1 凶兆の獣

シンエンミ


          1


 仏に手を合わせた青年はその上に被せられていた筵を静かにめくった。金の両目が仏の姿を捉えるや否や、その大陸人めいた顔が見事に歪む。慌てて元に戻して後ろの茂みに四つん這いになると右手で口元を押さえた。その顔は鼈甲飴べっこうあめの様な黄金色の髪の先まで青ざめてしまいそうなほど青くなっている。


 そんな相方を横目に、男は淡々として仏と対面する。

 その仏の喉は大きく欠損していた。間違いなく人の仕業ではない。獣――昨夜、現場周辺で遠吠えの声を聞いていることから野犬の仕業でないかと思われている。しかし、それでは納得のいかない部分があった。他が綺麗すぎるのだ。

 爪には土が入り込み、よほど力を入れたのか少し割れていた。だが、それ以外にこれと言って目立った傷は見つかっていない。

 野犬が腹を空かせてなかったというのなら解る。それでも、『遊んだ』形跡すらないというのは不審だ。


 男は眉間を揉む。

「草薙ぃ! お前ぇさん、この程度でへばってんじゃねえ。小娘よろしくいちいち吐いているようじゃあ、情けなくていけねぇや。よっぽど、悪所の女の方が肝が据わってらぁ」

 そう言って男は額を叩いた。

「すまない。しかし、苦手なものは苦手なんだ。化野だってたこが苦手だろ? それと同じだ」

「食の得手不得手と一緒にするな。俺ぁ、蛸を真ん前にそんな青不鯛あおぶだいみてぇな顔にゃあならん」

 口元に袂を当てたまま、未だおさまらぬ吐き気と格闘していた桐辰は仏が視界に入って再び青ざめた。だが、今度は目を逸らさない。

 今一度、仏の側に寄ると膝を突いて吟味する。

「犬……ではないな。犬の顎でこんな風に食いちぎるのは無理だろう歯の痕跡を見てもこれは…猿。それもかなり大型――人に近い大きさをしているだろうな」

「羅刹か?」

 化野あだしの兵衛門ひょうえもんは、その色を窺うように相方の顔を遠慮がちに見た。しかし、考え過ぎだったようで、彼はきょとんとした顔で首を傾げている。

「……そうだな。その可能性は十分にある」

「となると、羅刹改方の奴らのヤマだな。俺達には関係ないか」

「まだ、断定できたわけではないんだ。これから引き継ぐことになったにしても、俺は手を抜きたくはない」

 真面目一徹。そして、一直線な桐辰に兵衛門は時々、尊敬の念を抱くと同時に煩わしく思うことがあった。それが今だ。

 起こった事件に対して真摯な姿勢――たとえ遺体を見るのが苦手であっても仕事はきちんとこなす――を尊敬している。しかし、面倒事には関わりたくないという思いもある。

 どうせ他部署が検分を引き継ぐのだから、自分達は特に調べずともよい。それを彼は引き継ぐまでは自分達が預かったヤマだと検分に手を抜かない。それは羨ましいほど誠実で認めてやるべき美徳であると理解はしている。


 しかし、兵衛門の信条は『いらぬ手間は惜しめ』だ。


 この点において、兵衛門と桐辰はいつも気が合わない。反対するのも馬鹿馬鹿しいので、仕方なく、最終的には兵衛門が折れるのが常だった。

「そう言えば……」

 桐辰がはたと呟いた。

「この男が守をしていた塚には何が封じられていたのだ?」

「あ? うん……港の者の話だと『申寅巳しんえんみ』様てえ神様なんだとよ。元は山神―海なのに山ってのも少々おかしいけども―か何かだったんらしいんだ。けど、凶兆の獣だとか言われて、どっかのえらく力の強い坊様に封じられたはずらしいんだが……こりゃあ、完全に解き放たれてるな」

 兵衛門はぽっかりと穴の空いた塚跡に近づくとそこにあった頭蓋骨を拾い上げた。少し大きいが、猿の物で間違いはない。その近くには狸の胴の骨があり、また、蛇の尾の骨も確認できる。

「『申寅巳』か……聞いたことがないな」

「頭も同じこと言ってたな。そうか。お前ぇさんでも判らねぇか」

 兵衛門の隣に着いた桐辰は首を傾げた。

「何故、俺でもなのだ?」

「特に理由はないが、詳しそうに見えるからか……? 何とかちゅう偉い坊主と見知りだと聞いとるが」

「坊主――白勒殿のことか? 確かに妖退治において他とは一線を画し有名な僧侶ではあるが、それと俺は関係がないだろ。世話になったのだって、お婆様が亡くなられてからの一年こっきり、今じゃあ酒蔵扱いもいいところ。その関連の話はあまり……否、しないな」

「だが、知人ではあるわけだ」

「聞いてこいといいたいのだな」

「そういうこったぁ。頼めるよな?」

 桐辰は頷いた。

 塚が掘り起こされ、塚守の男が死んだ。となると、その山神が何か関連している可能性も否定はできない。

「じゃあ、俺は引き上げるとするか」

「ふぇ……っえぇ!? お前も白勒殿のところへ同行するのではないのか?」

「変な鳴き声あげんなよ……俺は不審者の目撃情報がないか聞き込みに回る。ここは別に手が足りているだろうし任された以上は捜査に徹するのが道理なんだろ? 今は柳瀬もどっか行っちまってて使える手も足もないんだから、俺も俺なりに動くさ。だから、その間にお前ぇさんはその坊さんに『申寅巳』とやらについて知恵をもらいに行け。間違っても代御ってぇ胡散臭ぇ祓い屋の所へは行くな。あいつは金だけ取ってろくな仕事をしやしない。辻斬りの下手人は捕まらないばかりか柳瀬に怪我までさせて」

「……ユキは胡散臭いかもしれないが、けっして仕事に手を抜いたりはしない。そこは訂正しろ」

 桐辰は真っ直ぐすぎる嫌いがある。真っ直ぐすぎるからこそ、人の真っ直ぐな部分をよく見極める。

 そんな彼が怒っているということは、自分は何か曲がったことを言ったのだろう。代御という男について、知ったかぶったことを口走った。

 無知は罪ではないが、それを知覚しないことは罪である。

「訂正しよう」

 事実、彼が動いた後に同様の辻斬り事件はぱたりと止んだ。下手人は捕まらず、事件解決とまではいかなかったが、間違いなく奴は仕事を終えた。奴――代御将寿という人物は。

 結果的に彼は桐辰にかなり信用され信頼されているようだ。

「ああ……だが、俺もユキの所へ聞きに行く気はなかったよ」

 そう言って自分の肩を掴んだ桐辰は仏と対面したとき以上に蒼白な顔になり身震いした。代御将寿のいる場所には遺体よりもよほど怖い物が待っているのだろう。



          *     *     *



 神前――祭壇へと向かうのは慣れている。正しくは、かつてはそれが習慣付いていた。

 兎に角、幼い頃には、朝に顔を清めることと同じくらい当たり前のように神に手を合わせ祝詞のりとをあげていた。

 祝詞をいくら捧げようがそこに座した神が喜ばないだろうことも、よく解っている。

 彼は祭壇に積まれた沢山の供物には目もくれず、そんなものはいらぬとばかりにじっと自分を見ていた。愛おしげに、物悲しく、物惜しげに。

 それでも、主の命を粛々と守ってそこにいて祝詞を聞いていた。





 さて、今はその神はいない。目の前にあるのは白い弥勒菩薩像だ。あげるのは祝詞ではなく経典『弥勒下生経みろくかきょうしょう』に『般若心経はんにゃしんぎょう』。

 適当でも間違ってもいいから、とりあえず読めと渡された帳面には蚯蚓みみずがのったくったようなひどい文字で経文が綴られていた。

 しかし、読めたものではないのでそっと閉じた。

 だから、仕方なく空で唱えることのできる祝詞をあげることにしたのだった。破戒僧に加護を与えた菩薩だ。きっと祓詞はらえことばでも文句は言うまい。


 彼は供えられていたしきみの枝を手に取ると、その葉を一枚、香炉の中へべた。そうして居住まいを正してから祓詞を唱えはじめた。


 と、視線を感じて祝詞を止める。



「あら? 旦那じゃあ、ないですか」



 彼――将寿は濡れ縁に腰を下ろした桐辰に声をかけ、樒の枝片手ににじり寄った。

「白勒に何かご用でしたら、二・三日ばかし出っぱなしになるらしいですぜ……言伝だったら、アタシに言ってもらえりゃあ、伝えておきやすんで」

「どうして白勒が留守でお前がいるんだ? それに何故、法衣ではなく狩衣なんだ?」

 将寿は紺色無紋の狩衣に浅葱色の狩袴姿。銀色の長い髪は頭の天辺で一つにまとめてある。背後に本尊である真っ白な弥勒菩薩が見えていなければ、間違えて神社に入ってしまったかと思うところだ。

「白勒の留守番役がアタシなんですよ。けど、ここって一応寺じゃないですか。法衣を着た方がそれっぽく見えるかなって思ってはじめ――この寺に引き取られた頃だから十になる前の話だね――の内は着ていたんですけどね、これが恐ろしいほどに似合わないときた。なら、ちょうど実家が神社なのだし神職の格好をしたらいいじゃないかと思いつき、今に至ります」

 確かに、彼は狩衣がよく似合っている。

「で、菩薩に向かって祝詞をあげていたわけか」

「ええ。信心のない者に説経されるより、この不浄にまみれた本堂を清める祓詞の方がよいでしょ?」

「そういうものか……なら、この匂いは?」

 香炉から上る細い煙の筋。そこから漂ってくる甘い匂いに少しばかり嫌悪感を抱いた桐辰は袂で鼻を押さえた。

「これも浄化の意味でさぁ。樒の香を狼なんかの獣は嫌う。そこから転じて悪しきを浄化し清め祓うとされている。人はあまり不快に思わない香りなんですけど。旦那は獣なのかしら」

 いやな言い方をする。表情が薄いのが余計に疳に障る。しかし、これも将寿なりの心遣いであり、尚且つ、愛嬌なのだろう。

「鬼を不浄とするなら苦手であっても不思議じゃあるまい。まぁ、獣と言うのであれば、鼻が曲がりそうなんじゃないのか?」

「あら。嫌みに嫌みで返してくるあたり、成長しましたね。っと……それはそうと、白勒に用事があったんでしたね?」

 訪ねてきた張本人である桐辰は一瞬、惚けた顔になり首を傾げた。そして、自分が何をしに来たのかを思いだした彼は、少し将寿の側に移動する。すると、将寿の方も三寸ほどにじり寄った。

「早い話が港の防砂林の中にある塚の側で塚守の男が首を食い破られて死んでいるのが見つかった。それを行った者については傷の痕跡から、大型の類人猿か羅刹の仕業と踏んでいる。だが、塚の方が問題で……」

「塚? ……どうぞ、続けて?」

「えっと。その塚について港の者に聞いたところ、『申寅巳』という山神が封じられていたそうなんだ。それについて聞きたくてな」

 将寿は円い蒼眼で桐辰をじっと見据えた。

「封印が解かれたのかい?」

「あ、ああ。恐らく」

「いけないね。それはいけない」


 揺れる煙と回る樒の枝。甘草にも似た香りが鼻をさす。


「あれはね――」


 将寿は言葉を紡ぐ。




「――白勒が封じた『ぬえ』だよ」



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