微笑む夜

オノマトペとぺ

第1話

なんでもないひとりの夜に、僕はふと思うのだ。

将来のこと、今のこと、過去のこと、思いつく限りのことを


すべてこの瞬間に捨てることがもしできたのなら。


僕は一体何になるのだろう。

名も、言葉も、時も、思いも、全てをなかったものとした瞬間

僕はキレイさっぱりこの世から僕自身を消せるのか。


僕が刻むはずだった鼓動も、重ねるはずだったため息も、小説のページをめくるささくれだった指も。

海に投げ入れられた石のように、目の前を過ぎていくバイクのように、どんどん小さくなって姿を消すのだろう。


僕は何にもならないのかもしれない。


消えてしまったら、何にかではなくなってしまったその瞬間から僕は新しく何かを残すことは未来永劫できない。取り返すことのできないものを投げ捨てるのだ、何かを残すことがなくなるのは何も不思議なことではない。


僕は何かになりえない。


でも忘れてはならないことがあるのだ。僕は、と言うより人はどうも忘れがちなことではあるが、消せるのは結局のところ、自分の支配しうる領域のものだけなのだ。


僕が僕の、この世に存在しうる全てを消してしまいたいと願っても、消せないものがひとつあるのだ。


人の記憶は勝手に捨てることはできない。

僕が消えるその瞬間までに出会った人、言葉を交わした人、教えを乞うた人、はたまた偶然に同じ本に手を伸ばした人、そんな数え切れない人に残る欠片のような記憶を僕は消すことができない。


それは人が一人で生きれないがために起こってしまう弊害なのか奇跡なのか。

もう僕は決めることを当の昔に諦めてしまったけれど。


僕は僕であった以上、僕の全てを持ち去ることはできないのだ。


もし人の記憶が視覚化できたとして、そして世界をどこかから見下ろすことができたとすれば。果てしない数の人がもつ僕にまつわる記憶は、細かいガラス片のようにチカチカと反射するんだろう。


そう考えてみるとわざわざ僕自身を消そうとするのは、とてつもなくくだらない、どうしようもない悪あがきのように感じるんだと。


なんでもないひとりの夜に、僕はふと微笑ってしまうのだ。

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