜眠れぬことがあるのですね」

と息子の冬嗣に言われて内麻呂はああ、と大内裏の庭園にある池に映る満月から顔を上げた。


「なあ冬嗣、わしはこれで3代の天皇に仕えることになるが践祚の夜は決まって眠れぬものだぞ…即位式まで気が抜けぬな」

「はい」


と夜中の月を眺めながら佇むのは右大臣藤原内麻呂と彼の次男、冬嗣。


内麻呂は桓武帝即位の年に従五位下に叙爵して宮中に上がり、


平安遷都の直後に参議として公卿の列に加わり中納言、大納言を経て平城帝即位の年に右大臣となって天皇の補佐を務めてきた宮中の功労者であるのだが…


11年前の和気清麻呂の死後、後任の造営大夫に任ぜられ、3年前には右大臣神王の急死で後任の右大臣に就いた。


つまりはこうさ。北家の頭領内麻呂は妻を帝に売り、前任者の屍を次々に踏み台にして急速に出世してきたどす黒い男なんだよ。

清麻呂さまの死や神王さまの死はまことに病死だったのか?ねえ…


と宮中で囁かれる噂に内麻呂は、

ああ、その通りだ。と当然のごとく胸をそびやかす。だが、貴族の男は皆やっていることではないか。

出世の為に娘を宮中に入れて帝に媚を売り、老いた前任者の失脚や死で後任の若い者が能力を発揮できる。


それが貴族社会というものであり、運と実力のある者がのし上がるのはむしろ自然のことわりなのではないかね?


と隅で噂するしか能の無い者たちを内麻呂は心底軽蔑し、大臣になりたかったらなぜ、『どんなことでも』しないのだ?と逆に聞きたい。


「一昨年は哀しい事もありましたが、新帝ご即位でひとまず人心は晴れるかと」


哀しい事、と伊予親王の横死の事を急に話題にされ、父内麻呂の蝋燭のような白い顔にさっと焦りの色が走ったのを冬嗣は見逃さなかった。


「思えば一昨年のあの政変で大納言雄友どの中納言乙叡どのはじめとする南家のほとんどの臣下が失脚しましたね…宗成という取るに足らない奴の戯言一つで」


「…何が言いたい?冬嗣」


いえね、と冬嗣は腕組みし


「宗成を唆して伊予親王さまを陥れるように仕向けたのは父上、あなたしか思いつかないのですがね」


元々鋭い目をさらに細めてさらに射込むような眼で父親を見つめた。


篝火の中で薪が威勢よく燃え上がり、ばちばち!と盛大に音を立てて爆ぜる。


「どうしてそのように言い切れるのかね?」内麻呂はつとめて冷静に息子に質問した。


もう何もかも済んだ事だ。もと大判事(司法職)だった息子の推察を暇つぶしに聞いてやろうじゃないか…


全ての証言を集めて考えた結論ですが、とまず言い置いてから冬嗣は顎に手を当て、

「事の発端は宗成が伊予親王様の邸で


『式家の兄妹を討ちませんか?』と謀反を持ちかけられてこれを不快に思われた伊予さまが宗成を追い返した。その時の会話を家人の雄宗王が聞いております。伊予さまの証言に間違いはないかと」


「ふむ」


「しかし、大納言雄友どのの証言は


『式家の仲成が宗成に謀反の話を持ち掛け、伊予親王さまを巻き込もうとした』


と急に仲成どのが事の元凶であるかのように歪曲されている。ですが、面通しの結果仲成と宗成は全く面識が無かった…これで雄友どのの証言は覆され、失脚に至りました」


そうだな、と内麻呂はうなずいて「で、なんでわしがそれに関係あると?」


「父上は詮議の時、宗成を咎めようとも伊予親王様を弁護しようとも、さらには激昂したまま厳罰を下す上皇さまを諫めようともなさいませんでした。


親王様と重臣たちを詮議するのだから最も慎重にやらなければならない時に何もなさらなかった。

それは十分罪だと思うからです。

怒り狂う上皇さまを巨勢野足こせののたりどのは『帝王にあるまじき軽挙妄動ですぞ!』とお諫めしたのに…」


「右大臣としてわし一人だけは落ち着いておらねばならぬと思うたまで」


としらばくれてもなお、冬嗣は追及の手を緩めない。


「問題はですねえ、最初から無実の仲成をどの時点で謀反人に仕立て上げたか?それは伊予親王邸での騒ぎの内容が間違って雄友どのの耳に入ったのですよ」


「雄友め、馬鹿なやつ…間者の吹き込んだ情報を仲成憎さに歪曲して自滅しおった」


「間者って何です?

私は雄友どのの耳にどうやって入ったのかは一言も言ってませんよ」


あ…と内麻呂は己が口を手で塞いだが時すでに遅し。


「成程、困窮していた宗成を唆して伊予さまに面会させる。父上が放った間者が雄友どのに嘘の情報を吹き込む。一大事だと思った雄友どのが父上に報告する。全てはあなたの仕組んだ事ですか…」


冬嗣の眼はますます冷たさを増し、語尾には怒りさえ滲んでいる。


「何で皆、考えようともしないんだろう?宗成と伊予親王さまや仲成との繋がりよりも同じ北家の縁者である父上との関係をねっ!

父上なぜこのような事を?本来無実の伊予親王様を死なせてまで何がしたいのですか!?」


「全ては神野さまを帝位に付けるための桓武帝の御遺言」


よいか、内麻呂。安殿あての治世ではこの国は悪い方向に行くだろう…神野が政を取るのに十分な器だと思ったら邪魔と思った者全てを退け、神野を帝位につけるのだ。


藤原のやり方がどんなものかは帝が十分ご承知のはず…帝、もしですが。


何だ?


安殿さまはともかく、私めが伊予さまを邪魔だと思って手を下すのは?


よい、やれ。


御意…


「全ては国政の為、将来の帝王として御自ら教育なさった神野さまを天皇にするためなら、

伊予さまを安殿さまを潰すための生け贄にしても構わぬ。

そう言い切った桓武帝は実に恐ろしい御方だった。


この国を立ち直らせる為には、神野さまに賭けてみるしかない。


安殿さまをお支えする事に疲れたわしは帝の御遺言と自分に言い聞かせながら、金をせびりに来た宗成に『流罪先から帰ったら五位にしてやる』と唆した…これが全てだ。冬嗣、父を軽蔑するか?」


いいえ、と冬嗣はかぶりを振り、

「今日この日が無ければその内何処かで反乱が起こっていたでしょう」と薄く笑って答えたがいつの間にか彼の右手は内麻呂の腰に差している太刀を引き抜いていた。


「全てを謀った真の大罪人め、死ね」


と刀を父親の頭上に振り下ろしたその時、ぎん!と跳ね返され刀身から火花が散る。


冬嗣と内麻呂の間に割って入って己が太刀で冬嗣の一太刀を止めたのは、兄の真夏であった。


「いま右大臣を殺したら北家は全て終わるぞ…!妻子はどうなる?」と真夏は武力も自分に勝る冬嗣相手にぎりぎりと鍔迫り合い、声を振り絞って訴えた。


美都子…冬嗣の脳裏に愛妻の美都子と長良と良房息子たち。家族の顔が浮かんでやっと冬嗣は我に帰って刀身を引き、

「父上にお返しします」と言うと

内麻呂の足元に思いっきり刀身を突き立てた。


声にならない叫びを何度か上げて肩で息を付くと冬嗣はまるで何事も無かったかのように額の汗を拭ってから、


「明日より妻子を連れて家を出ます…これからは親子でなく同じ帝を戴く臣下同士として勤めましょう」


とくるり、と背中を向けて去って行った。


「助かったぞ真夏…」


と言って息子の背中にもたれかかる内麻呂に真夏は、


「冬嗣と夜二人きりになる父上も悪いです」と冷淡に言ってのけた。

それより、と自分も太刀を腰に差し直して内麻呂に正対し、


「父上はどうして冬嗣にわざと自分を憎ませるのです?」

と父の弟に対する苛烈な育て方を見てきただけに、また今夜みたいなことが起こるかもしれないとさすがに心配になって尋ねた。


「天皇というのはこの国で一番孤独なお立場だ。今までにない険しい道を行かれる帝の心の支えになるのは真に二心無き忠臣」


だから、藤原からもこの父からも心を切り離し新しい帝を守りまいらせよ。


冬嗣。


篝火の中の薪は燃え尽きて辺りは闇になり、雲が晴れて丸い月が白々と冬嗣の背中を照らし出す。


後の閑院大臣で藤原家の繁栄の礎を作った藤原冬嗣。


嵯峨帝即位の夜、彼も独り立ちをした。




















































































  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る