第4話 その男、空海
神野は、冬は嫌いだった。
野に出て狩りも出来ぬし、軽々に外出もままならぬ親王という身分がこの季節には首枷のように重く感じるのである。
それに、雪が積もると恐ろしい夢を見る。
そんな時は巻物を持ち込ませ書を読み学問をし、唐の
春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少
春眠暁を覚えず
処処啼鳥を聞く
夜来風雨の声
花落つること知る多少
春の眠りはとても心地よくて、夜が明けたのも気が付かずに不覚にも目が覚めなかった。
あっちこっちで鳥の鳴き声が聞こえた来たことで、朝になったことに気が付いた。
そういえば、昨夜は風が強く、雨も降ったようだ。
せっかくきれいに咲いた花だけど、昨夜の雨と風でどれくらいの花が散ったことだろう…
「勿体ないと思わんか?せっかくの花見の機会を寝すぎて逃しているのだぞ。
だがこの詩こそ、作者の孟浩然という男の性格を現している。
才能はあるが、厭世的でわざと出世の機会を逃してだらだらと人生を過ごしたのだ」
と周りの侍女たちに漢詩の講義をして相槌を打たせたり、紙を持たせて思いついた漢詩文を書き散らかしたり、と冬眠前の熊が食糧を食いだめするように漢籍をむさぼり読み、
言葉の持つ意味を咀嚼し消化し、確実に自分のものにしていた。
その結果
「最近、大学寮で使う書が足りないと苦情が来てね。特に文章科からなんだが覚えがあるか?」
と父、桓武帝から直々に呼び出され、お叱りを受ける破目になった。
「は…申し訳もありません…」と父の厳しい顔つきを前に、神野は神妙に頭を垂れるしかなかった。
「困るよ、神野。大学寮に通う学生は将来官吏になる国の宝なのだ。
皇子だからといって教材を取り上げるような真似はしてはならぬ。
…が、学問に励むのはいいことだ」
と父帝の声が急に柔らかくなった。あまり会えない息子に説教ばかりしてもな、と思い桓武帝は急に話題を変えた。
「橘家の娘と仲良くやっているようで安心したが…一人の女人にばかりに執心するのはどうかね?
すべての后を平等に愛するのもまた帝王としてのあり方なのだよ」
そんなに噂になっているのか!?
恥ずかしさと驚きで神野は思わず顔を上げた。
父帝の座る御椅子の側では
この齢六十を過ぎた女官は、姥桜ながら華やかな美貌を保っている。
乳母達の噂話から知った事だが、父帝がまだ山部王と呼ばれていた若い頃、明信とは恋仲だったという。
いつもそうだ、父上は心から信じる者しか傍に置かないのだ。
「で、その娘は美しいのか?」
と軽い口調で桓武帝は息子に尋ねたつもりだったが、返って来たのは息子の
「僭越ながら帝、自ら唐玄宗皇帝の故事に倣いましょうや?」と明らかにむきになった口調の質問であった。
父上、あなたは息子の妃であった楊貴妃を奪って国政を乱す真似はなさらぬでしょうね?
と言う意味で神野は美女には目が無い父に、生意気にも、俺の女に手を出すな!と釘を刺したのである。
はははは!と声を上げて愉快そうに桓武帝は笑った。
「息子の妃を盗るような悪趣味はせぬよ、安心せよ。ま、早く大学寮に書を返すことだな」
と言って帝の前で興奮して、しまった!という表情をしている息子を下がらせる。
肩を落とす息子の背中に「言っておくが怒ってないからな」と念押しして桓武帝は声を掛けた。
「気が滅入っている時は神野をからかうに限る」と桓武帝がつぶやくと、
「いけないお父上ですわね」と横で明信が半分咎めるような、半分呆れるような声で言った。
自分が心から笑ったのはやはり、半年前に神野を呼び出した時以来だった。
ということに桓武帝は気づき、この頃重なる気鬱な出来事を思うと頭が痛くなる…
明信以外の者を皆下がらせると、
「朕は、
病弱だからと甘やかしたのがいけないのか、十一で皇太子になってその重圧に潰れたのか、心に黒く凝ったものを抱えるようになった。幼き頃から小動物を殺し、
妃が幼いからといってその母親と通じ、気に入らない舎人を手に掛けた…
弟の神野までも手に掛けようとした時、明信、お前も一緒に見ていたな」
はい…と明信はあのおぞましい事件を思い出し、小声で返事をするだけであった。
「あれは全部、父親である朕に向けた憎しみなのだ。帝を攻撃したくとも出来ないから周りの弱い者に向かうのだ。
安殿が即位したら、ろくな事にはならない。
あいつめ…朕が頼りにしている最澄を遣唐使に推挙しおった。
朕から最澄を引き離す為だけにな」
「しかし、唐行きは最澄和尚が希望なさっていたこと」
「明信よ、唐行きの行程は厳しい。
遣唐使船に乗せた優秀な人材と莫大な留学費用が嵐で半分海に沈むのだ。
本音を言うと遣唐使を廃止にしたいくらいだ…
最澄には条件を付けた。二年間の
論敵である南都六宗を相手に
まあ、東大寺の僧たちと最澄どのの口喧嘩が目に見えそうだこと。と明信は思った。
桓武帝は、僧たちが平気で政治介入するようになった事態を憂い、
寺院建立は貴族の脱税手段にと使われる、腐敗しきった奈良の仏教集団を棄てるために、
二度の遷都までして南都六宗から逃げたのだ。
そのため新しい仏教を説く最澄を強く推し、将来の国家鎮護の先鋒にと期待していた矢先に…
「本当は最澄どのを遣唐使船に乗せたくはないのでしょう?
と明信が桓武帝の肩に手を置く。この頃帝が急にお痩せになったのが明信の心配事であった。
「明信よ、朕は大事な者は常に傍に置いておきたいのだよ。お前のように…」
と、桓武帝は明信の手に自分の手を重ねた。
沈黙と共に、二人は初恋の頃からの長い年月を噛みしめていた。
「あれから五十年、お互いよく生き残ったものだ」
「はい」
「朕に何かあったら、神野の事を頼むよ。母親代わりだったお前だ」
「はい…」
泣くんじゃないよ、と桓武帝は明信の手を優しく握った。
「ああらだって、わたしが明信さまに逐一ご報告できる身分じゃないってこと、親王様が一番御存知じゃなくって?」
と、鏡に向かって乱れた髪と服を直した貴命は、睫毛の多い切れ長の目で神野をきろっと睨んだ。
うっ、華やかな美しい顔立ちだが、やはり怒った顔が明信に似ている…と神野は思った。
父帝の元を辞した神野はその足で、噂の出どころは明信の姪の貴命に違いない!と思い込んで彼女に問い詰めたら、
「確かに明信さまは私の伯母ですけども、尚侍さまと親王さまの付きの侍女のわたしが気軽にお喋りできる場所も機会もないわ」
と逆に遣り込められて、仕方なく事の仔細を説明したら、
「嘉智子さんを帝の前で楊貴妃に例えただなんて…その話、私と逢っている時にしますか?単なるのろけ話にしか聞こえないわ」
とさらに呆れられてしまった。
「しかし、私たちは一番長い仲じゃないか」
「確かにご正妻の高津さまより早くお手付きになりましたけども」
甘えるんじゃない!とでもいうように貴命は言葉を切り、
神野に背を向けて白粉をはたいて化粧直しを初めた。
神野親王と高津内親王は、十三と十二で婚儀をした。
が、高津はまだ幼く最初の一年間は添い寝をするだけの仲だった。
婚儀から半年ほど経った頃に貴命が入侍し、神野より一つ年上の大人びた彼女にたちまち虜になり、数日後に彼女の床に忍んだ。
つまりは貴命は、神野にとって「最初の女人」なのである。
「親王さまの嘉智子さまに対する尋常ではない御寵愛、もう宮中では噂になっていますわ」
「誰が流したのだ?」
「女子供は秘密を守れる生き物ではないわ、案外いま近くで聞き耳を立てている『小鳥』じゃないかしら?」
貴命の含み笑いを聞いて、「小鳥」はさっと袴の裾を翻して逃げようとする。
「さては…明鏡!?」と神野は部屋を飛び出し廊下を走り去る女童の後をばたばたと追いかけた。
まったく童と廊下で追っかけっこだなんて…うちの親王さまは聡明だけど子供っぽい所もあるのよねえ。
と貴命はうふふ、と弟を見守る姉のような笑いを浮かべた。
そこに「もし…」と声を掛けてきたのは、ちょうど噂していた嘉智子であった。
「あら、嬉しいわね!…寒いからお入りになったら?」と貴命は嘉智子を部屋に招き入れた。
髪飾りを取った嘉智子の黒髪は、腰の下まで伸びた豊かで見事なものであった。
やはり、わたしの思っていた通りだわ!と感嘆のため息をもらしながら丈夫な櫛で嘉智子の髪を優しく梳いてあげる。
「本当にお美しいお
なんでこんなことになったのだろう?と思いつつも嘉智子は有難うございます、と言ってされるがままになっていた。
「貴命さんは化粧、髪のお手入れ、それに裁縫と何でもおできになるのね」
「実家の躾で『技術を身に付けろ』と言われて育ちましたの。
うちは帰化人の中流貴族、新羅への対外政策のために帝が一時的に盛り立てて下さっているに過ぎません」
隣の国の出方次第でどうなるか分からない家柄です、と暗に貴命は言っているのだ。
あたしは海の向こうの、滅んだ国の王族の子孫だったのだ。
と宮中に来て最初に仲良くなった明鏡の言葉を嘉智子は思い出していた。
ああ、あのいつもちょろちょろしている女童ね!と貴命は嘉智子の髪を結い直しながら答えた。
「伯母の尚侍明信さまが、うちの親王さまに押しつけた童よ。確か二年前にここに来たわ」
「ではあなたのご親戚なの?」
うーん、と貴命は首をかしげて
「でも、あの子の両親はとっくに死んだと聞いてるけど…百済王家の誰の子かは分からないのよ」
え、分からない?素性の判らない子が宮中に仕えているなんて不思議な話だ、と嘉智子は思った。
陰鬱な冬が終わり、萌え出ずる春が来た。
待ちに待った今年最初の鷹狩りに、神野は父帝に呼ばれて随伴した。
青空の下を、鷹が羽ばたいていく。野の花や若草の香りをはらんだ風を、胸いっぱいに神野は吸い込んだ。
ああ、やっぱり外はいい!ひとときの自由がここにある。
ちと随員が多いのが気にはなるが…
天皇と皇子の外出に随員が多いのは当たり前であるな。
と思い直して神野は野に咲く花々を自ら摘んで、帰ったら嘉智子に渡そうと竹の筒に水を入れて挿し、腰からぶら下げた。
狩りの帰りには、北郊にある異母兄、伊予親王とその母、藤原吉子が住まう屋敷に寄った。
「久しぶりだな」と半年ぶりに会う伊予親王は、桓武帝の数ある皇子の中でも特に優秀で、寵愛も深い。
伊予親王本人も穏やかな性格で、身分を問わず周りの者に優しいので次の春宮(皇太子)には伊予さまが相応しいのではないか?
という貴族たちの声もあった。
神野も、この自分より二つ年上の異母兄が大好きであった。
「久しぶりに兄弟語らうのもよかろう」と父帝は縁側に用意させた宴席に皇子二人と護衛の数人を置いて、
自分は夫人の吉子と奥の部屋に引っ込んでしまった。
「相も変わらずお盛んだな、父上も」
と神野がこぼすと、「お前もな」と兄がすかさず返した。
ここまで嘉智子との噂が届いているのか!?と神野は飲んでいた酒をごくり、と音を立てて飲み下した。
「やはり、神野をからかうのは面白い」と伊予はふふふ、と声を立てて笑った。
「父上にも同じことを言われました…」まだ酔ってもいないのに神野は耳まで赤くなっている。
「お前は反応が分かりやすいのだよ、神野。人としては好感を持たれるが、いずれ帝王になったらそれは命取りだ」
太めの眉をぎゅっと寄せて、伊予は珍しく厳しい顔をした。ここで兄に説教されるとは。またも「帝王として」だ。
自分よりも帝王に相応しいのは…と思って神野は唇をきゅっと引き結んだ。
「と、我が侍講の受け売りでね。出ておいで
は、と庭の隅に控えていた男を傍に招いた。
伊予に促されて顔を上げた男は、色黒で苦み走った顔つきをした中年男だった。
「私の
「阿刀大足、会いたかったぞ。お前の話は面白い、と兄上から聞いておる」
「秀才の誉れ高い神野親王さまにお会いできて光栄です」
と大足はあまり表情を変えずに頭を少し垂れた。周りに貴族たちがいたら親王様に無礼ではないか?と咎める所だが、
媚びへつらうのが苦手そうな大足に、神野は却って好感を持った。
「実は、この大足の甥というのが面白い男でな」
伊予の言葉に大足は苦い草を間違えて食んだような渋面をし、はあ…と溜息をついた。
「彼の者は、大学寮の首席卒業を期待されるほどの才の持ち主だったそうだが十八で出奔してしまったのだ」
「出奔してどうなったのだ?」
神野に聞かれて大足は一族の誉れどころか、恥にもなりかねない問題児の甥のその後を話した。
「私度僧になって、何年か勝手に山岳修行をしていたようです…」
「私度僧だと!?」
私度僧とは、正式な出家もしていないいわば無所属の修行僧である。
官吏への道を自ら閉ざして将来の見えない修行生活に入るとは…その男。
「行方不明の十年間の間、あちこちで猛勉強はしたようです。ついこの前、私の前に顔を出しましてな、
いきなり『唐へ行くから金を下さい』と留学費用の無心に来たのです!」
ほとんど泣く寸前の顔で大足は声を絞らせた。
二年前の春、室戸岬。
青年は、自分の口の中に一番星が飛び込むという夢を見た。
途端に顔に水を浴びせられ、青年は飛び起きた。
「叔父上、ご無事ですか!?」
十歳を過ぎたばかりの彼の甥っ子が、さらに青年を正気づけようと頬を叩いてくる。
ああ、ああ、大丈夫だ。と青年は甥っ子のみづら頭を撫でた。
「修行が終わったら気を失ってしまわれたのです!もう死んだのか?と何度も水を掛けたのですよ…」
修行、と青年は呟いた。「わしは百万回満行したか?ちゃんと数えたか?」と伸びた蓬髪に髭がまだらに生えた怖い容貌でしつこく甥っ子に聞いた。
「はい、叔父上は
と甥がしっかりと肯くと青年は自分の真上に、春の日の青空。目線を下ろすと水平線から、白い
ただ短い真言を百万遍唱えるという荒行を約三か月かけて行った。行に入る前と、満行した自分は…
「何も変わらんかったなあ」とただ、今自分が生きて、ここにある。
という気持ちを言葉で表した。
青年は朝と昼は空を見、夜は星を眺めて満行後も三日間自分が籠もっていた洞窟の外で過ごした。
三日目の午後、堪り兼ねた甥っ子が「もう帰りましょうよ…」と叔父の裾を引いた。
甥っ子は三日間叔父の
「相変わらず、空と海しか無いなあ」という呆けたような独り言を聞かされてうんざりしていたのだ。
ここには空と海しかない。うん、と強く肯いて青年は立ち上がった。
手早く荷造りをして三日間眺めていた風景を振り返って青年は甥っ子に告げた。
「智泉、わしは今から、空海と名乗るぞ」
「その男、面白いな!」
と神野は浮き立つような心で兄の家庭教師で、今は空海と名乗る私度僧の話を聞いていた。
後に生涯の友となる嵯峨天皇と空海、出会いまであと七年…
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