夢食いパグと月の光
安芸咲良
第1話 友情の悪夢
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
暗い道を、一人で走っていた。数歩先は闇の中で、もう見えない。わたしはずっと追いかけられていた。
追いつかれちゃ、いけない。
でももう息が、持たない。
その時、足がもつれて転んだ。はっとして振り返る。
『それ』はもう目の前に来ていた。
☆☆☆
ジリリリリリ…………
目覚まし時計の音が鳴り響いた。
ピンクのカーテンのすきまから、朝日がもれてきている。ここはわたしの部屋だ。
大丈夫、あれは現実じゃない。だけどわたしは汗だくだ。
「ヒカリー! 遅刻するわよー?」
一階からわたしを呼ぶお母さんの声に、あれが夢だったんだとほっとした。
ここのところ、いつも悪い夢を見ている。何かに追いかけられていて、追いつかれる寸前で目が覚める。
あれがなにかはわからない。だけどあれに追いつかれたらおしまいだ、ってなんとなくわかっていた。
ただでさえ、悩んでることがあるのに……。
「あ……」
わたしは四年二組の教室に入って、アカネちゃんと目が合って固まってしまった。
アカネちゃんはふいっとわたしを無視して、他の友達のところに行ってしまった。
アカネちゃんは幼稚園のときからの友達だ。同じバドミントン部に入ってて、ずっと仲良くしてきた。いちばんの友達だ。
だけど最近はちょっとぎくしゃくしていた。
きっかけはささいなことだった。
「あっヒカリちゃん、それ使ってくれてるんだー」
誕生日にマイちゃんからもらったピンクの水玉のノート。いつもはアカネちゃんと一緒の赤いチェックのノートを使っていたけど、きのう使い終わっちゃってマイちゃんからもらったノートを持ってきたんだ。
わたしはちらりとアカネちゃんの方を見た。アカネちゃんはなにか言いたそうにこっちを見ていた。
チャイムが鳴っちゃったからアカネちゃんはなにも言わなかったけど、授業が終わってからアカネちゃんはわたしのところにやってきた。
「ヒカリちゃん、いつものノートは?」
わたしはアカネちゃんと目を合わせることができなかった。
四年生になったときに、アカネちゃんとした約束。四年生からは学習ノートを使わなくてもいいから、おそろいのを使おうねって約束したんだ。
でもわたしはおそろいのノートを買いにいく時間がなくて、もらったノートを持ってきてしまったのだ。
「もういい。勝手にすれば?」
そう言ってアカネちゃんは。自分の席に戻ってしまった。
わたしはなにか言おうとしたけれど、チャイムが鳴って先生が入ってきてしまったから、なにも言うことができなかった。
それからアカネちゃんとはしゃべっていない。
悪夢を見るようになったのは、そのころからだった。
☆☆☆
わたしはまた夢を見ていた。
逃げる、逃げる。なにから? わからないままひたすらに走る。
そして足がもつれた。私はぎゅっと目をつぶる。『それ』はもうすぐ後ろまで迫っている。
どうしてこんな夢ばかり見るんだ……。
怖い……怖い…………怖い!
「見ィツケタ」
声が、した。今までにはなかった夢の続きだ。
掴まると思った。でもなにも襲ってこない。わたしはそっと目を開けてみた。
座り込むわたしの前には大きな背中が見えた。黒いジャケットにストライプのパンツ、そして腰に剣を差した男の人が、わたしをかばうように立っていた。その人の頭には、なぜか犬耳のついたぼうしがかぶられている。暗かったはずのまわりが、いつの間にか少し明るくなっていた。
その人の前には大きな黒い影がいて、その人が手にした剣で影を止めていた。その影を見てわたしはひっと声を上げた。これがずっと私を追いかけていたものだ……。なんと言ったらいいのだろう。真っ黒くて大きくて、気味の悪い化け物だ。
「安心しろ。俺が来たからにはもう大丈夫だ」
その人がわたしに言っているんだと気づくまでに少しかかった。その間にその人は影を突き飛ばす。そして影に切りかかっていこうとした。
だけど剣が届く寸前に、影は飛び散って消えてしまった。
「ちっ、逃がしたか」
その人は呟いてからくるりとこっちを向いた。ずかずかと歩いてくる。キンっと剣をさやにしまう。
「悪い、大口叩いたくせに逃がしちまった。でももう大丈夫だから」
そしてしゃがみ込むわたしに視線を合わせてから、わたしの頭を撫でてそう言った。
「だ、誰……?」
助けてくれて嬉しいけど、この人は誰なんだろう。その人はにっと笑った。
「俺は夢食い獏、小児科二班のパグだ」
わたしはきょとんとした。
「獏ってあの獏……? 夢を食べる……?」
「おう。お前の夢を食いに来た」
獏っていったら、鼻の長い黒い動物を、図鑑で見たことがある。夢を食べるっていいつたえがある生き物だって書いてあった。
「パグって……?」
パグっていったら犬のパグだろう。犬と獏はちがうと思うんだけど……。
「うっるさいなぁ! 名前だよ! 登録するときに間違えちまったんだよ!」
いきなり怒鳴られてわたしはまたびくっとした。パグさんは頭をかく。
「っとわりぃ。あんなモン見てまだビビってるだろうに……」
そう言ってわたしの頭をぽんぽん撫でた。その感触にわたしはなんだか安心してしまって、涙がぽろっと零れてしまった。
「おー泣け泣け。あんなんのに追っかけられて怖かったよな」
パグさんはそのまま撫で続ける。
ようやく涙が止まって、わたしは深呼吸をした。
「もう大丈夫か?」
「うん……。えっと、ありがとうございました」
わたしがぺこりと頭を下げると、パグさんはにっこり笑っていた。
「おまえ、名前は?」
「ヒカリ、です」
「そうか。ヒカリ、悪いがあいつは逃がしちまったから、多分また来ると思う」
また。悪夢は終わったわけじゃないのか。青ざめたわたしを見てパグさんはあわてて言った。
「そん時は俺を呼べ。どこにいても、絶対駆けつけるから」
「パグさん?」
「パグでいい」
「パグ」
「あぁ」
パグは満足そうににっと笑った。
「パグは、なんでこんなことしてくれるの?」
今までずっと一人だった。一人でずっと逃げていた。
「俺がバクだからだ。悪い夢から良い子を守るのが俺の役目だ」
その強い瞳は、しっかりとわたしを映していた。
「ほら、もう夜が明けるぞ」
振り返ると、白い光が零れ始めていた。パグはそっとわたしの背中を押す。
「またな」
そうして視界は白に染められた。
☆☆☆
目が覚めて、わたしはベッドの上でぼんやりしていた。
いつものように嫌な朝じゃない。こんな朝は久しぶりだった。
あれは、夢? 夢なんだけど、なんだかただの夢だとは思えなかった。助けてくれる人が現れるなんて、おどろきだ。
「あらヒカリ、今日はちゃんと起きれたのね」
ノックしてお母さんが入ってきたけど、お母さんもびっくりしてるみたいだった。
でも学校はそんな風にはいかなかった。
アカネちゃんはあいかわらず、目も合わせてくれない。
「最近ヒカリちゃんとアカネちゃん、一緒にいないね」
「ケンカでもしてるの?」
クラスの友達からも、そんなことを言われてしまった。わたしはなにも言うことができない。
友達みんなは顔を見合わせた。
「早く仲直りできるといいね」
☆☆☆
「お、来たな」
パグのその言葉で、わたしは夢の中にいるんだとはっきりわかった。
「こんばんは」
「はい、こんばんは。……どうしたぁ? なんか沈んでねぇか?」
パグは目ざとく気づいてくる。いつもどおりにしているつもりだったのに。
「なんでもないよ?」
そう言うけれど、パグは疑うような目を向けるだけだ。
「そうかぁ? なんかあったらちゃんと言えよ? 現実世界のことが夢に影響してんのは、よくあることなんだからな」
わたしはドキッとした。
うすうす気づいてたことだった。悪夢を見るようになったのは、アカネちゃんとケンカしてからだ。
それが悪夢を見る原因なんじゃないかなって、ちょっと思ってた。
「パグは……どうしてわたしのところに来たの?」
話を変えたわたしを、パグはじっと見た。わざとらしかったかな?
それでもパグはなにも言わずに、ふいっと前を向いた。
「本部のやつらが悪夢レーダーを監視してるんだ。レーダーが反応したら出動。俺はこの地区を担当してて、昨日が当番の日だったんだ。だからヒカリに会えた」
そう言うとパグはわたしの方を見て、ほほえんだ。
ずっと悪夢の中にいたから、笑いかけてくれる人がいるんだって思ったら、なんだかほっとしてしまった。
「おいおい泣くなよー」
わたしはごしごし目をこする。
「……泣いてないよ」
そのとき、あたりが急に暗くなってきた。
「勝負はこれからなんだからな」
パグはわたしの腕を引いて立ち上がった。
その視線の先で、黒い影が集まり始めていた。
「そこから動くなよ……!」
パグは剣を抜いて駆け出した。一直線に影へと走っていく。
「パグ!」
影の近くまで行くと、パグは強く地面を蹴った。高く飛び上がって影の頭上に剣を向ける。
「逃がさねぇ、ぜ!」
だけど影はパグの剣をぎりぎりのところでかわした。
パグは片足で着地すると、また強く踏み込んだ。影もそれに対戦しようとする。影の一部が細長くなったかと思うと、パグの剣を受け止めた。
「やるじゃねぇか」
パグはにやりと笑ってそう言った。そしてぐっと押し返す。剣を弾かれて一瞬隙ができた影を、パグは真っ二つにした。
「やった、の……?」
わたしが尋ねたけど、パグは黙ったまま影が消えるのを見ていた。
「いや、これは分身だ」
パグは剣を振って影を散らす。今度こそ、影は消えてしまった。
くるりとパグがわたしの方に振り向く。突然すぎて、わたしはびくっとしてしまった。
「ヒカリ、こいつは相当根が深そうだぞ。おまえいったい何やったんだ?」
射抜くような視線に、わたしはなにも答えることができなかった。
☆☆☆
目が覚めて、今日は追いかけられなかったなぁと安心した。
だけどパグのあの目つきを思い出して、わたしはゆううつになる。
パグは悪夢を見るのは現実のできごとが原因だと言っていた。なら原因はアカネちゃんとケンカしたことだと思う。
どうやってアカネちゃんと仲直りしたらいいんだろう……。
アカネちゃんの怒った顔が頭に浮かんで、わたしはベッドの上で途方にくれた。
「ヒカリー、遅刻するわよー」
お母さんの声が一階から聞こえた。
アカネちゃんとケンカしてから、学校では他の友達と休み時間を過ごしていた。おしゃべりするのも、トイレに行くのも別の子たちで、なんとなく違和感がする。
「そういえばさー、なんでヒカリちゃんとアカネちゃんってケンカしてるの?」
ノートをくれたマイちゃんだった。
わたしは本当のことを言っていいのか迷った。
「えっと……わたしが約束破っちゃったから……。おそろいのノート使おうって言ってたんだけど……」
マイちゃんはそう言ったわたしをじっと見た。みんなも無言でわたしを見ている。
「えー! なにそれー!」
「それだけでアカネちゃん怒るって、ひどくなーい?」
「そーそー!」
思いもしなかった反応に、わたしはびっくりした。悪いのは約束を破ったわたしだと思ってたから。
みんなはアカネちゃんの悪口を言い続けている。
「ねーねーなんの話? いまアカネちゃんが走ってったけど」
教室に入ってきたサキちゃんが、わたしたちに話しかけてきた。みんなの口がぴたりと止まる。
「……聞かれちゃったかな」
「いいんじゃない? アカネちゃんが悪いんだし」
「そーそー」
気まずかった雰囲気が、いつの間にかいきいきとしたものになっていた。みんなは悪口で盛り上がっている。
こんなつもりじゃなかったのに……。
わたしは廊下の先が気になってしかたがなかった。
☆☆☆
『夢と現実はリンクしている』
パグが言ったことは本当なんだな、とわたしはしゃがみ込んでぼんやり考えていた。
あたりは真っ暗だ。もう夢の中だとわかっている。
このままじっとしてたら、またあの影がやってくるのかな。……掴まっちゃっても、いいかな……。
そんなことを思った瞬間だった。
キィン!
高い音が響いて、わたしは反射的に顔を上げた。
「なにやってんだよおめーは」
パグだった。
パグの先には黒い影がうずくまっていて、やっぱり今日も現れたんだなぁとぼんやり考えていた。
パグはずかずかとわたしの方へ歩いてくる。そしてしゃがみこむわたしの肩を、がしっと掴んだ。
「なにがあったかはあとでじっくり聞いてやる。今はアレを倒すまでじっとしてろ」
頭にパグの手が触れた。その手はわたしを髪をぐしゃぐしゃと撫でて、離れていく。
パグは影に向き直った。影ももう体勢を立て直していて、パグと向き合っている。
……助けてくれなくて良かったのに。
あんなに大切だったアカネちゃんを守れないわたしなんて、いらない。
大事な親友との約束を守らなかったわたしなんて、消えてしまえばいいのに……!
「ヒカリ! 心をしっかり持てよ!」
その声にはっとした。
パグの方を見ると、影がさっきの何倍もの大きさに膨れ上がっている。それを押し返すパグの剣は、今にも力尽きてしまいそうだ。
「言っただろ? 夢の力はおまえの力。弱い心じゃ飲み込まれるぞ!」
負けそうだった剣は、パグがそう言ったのと同時に影を押し返した。影が吹き飛んでいく。
「おまえが大事にしたい気持ちは、その程度のモンか!?」
わたしは目を見開いた。その瞬間、強い風が吹いた気がした。
アカネちゃんのことが本当に好きだった。ずっとずっと、おとなになっても仲良くしていきたいと思っていた。
あのときちゃんと、「アカネちゃんはそんな子じゃない」って言わなきゃいけなかったんだ。
「やればできるじゃねぇか」
立ち上がったわたしを見て、パグはにっと笑った。
あたりはさっきよりも明るくなっている。悪夢を見始めてから、こんなに明るいのは初めてかもしれない。
「そのまま気持ちを保っとけよ! いくぜ!」
パグが駆け出した。影へと突進していく。
「いっけー!」
わたしは思わず叫んでいた。
パグは思いっきり踏み込んで、影を真っ二つにした。ざぁっと影が消えていく。
あとに残ったのは、手のひらサイズの赤いチェックのノートだ。パグはおもむろにそれを食べた。お、おいしいのかな……?
「……さくらんぼっぽいな」
剣をさやにしまうと、パグはゆっくりとわたしのもとへと近づいてきた。
わたしはパグを見上げる。手が伸びてきた。
「よくがんばったな」
そう言ってパグはポンポンとわたしの頭を撫でてくれた。優しい手つきにわたしはほっぺたが熱くなる。心臓が早くなるのを感じた。
「パ、パグが助けてくれたから……」
うつむいてどうにかそれだけを言えた。パグの手が離れていって、ようやく心臓が落ち着いていった。
「ヒカリが心を強く持ってくれたおかげだよ。おまえの心には光の力があるんだな。優しい月のような光が」
「月の……光?」
パグは強くうなずいた。
「周り明るくなってるだろ? さっきまでヒカリの気持ちに引きずられて真っ暗だったけど、月の光の力であの影を追っぱらうことができたんだ」
明るくなった気がしたのは気のせいじゃなったんだ。
「わたし……みんなに違うよって言えなくて……」
「うん」
「アカネちゃんはそんな子じゃないのに……。ひどいことしちゃった……」
「うん」
「ほんとは大事な友達だったのに……」
「言えたじゃねぇか」
その言葉にわたしは顔を上げた。パグは優しくほほえんでいて、その笑顔にわたしはほっとした。
「俺に言えたんだ。アカネちゃんにも言えるだろ?」
胸の中に、さっきよりも強い光が灯ったようだった。パグにできるよって言われたら、本当にできそうな気がしてくる。これは月の光の力なのかな?
「わたし、がんばってくる」
パグはぐっと親指を立ててきた。
「ヒカリならできるさ。ほら、もう夜明けだ」
振り返ると、まばゆい光がわたしを飲み込もうとしていた。
☆☆☆
心臓がバクバクいっている。これは昨日パグと会ったときのようなドキドキじゃない。緊張のドキドキだ。
また無視されたらどうしようって気持ちもある。
だけど、一歩踏み出さないと、なにも変わらないんだ。
「おはよー」
その声にどきっとした。アカネちゃんが、他の子にあいさつする姿が見えた。
わたしは足を踏み出した。
「アカネちゃんおはよう! あのね……」
びっくりした顔のアカネちゃんが、笑顔になるまで、もう少し。
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