ねこの学校

なしろねむこ

第1話 靴下が濡れた

 今日は厄日だ、と佐藤あいは思った。濡れた靴下を両手で持ちながら、素足で上履きを履く。

 そもそも、休み時間に友人たちと「廊下を靴下で滑る」なんていう遊びをしたのが間違いだった。スロープになっている廊下を思い切り滑ったあいは、休み時間に廊下を掃除していた、隣のクラスの生徒が片付け忘れていたらしいプラスチックのバケツに、思い切り躓いたのだった。生憎バケツの中には、雑巾を洗ったのであろう薄汚れた水が入っていて、盛大にバケツを倒したあいは、履いていた白いソックスを汚す羽目になった。


「最ッ悪……」


 誰かを責めようにも、廊下を滑る遊びを提案したのは紛れもなくあい自身だった。あいがバケツを倒してびしょ濡れになっている様を見て、友人たちはげらげらと笑っていた。スロープの上の方から校内に笑い声が響く。それが余計に、あいの機嫌を損ねていった。


「自業自得だね」

「バケツは片付けておいてあげるよ」

「靴下と自分の足、洗っておいで」


 友人たちは口々にそう言うと、びしょびしょの靴下を両手に持って立ち尽くしているあいを置き去りに、すたすたと用具室の方へ歩いていってしまった。「ちょっと待ってよ!」というあいの声にも、友人たちはひらひらと手のひらを振るだけで、彼女たちの背中は次第に小さくなっていった。蛇口の並ぶ水道場は、用具室とは反対方面だ。あいは「ああー、もう」と独り言を吐き捨てながら、とぼとぼと水道のある場所へと向かった。

 靴下を履いていないせいで、少し足元に違和感を覚える。いつもより僅かに緩い上履きをぺたぺたと鳴らしながら水道場へ向かう途中、あいは「なんであんな遊びをしたんだろう」と過去の自分を恨んだ。普段なら、休み時間は友達と喋っているか、寝ているか、終わっていない宿題を片付けるかして、とにかく教室からなんて一歩も出たりしないのに。


「……なんで、あんなことしようと思ったんだっけ」


 確か、事の発端は誰かの口から飛び出した「つまんない」の一言であった。

 今日も、あいは友人たちと昼食を食べ終えたあと、教室でぐだぐだとしていた。昨日のテレビのことや、さっきの授業中にあった先生のミスのことや、隣のクラスに新しくカップルが出来たらしい、なんてことをだらだらと喋っていた。普段なら、ちょうど話題が尽きる頃に五時間目を知らせる予鈴が鳴るのに、今日はどうしてか、予鈴よりも随分早く、グループの話は尽きていた。

 誰が言い出したのかは覚えていない。でも確かに、誰かが言ったのだ。


「うちら、いつも同じことしてるよね」

「喋るか、寝るか、宿題やるか」

「毎日、普通だね」

「なんか、つまんなくなってきた」


 普通だった。とにもかくにも、あいの日々は普通だった。でもそれを抜け出す術なんてあいは知らなかったし、あいにとって普通というものは楽だった。だけど、少しだけ、つまらないような、気もしていた。そんなことを言い出したら、友人たちから変だと思われるかもしれないと考えていたから、あいは今まで「普通」を「普通」に楽しんでいた。しかし、その友人たちも日々がつまらないのだという。ならば、とあいは思った。だから、あいは言ったのだ。


「……なんかして、遊ぶ?」


 多分、あいはなりたかったのだ。どこか、「普通じゃない」存在に。


「そりゃ靴下が濡れて裸足で上履きを履くなんて普通じゃないけどさ」

 

 季節はもうすぐ冬だ。少し肌寒い空気、蛇口から溢れ出る水も冷たく感じるようになってきた。水道場に着いたあいは、汚れた靴下をばしゃばしゃと洗い、ついでに自分の両足もおざなりに洗って、ポケットから取り出した薄手のハンカチで水滴を拭いた。

 そのとき、なんとなく背中に気配を感じて、あいはくるりと後ろを振り返った。ざわ、と風の音がする。

 人は、誰もいなかった。ただ、猫が一匹、あいの視界を横切った。黒い、凛とした、猫だった。


「……校内で猫なんて飼ってたっけ」


 黒猫はあいのことなど気にもせずに、すたすたとどこかへ行ってしまった。

 そういえば黒猫が目の前を横切るとよくないことが起きるんだっけ、とあいは日本の言い伝えを思い出したが、休み時間の終わりを告げる予鈴が校内に響いたおかげで、そんなことはすぐに忘れてしまった。びしょびしょの靴下をぎゅっと絞って、両手でそれを振り回しながら、あいは自分の教室へと向かった。


 濡れた靴下をどうしよう、なんてことを考えながら、あいは自分の教室のある三階まで階段を上っていた。すると突然、あいと何かがすれ違った。階段を上るあいとは反対に、何かが階段を下って行ったのだ。あいは不思議に思った。すれ違ったのが人であるなら、少なくとも視界に入るはずなのに、あいの視界にはすれ違った相手がうまく映らなかった。その気配だけを、あいは感じたのだ。


「……誰?」


 あいは慌てて振り返った。後ろにはもう何もない。上りかけた階段を慌てて下る。二階の踊り場を曲がったとき、あいはその足をぴたりと止めて「あっ」と声を上げた。


「……ね、ねこ」


 そこには、普通は校内にいるはずのない、猫の姿があった。しかも、五匹以上も。

 なんでこんなところに、とあいは思った。さっきすれ違ったのは猫だったのだ。どうりで視界に入らないわけだ。猫はあいの足元を颯爽と走り抜けていったのだった。


「これ、先生に言った方がいいよね」


 野良猫が校内で繁殖している、なんてありえないことだ。住みつかれては困るし、早いところ対処しないとまずいことになりそうだ、とあいは思った。

 あいは再び三階まで階段を上り、自分の教室を目指した。五時間目の始まりを告げる本鈴の音が校内を支配する。五時間目は確か数学だったかな、とあいは考えながら、がらりと教室の扉を開けた。


「あの、先生、西階段の二階の踊り場に、なぜか」


 猫がたくさんいるんですけど、と続けようとしたところで、あいはことばを失った。開けっ放しの窓から入る冷たい風が教室を巡って、薄汚れたカーテンをざあざあと揺らしている。


「っえ、」


 あいは息をのんだ。

 扉を開けた先の教室に、クラスメイトはいなかった。代わりに、クラスメイトと同じ数だけの猫が、机と椅子の並べられた教室を、所せましと占拠していた。

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