第26話 菜摘26・勤操と徳一

空海の師として後の世に知られる勤操ごんぞうは、渡来人系豪族の秦氏出身である。


しかし生まれて間もなく父は死に、地方豪族の嶋史氏しまのふひとしの母のもとで育ったが12になった頃、大安寺に連れて来られた。


「夏には会いに来ますから」と、最後に一瞬だけ強く抱きしめてくれてから母は寺を去った。


以降、母が大安寺に来ることは無かった。うわさでは別の豪族の男と再婚したと聞く。


三日後、息子は「勤操」という名を新たに与えられ、剃髪して大安寺の見習い僧侶となった。


不思議なことに勤操は母に何の恨みも持たなかった。女手一つで子を育てるのが負担になった母親が息子を寺に置いていくのはよくある話だし、野山や道端に棄てられて獣に喰われたり人買いに売られる子よりはましな方だ、と勤操はあまり抵抗もなく自分の運命を受け入れた。


勤操が寺に入って三年後、ある童の子守を任された。この時勤操15才、ちょうど新入りの童に寺でのしきたりや礼儀作法を躾ける係になっていた。また食い詰め豪族のせがれが来たのだろうと思った。


しかし、その童との出会いから何から、全てが異様だった。と勤操は今でも思う。


自分に童を預けた僧侶は瑠璃色の瞳をしていてこのお方は本当に人なのか?と思ったくらい美しい顔立ちをしていた。


僧侶の膝の上で4,5才くらいのその童は眠っていた。肩まである豊かな黒髪。子供にしては整った上品な顔つき。高価な衣を着せられているので貴人の出の子かもしれない。


この子は訳ありや。と勤操は直感した。

でなければわざわざ真夜中に東大寺の奥の奥の部屋まで大安寺の見習い小僧である自分を呼びつける筈は無い。


「とりあえずここでいい、と言うまでこの子の世話をしてくれないか?」

と僧侶に言われ、勤操は10日以上は童の面倒を見たと思う。


その子から目を離してはいけない、決して部屋から外に出てはいけないと命じられた。


食事や着替えの衣など必要なものは決まった僧が運んできてくれたのでこれほど楽な子守のつとめは無かった、が、夜中に必ず童は起き出し、火が付いたように激しく泣くのだ。


幼いながら、余程恐ろしい目に遭ったのだろう。勤操は毎晩、童の背中を撫でながら自分が母から聞かされてきた昔ばなしをするのだがやがて話の種も尽きて、何故か自分は童相手に、大陸から来た渡来人、秦一族の由来を語っているのであった。


「大和の隣の山背の国に、広隆寺というお寺がある。

あれはわしのご先祖の秦河勝はたのかわかつさまが建てたお寺でな、完成した時に絹の織物をうず高ーく積み上げて寄進したことからあの地域は太秦うずまさと呼ばれるようになったんや。

秦一族はそれだけ金持ちやったっちゅー話なんやがあれから150年…秦氏は落ちぶれて普通の豪族よ。今はもう藤原ばかりが威張りくさる世の中になってしもうた。なんや、寝てもうたんかい」

と自分の隣で寝入った童の頭を撫でて、


なあ童、ここに来たからにはお前も坊さんになるんやろうな。どこの生まれかは知らんが出家してしまえばみんな同じ仏弟子や。

「坊さんになったら秦も藤原も関係ないのや」とつい口に出して言ってしまったのは、自分に言い聞かせたかったからかもしれない。


ある夜、勤務は僧たちが何人か集まって声をひそめて恐い顔つきで話し合っているのを偶然見てしまった。

(あの子の父はあまりにも多くの者を殺め過ぎた…)

(家族はほとんど殺されてしまって他に引き取り先も無いのです。あの子の母も斬殺されました)

(女帝は赤子に至るまで根絶やしにしろと仰せになっているとか)

(馬鹿な…とてもご正気とは思えぬ!ご自分の従兄弟で忠臣だった男をようもああ平気で棄てられるか?)


「男を替えたからでしょう?そしたら前の男なんて踏んで始末したい虫ぐらいにしか思ってませんよ。女人とはそういうものです」


あの碧眼の僧侶が皮肉そうな笑い声をたててくっくと肩を揺すった。


「親の罪のせいで幼子まで殺される非道がこれ以上あってはならない…まあ任せなさい、この身を張ってでもあの子は守ってみせる」と一番高齢の僧侶が碧眼の僧に目配せをし「また難しいことを頼むが」と済まなそうに語尾をすぼめた。


「御意…人たらしの術なら拙僧にお任せを」そこで会話が途切れた。


やがて僧たちが散会したので急いで戻って童の隣で寝たふりをしている勤操に近寄る気配があった。


「さっき聞いたことはすべて忘れるのだ、秦河勝の子孫よ」


と忠告をした声は、やはりあの碧眼の僧侶のものだった。自分の愚痴も全部聞かれていたのか!


勤操は不穏な談義を聞いてしまった恐ろしさと自分の言動が筒抜けになっていた恥ずかしさでますます身を強張らせて童を抱き寄せて眠った。


翌朝、勤操が童に朝餉の世話と着替えをさせるとそれを待って部屋に入って来たのは昨夜の老僧だった。


「さあさ、あなたはこの寺の子になるのですよ」と老僧は童の手を取り、勤操に向かって「ご苦労だったね」とずしりと重い布袋を渡してから弟子たちにかしずかれて別室へと消えた。


中身は十中八九金だろう。が、子守の報酬にしては多すぎる金額だ。


程なく師の善議和尚ぜんぎおしょうが勤操を迎えに来たのでああ、自分の役目は終わったんやな。でも…


あの子もまた、豊かな黒髪を剃られてしまうのか。といたたまれない気持ちになったのを勤操は今でも覚えている。


老僧の正体は東大寺の初代別当、良弁僧正ろうべんそうじょう。碧眼の僧は実忠じっちゅうといい、胡人(ペルシャ人)の子孫だという。

どちらも仏教界の最重要人物である事を知ったのは、五年後、自分が正僧になってからの事である。


それから33年後の延暦21年(802年)冬の終わり、高雄山寺。


和気広虫三回忌法要を終えた僧たちはひと仕事終えた、といったゆるんだ表情で講堂からぞろぞろ出て、各々の寺に帰ろうと歩みを速めていた。


「ちょう、徳一はん」と柔らかい口調で呼びかけられて振り向いた徳一は、いきなり懇意にしていた勤操和尚の頭突きをもろに食らう破目になった。

鼻の中央から両目の後ろを通って激痛が脳天にまで突き抜ける。

後ろに倒れそうになるところを徳一はなんとか踏みとどまり、あふれ出る鼻血を手で押さえながら「勤操和尚…何でや?」と問うた。


「あんた、講話の最中に天台の最澄に喧嘩吹っかけたやろ?あの騒ぎのせいで後の講師の面目丸つぶれやないかい!」


ああ、最澄の次の講師は確か勤操和尚だったな。鼻血がこぼれ落ちて袈裟に赤い染みが広がる。


これ新調したばかりなのに…そう思うと肚の底から急速に怒りが沸いた。


「はんっ、しょーもなっ!」と呟き袈裟と数珠を弟子に預けると徳一は身を屈めて素早く勤操の懐に入って固めた拳を勤操の下っ腹に三度、叩きつけた。


「結局は自分の講義誰も集中して聞かへんかったから私に八つ当たりかい?これだから年寄りは」


悶絶する勤操に向かって徳一は笑って軽蔑に満ちた台詞を吐き棄てた。


年寄り、とは聞き捨てならん!


るか?若僧」痛みに耐えて勤操は徳一の胸ぐらを掴む。


とっくに喧嘩売ってるでしょうが…と徳一は思ったが「相手に不足なし」という徳一の答えを合図に三論宗勤操と法相宗徳一の高僧同志の殴り合いの喧嘩が始まった。


あまりの出来事に周りの僧侶たちはぽかんとしていたが高齢の僧侶が「あの二人を止めろー!!」と指示したのでやっと我に却り、二人の喧嘩に割って入った僧侶数人が、

逆に荒行で鍛えた勤操と徳一に振り落とされ、廊下から外に転がされる始末。結局大勢の僧たちが二人を押し包んで諍いを止めるまで四半時掛かった。


南都六宗の恥にもなりかねないこの騒動は、もちろん公には記載されていない。


東大寺二月堂のやたら薬草臭い小部屋の奥で、ひとりの老僧が指先で器用に丸薬を拵えている。

齢70をとうに過ぎているのに整い過ぎた顔立ち。その瞳は深い瑠璃色をしている。


老僧の名は実忠。東大寺権別当という職にあり奈良仏教界では大僧正よりも権限を持ち、功労者過ぎて朝廷も迂闊に手を出せない存在となっている。


「まあ座りなさい」と実忠に促されて二人は畏まって並んで座った。どちらも顔を痣だらけにしていてふてぶてしい面構え。


「勤操、お前いくつになった?」


と実忠に聞かれたので「48です」と答えた。


「徳一は?」


「は、38です」


実忠は丸薬を紙包みにくるんで傍らの小箱に納めると、はぁー…と溜息をついてから立ち上がって説教を始めた。


「いい大人が寺で児戯みたいな喧嘩か?主催者の和気兄弟と最澄が退出した後だったから良かったものの、事と次第によっては和気氏の不興を買い、出入り禁止を喰らっていたかもだぞ。

将来の南都六宗を背負う二人が何をやっている?特に、徳一!」


はっ!と叫んで顔じゅうに脂汗を浮かべて徳一は床に両手を床に付き、さらに姿勢を低くした。


「お前の遣唐使願いを握りつぶしたのはわしの一存だ」


え!?


反射的に顔を上げようとする徳一の頭上に実忠は手を置き、我が子にするようにぐりぐりと撫でながら言い聞かせた。


「いいか?わしは師の良弁さまにお前の後見を頼まれたのだ。いずれ法相宗を継ぐお前を唐への危険な航海に行かせる訳がなかろう」


「なれど、それでは最澄に出し抜かれてしまいますぞっ…!」


「代わりに霊仙りょうせんを行かせる。何か不満が?」


法相宗の霊仙は齢43、実績も人望もあり確かに最澄に対抗するには相応しい人物である。


「ありませぬ…」掌の下で徳一が屈服するのを確かめると実忠は破顔一笑し、


「お前らみたいに喧嘩するほど元気のいい僧侶たちでないと今の仏教は変えられぬとわしは思うよ。だがまだまだ頭が固い。

これでも読んで思考を柔らかくするんだな」


と徳一の頭上に何やらはらはら、とばら撒かれたのは漢文で書かれた手紙の束だった。


「下がってよいぞ」と言われたので二人は手紙をかき集めて二月堂を辞した。



聾鼓指帰ろうこしいき、と題された長い手紙を徳一が読み終えるまでの間、勤操は「愉快や、愉快や!」と酒飲んで笑っていた。


最後の十韻詩まで読んだ徳一は読んでいた手紙から目を離すとしばらく天井を見上げ、無言で私度僧空海紡いだ物語世界を振り返り…


「これは…実に面白い」と膝を打つと、部屋の隅に控えていた少年僧、智泉に「小僧、酒持って来い!」と命じた。


「は」と一礼して部屋を出た智泉は今年13才。去年みづらだった髪型を短く剃り、墨染めの衣に身を包んで正式な少年僧となった。


誰にも見られないように戒明の部屋の床下に隠してある酒壺から柄杓で瓶子に酒を注ぎ、それを衣の袖に隠して勤操の部屋まで運ぶ。


智泉が瓶子を差し出すと徳一は「ん」と肯いて受け取り、直に口に付けて喉を鳴らして飲み始めるではないか。


たしか法相宗の徳一和尚と言えば品行方正、と評判高いお方ではなかったか!?


戒明さまといい、わが師の勤操さまといい、こっそりとだけど平気で飲酒するし!


「大安寺は外国からの留学僧を受け入れる開明派の寺だからいい」と大叔父の阿刀大足の勧めるままこの寺に入ったけど…


開明的というのは、つまり「ゆるい」という意味なのだろうか?


と智泉が考えている横でほろ酔いの高僧二人はここから政治的な会話を始める…


「空海というのはこの寺に出入りしているあの小柄で人懐こくて賢しらな私度僧だろ?あいつがこの手紙の作者で、短期間でこいつの才を知らしめるために、その」


「せや、遣唐使選抜まで時間が無い。わしが空海の叔父の阿刀大足あとのおおたりに頼んで大学寮の学生に手紙を大量に書写させて学生、貴族、僧侶たちにばら撒いたっちゅー訳や。

まさか東大寺の実忠さまの所まで出回っているとはな」


と得意げに笑う勤操。その横でうーん、と徳一が考え込む。


「この手紙が宮中にまで出回っていれば最澄に反感を持つ貴族たちも動くかもしれん。だが、空海は正僧になる儀式をまだ受けていない。いくら才があろうと唐行きは無いぞ」


そこでや、と勤操は徳一の肩を引き寄せて「お前の方から空海がいつでも受戒出来るように律宗に働きかけて欲しい」


南都六宗の一つで鑑真和上開祖の律宗は、国家公認の正僧になるための儀式である受戒の権限を持つ宗派である。


「それなら可能だし、儀式を行う僧を紹介もできる。しかし、いつでもとはどういう意味だ?」


「できれば出航直前に受戒させたいと戒明さまの意向や」


はあ?と徳一は形の良い眉を跳ね上げ思いっきり怪訝な顔をしてみせた。


「だって、いま正僧になってしまえば何処かの宗派に属せねばならんやろ?それはあかん」


「無宗派のまま唐へ行くのか!?」馬鹿な!再び徳一は考え込んだ。もしそのような僧が唐で学びを得て帰国して何をするんだ?


あ…閃きと共に徳一は顔を上げて「空海に仏教の新宗派を興させる気か!」と面白い事を見つけた子供のように目を輝かせた。


せや、と笑みを浮かべた勤操は次の一言で完全に徳一の取り込みに成功した。


「空海は将来最澄をいてこます男や」


「是非協力しよう」


二人の高僧は堅く両手を握り合った。



夜も更けて、酔いも醒めた。松明を持って自分を送ってくれる智泉に


「私の父は南家の藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ


と徳一は唐突に語り始めた。


「出世の為には手段を選ばない男で、邪魔と判断したものは皇族男子でも殺した。結果、天武天皇の皇統を滅ぼした大罪人となった」


智泉は無言で徳一を振り返った。松明の明かりに照らされた徳一は表情を変えずに歩きながら話し続ける。


「戦乱で負けた父は家族ともども琵琶湖のほとりで皆殺しにされた。私の母も斬られた。

赤ん坊だった私もそうなる筈だったがなぜ生き残ったかは分からない。

物心ついた頃から従者に連れられ、刺客から逃げ回って育ったのは覚えている。

東大寺に助けを求めたのは5才の時だった。

私が僧として生きる事を許されたのは、良弁僧正をはじめとする東大寺の僧たちの庇護のおかげなのだよ」


あまりにも重すぎる徳一の身の上話に智泉は何も言うことが出来ない。


「確かに今の奈良の仏教には問題がある。議論だけの役立たず集団に堕した南都六宗は内側に居る僧たちが変えなければいけない。

だが、そう気付いている者が少なすぎる…最澄にはわざときつく当たっているが、私には私の守るべきものがあるのだ」


とそこで徳一はふふっ、と片頬で笑って智泉から松明を取り上げると帰るよう促した。


「ご苦労、後は一人で帰る。さっきの話は酔っ払いの独り言だと思って忘れろ」


坊さんになったら秦も藤原も関係ないのや。


夜道で一人になった徳一は、昔子守の少年僧がしてくれた言葉を思い出し、


嘘やったやないかい。


表向きの政治に一番反応するのは坊さんたちだったやないかい。勤操和尚。


と自虐的な笑いを浮かべた。


ふと見上げると夜空の雲が晴れて、松明も不要なほどの星明かりが旧都の空に瞬いている。


辛くなったら空を見ろ、一瞬でも憂さを忘れられるぞ。と教えてくれたのは育ての親の実忠さまだった。


なるほど旧都は打ち捨てられて寺ばかりになっても、夜空の星の位置は変わりない。


空と海で空海か。果たして空海は、この国の仏教の旧弊を打破する希望となり得るのか?


「空海とは、なんとも掴めぬ名前よのう」


と自分で言った言葉に思わず吹き出してしまい、自分が住む興福寺へと徳一は歩き出した。













































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