はじめてのバレンタイン

つづれ しういち

はじめてのバレンタイン

 その日のことを、俺は毎日ちらちらとカレンダーを見ながら待っていた。


 「お付き合い」を始めて、まだ三ヶ月とちょっと。

 になってはじめて迎えるその日のことを、俺はずっと、どきどきしながら待っていた。


 佐竹がいつものように、俺の勉強の面倒を見るためにうちに来てくれている。

 今年はとうとう、受験生だ。自分の勉強だってあるだろうに、ほんとにこいつには、なんて言って感謝したらいいのかわからない。

 その勉強の合い間を見計らって、俺はなるべくなんでもない風を装いながら声を掛けた。


「なあ、佐竹。えっと……節分、終わったよなあ……?」

 俺の勉強部屋のカーペット上で、テーブルの向こうに座った佐竹が、手にした文庫本から目を上げた。

「ああ。……そうだな」

 その目が「何が言いたいんだ」と言っている。俺はちょっと緊張した。

 このことを、いったいどんな風に切り出したらいいものか、ずっと考えていたんだけど。結局、上手い言い回しなんかひとつも思いつかないまま、今日という日を迎えてしまった。


「そ、そういえばさー。二月っていえば、そ、そろそろ……アレの季節だよな……?」

「…………」


 いや、ほんとは「そういえば」も「こういえば」もない。

 だってこいつ、今日は学校で散々女子から「義理」のやつとそうでないやつとを合わせて結構な数のを渡されてたんだから。みんなから押し付けられるようにして渡されたそれを、こいつはちょっと困った顔で手に提げて帰ってきた。


(……女の子は、いいよな。)


 俺はちょっと、ほんのちょっとだけ、胸の底がざりざり音を立てるのを覚えながら、こいつと一緒に電車に乗って帰ってきた。こいつが手に提げている、その紙袋をなるべく見ないようにしながら。

 こいつもわざわざ、それを俺に見せたかったわけじゃないんだろうけど。スクバに入らないもんはしょうがないもんね。で、そのまま一旦家に戻ってそれを置き、改めてうちに来てくれたってわけだ。


 え、俺?

 俺はほら……いわゆる「これは義理! 義理だからね!」って全力で主張してるようなのをほんの二、三個だよ。

 毎年そうだもん。

 それだって、まったく一個も貰えない奴からしたらものすごく羨ましいことらしいから、文句なんて言わないけどさ。


 甘いものはそんなに好きなわけじゃない佐竹のことだから、てっきり「右から左」で洋介にくれたりするのかなと思ってたけど、意外にもこいつはそれを全部、律儀に家に持って帰った。

 中には手作りのものもあるらしいから、やっぱり少しは食べてあげるつもりなのかもしれない。残りは多分、馨子さんの担当だ。


(やっぱまた……告白とか、されちゃったのかな)


 まあ、当然か。

 だって、それが主目的のイベントだもんな。

 二人きりで渡して来た子なんかは、そりゃ当然……したんだろうな。

 勿論、佐竹はいつもみたいに丁重に、かつ誠意をこめて「お断り」したんだろうけど。


(ほんと……いいよな。女の子は――)


 人前でこれ見よがしにするわけじゃなくっても。

 それでも俺が、その子とおんなじことをするにはたぶん、その子の何百倍、何千倍の勇気と、覚悟と、決意が要るから。


(俺だって……ほんとはさ。)


 中庭の隅っこ。植え込みの陰。

 体育館の裏手は、まあ定番。

 そんな場所で、放課後に。


 こいつにそれを手渡して、言ってみたいよ。

 その言葉を……言ってみたいよ。


(そんな勇気……ないけどさ。)



「……どうした」

 と、静かな声でそう訊かれて、俺は目を上げた。

「あ、……うん。なんでもないよ」

 にへっと笑って、慌ててまだ途中だった数学の問題に目を落とす。さっきから、同じ問題のところからちっとも先へ進んでない。


 こいつに帰り際に渡そうと思ってる小さな紙袋は、勉強机の引き出しの中に、もう十日も前から隠してある。

 洋介と一緒にスーパーに行って、一番甘くなさそうな、いつでも売ってる普通のビターチョコを買って。

 それをほんのちょっとだけラッピングして、前に和風雑貨の店で選んでおいた、シンプルで大人っぽいデザインのハンカチと一緒に包んで。

 「あいつには、これがいいかな、あれがいいかな」なんて。

 そんなことを考えるのが楽しかった。


 ……でも、学校でなんて渡せないから。


 と、また静かに佐竹が言った。

「そろそろ切り上げるか。今日は身が入らないようだしな」

 言ってすぐに立ち上がる。

「あ。……ご、ごめ……」


 いつもなら、「集中せんか」って覿面てきめん、雷か拳骨が落ちてくるところなのに。

 今日はこいつも、ちょっとばかり様子が変だ。


 佐竹はもう、ロングコートをまとって玄関に向かいかかっている。俺は佐竹が部屋から出てから、さりげなく紙袋を取り出して、背中にちょっと隠すようにしながらすぐその後を追った。

 佐竹はリビングにいた父さんと洋介に、簡単に挨拶をしてから玄関を出る。


 真冬の冷たい空気が一気に、全身の皮膚を締め付けるのがわかった。

 玄関ポーチには、ぼやっと暗めの電灯がついているだけだ。空はというと、もうすっかり暗くなっている時間なのに、不思議と薄明るかった。

 星が見えないのは、そこに分厚い雲があるからだ。

 その雲に、下界の街のあかりがうつっている。

 そう言えば天気予報、夜から雪とか言ってたな。


 門扉の内側で振り向くと、佐竹はひと言「じゃあな」と言った。

 いつもとまったく変わらない言い方だった。

 空気の中に、佐竹の白い息が溶け出してゆく。


 ああ、帰っちゃう。

 言わなきゃ。

 いま、言わなきゃ……!


「あ、……の!」

 その背中に、俺はやっとのことで声を掛けた。

「あの、佐竹……」

 佐竹がすぐに止まって、再びこちらを向く。


 門の外の道には、幸い今は誰も歩いていない。

 言うなら、今だ。

 今しかない。


「えっと……その。これ――」


 二、三歩あるいて佐竹のそばに立ち、背中に隠していた小さな紙袋をそっと差し出す。

 それを受け取ってくれる時、お互いの指先がほんのちょっとだけ触れあった。

 ほんのちょっとだったのに、そこは不思議と、熱を持ったみたいにぽっとなって、次にはなんだかぽかぽかした。

 それをそのまま、俺はぎゅっと握りこんだ。


 佐竹は珍しく、「何だこれは」とは訊かなかった。

 そして、ごく素直に受け取ってくれた。


「……開けても構わんか」

「あ、……う、うん……」


 そう答えるだけで、かあっと耳が熱くなってくる。

 ああ、頼むから、だれも歩いて来ないでくれ。

 いま、この時だけのことでいいから。


 佐竹はシールを丁寧にはがしてそっと袋の中を覗きこむと、ふ、とほんの少しだけ笑ったようだった。


「あ……の。ゴメンな。甘いの、好きじゃないのは知ってるんだけど。だ、だから一応、甘くないの……選んだから」

「謝るな。……ありがとう」


 佐竹の口許が、わずかに引きあがっている。

 俺はそれを見て、ほっとしていた。

 よかった。喜んでくれたみたいだ。


「うん。……へへ」


 と、ひょいと佐竹の片手がこちらへ上がって、そのまま俺の首の後ろを抱くようにして引き寄せられた。


(う、……わ!)


 何が起こったのか分からないうちに、耳に口を寄せて囁かれる。


「無論、正式な返礼は一ヵ月後だが――」


 相変わらず、低くて男っぽくていい声だ。

 とても高校生とは思えない。

 最初はただ、「怖いな」なんて思ってた、あの頃の自分のことが信じられない。


 いまはただ、どきどきして、

 もっと、ずっとそばで聞いていたいって思う声。


「少し、先払いしておいても構わんか」

「……え?」


 目を丸くする暇もなかった。

 俺はそのまま、あっという間に唇を塞がれた。


(……!)


 驚いて、ちょっと唇を開いていたせいだろうけど、そこからするっと佐竹の舌が忍び込んできて、ほんの微かに、俺の歯と舌に触れてから出て行った。

「…………」

 何が起こったのかまだよく分からず、俺はそこで固まっていた。

 そうしたら、今度はこつ、と前から額を合わされた。


 至近距離から、黒くて真っ直ぐな瞳に見据えられる。

 頭がくらくらして、なんだか何も考えられなかった。


「確かに、甘いものはそんなに好きじゃない。……だが」


 佐竹の声に、ほんの僅かに自嘲するみたいな色が混ざっている。


「これだけは……例外だ」


 そう言って、佐竹は最後にほんの軽く、もう一度だけ俺の唇に触れてから、何事もなかったかのように踵を返して、夜の街を足早に歩いて行った。

 俺は、真っ赤に茹で上がった顔のまま、あいつの背中を見送っていた。

 そうして、重大なことにふと気付く。


「あ……言い忘れちゃった」


 せっかく、言おうと思ってたのにな。

 だって最初のあの時は、なんだか半分、寝ぼけて言っちゃったみたいな感じだったし。


「……バカやろ」


 なんでこんな、いつも不意打ちばっかりなんだ。

 俺、また言いそびれちゃったじゃないか。


 ちらちらと、視界に白いものが舞い始める。

 ああ、とうとう降りだしたな。


 ちらちら降ってくる綿毛の中を、

 あいつの背中がどんどん小さくなっていく。


(ま……いいか。)


 だって、家なんて近いんだし。

 明日だってまた、学校で会えるんだし。


 いつだって、きっと言える。

 いつだって、あいつは側にいてくれるんだし。

 これが最後なんてこと、絶対ないんだから。


 だから――


 ぎゅうっと握り締めた拳をちらっと見たら、それは血の気がないぐらいに真っ白になっていた。

 さっきの「ぽかぽか」が、今は「じんじん」に変わってた。



(……やっぱ、やだ!)



 俺は、ぱっと走り出した。

 そのまま、あいつの背中を追いかける。


「佐竹……!」


 あいつは足を止めて、怪訝な顔で振り向いている。

 道にはまだ、だれもいない。



「佐竹、俺――」



 なんにもしていなくても、吐く息が霧になるような夜。


 だから小さなその言葉も、白い吐息に溶けてまぎれて。


 でも、あいつはちゃんと聞いていた。


 小さく紡いだ言葉はそのあと、

 ふわふわと舞い踊るものをとおり抜け、

 仄明るい夜空へと、静かに静かにすいこまれていった。


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