21:「遠く高く、澄んだ思い出に」

郡山リオ

第1話

 木漏れ日をかき分け登った先に、お気に入りの温泉があった。

 広い館内。ほのかに香る木の匂い。壁に飾られた季節ごとの景色の絵のある廊下を抜けると、談話スペースの向かいにのれんのかかった入り口はあった。季節は夏、標高の高い長野は、とても過ごしやすい避暑地だった。


 昼下がり、人は少なく館内には見渡す限りほとんど人は居なかった。

 私は脱衣所を通り、ガラスごしに中を見渡す。お湯が注がれる音。そして静寂。よし、誰もいない。

 急いで、棚のかごに服を脱いで行く。衣擦れの音、誰かがつけた扇風機の風、タオルの柔らかな感触、そして入り口の取っ手を掴む私。一瞬だけ映ったガラス越し、……その人は……控えめに微笑んでいた。


 前髪がそよぐ。木々の葉が音を鳴らした。湯気を揺らす風が心地よかった。小鳥が鳴いている。木漏れ日がお湯につかる私の肩に落ちてきた。揺れる、お湯も、木漏れ日も、私の空を見上げる視界も、心も。

 上がろう。だって、お湯は少しだけ、熱かったのだから。


 温泉上がり、体がほてっている私は、自販機の前で買ったラムネを取り出す。

 口につけ、傾け、少しだけ喉を鳴らす。ふと見た瓶の向こう、自動販売機のガラスに映る、私。

 知らないうちに瓶に付いた雫がまとまり、伝い、落ちて、浴衣を濡らした。まるで私みたいだと、私は呟く。


 朝、まだ人はまばらだった。

 遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。開け放たれた窓から入った風に、風鈴の音。私の小説をめくる音が、つけっぱなしのテレビの音に重なった。そこに昼間から、夏の終わりでもないのに、ヒグラシの鳴き声。いつも聞き慣れているはずの蝉は、この辺りには居ないようだ。

談話スペースの真新しい畳が、い草の青い匂いが、夏の風を巻き込み、洗ったばかりの髪を揺らす。

 私の読んでいる物語の世界のように、ここはとても穏やかで。今までも、そしてきっと、これからも私の中で平穏な情景になるだろう。だってここは、私の知っている中で一番好きな人に近い場所なのだからと、私は呟く。


 好きな人のことを私はよく知らない。でも、ずっと前から好きだったんだ。


 季節はあっという間だった。夏が知らない間に過ぎては、また夏が来て、過ぎていくを繰り返した。

 そんなある冬の交差点で、私は赤信号が変わるのを待っていた。

 白い、白いため息。ビルを見上げる私の視界で吐いた息はすぐに薄まり、そして消えた。


 25歳になった私よりも、18歳の私の方がずっと強かった。


 あの時の私は、何一つ今の私を想像できなかったはず。コンビニに入ろうとした私が一瞬だけガラスに映る。だって、こんなに、疲れた顔をしているのだもの。

 あのときと今を比べると変わったことはたくさんある。

 いつもにぎやかな繁華街。すれ違う人々。都会の雑踏。いつまでも明るい街に、疲れた私。

 毎日がとても早くなった。空を見上げなくなった。気がついたら、あまり、笑わなくなっていた。

 朝、暗いうちから家を慌ただしく飛び出して、家に帰るのも暗くなってから。

 太陽よりも、月の光を浴びて生きるようになっていた。


 お酒を買って、家に帰って、お風呂に入って、洗濯物を洗って、何気なくテレビに目を向けて、私は遠い昔のことを思い出していて。

 アイロンがけの匂いで、頭を過った高校のワイシャツがきっかけだった。


 私はいったい、ここで何をしているのだろう。


 みんながサボった掃除の時間、だけど私は一人ほうきをもって掃除をしていた。

 やっぱり、私もサボってよかったかな……。小さくため息。

「よっ」と、教室に入ってくる男子。

「あっ」ほうきを持った彼に私は、声を漏らす。

「一人だと大変だろ? 手伝うよ」と、笑う彼に、私はありがとうと、小さくお礼を言った。

 手伝ってくれる彼を、私は気がついたら目で追っていた。名前も知らない彼のことを。その時だけでなく、気がついたらいつも。

 何かあれば彼のことを思い出して、気になって。知らないうちに私は、恋に落ちていたのだった。


 今、同じことを思っても、彼は現れない。現れるのなら、もう何度も会っているはずなのだからと、私は髪を耳にかけた。不思議だ。今でも、あの時の胸の高鳴りを思い出せる。それなのに、その眩しい光のせいで、他の思い出はほとんど形が残っていない。ただ、私の中にある感想は、楽しくて仕方がないという、曖昧な感想だけなのだから。


「ねえ」

「んー?」

「好きな人はいるの?」

「ん? いるよ。」

「それって、誰か、聞いてもいい?」

「まあ、いいよ。全然知らないと思うけど」

「うん」

「松高の戸坂さんなんだけど、中学の時の先輩でさ、すげーかっこよかったんだ」

「うん」

「プレーだけじゃなくて、何事にも率先して動くような人でさ、みんなの憧れでさ」

「……うん」

「卒業して、一回も会ってないけれど、あの人が好きだったかなぁ」

「連絡とか、取ってないんだ!」

「まあね、連絡先は知っていたけど、一回もかけたことないよ」

と、箒でごみをはきながら、あははと力なく笑う彼の姿に、あの頃の私は心の中でガッツポーズをしてみたり。


 髪を後ろで結び、鏡越しに身なりを確かめて家から出た今日は、一段と空気の冷えた朝だった。息が白く染まり、信号待ちの私の視界を邪魔する。手がかじかみ、手袋を忘れたことに気がついた私は、自分のポケットに手を入れ、ため息。そして、また視界を邪魔する。そういえばと、私は視線を空にあげた。そういえばあの時は、と、高くなった空を見上げながら一人つぶやいていた。



「うぅ、寒みー」

「ここ、冷えるからねー」

「お前は偉いよな、ちゃんとサボらずに掃除してるし」

「ちゃんとサボって来ないからね、他の人たちが」

「お前は偉いよ、サボらないんだもん」

「はいはい、上から目線の人もサボらないように、私がチリトリを差し上げます。」

「……」

「じゃあ、そこに集めたゴミから取るから……」

「……遅れて来てごめんな」

「いいよ、だって職員室に呼ばれていたんでしょう?」

「まあな」

「じゃあ、しょうが無いじゃない。私は、たとえ来なくたって責めないよ。」

「……どうして?」

「どうして? んー、自分の意思でやっていることだし」

「ちがう。どうして一人で……」

「どうして、一人でも掃除するのか? って、聞こうとしているの?」

「ああ、そうだけど」

「……だって、私が掃除をやらなくなってしまったら、みんなが気持ちよく授業出来なくなっちゃうじゃない」

「……」

「今日さぼったとしても、たった1日だけ、だけどさ。毎日きちんと掃除していれば、どれだけのホコリが出るか分かってしまう。だから、そのホコリをほおっておいたら、この教室がどうなってしまうのかもわかってしまう。だから、私は、そのホコリで私以外の人が嫌な思いをしないように毎日掃除するのよ」

「お前……!」

「って、さっき同じことを先生に聞かれたから、その時きちんと答えられなかった私は、次聞かれた時のために返事を用意したのでした」

「お前……」

 がっかりした好きな人に向かって、私はあはは、と笑い、言った。

「誰かのためとか、やってほしいといわれたからとか、きれいな言葉や、飾った言葉とか、どんな言葉を並べたとしても、結局すべては私のためであり、私の単なるわがままだよ。」

「わがまま、かあ」と好きな人は手を止め、つぶやいていた。

「だって、そうでしょ」私は続けた。

「無償で見返りを求めないことなんて、ほとんどないじゃない?」

「そっかぁ……そうだよなぁ」

 そして、好きな人はこの狭い教室に爆弾を落とした。

「そうだよなぁ、そんなの、愛くらいだもんなぁ」


 ふふっと、私は鼻で笑った。仕事の休憩中、手を洗い終え鏡を見上げた時だった。

 あの瞬間を思い出して、あの頃の幼さに笑って、でも今の私の顔も真っ赤になっていて。

 こういうところは、変わらないんだなぁと、私はホッとする。

 そして、今の私に戻っていく。


 私はあの時の時間を取り戻すように、何度も何度も繰り返し、思い出の中を歩いていた。

 他の人にしてみれば、届かないはずのものへと手を伸ばしてばかりいる子供みたいに見えるのかもしれない。

 本屋に行った。数学や、古典の本を手にとって開いてみる。

 レンタルショップに行って、授業で知ったクラシックを借りてみたりもした。

 そうやって一度は手放したはずの、あのときの記憶をたぐり寄せようと、私は昔の欠片を集める。

 一つ、一つ、大切に……。


 メールアドレスの交換だけで、ドキドキしていた。

 一文打っては、悩んで、また消してを繰り返した。

 顔を見るだけ、声を聞くだけ、それだけなのに、とても嬉しくなった。


 少しずつ、好きなあの人に近づけているのだと思った。

 好きな食べ物を教えてもらった。嫌いな教科が同じだった。

 通った学校、動物が好きなこと、いろいろ教えてもらった。

 好きな人の好きな人は……もう聞けなかった。


 想いが積もり、我慢ができなくなったある日。放課後の教室で、いつもの時間になって、掃除を終えた彼を私は呼び止めた。赤くなった空の色が私の頬まで染めていた。だって、目の前に好きな人がいるのだから。

「だから、その、好きです」

 その気持ちがいつから確かなものになったのだろう。その言葉を言うまで、どれだけ時間がかかってしまったのだろう。私は、私は、私は……。



 あの時のように高く遠くなった雲は、日を追うごとに輪郭を失ってあいまいになっていく。

 仕事に向かう薄暗い通りの隅で、霜柱を見つけた。水たまりが凍っていた。今日は、手袋を忘れてこなかった。そして私は、くすっと小さく笑う。


「やだなぁ、私手袋どこにしまったんだっけ」

「ん? 忘れたのか」

「んー、カバンに入れたと思ってたんだけどなぁ」

「落としたのか?」

「んー、んー、どこにもないなぁ。落としたのかなぁ」

「ほい、貸す」

「えっ、いいの? ほかに手袋持ってるの?」

「とっておきのをな!」

「……?」

「こうやって、こうやって、……ザ、ペンギン!」

 と、上着のポケットを外に引っ張り、中から手を入れた彼をあくまで客観的に評価してあげた。

「……バカ?」

「お前、気を使って手袋かしてあげようとしている人間に、よくそんなこと言えるな」

 と、彼は、苦笑いしている。私も私で、ふんっと、薄情な男にそっぽを向くが、すぐにお互いに笑って、私は言った。

「ありがとう」


 分からないことはたくさんある。知らないこともたくさんある。

 それでも私は、好きになった。これから、知らない一面をたくさん見つけるかもしれない。

 思いもよらないような出来事や経験や思い出をつくってくれるかもしれない。

 私の目の前には、まだ知らない未来が広がっているのだ。

 そのために、まずは好きな人に想いを伝えた。これから、もっと好きになれるかもしれないから。

 恥ずかしさから、私は笑ってしまう。


 頭を掻きながら、彼は私に笑いかけ言った。

「ありがとう。でも、……ごめんな。」

「こっちこそいきなりだったよね、おどろいたよね。なんか、その、私の方こそ、ごめんね……」


 次の日までは、一瞬だった。

 私はいつも通り目を覚まし、ご飯を食べ、学校へと行った。

 いつもと変わったことがあるとすれば、それはいつもよりも空を眺めていただけだ。

 登校中、授業の合間、昼休みに、放課後の帰り道。


 雪は降り終わり、草花が芽吹き、空へと伸ばした木々の葉はあっという間に深く染まる。

 夏の空は、街の陰に青を落とした。


 そっと白い建物はほのかな水色に染まる。

 よく見れば、薄いところと濃いところがある。光から遠ざかるだけ、影は紺色に近くて、光に近づくにつれて、限りなく陽の色に近い。


 好きな人に近づくだけ赤くなる私は、自分では気が付かないだけで、好きな人から遠ざかるだけ青く染まっているのだろうか。

 プールの底に揺らめく光の網を思い出す。青に沈んだ私は、底に広がる好きな人の断片に捕らわれ、その白い網に絡めとられて、自分の力だけでは逃れられなくなっているのかもしれない。私は、気が付けば、よく空を見上げるようになっていた。まるで、水面を見上げるように、高く高くどこまでも続く空を私は見上げているのだ。


 仕事からの帰り道、ビルの屋上で赤いランプが点滅していた。

 空の端にハサミを入れたようにビルの切れ込みの入った街の中で、私が見上げるこの空は、私の知っている空の中で、一番小さく、寂しい景色だった。そして、突然の風に、私は思い出す。



 幼かった私は、ふとした拍子に、ねだって買ってもらった砂時計を割ってしまった。手から滑って、砂が入っていない方のガラスから落ちて、散って無くなり、捨てるに捨てられず、しばらく机の片隅に置いていた。思い切りがついて、捨てようと思ったある日、家の外で止まった時間を流した。未来に詰まった沢山の綺麗な砂は、すぼまったガラスを通り、割れて無くなった過去へと落ちて、台座の上に山になる。砂が細い糸になって落ちていくのを見ていて、思わず、砂の糸に手を入れた。キラキラと太陽を映して輝く砂に、星みたいだと私はつぶやいていた。落ちてきた星の砂が手の中にたまる。瞬くように輝く、綺麗な砂が指の隙間からこぼれ落ちる、落ちてく。


 私は手の中から無くならないように指を閉じようとした。そのとき前髪が揺れた。風だ。一瞬の風が、砂を飛ばしてしまう。私は声も出せず、立ち尽くす。もう、落ちてくる砂はない。風が通り過ぎて、固く握りしめていた指を開くと手の中に残ったのはわずかな砂だけだった。

 顔を上げる。空になった砂時計の横で、私は風の行き先をただただ無言で見続けていた。



 私の中の記憶を繰り返すたび、思い出すたび、些細なところがほんのすこしづつ変わっていった。夜寝る時に感じた寂しさで、朝目が覚めると泣いている。時間の砂は、少しづつ少しづつ思い出の角を取り、表面を磨き、きれいなものにしていった。好きな人だけではない。自分の中にある変わらないと思っていた大切な思い出さえも、時間の流れは変えてしまう。人も時間も私を待ってはくれない。これまでも、きっと、これからも。

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