第23話 菜摘23・四君子の宴
「朕、詔す。皇太子安殿の次の皇嗣は、神野親王とする」
翌日の朝議、神野の人生を決める重大発表がなされ、桓武帝の御前に呼び出された神野親王の身の丈高く、どの皇子さまよりも頑健そうな体格と、聡明そうなお顔を拝顔して、
列席した参議たちは皆一様に、
ああ、あの安殿さまの後継がこのお方なら。と思い、久しぶりにほっとしたのだった。
「立太子まで神野さまを皇嗣の親王とお呼びするように!」
と齢65になる右大臣の
二日目の夜、楽人たちのかき鳴らす甘やかな音と美酒に酔った高貴な男たちの哄笑が響く中から一人の貴公子が抜け出した。
「疾く、疾く!」と食べ過ぎてもたれた胃の辺りをさする貴公子は牛車を北郊のある貴人の邸に向かわせる。
「疾く、と申しましても牛の歩みが遅いのは当たり前ですぞ」
と従者で乳兄弟の
「じゃあ馬で行けば良かったのだ」
とんでもない!と吉野は左右に首を振り、
「この夜更けに、親王様のお姿を、表にさらせと?」
と低い声で言って吉野はぴしゃり、と小窓を閉じてしまった。
これ以上我儘を言って吉野を怒らせてはまずい、と思った貴公子は目的地に到着するまで屋形の中で黙った。
「遅い、もうとっくに始めてしまっているぞ」
と今宵の秘密の宴の主、伊予親王が久しぶりに会う弟に太い眉を広げて相好を崩し、酒を並々と注いだ杯を勧めた。
は、はあ…と貴公子は腹の具合を心配しながら杯の酒を一気に飲み干し、当然ながらむせて一口吐き出してしまう。
済みませぬ、と貴公子は袖で口元を拭った。
ちょうど伊予親王の向かい側にいた青年貴族がそれを診兼ね、
「胃の腑がもたれていますな…右側を下にして横向きになるのです」
と自分の脇息を貴公子の右脇に押しつけて横向きに寝かせた。
「すまんな、広世」と体を楽にして脇息にもたれる貴公子は、やっと一息ついたのだ。
「いいえ、大伴さま」
和気広世は大伴親王の背中をさすってやりながら感じのいい笑みを浮かべた。
この貴公子の名は大伴親王、神野と同い年の異母弟である。
気を遣う大人どもから抜け出して、若者たちで言いたい放題の宴でもせぬか?
と先に御所の宴を抜け出した広世からの結び文が大伴の袖の中に投げ込まれ、伊予親王の筆跡で書かれたその文をこっそり広げた大伴は、
周りの貴族たちが酔って正体を失い始めた頃合いを見計らって宴席から抜け出し、従者の吉野に無理を言って牛車を出させたのだ。
しかしまあ、と寝転がった姿勢のまま部屋全体を見回すと招待客はこれだけか?と大伴は思う。
それもそのはず宴席にと案内された部屋には灯火が三方に灯っていて、主催の異母兄、伊予親王の他には和気広世、そして伊予の右手奥で琴や笛の手入れをしている若者と自分を入れて計四人。
「
はっ、と親王二人を前に余計に畏まるのは橘逸勢。年齢は二十歳だが、顔立ちは元服を迎えたばかりの少年みたいに童顔でいつも飽くなき好奇心と知的欲求で眼がくりくりと光り輝いている。
学業優秀で特に書と楽に優れているが、普段とにかく落ち着きがない。
路上に石があれば毛躓くし、壁があれば顔からぶつかる。
しかし一つの作業に熱中し出すと食事さえも忘れる。
というのが世間での逸勢の評判である。
優秀なんだけど、あいつを唐にやって大丈夫なのか?という意見もちらほら聞かれる。
「我が妻もそうだが、橘家の人達は信仰心深く学識高い。が、浮世離れしたところがあるんだよなあ」
と先程の宴で兄神野がこぼしていたのを大伴は思いだした。
私の傍で仏道三昧は構わぬが、どうも尼僧に無理矢理手を付けて妻にしてしまったような…そんな罪悪感が時々するのだ、とも。
大伴自身も最近異母妹の
皇嗣にお決まりになって媚びへつらう貴族たちにも長時間笑みを絶やさず応対する兄の根気強さに大伴はいたく感心し、
とても同じ十六歳とは思えない。かなわないなあ。と思いながら兄の前を辞したのであった。
「して、この宴の趣旨は何ですか?」
今更ながらに、大伴は伊予に尋ねた。
「逸勢が遣唐使に選ばれたのはお前も知っているな?」
「はい」
親王二人の会話を聞いた逸勢は、片頬で得意げに笑ったように大伴には見えた。
実に二十年ぶりの遣唐使派遣は、国家の一大事業。渡航の困難さと唐での学業の厳しさに生きて帰れる確率は五割、と極めて厳しいものだが、
それ故に役目を果たして帰って来た者には、格別な出世が用意されている。
「我が妹の夫の葛野麻呂どのも、帝から『戻ったら三位にしてやる』と言われてお役目賜ったのだ…羨ましい」
三位。それは別称星の位、
広世の妹婿、藤原葛野麻呂は出世のために命がけで海を渡るのだ。
鋭く尖った鼻先をくすん、と鳴らして広世は酒をぐいっと煽り、結構悔しそうに唇をへの字に曲げた。
ほかの三人は広世が唐へ行きたがっているのは出世目的ではない、ということを熟知していた。
「そういえば広世も唐行きを志願したのだったな」
「ええ、しましたよ。したんですよ。でも『清麻呂の家督を継いだばかりのお前を唐にやれるか!和気氏を潰すつもりか!?』と帝に言われましてね。駄目でした」
広世は前の造営大夫、和気清麻呂の長男で今年三十七。文学生、大学頭、典薬頭(宮中侍医長)と経歴を積んで来た優秀な学者官僚を桓武帝が手離す筈は無い。
性格は学者肌で至って穏健だが、書の収集、特に医学書ともなるともはや病的と噂される程だ。
ほーう、へーえ、とわざとらしく相槌を打った伊予、逸勢、大伴は、早く今宵の宴の酒の肴、
ずばり「最澄、遣唐使決定の真相」を聞きたがった。
「だから代わりに最澄を唐にやって、欲しい書物を買いに行かせるのか?国費を使って」
話の口火を切ったのはやはり伊予親王であった。
「私は父の遺言を果たすために奔走しただけのこと」
としらを切ろうとしたが、やはり口がむずむずするらしく、一旦伊予から逸らした目線を再び戻して
「…ここだけの話ですよ」と今年の冬の終わり、高雄山寺(現・神護寺)で最澄による法華会講話の最中に起こった「事件」のあらましを語った。
「いくら正僧とはいえ、十八で奈良の寺を飛び出した最澄は、南都の僧にとっては実績もなく帝の寵愛を受けているだけの若者に過ぎない。
…いいから頭を上げろ、広世」
は、と顔を上げた広世の目元には明らかに疲労によるくまが出ていた。
最澄を唐に行かせてやれ。
という父の遺言を果たすために奈良仏教界の僧侶たちや貴族たちに慣れぬ根回し工作を続けてすっかり疲弊している広世に、桓武帝は本気で同情した。
広世の本質はあくまで学者なのであって、権謀術数に長けた父の跡を継いだばかりに急に政治の世界に引きずり出される破目になった広世の境遇は、
はっきりいって自分と似ている。
「朕は清麻呂の子であるお前が可愛いし、助けてやりたいとも思っている。そこでだ、最澄とお前の両方に機会を与える」
「それはどのような?」
「清麻呂が建てた高雄山寺、そこで法均尼(和気広虫)の三回忌法要を開いて最澄を呼び、奈良の正僧たちの前で講義させるのだ。
そこで最澄が南都六宗の上に立った、という既成事実を作る」
高雄山寺で!なるほど、舞台は既に出来上がっている。
あとは伯母の命日に最澄と、敵対関係にある僧たち役者を揃えるだけ。
さすがは帝、うまいことをお考えなさる。と広世はいたく感氏心したが間をおかず不安が頭をもたげ、つい口に出してしまう。
「なれど…無事に講義が終わるのでしょうか?」
思った事を口に出さずにはいられないのは父清麻呂ゆずりだな。と桓武帝は心の中で苦笑し、
「途中で何が起こってもよい。最澄が、奈良の僧たちに講義をした。という事実さえあればいいのだ。
和気氏の体面を潰すような真似をする度胸のある僧侶が南都六宗にいるとは思えないが」
と、桓武帝はお笑いになった。それが伯母広虫と、父清麻呂の死の翌年のこと。
それから三回忌法要のあの日まで、事は計画通りに進み、最澄は高雄山寺の講堂で法華会講義を開いた…
だがやっぱり広世の心配は的中したのだ。
「最澄、お前の言っている事は虚言である!」
と抗議の最中に立ち上がって最澄を指さしたのは、法相宗の徳一。
「何が衆生は等しく全て救われる、だ?お前は法華経の耳触りのいい部分だけを拾い集めてそれを説く自分に酔っているだけだ。
やっぱり徳一か!広世は弟の真綱(清麻呂の五男)と顔を見合わせてから息を詰めて二人の論争を見守った。
ここは耐えろ最澄、耐えて講義を終わらせてくれ。と祈るように最澄の色白で細面の横顔を見つめながら。
最澄は冷静に徳一を見下ろしていたが、やがてすうっ、と大きく息を吸って…
「平等ではないとは…では何のための仏教なんですか?救われぬ衆生がいると決めつけては本末転倒じゃないんですか!?
自ら救いに行かない出家者は…あなた方ですっ!」
と壇上から言い放ったのだった。
なんだと!?となおも反論しようとする徳一は隣に座る権操に法衣の袖を引かれ、
「せっかくの法均尼さまの法要や。ここは穏便に済ませて有難い講義を聴こうではないか」
と諭されて徳一がぐうっと堪えて着座し、最澄は講義をなんとか終えることが出来た…
「あの時勤操が場を収めてくれなかったら、と思うと…」と広世はその時の情景を思い出し、深いため息を付いた。
「やっぱり徳一か」と一部始終を聴いた伊予は、さもおかしそうにくすくす笑い声を立てた。
「徳一は藤原氏出身で権高いところがあるからねえ…確か遣唐使を志望していてそれで最澄と争っていた筈だ。遣唐使の座も奪われ最澄憎しが増したのではないか?
ありがとう広世、久しぶりに旨い肴になる話を聞いた」
まったく、ねえ。と広世は空の杯を3人の聴衆の前で掲げて、
「他人の諍いごとほど、旨い酒の肴はないですよね」
と性格悪そうに笑ってみせた。
「なんだか話を聞いてると、僧侶たちは私たち貴族より大人げないところありますよねー」
と雉の燻製をかじっていた逸勢がつぶやいたので、本当に全くだ!と若者たちは大笑いした。
「さて、気分を変えて」と伊予が侍女たちを呼び寄せ部屋の戸板を開けさせると、
その向こうには夏の草木が生い茂る庭と、中央に引かせた小川と、天空には一片の欠けも無い望月(満月)が輝いていた。
おお…と招待客たちは一様に感嘆の声を洩らし、しばらく無言で黄味がかった月を眺めた。
「逸勢よ、今宵の楽はやはり琴にしてくれ」
やっと自分の本領を発揮出来る機会が来て逸勢は分かりやすく顔に喜色を浮かべ、調弦の済んだ琴をかき鳴らし始めた。
冴え冴えとした琴の音色に聴き入りながら伊予は、あれは七日前であったか、鷹狩りの帰りに父帝がこの邸に来て下さるのはいつもの事だったが、
「神野は式家の皇后腹の皇子で、お前は南家の夫人腹の皇子…格から言って神野を皇嗣に選んだのは、どの貴族も文句を言わない人選なのだ。
伊予、済まない」
天皇を同じ父に持つ大勢の異母兄弟たちは、どの氏族出身の女人の腹から出たかで一生の扱いが決まる。
それは皇族に生まれた者なら心得ている筈だ。
父上、人として謝られると余計に心が傷つきまするぞ…
「今宵は笛は聞きとうは無い」と伊予がつぶやくのを聞いて、大伴ははっと脇息から半身を起こした。
神野親王が龍笛の上手だと知った上での伊予の嫉心だと気づいた大伴親王、後の53代、
この時は自分に皇位が巡って来るなど、露ほど思っていなかった。
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