海底寿司

俵伊 航平

海底寿司

 世の喧噪から離れ、静寂に包まれたその寿司屋では、気泡が地上にのぼっていくかすかな音だけが客の存在を伝えていた。

 客席には少女が一人。大きなゴーグルの奥からじっと、カウンターのむこうを見つめている。視線の先ではこの店の大将が無数の腕を駆使して作業中の様子。彼は顔を真っ赤にしてふわふわと宙を浮遊する皿や包丁を回収している。それを黙って見守る少女。大将から話しかけられるまで注文してはいけない。それがこの店のマナー。息をひそめて身じろぎ一つせずに待つ。なんせここは海の底。下手に動けば食事まで息が持たない。



 伊勢湾最深部の海底にひっそりたたずむ隠れた名店、『伊勢海寿司』は、店の周囲で泳いでいる魚をその場でさばいて寿司にするという圧倒的鮮度で他店の追随を許さない。水深50m、店内で息ができないというアクセスの悪さから訪れる客は限られるが、この世のものとは思えない異世界レベルの美味を提供するという。その噂を聞きつけ、今日も一人、海女あまの少女が新たにのれんをくぐったのだ。



『ご注文は?』

 寿司屋の大将である巨大伊勢エビが、ようやく客の少女に声をかけた。

 だがちょっと待ってほしい。冷静に考えて伊勢エビがしゃべるなど有り得るだろうか。いや、ない。実際は頭にある太く大きな二本の触角をこすり合わせることで言語を模倣した音波を放っているのだ。たくみの技である。


う゛ぁぶぼマグロ!」

少女渾身の注文。無数の気泡が海面へと上がってゆく。注文は大声で威勢よく。それがこの店のマナー。触角の無い人間は、大声で叫ばないと海中では注文内容が伝わりにくいのだ。常人なら今の発声でもう息苦しくなる所だが彼女はまだ余裕だ。海女として伊達に鍛えられていない。


『へいおまち』

 なんという早業! 真紅に輝く十二本の足を駆使して一瞬にして握られたのは、淡い桃色に輝く真鯛の寿司であった。


 少女は動揺する。頼んだのはマグロだったがマダイが出てきてしまった。最初のマしか合っていない。私の滑舌が悪かったのだろうか。


 そんな自省の念に捕らわれているうちに寿司が皿から流れ出した。早くしないとシャリが海水で崩れてしまう。慌ててつかみ、一気に口へ放り込んだ。ネタは一口で残さず食べる。それがこの店のマナー。


 口の中の寿司を咀嚼する。プリプリとした程よい歯ごたえを楽しむ内に濃厚な旨味がしみ出てきた。海水の塩味と混ざり合い、絶妙のハーモニーを奏でる。注文とは違ったがこれはこれで良い。怪我の功名、塞翁が馬。こうなってくるとマグロにも期待が高まる。今度こそマグロを注文をしようと口を開いたその瞬間、店の入り口が開いた。


 少女が口を半開きにしたまま入り口に顔を向けると、水を含みずっしりと重くなったのれんをくぐり、全身黒づくめの男が入ってきた。背中には酸素ボンベを背負っている。スキューバダイバーである。呼吸装置からコーホーと音が漏れるその姿はダークサイドに堕ちているかのごとき雰囲気だ。


 男は入ってきた入り口の戸を後ろ手に閉めると、懐からおもむろにホワイトボードを取り出し、ペンで何か書きだした。少女も大将もその挙動を固唾を飲んで見守る。


 男は筆記を終え、ペンをしまうと、ゆっくりとホワイトボードを反転させて大将に見せる。そこには"甘エビを二貫お願いします"と書かれていた。


『へいおまち』

 相変わらず早い。同族のエビでも躊躇ちゅうちょなく握る。


 少女は憤慨した。そんな注文方法ありなのか。これでは必死に声を出していた自分がアホみたいではないか。それに酸素ボンベもマナー違反ではないか。寿司屋に酸素ボンベを持ち込むなど無粋の極みである。


 少女が難しい顔をしてほおを膨らませているうちに、男は呼吸装置を外し、甘エビを一気に二貫ペロリと平らげた。残った尻尾はとりあえず皿に戻したが、すぐに海流にさらわれ、少女の方へとゆっくり流れていった。


 少女の怒りはまだおさまらない。だいたいスキューバダイビングなんて軟弱すぎる。男なら裸一貫、己の力のみでダイブしてほしい。そんな素潜り至上主義の考えに捕らわれ、視野が狭くなった少女はすぐそばに忍び寄った甘エビの尻尾に気づかない。


 尻尾が少女の耳の穴に突き刺さる。

「ブボァ!?」


 突然生じた耳への刺激に少女はパニック状態におちいり、まな板の上の鯉のごとく体をジタバタさせた。


 すぐにそれが単なるエビの尻尾と気づいたが、時すでにお寿司。酸素を無駄遣いしすぎてしまった!


(まずい……!もう戻らないと息がもたない)


あわてて真鯛の分のお支払いをしようとするも焦りのあまり、財布の中身をぶちまけてしまった。急いで散らばった小銭を回収する。見かねたダイバーも小銭拾いを手伝ってくれた。


 なんだ、意外といい人かもしれないなあ。そんな事を思った直後、意識が遠のいた。冷静さを欠いていた少女は自身の体の活動限界を見誤ったのだ。


 もう彼女の息は持たない。薄れゆく意識の中で小さい頃からの思い出がよぎる。ああ、これが走馬灯か。最後にマグロが食べたかった……



 直後、新鮮な空気が少女の肺を満たした。ダイバーが倒れる少女は抱きかかえ、エビを食べるために外していた呼吸装置を彼女の口にあてがったのだ。少女はその事実に気づくと、感謝のおじぎをした。そして次に、これは間接キスなのではと思い、大将の伊勢エビと同じぐらい顔を真っ赤に染めた。その姿を見てダイバーの方も照れてしまっているが、まんざらでもなさそうだ。


 生温い目で二人のやり取りを眺めていた伊勢エビ大将と、したっぱの伊勢エビ弟子達は触覚をこすり合わせ、しきりにはやし立てた。


『おやおや、お熱いねえ』

 と、まずは大将が野次を飛ばす。


『こいつはめでたいですね! エビで鯛を釣ったという感じでしょうか!』

 と、弟子1号も茶化した。


『しかし海女とダイバーでは泳ぎに対する価値観が違うと聞きます。果たして上手くいくのでしょうか……』

 空気を読まない弟子2号のネガティブな意見にエビたちの触覚の動きはトーンダウン。海女とダイバーもなんだか気まずそうだ。


 それを見かねた伊勢エビ大将、雑なダジャレで話を締めた。

『なあに、なんとかなるだろう。案ずるより産むがや寿司易しだ。ワハハ』


 その日、温暖な伊勢湾には珍しく、オホーツク海からの冷たい海流が流れこんだ。

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海底寿司 俵伊 航平 @tawarai

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