空っぽのメール

葵上

空っぽのメール

私は今日も、同じ服装と同じ化粧をこの身に貼り付け、仕事へと向かう。電車は、いつもと同じ1ミリのずれもない鉄の道をごうごうと走る。たくさんの人を内側に抱え込みながら、毎日同じ道を、規則正しく進む。こんな寒い日でも、昨日までと何も変わらずない。同じ時刻に同じ場所へ通い続ける。


 私が住むこの町は『ほどよい田舎』という言葉がしっくりと来る。都内ほどにぎやかな場所はないけれど、買い物や生活には困らないし、都内まで一本で行ける電車が通っているので、遊ぶにもさして困らない。それでも、地元愛が強いのか、逆に都会での生活に惹かれるのか、この電車を利用する人は少ない。朝は学生ばかりで、都内に近づくまでは人もそれなりだ。


 そんな電車の2両目のロングシート、端っこから1つ空白を残して座る。ここが私の指定席だ。スーツカバンを横に置くと、退屈しのぎに外を眺める。重たい顔色をした雲が、今にも雪を吐き出しそうだ。このあたりの地域は車が主な交通手段だが、雪の降りそうな日には渋滞を恐れた人達が電車を利用する。いつもの丁度よくガランとした空気が好きなのに、今日は少し混み合うかもしれない。ひたひたと沸いてくる憂鬱を忘れようと、携帯を手にし、昨日のやりとりを見返すことにした。


 あくびをひとつ、周りの乗客にばれないように床を向きながら、噛み殺す。昨日は少し喋り過ぎた。そのせいか、今朝はいつもより少し気だるい。喋りすぎた、といっても実際に顔を突き合わせて話したわけではない。学生時代の友人から突然LINEが飛んできたのだ。


 私と彼女は、同じサークルに所属していて、住んでいた下宿も近かったせいか、周りからはなんとなくセットのように扱われていた。特別気が合う訳でもなかったので気まずい思いをすることもあったが、それはお互い様だったのかもしれない。卒業式以来、5年ぶりの連絡だった。


 会話を見返せば、ぎこちない会話ばかりだ。距離感を探りあうような定番の茶番に、笑いも起きないくらいに使い古された昔話。仕事の話や恋人の話、近況報告もしたけれど、そんなこと、お互いの人生にどう関係してくるというのだろう。そんな中身も何も無いやりとりに、林檎のような淡い新鮮さを確かに感じてしまい、話を終わらせるきっかけを見失い、ついつい夜更かしをしてしまった。


 ぷしゅううう、と電車はため息を吐く。冷気とともに耳を赤く染めた黒子が入場し、次々と私の上下にはけていく。誰もいなくなったホームにオルゴールの音が寒々と響き、次の目的地の名を告げる。私には何の関係もない、降りたことの無い駅だ。時刻は7時50分。きっと家では彼が体を垂直にし、セットした意味の無い目覚まし時計のタイマーをオフにしている頃だろう。


 私には、同棲している彼氏がいる。大学卒業と同時になんとなく一緒に暮らし始めて5年。ドキドキすることも無くなったけれど、その分ヤキモキすることも無くなった。そんな安定した日々だが、停滞しているようにも感じている。

私たちの生活はいつも変わらない。彼の仕事は朝がゆっくりな分、帰りは少し遅い。いつも私が先に家を出て仕事に向かい、それが終わると真っ直ぐ家に向かい、役目を果たした制服を脱ぎ捨てる。安売りの日に買い集めた食材を適当に切り貼りして、ひとり、テレビをぼぅっと眺めながら、家計簿をつける。スーパーで安売りされるものなんて週ごとに決まっているので、メニューも家計簿も一週間、ほぼ同じことの繰り返しだ。

 彼が帰宅するとご飯の時間になる。もそもそと食事をする間、彼は仕事の愚痴をぽつぽつこぼし、私に今日はどんな一日だったかを、必ず聞いてくる。彼はその話にうんうん、とうなづきながらも表情をあまり変えない。1日の中で二人の時間と呼べるものはこの食事のわずかな時間だけ。食事が終われば、お互いがお互いに好きな事をして過ごす。

彼は食器を洗う背中にありがとうと一言告げ、パソコンでゲームをはじめる。たまに抽象的なタイトルの自己啓発本を読んでいることもあるが、最近はあまり見かけない。私は家事を一通りこなすと、自室に向かい携帯で適当なサイトをめぐるか、買ってきたファッション誌に目を通すか、テレビを見ているか。いずれも好きでしているというよりも、彼に気を使わせないための演出だ。彼は大抵いつも夜更かしなので、私が先に寝ることが多い。彼の息抜きの邪魔をしないよう、おやすみも言わずにそっとベッドに向かう。彼もそれについて気づいているだろうけど反応しない。寝る部屋も別々にして久しい。


 今の生活に別段不満はない。私の思いに変わりはないし、彼もそうだと確信している。彼の変化と言えば出会った頃よりさらに無口さが増したくらいだろうか。それでも毎日欠かさず愛を口にするのが彼のいいところだ。料理も必ず褒めるし、話も漏らさず聞いてくれている。毎月訪れる体調不良の時期には命令形で私を労わる。

掃除は彼が担当している。これは料理の代わりにと、彼から言い出したことだ。折り目正しい彼の内面を写すように、部屋の中にはいつもホコリ1つ落ちていないし、私の干した服はいつだってテトリスのように箪笥に収められている。お布団だってふかふかだ。

そんな図書館のような彼の性格は職場でも変わらないようで、彼は去年の春に昇進した。愚痴が少し増えたのが気になるけれど、稼ぎもより安定した。今度の祝日には、二人で公園に散歩しに行く予定だ。この公園は彼のお気に入りの場所でたびたび二人で出かている。普段の会話は無いくせに、休みのたびにこうして律儀にデートを申し込んでく所がいじらしい。


 電車はその身をカタンと小さく揺らし、大きなカーブに進入する。決められたレールの上を真っ直ぐ進もうとする電車と、違う方向に体は引っ張られる。小さく、でも、確かにこの身は揺れる。道に沿わず、勢いに乗って進んでいきたいと小さく小さく主張する。慣性の法則、中学の時に授業で聞いたことがある。つり革にぶら下がった黒子達もみんな同じ、引っ張られるまま体を揺らす。


 私には分かっている。5年という冗長な月日がそうさせたのか、停滞した日々の賜物なのか。彼の恋の炎は、確実に白い雪へと変わってきている。彼は白い穏やかな世界を望んでいる。だから私は伝えられずにいる。私が頬を紅くしていることを。あの人ともっとたくさんの時間と想いを共有したい。でも、気づかれないようにしている。こんな穏やかな日々。それがどれだけ幸せなのか。彼を愛している。失いたくない。

だから、言えない想いだけが降り積もる。だけれども、気づいてしまっている。何1つ変わらない日々。その中で欲望はどんどんと大きくなっていることに。でも、私はそれを振払う。気取られないよう、重荷にならないよう。そうするうちに、少しずつ自分の想いが本当に白くなってきている気がして。それが、怖い。まるで、白く色づいていく紅葉を見ているようだ。美しくも、近づくのは怖い。私は馬鹿だ。その変化さえ愛しているのだから。淡くなっていくことが狂おしく胸を締め付けてくる。白い紅葉は美しく見飽きない。だから、白い私は、電車に揺れる。あのとき、公園で見た花。彼と見た花。どんな色をしていたか、思い出せない。

 

 ぎぃいいいいいい。電車にブレーキがかかり、私は大きく体を揺らす。慣れた通勤路だ。いつもなら揺れに備えられたはずなのに、少し考えに夢中になりすぎたようだ。減速していく電車内で次の目的地が耳にはいる。次は「あの人」が来る駅だ。


 ぷしゅううううう。電車が大きく鼻息を鳴らす。二酸化炭素でパンクしそうな車内に、冬のにおいが立ち込める。這い上がる寒気が、のぼせあがった思考を足元から順番に覚ましていく。到着のメロディにと共に無機質な声で告げられた現在地が、私の鼓膜と鼓動を揺らす。


 見つけた。あの人はいつもと同じ、さめた表情を貼り付けたままゆったりと動く。上品な光沢を放つネイビーのスーツに、黒板の様に広い背中、飾りっ気のない当たり前の指輪を薄く輝かせる綺麗で細い指。整えられた眉はピンのように美しく、照り返して見える。目的に近づくにつれ増えていく黒子に混じっても、その存在感は霞まない。むしろ人が多ければその分、この人の放つ白い雰囲気が際立っていく。

 のそりのそりと歩きながら横目に列を確認していき、私の横にある微妙な隙間を見つけると、遠慮がちに頭を下げる。私が脇に持っていたカバンを膝の上に乗せるのを待ってから、図書館の本みたいにしてその細身をしまいこむ。私のすぐ隣。この人はたびたびここに座る。


 私はこの隣人の名前もなにも知らない。会話はもちろん声も聞いたことがない。他と区別している、という部分だけ見れば特別な存在であることは確かだが、下心がある訳でもない。電車でたまに隣合わせになる、というだけで恋に落ちてしまえるのは、無垢な高校生男子か、心がお菓子の家で出来ている乙女だけの特権だ。私の心にはそんな季節はもう来ない。隣人が私の目を奪うのは、ある「奇行」が私の好奇心を飼いならしてしまっているからだ。


 電車は長いトンネルに入っていく。黒い窓に映った私が「隣を見るな」と睨み付けてくる。はいはい、わかってますよ。少しばかりの葛藤をしていると、隣から動く気配がした。隣人がいつものように携帯電話を見始める。ひどく穏やかでゆったりとした手つきで、ぽつぽつと画面をたたいている。こちらから見えてしまっていることなんて考えてもいないのだろう。静かな時間がしばらく流れ、今日もメールボックスを開いた。今日もか、と少し悲しくなる。いや、これは悲しさなんかじゃない、もっとどろどろとしていて、明るい気持ちだ。

隣人の手が動く。どっしりしているのに何故か儚げに見えるその親指が、言の葉を一枚一枚、揺らし始める。



  「今日は寒いね」「昨日は仕事がなかなか進まなくて大変だったよ」「この前話した雑貨さん、覚えてるかな」

  「今朝のご飯、とてもおいしかったんだ。ありがとう」「明日は晴れるみたいだから、どこかで出かけてみない?」……

 

 この人はいつも、いつもいつも。あて先を空にしたまま、こうしたメールをつくり、そして、そのたびにそれを削除しているのだ。



 つづられる言葉はどれも暖かいものなのに、私には四角くい黒の涙を流しているようにしか見えない。泣いているのか、笑っているのか、誰にも知られないままに彼の奏でるアリアは喧騒に消えていく。このメールの中身は、家で待つ女性へ送るのか、それとも全く別の誰かに送るものなのか、私には分からない。知る術もない。けれど私の勘が告げる、指輪の片割れ、その持ち主に宛てたに違いないと。この身にまだ、少しだけ残っている女としての感性が鋭く私に訴えてくる。これはもっと純とした気持ちで書かれたものだ。

 どうしてこんなことをするのか、その真相が知りたくて仕方ない。他人の携帯、それもメールを覗くなんて、最低な行為だと分かっているのに、目をそらすことが出来ない。冬の寒さに閉じ込められたみたいに動けない。本当に最低だ。

私が隣人を目で追う理由、それは熱烈な同情だった。この人は、きっと私と同じだ。同じように落ち着いた日々を怖がっている。変わらない日常、繰り返される毎日。そんな愛くるしい時間を、同じ想いで過ごす仲間を見つけた気分でいる。なんて浅ましい発想なのだろう。べっとりとした嫌悪感が這い出してくる。


 あの時は確かに紅く染まっていた頬。それを私は自ら雪化粧で隠したのだ。色もトキメキも無くした日々にも、甘いにおいは漂っている。重たい女にと思われるくらいなら、いっそ気持ちに蓋をする方がよほどマシだ。ひどく臆病で打算的で、こんな自分が嫌いだけれど、もう私には抜け出すための一歩をどこに踏み出していいのか分からない。そう、私はただ、怯えているだけだ。

 隣人は違うのかもしれない。子育てや日々の忙しさに追われているだけかもしれないし、普段はもっと言葉を交わしているかもしれない。彼が雪を纏うようになったのは、もっとのっぴきならない理由があってのことかもしれない。それを私は、身勝手に自分と同じはずだと決め付けている。同じであって欲しいと。どこまでも嫌な女だ。他人が幸せであることよりも、仲間がいることを願うなんて。


 電車は長いトンネルをぬけ、黒子たちに再び空を見せる。光が見えた。厚ぼったい雲の間から少しだけ差し込む明るい光が、幻想的な風景を作り出す。雪が降りだしている。目の前に見える、あまり見ない光景に私は目を奪われる。


  突然。なんの前触れもなく、隣にある右手が震えた。油断していた私もつられて、腰を震わせてしまう。隣人が申し訳なさそうに一瞬だけこちらを見たけれど、すぐに携帯に目を戻す。ぽつぽつ画面をたたき、そこで静止した。その気配に私は胸の高鳴りを隠せない。何かが起こっている。好奇心が全身を一気に覆いつくす。小人が息を合わせて行進をはじめたみたいに、心臓がどきどきするのが分かる。自然に振舞える自信は無いけれど、気になって仕方ない。小人たちの足音が大きくなる。慎重に、気づかれないように目だけをそこに向ける。それは私が初めて見た、彼への「返信」だった。いつもぽっかりとしたままの一番上の欄に、「嫁」と書かれているのが見えた。

 


「今日は寒いね。晩御飯はあなたの好きな肉じゃがにするよ」

 


 私の頬に雪解け水がにじみ出た。ふっくらと微笑む隣人が見える。ああ、こんな顔で笑うんだ。隣人は、さっき投げ捨てたはずの言葉を拾い上げ、画面にそれをつづっていく。私は身動きしないまま、静かに静かに祝福の拍手を送った。まだ、この二人の世界には色が灯っている。なぜだか少し、振られた時ように清々しい。やっと、この広い広い世界で仲間を見つけた気がしていたのにな。でもこれはきっと嬉し涙だ。私が思うより世界は暖かく回っていて、それを、この二人は教えてくれた。

 私は思わず笑みをこぼす。こんなやりとりを、交わそうとさえしなくなったのはいつからだろう。私は、彼からの声の無いメールに気付こうと、聞こうとしてきただろうか。いつもいつも、期待だけして、何も考えず、求めるだけの愛にしてしまったのは、私なのかもしれない。二人の愛が白く染まったなら、それは二人で染めたのだ。もう一度、色をつければいい。


 

 ぷしゅうううううう。電車は扉を開け、私を日常へと送り出す。明日から彼の観察は止めにしよう。いつもと違う席に座って、違う景色を探すのもいいかもしれない。聞きなれたオルゴールの音と踊りながら、暖かい待合室に向かう。改札をくぐり、空をみあげると晴れ間はもう見えなくなっている。でももう、大丈夫だ。たとえ見えなくても、厚い雲の上に太陽はそこにある。白い雪が、空からいくつもいくつも舞い落ちては、解けて消える。ああ、今日はなんていい天気なのだろう。

 ふと、携帯を取り出した。あて先には、今頃家の戸締りをしているだろう彼の名前を入れる。ああ、一体彼はどんな反応をするだろう。三角定規の表情がどうなるかをいろいろ妄想してしまう。いたずら心で照れ隠しして、思い切って送信ボタンを押した。あなたにも届きますように。


 今度の祝日が待ち遠しい。桃色でマークをつける月曜日。愛する彼ともう一度あの花を見かけたら、一緒に名前をつけておこう。もうその色を忘れないように。

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空っぽのメール 葵上 @aoiue1

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