第9話 「夏休みのはじまりの日に」(後編)

「ただいまー……」


 と、炎天下の中、汗だくで半分溶けた状態の周が帰ってきたのが午前11時半。きれいにそろえる気などさらさらないような動作で靴を脱ぎ飛ばす。


「お帰りなさいませ、周様」


 玄関を上がった廊下の突き当たり、リビングのドアからメイドの月子が顔を出した。いつもの光景だ。


「あ、月子さん、いたんだ。いや、いつも通りに帰ってきてこんなことを言うのも何だけど。……大学は?」

「休みです。今日は」


 月子は周が脱ぎ散らかした靴を見て、小さくため息を吐いた。


「私も驚きました」

「何で?」

「せっかく学校が半日なのだから、てっきり友達と遊んで帰ってくるものだと思っていました」


 そして、月子は目を半眼にして、


「友達いないんですか?」

「いるわっ。みんな用事があって人数が集まらなかったんだよっ」

「つまり特に何の用事もなく暇を持てあましていたのは周様だけだったと?」

「俺だけじゃねぇよっ」


 いちいち引っかかる言い方をするメイドさんである。


「言っとくけどな、帰りに翔子ちゃんから誘われたんだぞ」

「……む。それでどうしたんですか?」


 ずいぶんトンチンカンな質問だ。今ここに周がいるのだからどうなったかわかりそうなものだ。


「向こうは女の子ばかりだったからな。断ったよ」

「賢明な判断です」


 月子はきっぱりと言い切った。


「今日の周様は計都星とラゴウ星のコンボで暗剣殺です。その誘いを受けていれば、きっと帰りには過積載の10トントラックあたりに轢かれて、全治6ヶ月だったことでしょう」

「怖いこと言うなっ」


 何が怖いって、それでも死なせてもらえないところが怖い。


「わけがわからんわ」


 周は月子に背を向け、自室へと入った。


 まず真っ先にエアコンのリモコンを掴み、冷房を稼動させる。それから月子が掃除をしたときに開けたのであろう窓を閉めた。そうしてから制服を脱ぎ捨て、私服へと着替えた。汗を吸った洗濯ものはまとめて脱衣所の洗濯籠に放り込み、そのままリビングへと入る。


 そして、またもエアコンのスイッチを入れた。


「月子さん、麦茶くれー」


 リビングの座椅子にどっかと腰を下ろしながら言う。とても偉そうだ。それでも月子はその点に関しては文句は言わなかった。


「それはかまいませんが、部屋のエアコンは切ってきましたか?」


 気になるのはこちら。


「いんや?」

「誰もいない部屋につけていても電力の無駄です。すぐに消してきてください」

「いいじゃん。部屋に戻ったときに涼しくていいんだよ」

「お昼は鍋焼きうどんでよろしいでしょうか?」

「消してくる」


 周は跳ねるように立ち上がり、自室へ駆け出した。その背を見つめながら、月子は盛大なため息を吐いていた。





 周が部屋のエアコンを消してリビングに戻ってくると、テーブルにはすでに麦茶が用意されていた。きれいな半透明の氷がふたつ浮いていて、実に涼しげで美味しそうだ。


「周様」


 さっそくそれを飲んでいると、横に月子が立った。


「周様は明日から夏休みですね」

「ん、そう。今日の終業式をもってめでたく約40日の夏休みに突入。学校から解放されて気分は最高にハイってやつだ」

「そうですね。私もいかにして周様に規則正しい生活を送らせようかと、腕が鳴ります」

「……」

「……」


 周は麦茶のコップをそっとテーブルに置いた。


「どうかしましたか?」

「いや、急に夏休みに暗い影が差した気がして……」

「気のせいでしょう」


 さらりと流す。


「それは兎も角、本題です」


 と、月子も腰を下ろして、テーブルについた。周が座ってる場所から90度写した、斜め前の位置だ。フローリングの床にロング丈のスカートが広がる。


 何となく周も座り直して、心持ち背筋を伸ばしてしまう。


「実は私の方の学校が夏休みまでまだもう少しあるのです」

「あ、そうなんだ」

「はい。7月いっぱいは前期の試験があります。なので、周様が家にいるのに、メイドの私が私用で出かけるといった状況が少し続くことになるのです」

「そういえばそうだな。そうなるか」


 兼業メイドの辛いところだ。


 周は、これはチャンスだと思った。自立した生活を目指して家を飛び出したわりには、いきなり月子に居座られ、当初の意義と目的は有耶無耶になってしまっていた。ならば、ここで少しの間でもひとり暮らしに近い生活を実践すべきだろう。


 ついでに口うるさいメイドから解放されて、ひとりのんびりできるのが嬉しい。というか、どちらかと言うとこっちの理由のほうが支配的だ。


「というわけですので、私がいない間、周様は一歩も外へ出ないように」

「待て、こら」

「もちろん、冗談です」


 と言うわりにはちっとも笑わない月子。


「私としてもできる限りのことはしていくつもりですが、それでも周様に不自由をさせる部分が出てくるかもしれません」


 しかし、今度は申し訳なさそうに言った。


「あ、いや、うん、気にしなくていいから。たまにはそういうこともあっていいんじゃないか。普段から月子さんはちゃんとやってくれてるし」

「い、いえ、そんなことは……」


 月子は消え入るような声で言って、視線を落とした。


 しばし沈黙。

 何となく落ち着かない空気が流れる。


「え、えっと、それでは後で預かっていた鍵を返しますので、出かけるときは戸締りを忘れないようにしてください」

「了解」

「暑いからって家中のエアコンをつけっぱなしにしないように」

「わかってるって」


 さっき注意されたばかりだ。周は苦笑しつつ答える。


「それから私の部屋には入らないように」

「……おおっ」


 思わず周は手を打った。


「『おお』、とは?」

「あ、いや、別に……」

「まさか、それはいい考えだと思ったとか?」

「ソ、ソンナコトハナイゾ?」


 なぜかぜんぶカタカナだった。


「……」

「……」

「……」


「お昼は鍋焼きうどんです」

「なぜ!?」





 幸いにして昼食は無難なところでソーメンに落ち着いた。


 そして、時間は飛んで――、

 夜。


 午後7時過ぎ。

 夕食後、周が自室で夏休みの課題の触りに手をつけていると、


「周様」


 控え目なノックの音とともに月子の声がした。


「なに、どうかした?」

 ドアを開けて、周は少しばかり驚いた。


 そこに立っていた月子は私服だった。

 夏らしくTシャツにデニムのロングパンツという出で立ち。家では基本的にエプロンドレスなので、私服でいることは珍しい。ならば何か理由があるのだろう。


「今、学校の友人から電話がありまして、急に会うことになりました」

「あ、そう……」


 何となく月子を直視しづらくて、目を泳がせながら返事をする。


「急なことで申し訳ないのですが、ちょっと出てきます。そんなに遅くはならないと思いますが……」

「いや、いいよ。俺のことは気にしないで行ってきてくれ」

「すみません」


 月子は軽く頭を下げてから、玄関の方へ向きを変えた。


「……」


 その背中を見ながら周はしばし考える。


「月子さんさ――」

「はい?」


 再びこちらを向いた。


「その友達って……」


 男? 女?――そう聞こうとして言葉を飲み込んだ。それを知ってどうしようというのか。そんな質問に何の意味もない。


「いや、何でもない。もう夜だから気をつけて」

「大丈夫ですよ」


 そう言う月子の言葉にはかすかに笑みが含まれていた。


「電車でふたつほど行った、駅前で会うことになってますから」

「そっか。……えっと、その……いってらっしゃい」


 それは今まで常に見送られる側だった周にとっては、あまり言い慣れない挨拶だった。おかげでどうにもぎこちなくなってしまう。


「あ、はい。い、いってきます……」


 そして、それは月子も同じだったらしい。ぱたぱたと駆け足で、逃げるように出て行った。


「……」


 月子のいなくなった廊下で、周はひとり頭を掻く。もう少し自然に言えんのか、俺は……。


「ぃよし。テレビでも見るか」


 わざわざ発音して、気持ちを切り替える。

 はからずも1日早く手に入ったひとりの時間を満喫しようとリビングへ向かう。


「っと……」


 が、しかし、その足が止まった。

 一旦引き返し、自室に戻ると、点いたままだったエアコンを切る。これでよし。


 そうしてから周は改めてリビングへ足を向けた。





 ……。

 ……。

 ……。

「ぶえっくしょぃ」


 周は自分のくしゃみで目が覚めた。

 どうやらテレビを見ながら寝てしまっていたらしい。当然テレビは点けっぱなし。


「寒っ」


 エアコンはバカみたいに設定温度18度で絶賛フル稼働中だった。


「エアコンは兎も角、テレビは絶対に月子さんに怒られるな」


 そうつぶやいて気づく。


「あれ? まだ帰ってないのか?」


 リビングとダイニングキッチンを見回す。月子の姿はない。


 次に見たのは時計だった。間もなく午後10時。月子が外出して3時間ほどがたとうとしている。問題はその3時間という経過時間ではなく、今が午後10時だという点だろう。


 信じがたい思いで立ち上がり、向かった先はリビングから通じる月子の私室の前だ。


「月子さん?」


 ドアの向こうに呼びかけてみる。が、返事はない。

 一瞬開けてみようかと思い、ドアノブに手をかけたが――結局、やめた。月子に入るなと言われていたし、それ以前に人の気配がなかった。いないのは確実だ。


「ま、遅くなってんだろ」


 周は再び座椅子に腰を下ろし、テレビに目を向けた。


 が、どうにも気分が落ち着かない。それを振り払うように画面を凝視してみるのだが。


 ……。

 ……。

 ……。


 本当にただ凝視しているだけだった。こんな親の仇を睨みつけるかのような顔でテレビを見る人間もそうはいまい。番組の内容はまったく頭に入ってこなかった。


 再び時計を見る。


「10時か……」


 無駄に力んでテレビを見ていただけで、時間はほとんどたっていなかった。そのまま時計を見つめて考える。


 何かあったのか……?


 しかし、思い返せば、電車に乗ってその先の駅前で会うと言っていた。そうそう何かあるとも思えない。


「でも、電車に乗るまでは歩きだよな」


 このマンションから駅までは徒歩で15分程度。その間に何もないとは言い切れない。しかも、最近は正体不明の怪人が出るという噂まである。まぁ、尤も、その噂は真偽のほうも不明なのだが。


「……」


 周は考え込む。


 目はどこにも焦点を定めず、宙を見つめる。耳でははじまったばかりの報道番組の音を拾っていたが、その意味までは脳に伝えていなかった。


 ……。

 ……。

 ……。


「よし。駅前のレンタルビデオ屋に行くか」


 ようやく出てきたのがそれだった。どうやら複数の感情が複雑に絡み合った結果のようだ。


 そうと決まれば次の行動は早い。月子に言われたように戸締りをして、家を出た。いつもより早足でマンションの階段を下りていく。


 と――、


「あ、周君だ。今からお出かけ?」


 古都翔子だ。階段の下から見上げるようにして、周に笑顔を向けてくる。どこかの美少女コンテストで準優勝したという実績に違わぬ魅力的な笑顔だった。


「ぶはっ、翔子ちゃん。そっちこそ今帰ってきたのかよ」

「カラオケ9時間ぶっ続け。歌いまくりぃ」

「タフだなぁ、おい」


 呆れるやら感心するやら。


 周は止めていた足を再び前に進めた。


「あ、やっぱり出かけるんだ。もう夜も遅いから危ないよ?」


 今帰ってきた人間が何を言うかとも思うが。


「危ないかな?」

「と思うよ?」

「そっか。……じゃあ、行ってくる」


 そう言って周はさっきよりも力強く、迷いなく足を踏み出した。翔子はそれ以上追及することなく、黙って見送ってくれた。





 マンションのエントランスを出ると、駐輪場から自転車を出した。

 駅までの道のりは、最初は住宅地。はやる気持ちもあったが、あたりに目を配りながらゆっくりめに走った。異常はなし。


 駅も近くなり、大きな通りに出ると、不安に背中を押されるようにして一気に駅まで自転車を飛ばした。


 辿り着いたそこは周が初めて見る風景だった。夜遅い時間だというのも当然ある。だが、見慣れたショッピングモールやスーパーが閉まっていて、いつもと違った姿を見せているのが大きな理由だろう。それこそ開いているのはレンタルビデオ店やコンビニエンスストアくらいか。


 人通りは決して少なくはない。しかし、駅を目指す人、逆に改札を出て家へ帰る人。コンビニへ買いものにきた人。誰もが脇目も振らず真っ直ぐに目的地を目指しているように見えた。所詮は他人の集団なのだと思い知らされる。


 周が駅に着いたとき、丁度電車が到着した直後だったようで、まとまった人の塊が改札口から吐き出されていた。


 そして――、


「げ」


 その中に月子の姿もあった。


 別に「げ」というほどのものでもないのだが――なぜか焦る周。隠れるべきか引き返すべきか迷っていると、月子の視線がぴたりとこちらに合わせられた。見つかってしまったようだ。


「周様」


 駆け寄ってきた。


「どうしてここへ?」

「あ、いや、別に……」


 と、周が言葉に詰まっていると、月子は何かに気がついたようだった。


「もしかして、その……」

「ち、違うぞっ。月子さんを心配して迎えにきたわけじゃなくてだな……」


 浅めの墓穴を掘ったような気がしないでもない。


「えっと、何だっけ……あぁ、そうだ。レンタルビデオ屋にきたんだ」

「レンタル……?」

「そうっ。そうなんだ。せっかく月子さんがいないだろ? だったら、こういうときにしか見れないものを――おぶっ」


 炸裂する地獄突きヘル・スタッブ


 墓穴を掘っておいて自爆するとは、なかなかセルフサービスが効いている。


「いったい何を見るつもりだったのでしょうか? というか、そういうのはまだ借りられない歳では?」

「誤解だっ。ホラーだよ、ホラー映画っ」

「……」


 半月みたいな半眼で疑いの眼差しを向けてくる月子。こっちの方がよっぽどホラーだ。


「ああっ、もういいっ。帰る!」

「ホラー映画はもうよろしいのですか?」

「そんな気分じゃなくなったんだよ」


 そりゃあリアルホラーに遭遇したら、作りものホラーなど霞んでしまうというものだ。


 周はやけっぱちな勢いで言って、自転車の向きを変えた。バレバレな嘘を吐き通すというのもなかなか大変なものである。


 歩き出した周の後ろに月子も続いた。


「周様」

「んだよ?」


 不貞腐れ気味の返事。


「すみません。ご心配をおかけしました」

「……」

「……」

「……いい」


 周は降参したような気分で答えた。


「でも、次からは遅くなるようなら連絡くれよな」

「はい」


 短いやり取りの後に訪れる沈黙。


 少し歩いてから、再び月子が口を開いた。


「でも、周様こそ私の携帯にかけてくださればよかったのに」

「……あ」


 そういえばそうだと、ようやく気づく。確かにそれがいちばん手っ取り早い。


 後ろで月子がかすかに笑った。


「そんなに慌てましたか?」

「ち、違っ……別に慌ててなんか……」

「そうですか、そうですか」


 どういう意味の「そうですか」なのかわからないが、月子はくすくすと笑ながら何度もうなずく。


「……」


 どうにも劣勢。主張は聞き流されているようだ。


 仕方ないので周は沈黙を守る。

 黙秘権発動だ。


 尤も、この場合、沈黙は全肯定のような気がしないでもないが。

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