朝と夜
クロン
第一篇 麦の葩
ツガクが寺送りになった、という噂が僕らの間で流れ出したのは、ちょうど春の気配も漂い始めた如月の頃のことだった。
最初僕らはそのことを面白がって、冗談の種にしていたくらいだった。大方あのツガクの野郎がまた嘘を吹聴しているのだろう、とはじめは皆そう思っていた。
でも実際に、ツガクが一月、二月と法級を休むようになった辺りから、それこそまるでツガクなんて人間はこの栗山法級に最初から存在しなかったかのように、皆の間で彼に関する噂話はぱたりと止んでしまった。そうしてうっかり誰かがその名を口にしようものなら、級室中の空気が急にしん、とまるで凍りついたように張りつめてしまうのだ。
そうして、ほんの少し前まで、やんちゃで陽気でお喋りな少年のいた席には、ぽっかりと空白が開いてしまった。
それから、皆が彼のことなど綺麗さっぱり忘れかけていた頃のこと、虫送りの季節がやって来た。
虫送りというのは、供養という名目で虫を駆除する祭礼のことである。本来は、大量発生による蝗害を防ぐため、生みつけられた卵や孵化したばかりの幼虫を文字通り焼き払うという意味合いで使われていたらしいのだが、今日では単に虫を屠る儀式として知られている。
栗山法級では、秋の稲刈りに備えて毎年寺で行われる虫送りの手伝いをすることになっていた。
その日は妙に眠たい日だった。僕は級室の床の複雑に伸びる木目を眼で追いながら、頭に染み入ってくる睡魔と戦っていた。
暗い底に意識が落ちかけたところで、左隣から僕の肩をとんとんと叩く者がいた。安眠を妨げられていささか憤りながら振り向くと、仏頂面の、ヒサグの顔があった。
「起きなさい」
ヒサグは、きっぱりと、大きな声でそう告げると、ほんとうにしょうがないわね、といった呆れ顔で僕を見下げた。瞼を擦りながら周りに目をやると、級徒たちがくつくつと笑いを堪えていた。
くそ女が。心の中で毒づく。何もそんなに大きな声で注意しなくてもいいじゃないか。
ほんとうに、名に違わず男みたいな奴だった、ヒサグは。髪は短いし、それに頬骨が出ていて、色黒で、とにかくおよそ十二歳の少女には見えないような風貌をしている。
こんな奴と同じ班になってしまうとは、全くついていないとしか言いようがない。
「しっかりしろよ、セブキ」
うしろの席のナラズミが、僕の背を手の平でばんばんと叩いた。爆笑が級室中に渦巻いて、僕は恨みをこめた眼で窓から覗く景色を睨みつけた。
澄み切った青空のもと、黒々とした山並みがなだらかに連なっていて、平地との境界線のあたりからは青々とした水田が続いている。
そんな清涼感を含んだ景色も、窓から吹く涼しい風も、余計僕を苛立たせるだけだった。
ようやく爆笑が収まって、授業が再開した。
吉条先生が墨板に、付近の水田の略図を書き出した。山に沿って、点々と、全部で六つの印がつけられていく。
「これが、各班の配置だ」
吉条先生はそれから、長々と虫送りに関する説明を始めた。
「今年も、例年通り、密生した
それは僕も知っていた。栗山法級では年長組がその役目につくことになっていて、毎年
隣を見れば、ヒサグが生物観察の教科書を取り出して頁を繰っていた。節脚虫目、カラムシ科。莢被り―本土の分類上、正確に言うなら、
莢被りは、多分、栗山では最も名の知られている虫だろう。ここらで虫といえば、大抵莢被りのことを指す。体は扁平で、節毛に覆われた細い脚が横っ腹から突き出ている。特徴としては、腹から尻にかけて体が盛り上がって上を向いているところだろうか。雄は繁殖期になると磨り潰した葉や食べ残しの粕を口から分泌する粘液で固めて、体を覆う殻のような物体をつくる。これを背負ってちょこまかと歩いているところが、まるで莢を背負っているようだということから、莢被りと呼ばれているらしい。
教科書にはそのようなことが書いてあった。
「絶対に莢被りに近付いたりしちゃいけないからな。くれぐれも危険な目に遭わないように、節度を守って取り組むこと、いいな」
気のない返事が二、三飛んで、授業が終わった。
鐘が鳴り終わらない内に、ナラズミが傍によって、話しかけてきた。
「なぁ、先生はあんなこと言うけどさ、俺莢被りなんて何度も触ったことあるぜ」
「ああ、そうかよ」
ナラズミはいけ好かない野郎だ。何かと僕に付き纏ってからかってくる。それに話す内容は、大方自慢話に決まっている。
「嘘じゃねえぜ、この前も、こんなに大きい奴の背に跨ってやったんだ」
「馬鹿じゃないの、あんた。くだらない」
ヒサグが、心底軽蔑するといった視線で僕らを見やった。ナラズミが何か言い返して、口喧嘩になりかけるのを、まあまあとスクがとりなした。
スクについては、特に綴ることもない、弱虫の野郎としか思っていなかった。いつもにこにこと穏やかげな笑みを浮かべていて、放課後になれば動物や虫を探して野山を駆け回っているという噂だ。
それでも、この四人班の中ではまだ信頼できるたちだろう。人畜無害というやつだ。何かにつけて説教を始める訳でもないし、しつこく絡んでくるわけでもない。
ナラズミは一言、おとこ女!と吐き捨てると、大げさに椅子を引いてどこかへ行ってしまった。
それから帰り道、畦道を歩いていると、偶然にスクと出会った。彼は道のふちに屈みこみ、鈍く光る田圃の水面に目を凝らしていた。余りにも真剣そうな表情をしているので、僕が怪訝に思い近付いていくと、彼はうわっと声をあげて飛び退った。その拍子に重心を崩して、水田にずぼりと右腕が突き刺さってしまった。
「何してんだよ」
僕がそう訊ねると、スクは泥から腕を引き抜いて立ち上がり、言った。
「オタマジャクシを見てたんだ」
スクは繁る稲の隙間から覗く黄褐色の水面を指差して、セブキも見てみなよ、かわいいよ、と続けた。急いでいるわけでもなし、言われるがままに底を覗き込んでみる。
暗く濁った水の下に泥が深く堆積していて、底のあたりで数匹のオタマジャクシが尾をゆらゆらとくゆらせながら跳ねるように泳ぎ回っていた。よく見ると、体から小さな脚が生えているものもいた。
「うわ、こいつ脚なんて生やしてやがる。気持ち悪ぃ」
「大人と子供の間だからだよ」
スクはまんじりともせずにオタマジャクシに見入っている。
段々と僕は気味が悪くなってきた。といっても、別にスクに嫌悪感を抱いたわけではなく、ただ脚の生えたオタマジャクシが妙に不格好で不気味なように思われたのだ。
何かがおかしい、何かが間違っている。そういう違和感を覚えた。別段不思議なことなど何もないのだろうけれど、薄暗く、何一つ動くものなどいないはずの水の底で蠢く異形の存在は、僕を慄かせるには十分だった。
「ずっと見てたいよね」
スクが出し抜けにそう言った。
僕は適当に頷いて、その場をあとにした。
何の理由もないのだけれど、この時僕の頭を過ぎったのは、春先に級室から姿を消したあの少年のことだった。
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