第38話 遣唐4 仙境天台山
我が弟子泰範へ。
私は今、生涯で最も充実した時を過ごしている。近江国分寺での私の最初の師、行表和尚から学んだ法華経の天台一乗の真髄、
全ての衆生は等しく救済されるべきである。
という理念を自分の中で確固たるものにするため海を越え、ここ法華経の根本道場である天台山に受け入れられて7代目座主、
「わざわざ海を越えて法華経を学びに来られるとは…この道邃はじめ、天台山の僧侶はあなたを歓迎している。
全てを伝えるつもりであなたに講義致しますから」
と初対面の時道邃さまは眼に涙を浮かべて両手で握手して下さった。
翌日から朝早く起床してまずは漢詩人が詠む仙境のような天台山からの眺め…霧雲の中でにじんで昇る朝陽に手を合わせ、道邃さまによる天台教学の講義を夕方まで受ける。
そして空いた時間をぎりぎりまで使って故国に持ち帰るための経典の写経に集中するのが日課になった。
好きなことだけを学び考える。
故国で貴人のお世話や他宗派との論戦の日々に疲れていた私にとって清らかな霊山で学ぶ日々は、至福であるよ…。
だが、私には時間が無いのだ。
端正な字で写経の最後の一字を書き終えた最澄は弟子の義真に紙を渡し、墨を乾かすために義真は順序よく室内に紙を並べて置く。
もう写経作業は二時(四時間)を越えていた。
経典を一巻書き終えると最澄は「次っ!」と新たな教典を持ってくるよう命じた。
「承知しました、と言いたい所ですが…」と疲れた顔した義真が室内を指し示すのを見て、部屋中足の踏み場もないくらい写経の紙で埋め尽くされている事に最澄はやっと気づいた。
「これじゃあ墨が乾くまですることがないね」
最澄は
「すること?今貴方たちががする事は休む事じゃないですか」
と写経だらけの部屋を見て呆れた、といった顔で道邃が人差し指と親指で丸を作って飲む仕草をし、
「どうです?茶でも一服」と外国からの賓客を自分の道楽である茶席に誘った。
椀の湯の中で茶の花が開き、浅黄色になった状態になったところで道邃は「さあどうぞ」と二人に勧めた。
言われるまま茶を啜った二人はその液体の香りと甘さに驚き、「まことに美味なり!」と通訳の義真を介して率直な感想を伝えると道邃はそうでしょうそうでしょう、と
少し自慢げに頬を緩めて見せた。
「
茶経とは昨年死んだ文筆家、陸羽が書いた唐代と唐代以前の茶に関する知識を系統的にまとめた世界最古の茶の指南書である。
当時の茶は発酵した茶葉を丸めて乾燥させたものを鍋で煮出して飲む、現代で言う嗜好品としてではなく薬として大陸の人びとに愛飲されていた。
遣唐大使を初めとする一の船一行がやっと福州から長安に向かったと知らされてひと月が経過していた冬の日の昼過ぎの事である。故国よりも冷え込む霊山のきびしい冬にいただく一服の茶は、心身ともに二人の異国僧を温めてくれた。
「はい…もう見るもの聞くものすべてが素晴らしいものばかりで寝食も惜しい程です」
その言葉を聞いた道邃は初めて最澄に向けて厳しい目つきをし、冷めない内に自分の茶を啜った。
「そこですよそこ、あなたの熱心さと集中力はここの弟子たちにも見習わせたいものがある。しかし寝食削るようであっては体に良くない」
「しかし私の留学期間は半年と定められております。ご講義を解釈するのも、膨大な数の経典を写経するのも時間が足りません。休んでなんかいられるものですか!」
「よいかね?倭国から来た僧侶よ。私が休ませたいのはあなたではなく義真の方なんだ」
と気まずそうに通訳する義真の面やつれに最澄は初めて気付いたのだった。そうだ、通訳と私の世話と受講する時の各寺へのとりなし等々、
自分の倍働いてくれている義真の過労を気遣いも出来なかったなんて…
「私は師として失格でした」と最澄は義真の手を取って深く自分を恥じた。
「故国に天台教学を持ち帰る、という考えは高邁だ。しかし高みばかりを目指して、足元を見ないのがあなたの欠点です。
そういった者が陥るのが文字通り『失脚』といういうものなんですよ。
若い頃官吏だった私は毎日のように同僚や上司の失脚を見て来ましてねえ…何もかもが嫌になって気が付いたら出家してこの山にいる。
ねえ、あなたと私、境遇が似てると思わないか?」
そうやってしばらく自分の長い眉をもてあそんでいた道邃は官吏だった頃のように鋭い目つきになって最澄を見つめる。
ごくりと唾を呑み込んで最澄は道邃の深い瞳を見つめ返すとやがてぐふふ、と声を立てて道邃は笑った。
「絶えず『今』に集中し、今何をやっているかに気を配るのだ。最澄よ。茶を淹れる前に湯を沸かす火の加減に気を付け、鍋の中で沸き立つ湯の泡沫の大きさで茶葉の入れ時を見図るようにな」
含蓄深い師の言葉に最澄は深く頭を垂れた…
「まったく、茶の道は奥深い」と椀の中の茶葉を見ながら道邃は呟いた。
泰範。
こうして待遇に恵まれて高僧たちから教えを受け、あまたの経典や法具を贖うことが出来たのは、
ひとえに
出航直前に春宮さまにお礼に伺ったところ、春宮さまは二人の皇子さまがたと睦まじく過ごしておられた。
10才前後の皇子さまを阿保、と呼び、3、4才くらいの皇子さまを高岳、と呼んで膝に乗せてお笑いになっていた。
私が「この度はご厚意有難うございます」と礼を述べると春宮さまは鷹揚な口調でゆったり笑って仰ったのだ。
「これからの仏教を創り出す優秀な僧侶に寄進すると思えば少しも惜しくはない。航海の無事と滞りなく留学を終えることを願う」
周りでは色々言われている春宮さまだが、直にお会いするとなかなか良い方ではないか。
私は春宮さまに、感謝しているよ…
そろそろ大使どのは長安に入られた頃だろうか?無事皇帝に謁見を果たせただろうか?
と明州のとある役人の家で手厚く看護されている病人がいた。
下船して間もなく病に倒れた遣唐副使、
明州の海岸に漂着した二の船の一行がすんなり役人たちの審査を通過して下船を許され、さらに最澄の天台山入りを許されたのは、
ひとえにこの男の人当たりの良さと巧みな交渉術で明州の長官に気に入られたからに他ならない。
呼吸をする度に胸が痛く、咳をする程体力が消耗していくのを感じる。年だな、ともうすぐ43になる道益は病室の天井を見つめながら思った。
数日前に最澄どのから自分の体調を気遣う内容の文と薬が届いた。
「あなた様のおかげで私はこの上ない良い待遇に恵まれ、充実した学問の日々を過ごしております。道益どのにはいくら感謝を尽くしても足りませぬ。
天台山で処方されている薬草をこの手紙と共にお送りしますので、朝晩煎じてお飲みください。
体の冷えを取り、咳を取る効果があります。
回復なされたあなた様と帰国する日を佛に祈って。最澄」
ああ、親切だが言葉の通じない看病人たちに囲まれた生活の中では、最澄どののこの万葉仮名で書かれた手紙こそが一番の滋養であるよ…
お優しいあなたにひとつ伝えたい事があるのだが、それは叶わない気がするのだ。
私は大使の葛野麻呂さまと共に出航直前の挨拶に春宮さまの御前に上がったのだが…
大使様はいきなり「あの最澄に倍額の留学費用を渡すとは、どういう御真意か?」と畏れを微塵ともせぬ口調で春宮さまに詰問されたのだ。
「奈良仏教派のお前が怒るのも無理はないよな」
と春宮さまは無表情でご自分の忠臣である大使さまの憮然とした顔を見つめておられた。
「葛野麻呂、お前が恐れているのは最澄が無事帰国して箔を付け、父上によって天台宗が正式に認可されることだろう?違うか?」
「その通りです。皆、表立っては言いませんが最澄一人に権力が集中する事態になりはしないか?と憂いているのです」
春宮さまは大使さまのその言葉を待っていたとばかりににっと口元を広げてお笑いになり
「お前の言う通りだ。最澄には父帝と和気氏しか味方がいない。比叡の山を降りたらあいつは敵ばかりだ…
そんな奴が倍額の金を貰って国賓待遇の還学僧として意気揚々と帰ってきたら、
この国ではますます嫌われて孤立するに決まっているじゃないか。
私は強論で奈良仏教を蔑ろにしているあんな奴は大嫌いだし、父から引き離すための経費と思えば惜しくもなんともない」
「そこまでお考えでしたか」
大使さまはそこでほっとしたように表情を緩めて、帰国した後にあなたに振りかかって来る受難を想像して…
笑っていらっしゃったのだ。
私も貴族階級の出身でさんざん人間の嫌な所は見て来たつもりであったが、あれほど悪意のこもった恐ろしい会話は初めて見たよ。
春宮さまは昂る気持ちを落ち着けようと匂い袋を嗅いで深呼吸なさり、
「航海の無事を祈る。葛野麻呂、特にお前は帰って来い」と縋るような口調で言われた。
「は」
「それに道益、お前も帰ってきたら重用してやる。約束するぞ」
「有難きお言葉…」
大使様と並んで私は一礼し、退出しようと背中を向けた時、
「最澄なんか死ねばいいのに」
という春宮さまのつぶやきがはっきりと聴こえたのだ。私も大使様も聴こえない振りをしたのは貴族の哀しい習性と言うべきか。
可哀想に。
最澄どの、帰国したらあなたは不幸になるよ…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます