センセーは今日も眠る。
鯱原明日華
第1話 我輩の名前。
我輩は猫である。名前はすでにある。
「センセー」というのが自分の名前であるらしく、その前は確か「マタキチ」とかいう名前だったような気もする。なにぶん三年も前の話だ。どうでもいいことでもあったので、すぐに記憶は薄暗闇の中へと消えてしまっていた。
どこで生まれたのか、とんと見当はつかなかったのだが、なに、生まれて数ヶ月もすれば、最寄りの動物病院で生まれたらしいと自然と悟った。そこに働く獣医が最初に目にした人間らしいが、大して顔は覚えておらぬ。そもそも、ふさふさの毛もさして生えておらず、まぶたでさえまともに開かぬ状況で見た者のことなど、覚える方が無茶というものだ。自分が生まれた時のことを詳しく話すことなど、いくら我輩に対してでも期待すべきではない。
母の顔はまったくと言っていいほど覚えておらぬ。乳は我が母からではなく、大きな人間の手によって与えられたらしい。生まれてすぐに「ぺっとしょっぷ」なる場所に行き、そこで悠々自適に暮らしてきた。
生まれて一年も経ったころだ。我輩にもしっかりと毛が生え、愛らしい子猫として猫生を謳歌しておったのだが、はてや幸運か不運か、現在のご主人の父上の目に止まって、あっさりと悠々自適の生活から離れることとなった。
ガラス張りの我が家を離れ、我輩の新たな住処となったのは、巨大な家々の立ち並ぶ住宅街―――我輩はその時、こんなにも巨大な物が並ぶ様を生まれて初めて見た―――にある一軒家であった。
自分が買われたらしいということに気づいたのは、移動用のカゴから出され、フローリングの床に四肢をおろし、そして、
「猫ちゃんだー!」
と、突如現れた少女に抱きしめられた時だった。骨が折れるのではと思うほど強い力だったのに、自然と暴れる気にもならず、我輩はなんとも不思議な気分でされるがままになっていたのを覚えている。
思えば、あんなにも誰かに触れられるという経験は、あれが初めてであった。
耳を澄まして聞いていると、我輩はこの少女への贈り物として贈られたようだ。どうやら、自分の新たなご主人はこの少女らしいと悟る。彼女はその日、生まれてついに十一歳となったらしい。未だ一年足らずしか生きていない我輩に比べれば、えらく年寄りに見えてしまったが、彼女はむしろ同年代の人間より、ずっと無邪気で幼げであった。
まぁ、買われたこと自体は、そう悲観すべきことでもあるまい。後から知ったが「ぺっとしょっぷ」とはそういう場所であるという。
狭いガラス張りの我が家を離れ、居ついた先は広い一軒家である。天敵もおらず―――もっとも、その時の自分はまだ天敵という言葉も、天敵という存在も知らなかったのだが―――むしろ好き勝手動ける空間が増えたことは喜ばしいことであった。
我輩を不可思議な抱擁が出迎えたその数時間後、再び彼女は我輩を捕まえ、その胸に抱きしめ、脈絡なく我輩を「センセー」と呼んだ。
「今日から君の名前は『センセー』だよ。可愛いでしょ?」
我輩の名前がセンセーになったのはその時であった。果たして、その名前が可愛いのかどうかは我輩にはわからなかった。だが我輩は、後の三年間でご主人の感性はかなり変わったものであるらしいと悟ることなる。
それ以降、我輩は葛城さん家の「センセー」として、街の野良猫共に名を知られることとなった。
三年後。
「我輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたのか、とんと見当もつかぬ」
頭の上から、ご主人の甘い声が響く。読んでいるのは、夏目漱石なる者の書いた「我輩は猫である」という本らしい。どうやって猫がそんな書物を書いたのか大いに気になるところだが、きっと変わり者の猫だったに違いない。でなければ、そんなものを書こうとなんて思うはずがない。だがその猫のことは責めまい。ご主人の甘い朗読につられ、我輩も自分語りをしてしまったのだから。
「何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて……」
ご主人の声は、十四の少女にしては幼さを残している。「ニャーニャー」というところなど、そこらの雄猫は揃って振り返るだろうと思った。
そうでなくても、雄の人間はご主人に対して庇護欲を掻き立てられるに違いない。それくらい、ご主人は可憐であった。
かく言う我輩もそんなご主人を慕う一雄猫であるわけだが、そんな我輩の日課は、夕方に帰ってくるご主人の膝の上で、彼女の声を聞きながら、悠々自適と眠りにつくことであった。
「ねぇ、センセー。センセーもこんな風に、自分のことを考えるの?」
もちろんである。
そんな意味を込め、我輩は眠たげに「にゃー」と返事をした。
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