第1話 「それでも世界は回る」(後編)

「いってきます」

「いってらっしゃいませ」


 お決まりの挨拶を口にして、月子に見送られながら家を出る。閉まった鉄扉によって月子と隔てられると、周はほっとため息を吐いた。


 月子のことが好きな自分に気づいて以来、周は彼女と上手く接することができないでいた。それ故に、こうして物理的に距離をとると安心してしまう。


「まいったな……」


 そして、未だ解決は見えてこない。


 とは言え、厄介ごとを抱えていても新学期ははじまる。周は学校へ向かうべくマンションの階段を下りた。


 4階分の高さを垂直方向に移動。エントランスを出るとそこに、入り口を飾る植え込みに向かってしゃがんでいる古都翔子の姿があった。一瞬体の具合でも悪くして座り込んでいるのかと思ったが、どうやらこのマンション付近に住みついている野良の黒猫を撫でてやっているようだ。


「よ、翔子ちゃん。おはよう。何やってんだ?」


 見ればわかることを聞くのは、会話をスムーズにはじめるためだ。


「あ、周くん。おっはよー」


 翔子は黒猫を撫でる手はそのままに、体をよじって、あいている手を上げて応えた。天真爛漫な笑顔だ。


「一緒に遊んでるの。ねぇ~」


 そうしてから再び視線を落とし、黒猫に同意を求めるようにして言った。


「懐いてるんだな」

「うん。まぁね」


 黒猫は翔子にされるがまま首の下をくすぐられ、気持ちよさそうにしている。


 しかし、翔子にはこの通りだが、これが月子になると態度は一変し、なぜか敵意剥き出しで威嚇をはじめる。月子が食べものを持って近づいてもそれなのだから、不思議なものである。月子自身は猫好きらしいのだが、いったい何がそうさせるのか。


 不意に翔子が立ち上がり、周に見せるようにして猫を抱え上げた。


「因みに、名前は猫カイザー」

「えらそうな名前だな、おい」


 何がどうカイザーなのだろうか。


 すると突然、翔子は黒猫の前肢のつけ根を持ち、


「猫カイザーぱーんちっ」


 てし、と猫の足で周にタッチした。かわいらしい肉球のスタンプでもつきそうだ。


「続けて、猫カイザーきっく」


 てし。

 今度は後ろ足だ。


「そして、猫カイザー必殺の……ドリルしょーてー」


 てっし、と両の前足でタッチ。


「……」

「……」


「やられてよ、もぉ」

「あ、うん、ごめん。ノリが悪くて」


 猫カイザーは正義の味方だったらしい。


 翔子は抱えていた黒猫を、そっと優しく地面に下ろした。猫カイザーの名を与えられた猫は特に行く当てがなかったのか、そのままその場に座り込んでしまった。


 翔子が周に向き直る。


「昨日、あれからどうだった?」

「……どうって?」


 一見して曖昧に過ぎる質問に、周は問い返す。


「月子さんと何か話した?」

「話した。ただし、翔子ちゃんが期待してるような話じゃないけどな」

「むー」


 翔子はふくれっ面で、責めるような眼差しを向けてくる。要は「もたもたしてないで早く告白しろ、このやろう」と言っているのだ。


「のんびりしてて手遅れになってもしらないんだから」

「ん。そうだな」


 別に翔子は単なるお節介や面白半分で周を急かしているわけではない。聞いた話によると、翔子にも好きな異性がいたのだが、自分の気持ちを伝えるのに足踏みしている間に、その相手に彼女ができてしまったらしい。


 翔子は自分と同じ轍を踏ませまいとして、周に言っているのだ。


 他方、周はというと、果たして自分がどうするべきなのか、未だに決めかねていた。たかだか十六の高校生が年上の女性に何かを求めていいものか。そして、反対に何かを求められても、自分がそれに応えられるだけの人間であるとも思えない。


 そんな考え込む姿が優柔不断な態度に映ったのか、ふと見ると翔子の目がさらに厳しくなっていた。


「えっと、俺、そろそろ行くけど、翔子ちゃんはどうする?」

「あ、先に行ってて。実はわたし、お姉ちゃんを待ってるところなんだ」

「りょーかい」


 どうやら翔子は、本日は大学生だという姉と途中まで一緒に行くらしい。このままここにいれば、今まで見たことのない翔子の姉に会えるということか。それはそれで一大イベントだが、特に話すこともないので、顔を合わせたところで微妙な空気を生むだけだろう。


「じゃあ、先に行ってる」

「うん。また学校でね」


 とは言うもののクラスが違うので、本当に学校で会うかどうかは不明だが。


 周は翔子に見送られながら、学校へと足を踏み出した。





 9月に入って多少暑さも和らいだとはいえ、15分も歩き続ければやはり暑い。学校に着く頃には、周はすっかりだれてしまっていた。


 校門には風紀委員が何人か立っていた。この時間だと予鈴が鳴るのはまだ先だから、まずは登校する生徒の服装のチェックだろう。新学期初日からよくやる――と周は思ったが、むしろ始業式のある初日だからこそなのかもしれない。


 そして、かなり接近してようやく見えてきたのが、護星高校生徒会会長兼治安維持部隊隊長、竜胆寺菜々ちゃんの小さな体だった。


 このおそらく1年から3年までひっくるめてもいちばん小柄であろう最上級生は、風紀委員と並んで登校する生徒を見守り、挨拶に挨拶を返していた。


「おはよー、菜々ちゃん」

「おはよー」


「菜々ちゃん会長、おはようございます」

「はい、おはよう」


「菜々ちゃん、ちゃんとラジオ体操行った?」

「まかせて、皆勤賞よ」


「会長、バタフライできるようになった?」

「休みの間けっこう練習したんだけど、どうもね……」


 相変わらず妙なやり取りが混ざっている。菜々ちゃんが生徒から愛され、慕われているのは確かなのだろうが。


 やがて周も校門をくぐる。服装に問題はないので、風紀委員の目を恐れる必要はない。

 周はチェックに目を光らせる風紀委員の前を通り、


「菜々ちゃん会長、ちゃんと宿題やったか?」

「待ちなさい、鷹尾」


 菜々ちゃんに捕まった。


「あんた、あたしのこと小学生だと思ってるでしょ」

「思ってねぇよっ。ていうか、俺だけ捕まるのかよ!? 他のやつと言ってることはたいして変わんねぇだろ!?」


 ロックオンされているとしか思えない理不尽さだ。


 しかし、周りでは「アホだな」「またあいつかよ」などと、囁き声が通り過ぎていく。誰も助けてはくれなさそうだ。


「で、何か申し開きはある?」

「……いや、ないっす」


 どう自己弁護しても無駄だろうと思う周。


「ふうん」


 菜々ちゃんは感心したような声を上げた。


「素直じゃない。まぁ、いいわ。鷹尾には休み中にお昼を食べさせてもらったしね。今日は大目に見てあげるわ」

「……」


 むりやり因縁ふっかけておいて、一方的に恩を売ったようにしか思えない展開だ。


 周は思わず深いため息を吐きそうになった。解決しない問題はあるわ、毎度のようにからんでくる生徒会長はいるわ。どうにも面倒なことが多い。


 すると、唐突に菜々ちゃんが言った。、


「む。鷹尾、なんか雰囲気変わったわね」

「そうですか?」


 そんなことを言われても自覚はない。もしそう見えるのだとしたら、きっと心労のせいだろう。校門をくぐってから一気に疲れた気がするし。


「さては彼女ができたわねっ」

「ち、違ぇよっ! こんな人通りの多いところで、なに言い出すんだ、このちびっ子は!」

「誰がちびっ子よ!?」


 瞬間、菜々ちゃん怒りのハイキックが閃いたが、周は辛うじて腕でブロックした。ずびしっ、と愉快な音が響く。


「でも、その反応を見ると、当たらずとも遠からずってとこね」


 周は菜々ちゃんとふたりで、校門を入ってくる生徒の流れから少し離れた。何を話しているのだろうかと、怪訝そうな目を向けつつ生徒が通り過ぎていく。


「となると、片想いってとこかしらね」

「……」


 時々嫌な感じに鋭い。


「どうせ鷹尾のことだから、好きだとも言えずにもたもたしてるんでしょ。いいわ。年上としてアドバイスしてあげる」

「あ、そう言えば菜々ちゃん会長って年上……いえ、何でもないっす」


 言いかけた途中で睨まれ、そのまま言葉を飲み込んだ。


「そういうときは何か目標を決めるの」

「目標、ですか?」

「そ。これができたら告白する、みたいなね。そしたら自分に自信が持てて、勢いがつくでしょ?」


 なるほどと思わなくもない。


 確かに思い返してみれば、こうして足踏みをしているのも自信のなさからきているのかもしれない。月子に釣り合うかどうかという自信のなさ。月子が求めるものに応えられるかどうかという自信のなさ――。


「『俺、これができたら彼女に告白するんだ』……」

「俺を殺す気かっ!」


 死亡フラグまっしぐらだった。


 真面目に聞いた自分が馬鹿だったと、後悔の波が怒涛のように押し寄せる。


「菜々ちゃん会長はどうなんですか? 休み中、そういうのはなかったんですか?」

「え? あ、あたし? ……な、ないに決まってるじゃない、そんなの」


 菜々ちゃんはエラそうに腕を組みながら言うが、顔はそっぽを向き、台詞もところどころ噛んでいた。


 と、そのとき、


「よォ、何やってんだ?」


 現れたのは生徒会執行部の雑用(ボランティア)、九条だった。


「い、いやぁっ! あんた何でこのタイミングで出てくるのよっ!?」


 叫ぶと同時に菜々ちゃんは、振り向きざまに上段回し蹴りを放った。九条はそれを、すっと身を引いて避ける。さらに続く後ろ回し蹴りは、屈んでやり過ごした。


「んなこと言われても、俺はただ登校してきただけなんだけどな」


 そして、何ごともなかったかのように会話を続ける。


 その横では周が、瞬きのうちに繰り広げられた目を見張るような攻防に、唖然としていた。


「内輪の仕事が片づいたからって、はしゃいでられるほど余裕はないと思いますがね。あと少しとは言え生徒会の任期は残ってんだし」

「む。そうだったわ。今日の始業式のこともいろいろ確認しとかないといけないわね」


 そこで菜々ちゃんは視線を上げ、校舎の壁についている時計を確認した。そして、周の方へ向き直ったとき、そこにあったのは生徒会長の顔だった。


「そろそろ戻るわ。鷹尾、あんたも式に遅れず出てくるのよ。本鈴が鳴ってからダラダラ出てくるんじゃなくて、時間にはちゃんと整列しとくの。いい?」


 びしっと言い放ってから、菜々ちゃんは九条とともに昇降口へと消えていった。


「……」


 後にひとり残される周。

 所在なさげに頭を掻く。


 相変わらず菜々ちゃんが絡むと、周の意志とは無関係にことがはじまって、勝手に収束するらしい。


 しかし、それでもひとつわかったことがある。

 それは、何もしなくても世の中は動いているということだ。周が足踏みをしている間にも、周りは確実に動いている。現状を変えたければ、結局は自ら動くしかないのだ。


 かくして周の中に小さな決意が芽生えることとなった。

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