第3話 若い世代の野心
弟皇子など、いらぬ。
という声が頭上から振りかかった。真っ暗な闇の中から手が伸びてきて、首の両側を圧迫する。
はあっ!はあっ…はあはあ…うっ!
「まただわ!」
と高津は起き上がり、床の隣で眠りながら喘ぐ夫、神野の「発作」を鎮めるため、まず夫の両胸を抑えて揺すった。
「お兄さま、お兄さま!」
うかつに両肩や首に近い所に触れるとますます暴れ出すのだ。
高津はけんめいに揺すって夫を眠りから覚まし、やっと目を開けた神野の様子を窺った。
目を開けながらも、神野はまだ夢の中にいた。うああああっ!と叫んで両腕を振り回して「何か」を振りほどこうとする。
内親王さま!内親王さま、大丈夫ですか?と異変に気付いた侍女たちが寝所の外に控えている。
「もうこうなったら私では無理だわ…嘉智子を呼びなさい」
何故か、冬の特に寒い日の朝に限って起こる神野親王の錯乱と発作。それを鎮められるのは嘉智子だけなのだ。
息も出来ない苦しみの中で、懐かしい香りとぬくもりが神野の体を抱き留める。
「大丈夫です、神野さま。大丈夫です…」背中をさすってくれる嘉智子の衣の香りを、神野は深く吸い込んだ。
そうしてしばらくの間深呼吸を繰り返している内に、神野は正気を取り戻す。気付いた時には自分は嘉智子の胸の中にいた。
「嘉智子…?」
「お気づきになられましたか?神野さま」
うむ、と肯いた時自分の夜着が汗でぐっしょり濡れている事に神野は気づいた。
「そのままではお風邪をお召しになりましてよ」と嘉智子の手で新しい衣に着替えさせてもらい、薬湯と軽い朝餉を終えると傍に控えていた嘉智子の手を引いて、
「今日はそばにいてくれ…」と言って嘉智子を抱き寄せた。
「はい、親王様の仰せのままに」
親王様と夫婦になってから四か月。
今上帝の皇子という貴いご身分にあるこの御方も、心の中に暗いものを抱えていらっしゃる…
ということを神野の「発作」を初めて目の当たりにした時知った。
「ねえ、貴命さん」
と嘉智子の膝枕でくつろぐ神野の様子を覗き見していた高子が、隣にいる貴命に、
「嘉智子さんは特に仏道に信心篤いひとですが…こうやって親王さまの発作をお鎮めになるのを見ると、
何か不思議な力があるのかしら?とつい思ってしまうのよね」
と言うと貴命は一髷にまとめた髪を揺すって「不思議な力?まさか!」と一笑に付してしまった。
庭園の木の枝に積もる雪が重みで落ちてしまう程の、大雪の日の翌日だった。
親王様はまた、お苦しみになってはいないだろうか?
と邸内から外の風景を眺めて神野を心配する者が、ここ藤原北家、中納言内麻呂の邸に居た。
父、
「あの日」も、雪が積もっていた…。長岡京で雪が積もったので、帝の思い付きで童たちを集めて雪遊びをさせようと貴族の幼子らが呼ばれたのだった。
と過去の物思いに耽っていると「待たせたな、三守」と碁盤を持った青年が傍に寄って来た。
姉、美都子の夫で三守より九歳年上の義兄、
「親父は親父同士で何か話があるらしい。お前の相手は俺がするよ」
いつの間にか父は別室に連れて行かれたらしい。
この年冬嗣二十六歳、役職は大判事(司法職)に就き、貴族たちの間では「鋭気と才気が迸っている」と評判の、目つきの鋭い青年だった。
こうして義兄と囲碁をするのは、久しぶりの事である。
ぱちぱち、と丁寧に碁石を並べながら、冬嗣が、
「あの橘の娘…お前の義理の妹は親王さまの寵愛が深いようでなによりだ」
と満足げに肯いた。
「は、入侍の折はお父上に後見人になってもらい、有難く存じます」
「当たり前だ。お前の父は従五位上の阿波守どまり。橘家の娘の後見にはちと『箔』が足りぬ。だから中納言である父上が後見役を名乗り出たのだ…おい、怒ってないか?」
「まあ本当のことですので」
と三守が普通の調子で言うと、冬嗣は口元に本気の笑みを浮かべた。
「俺はお前のそういうところが好きなのだ。素直で、穏やかで、実は口が堅い。そういう奴はかならず出世する」
そうかなあ、と三守は今は落ちぶれ藤原南家の五男で従六位下、という自分の身の上を振り返った。
出世なんて、無理だよ。
と思いながら将来の右大臣は慣れた手つきで白い碁石を動かし始めた。
三守は、幼い頃から神野親王の遊び相手を務めているので碁は得意であった。
相手の冬嗣もなかなかの上手だが、たちまち「む…」と顎に手を置いて、どの石も動かせぬ状態になってしまった。
「参った」冬嗣は素直に降参した。
「まったく、遊びではお前にかなわぬ」と笑いながら火鉢で手を温め、冬嗣は唐突に言った。
「最近、東宮(皇太子の住居)では悪い噂ばかりだ」
「いい噂も聞いた事がありませぬ」
と三守が言うと、冬嗣は黙り込んでしまった。東宮内で立て続けに小動物の死骸が見つかる件、八年前に、
いずれも、皇太子、
「それに、后の母親と『できてしまった』件だろうなあー。春宮さまは本当にどうかしているぜ」
安殿親王と男女の仲になり宮中から追放された女、名前は藤原薬子という。
薬子は四年後に帝位についた安殿に呼び戻され、宮中を脅かす存在となる。
「廃太子したくともできぬ、というのが
早良親王の件もあります。廃太子が続いたら皇家の威厳も揺らぎましょう」
周りに人が居ないこともあって、いつもは慎重な三守もこの義兄の前では心を許して話すことができた。
「やっぱりお前は鋭いな、三守」と射るような眼差しで言ってから冬嗣は
「帝ももうお年だ、数年せぬ内に春宮さまが即位しても、長くは続かぬと思う…それで、お前の仲良しのあの御方だ」
「神野親王さま、ですか?ですが、伊予親王さまもいらっしゃいますし」
桓武帝が一番溺愛なさっているのは伊予親王でしょう?と三守は暗に言ったのである。
「ふふん」と冬嗣は笑った。これは、得意げになっている時の彼の癖である。
「確かに伊予さまは優秀だし、神野さまより二つばかり年上だ…だが、後ろ盾であった母方の祖父はもういない。
伊予さまの母親は藤原南家…式家の娘の腹から出た春宮さまが即位なさったら、真っ先に目の敵になさる筈だぜ。
それにひきかえ神野親王さまは春宮さまの同母の弟だ。
北郊のお邸に置かれている伊予さまと、宮中でお育ちになっている神野さま…
三守よ、俺たちが担ぐ神輿は、神野親王さまが相応しいと思わないか?」
三守は唇を引き結んで沈黙した。それを同意と取った冬嗣は「冷えるか?顔が蒼ざめているぞ」と火鉢を三守の側に押しつけた。
若くて才能ある冬嗣が、義弟である自分に野心を吐露するのは当然のことだろう。
他に信用できる相手がいないのだから。
しかし、三守は別の理由で次世代の帝は神野さましかいない、と思っていた。
あれは、自分が六歳、神野さまが五歳の時。雪が積もった長岡京の東宮に招待されて、神野さまと雪玉を作って遊んでいた。
不意に、春宮さまが庭園に降りて神野さまの前に立たれたのだ。ほとんど初対面で、十二歳も年上の御兄上を見上げて神野さまは
だれ?と言った。春宮さまは何かつぶやかれて、
自然な仕草で…神野さまの首を絞めたのだ。
すぐに周りいた舎人たちが引きはがしたので神野さまはお体は無事だったが、お心の方はさぞ傷つかれただろう。
このような雪の日には、神野さまは息が苦しいという「発作」を起こされるようになった。
廊下でその様子を見ていらっしゃった帝は場にいた者すべてに箝口令を敷いた。
そして、重要な儀式以外はご兄弟を会わせないようになさっている。
安殿親王に
冬嗣どのと思いは同じだが、「事件」の事は、言えぬ。
三守はこの秘密を、自分の墓まで持って行った。
藤原三守とはそういう男であった。
「藤原」とは、なんなのであろうか?
それは大化の改新の功臣、中臣鎌足が死の直前に天智帝より賜った姓であり、鎌足の死後は次男の史(不比等)が藤原姓を継いだ。
史には四人の息子が居た。
文武帝、聖武帝の御代において天皇の外戚として権勢をふるった悪名高き「藤原四兄弟」である。
長男、武智麻呂は南家。次男、
三男、
藤原氏は四家に別れる。
天平九年(737年)夏、始祖である四兄弟が揃って天然痘で死ぬと藤原家は一時衰え、分家同士で政争を続けていた。
話は延暦21年(802年)旧正月の頃。
桓武帝による扱いから四家の勢力を見てみよう。
式家の娘、
旅子(大伴親王を生む)をそろって皇后、
式家を優遇しているのが目立つ。
南家の子、
三守自身が「南家は落ちぶれ」と思っていても無理はない。
北家は冬嗣の父、内麻呂が中納言。冬嗣の又従兄弟、
京家は参議、
先に登場した三守は南家武智麻呂の曾孫で、冬嗣は北家房前の曾孫にあたるのだ。
神野と嘉智子の婚姻も、神野を将来の帝に、嘉智子をせめて夫人に。と賭けた北家と南家が裏で手を組んだ後宮工作でもあった。
やがて酒の肴も尽き、義兄弟が他愛のないお喋りをしている内に、三守の姉で冬嗣の正妻、美都子が部屋に入って来た。
「あらあら、そんなに端に寄っては寒いですよ」
といつもは朗らかな姉が懐妊によるつわりで少しやつれてしまっているのを三守は痛々しく思った。
「姉上、この度はご懐妊おめでとうございます」
と三守が挨拶すると今年二十一歳になる
「夏の終わりごろには生まれるの。でもあまりものが食べられなくてね…」
「そうなのだ、粥か
妻の体が冷えてはいけない、と冬嗣はすぐに女房に衣を持ってこさせ、「ほら、火鉢の傍にお座り」とみずから美都子の肩に掛けてやった。
正妻を特に可愛がる冬嗣は、一夫多妻制のこの時代にしては珍しい男といえた。
義兄弟は美都子も交えてしばらく和やかに談笑していたが、やがて、「気分が悪くなったので失礼します」と美都子が立ち上がり、寝所に戻る。
「体を大事にするのだよ」と冬嗣は優しくその背中に声を掛けた。
「…なあ、三守、お前は自分の妻を神野さまに差し出すことが出来るか?」
妻が出て行ってしばらくの沈黙の後で、冬嗣は唐突に聞いた。
安子を?あのように優しく美しい妻をとんでもない!と思って三守は強く首を振った。
「俺もだ、美都子をよその男にやるなんて考えたくもない。…たとえ相手が貴いご身分でもなっ!
三守よ、これは酒の上の愚痴だと思って聞いてくれ、俺の親父は…母上を帝に売ったんだ」
中納言内麻呂の最初の妻で冬嗣の母、
「母は渡来人系の下級貴族出身だった。兄の真夏と俺を生んだらもう用済みと親父が思ったのか、
渡来人の女が好みの帝がご所望なさったのか、事情は分からぬ。
俺が七つになる前に、母は帝の後宮に召されたよ…
帝に寵愛されて皇子を一人産んだが、終生宮中の侍女の一人として扱われた」
「え、終生とは?お母上さまはもう…」
「ああ、先月亡くなられたよ」
と冬嗣は声を落として言った。
「なんとおいたわしいことだ」
三守は冬嗣の心痛をどう慰めていいか分からず、自分の衣の膝のあたりをぎゅっときつく掴んだ。
「俺は幼い頃、どうして母上を売った!?と親父をなじった事があってな…父上は表情一つ変えずに答えたよ。
見目麗しいだけの、身分の低いあの女を帝に差し上げたから、私は殿上人になれたのだ。
お前らの出世のためにも北家のためにもなったじゃないか。
妻は他にもいるし、母は無くても乳母を雇えば子は育つ。我が家は何も失ってない。とね!
俺は親父の『人でなし』の本性を見たよ。よりによって母上を『あの女』とは!
…俺は母上を品物のように扱った父上も、それを喜んで受け取った帝も、大嫌いだ。三守、これは二人だけの秘密だぜ」
と言って冬嗣は碁盤を除けて立ち上がった。
冬嗣は上背が高く、母親譲りの細面でなかなかの美丈夫である。
ああ、この方なら、位人臣を極めてもおかしくないな。と三守はふと思った。
その予感ははるか先、冬嗣の死の二十四年後に彼の外孫の文徳帝から「太政大臣」を追贈されて実現する。
「なあ三守よ。『藤原』とはなんなのだろうな…」
と冬嗣は三守に背を向けて呟いた。
「権勢欲に憑りつかれ、平気で皇族をはじめ多くの血を流してきたあさましい奴ら。それが、『藤原』だ…」
その藤原の子孫である三守も、冬嗣も、自分の中に流れる血のことを思うと、心がひやりとした。
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