第二篇 燃え盛る火、火、火


 その日は朝から級徒のみんながみんな浮足立っていたようで、級室中に何となくそわそわした空気が漂っていた。お祭りの前の、あの何ともいえない高揚感。ナラズミなど誰彼かまわず興奮してぺちゃくちゃと喋り立てるものだから、いつもより一層煙たがられていた。


 二限目、生物観察の時間には、教科を担当する根賽ねさい先生が授業を一旦切りやめ、莢被りについての話をしてくれた。

 

 生物室は正方形に半円をのっけたような形をしていて、根賽先生が立っている教壇は半円側に位置している。その教壇を取り囲むようにして並ぶ本棚が、ある種の威圧感を根賽先生の頬のこけた顔に少なからずは与えているようで、生物室での授業は居眠りをする者がいないと評判になっていたほどだ。

 級徒用の細長い机は全部で七つあって、うちのひとつは座る者がいないためにたった一脚ぽつんと窓からの日差しを浴びている。


 僕らの班はその空机の前の机に腰をおろしていた。


 根賽先生の話の内容は、虫送りに際しての注意事項や約束事から、いつの間にか莢被さやかぶりの生態についての講義に移り変わっていた。熱心に話に聞き入り、筆帳に覚え書きをしているヒサグの横顔をぼうっとしながら盗み見ていると、隣に座るナラズミが肩を組み合わせてからかってきた。


「何だよう、セブキ。覗き見か」


 うるせえよ、とあしらったが、ナラズミはしつこく冷やかしてきた。終いにはヒサグとスクまでもが疑惑の眼差しで僕を見たほどだ。

 

「セブキ君、私の筆帳を写させて欲しいのなら、素直にそういえばいいのに」

「違うよ、もう」


 根賽先生は、僕らの痴話喧嘩などには目もくれずに熱弁をとばしていた。


「つまり、莢被り、大蜜殻虫オオミツガラムシのように大きな巣をつくって集団で暮らす、と。こういった行動形式をとる虫を総じて社会性虫と呼ぶわけであります。把中近辺では土掬つちすくいのような大型鎧虫類が似たような集団をつくることで知られていますが、あちらとは階層や仕組みからして全く別の類であります」


「土掬い。知ってる」

 ヒサグがそう呟いた。

無論僕も土掬いの名なら耳にしたことがある。


「個体は全部で三種類にわけられます」根賽先生は続けた。「雄、雌、そして女王です。まず雄ですが、これは働き手ワーカーなどと呼ばれている輩ですな。莢被りといえば大抵はこれを指すわけでありますが、働き手の仕事は冬が来るまでにより多くの獲物を獲り、女王の産んだ幼体を育てることにあります。奴らが殻のように背負っているあの大きな塊は、摂取した獲物―四十雀シジュウカラなどの鳥類を始め蚯蚓蝦ミミズエビ熊蜻蛉クマトンボなどの小型の虫まで、まあ、多岐に渡りますが―や栄養分を効率よく持ち運ぶため、自らの体に纏うといった目的でつくっているのでありまして、ああして苦労して持ち帰った餌を巣で待つ幼体どもに与えるわけであります。そして女王はこの夏の間に新たな女王候補を産みます。

「雄たちが出払っている間、幼体の世話をするのは雌たちの役目です。彼女らには繁殖能力はありませんから専らこの仕事につきっきりになるわけです。やがて冬になると、働き手たちが外に出ることはめったになくなります。もう狩りをする余力も残っていないということですね。彼らは新しい世代に命を託して、一匹また一匹と眠りにつくわけであります。ちなみにこの頃は一番巣の賑わう時でありまして、卵から孵った新働き手や女王候補などで溢れかえっております。そして春になり新女王が巣の半数以上の個体を引き連れて新たな場所へ引っ越しを行うと、まあこうして莢被りの一年が終わるわけでありまして……」


 確か、莢被りの大行列と呼ばれているやつだ。先頭に異様に腹の膨れた莢被りがたち、数百匹に及ぶ数の個体が後に続く、と。


「とまあ、要するに、いま巣房に産みつけられた女王候補の卵を一掃してしまえば、新たな巣がつくられる危険性がなくなるわけであります。虫送りとはそのためにあるのですね」


 ようやく根賽先生が話を終えた頃には、級徒のみんなはげっそりして、呆けたような顔つきをしていた。それでもただひとり、ヒサグだけが目を光らせて立ち上がり、質問を発した。


「先生。今の話を聞いていて思ったのですが、なぜ最初から女王を殺してしまわないのですか?普通の、雌の莢被りには卵が産めないのだから、そうしてしまえば、巣自体を殲滅できるのではないでしょうか」


「いい質問ですね」根賽先生が皺をつくってにこりと微笑んだ。


「どこがいいもんか」ナラズミが小声で毒づいたのが聞こえたが、ヒサグは気にしなかった。


「確かにそうすれば、巣の莢被りを根絶やしにすることはできるでしょう。けれども、それでは我々は彼らの領域に深く立ち入りすぎてしまうのです」


「領域、とは?」

 根賽先生は頬を歪ませてさらに微笑んだ。

「つまりはですね、折り合いをつける、ということです」


 授業はそれで終いになった。

僕らは上の空のまま午後の授業を受け、一旦帰宅したのち、親に連れられて再び法級を訪れた。無論、虫送りの前準備をするためである。










 

 脂が混じっているみたいに、じとっとした空気が充満していた。

級庭の真ん中に焚かれた大きな篝火が風を受けてゆらめくと、辺りを包む闇と橙に光る炎との境目が曖昧になる。

 僕らは篝火を囲んで、順番に各々火蓑棒かぎづるを受け取っていった。


「こいつで莢被りを追い払うわけだな」


 ナラズミが火蓑棒を振り回してそう言った。

振れ幅の炎に照らされて、一瞬級庭の裏に聳え立つ木々の輪郭が浮かび上がり、それからすぐに消えるのが見えた。


 恥ずかしい話だけれど、僕は燃え盛る篝火のあまりの巨大さに圧倒されてしまって、瞬きもせずに見入っていた。

 炎は絶えずかたちを不定形に歪ませながら、暗闇を舐め回すようにその舌先をちらつかせていて、火蓑棒が引き抜かれる度に全体がびくんと波打つのだった。


 これは命をうばうためのものだ。

晴れてこの地に舞い降り、芽吹くはずだった数多の命を、奪ってしまう炎。美しいと感じたのは、やはりそういう背景があったからなのだろうか。


「よし、では、移動するぞ、皆列になってついてこい」


 吉条先生がそう告げるまで、僕は我を忘れて、吸い寄せられるように篝火に注視し続けていた。

ナラズミに肩を叩かれて、ようやく我に返った。ヒサグ、僕、ナラズミ、スクの順番で、五班の後尾についた。

 こうして皆で連れだって法級を出るというのは何とも不思議な気分を催させるもので、火蓑棒の明かりに照らされた皆の顔は、何故かいつもより一回りも二回りも大人に見えた。

 

 前を行くヒサグは、五班のハヅルと女同士おしゃべりに耽っていた。いつもは物静かで優等生なハヅルの顔もみんなと同じく汗ばみ朱に染まっていて、別の人を見ているような感じがした。


 ナラズミはいつの間にか駄弁りに列の前の方へ行ってしまっていて、僕の後ろにはスクと引率の金田先生のふたりきりだった。スクは浮かない顔で火蓑棒を低く腕からぶら下げていて、しきりに金田先生に何かを訴えているようだったが、皆のお喋りのせいで聞き取れなかった。


 それから、水田に沿って畔をしばらく歩くと、木立のまばらに生えた斜面が見えてきた。

正装に身を包んだ先生方、それに虫送りを見物に来た村の衆たちも集まって、中々に賑やかげな雰囲気を醸し出している。僕らが手を振ると、みんなも応えてくれたのがこそばゆかった。


 森の奥の方からは明かりと人声、それに物音が梢の風にざわめく音とともに漏れ出ていていた。


 吉条先生の短い話が終わると、いよいよ持ち場に分かれて虫囲いをすることになった。僕ら六班に割り当てられた場所は、山と田の境目の切り開かれた小径で、万が一のために金田先生と伎楽の教科を担当する橋玖波はしくば先生が傍についていてくれた。

  追われた虫が飛び出て来るまではまだ時間があって、ヒサグはその間楽しげに先生二人と話し込んでいる。

 僕とナラズミとは、さもつまらなさそうにそれを眺めていた。


「あいつ、やたら先生に気に入られてやがるよな」

 ナラズミが口をとがらせた。これに関しては、珍しく彼に同意できた。

「筆帳に覚え書きをして、媚を売ってるんだ。浅ましい女さ」

 そう言った時、傍らのスクが薄く涙をながして暗い森を眺めているのに気付いた。金田先生が言葉をかけて慰めてはいるが、耳に入らぬようで、俯きながら赤い目尻を肘で拭っている。


「どうしたんだスク」

 ナラズミが大股に近寄っていくと、スクはぷいと顔を背けてしまった。金田先生も困り果てた様子で、僕らに話しかけてきた。


「莢被りがかわいそうだっていうのよ。今までは何とか我慢してたらしいんだけど、根賽先生の話を聞いてから、殊更そう思うようになっちゃったみたいで」


 僕は半ば呆れながらスクを見やった。全くもって、彼の真意は測りかねた。


「スク、お前は虫の化身か何かか?」

 ふざけてそう言っても、彼は受け答えもしなかった。まるで、それこそ何も告げずに、彼だけの深く暗い世界―あの水田の、黒いオタマジャクシが蠢く底が思い浮かんだ―に一人沈み込んでしまったように僕には思えた。




 

 


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