第8話 「たぶん平穏な一日」
「おはようございます、周様。朝です。起きてください」
鷹尾周の一日はメイドに起こされるところからはじまる。
ついでに言うと、この物語の各エピソードはたいていこの場面からはじまったりする。
それはいいとして。
「あと二十分だけ寝かせてくれ……」
布団を口元まで引き上げ、背を向ける周。
「清々しいほど豪快な要求ですが却下です」
「眠いんだよ。昨日、わりかし遅くまで勉強しててさ……」
「知っています。だからと言って、あと二十分も寝ていては遅刻します」
「朝飯抜いて、学校まで走りゃ大丈夫だよ」
エネルギィ補給もなしに運動。
睡眠欲が勝っていて頭が回っていないのか、かなり死ねそうなプランである。
「そうですか。朝食はいらないというわけですか……」
「そんなのより今は睡眠」
「……」
月子の表情にぴくりと反応するものがあった。その口から「そんなの……」と言葉が漏れる。
が、こみ上げてくるものを何とか抑え込んだ模様。
「それは周様の健康管理を任されている身としては許容できません。よって、最終手段に出ます」
「……」
反応なし。
いつもならこのあたりで起きてくれるはずなのだが。
月子は頭の中でざっと計算してみる。確か昨夜は午前2時過ぎに蛍光灯が消えたのを確認している。もしかしたら夜食が必要になるかもしれないと、月子も起きていたのだ。単純に睡眠時間は5時間弱程度。平均より短い。
だからと言ってこのまま寝かせておくわけにもいかない。
月子は深いため息を吐いた。
「周様、起きてください」
もう一度声をかける。
「うー……」
今度は返事があった。唸っただけだが。
周は外界の雑音から身を守るように、さらに布団を引き上げた。もう髪の毛しか見えていない。
そんな周を見下ろして、月子は再び嘆息した。
「まったく。今からそんなことでどうしますか。いい加減な人は女性に相手にされませんよ」
ほんの少し、表情を緩めて言う。
それは周に聞かせるための言葉ではなかった。周を姿を見て思わずこぼれた、むしろ独り言に近い。
が、どういうわけかそれは周に聞こえていたらしい。
「別にいいよ。そのときは月姉が一生面倒見てくれ……」
「……は?」
瞬間、凍りついた。
今のは何だ。月子は考える。
考える。
考えて、
考えて、
ひゅー……ばた――
直立のまま、周の上にぶっ倒れた。
「うおっ。何だあっ!」
周は突然自分の身に降りかかってきた重みに飛び起きた。
図らずも周を起こすことに成功。
代わりに月子がオーバーヒートで機能を停止したが。
その日の夕刻――、
本日もつつがなく学業を終え、周は帰路に着いた。
「ふぁ~」
大きな欠伸をひとつ。
結局、睡眠不足による眠気は一日中つきまとい、口を開ければ欠伸が出るような状態だった。興が乗ったからといって遅くまで勉強しても、その後がこれではお世辞にも効率がいいとは言えない。
マンションが近づいてくると、同じフロアに住む古都翔子がその前でしゃがみ込んでいるのが見えた。
「何やってんだ……」
首を傾げるが、そばまできてようやくわかった。どうやら猫と遊んでいるらしい。
「よっ。野良猫か?」
「ですです」
「ふうん……」
猫は差し出された翔子の掌に、げしげしとパンチを繰り出していた。
黒猫だ。
(猫と戯れる美少女。なかなか絵になるな)
そう思いながらひとりと一匹の横をすり抜け、エントランスへ進んだ。
とりあえず集合ポストの中を覗いてみる。空だ。
ひと足早く帰っている月子が郵便物を回収していくので、基本的にポストはいつも空で、タイミングによって新聞の夕刊が残っているくらいである。
無意識的に月子が帰っているかを確認しているのかもしれない。
階段で4階まで上がった。
「ただいまー」
ドアを開け、靴を脱ぐ。
が――、
その途中で周の動きが止まった。
何かが足りない。
そう、月子の声だ。いつもなら「お帰りなさいませ、周様」と、2LDKのマンションで交わされるものとは思えない挨拶が帰ってくるはず。なのに、それがない。
(前にもこんなことがあったな)
と考えて眠気が吹き飛んだ。
言っておくが、以前に見た月子の刺激的な姿を思い出したわけではない。この異変に目が覚めたのだ。
玄関を上がり、廊下を進んで、その途中にある自室に鞄を放り込んだ。ひとまず着替えは後回しだ。月子がどうしているか確認しないと落ち着かない。
さらに廊下を進んでリビングに入る。
まさかリビングで前回のようなアクシデントに遭遇することはないだろうと思い、無警戒に入って――そこで月子を見つけた。
床に倒れている。
「つき――」
言いかけて、しかし、途中で口をつぐんだ。
月子はいつものエプロンドレス姿で、大きなクッションを抱きかかえるようにして倒れていた。その顔に異常は見られない。むしろ普通の寝顔だ。
(うたた寝かよ……)
ほっと胸を撫で下ろす周。
珍しいこともあったものだ、と思う。仕事に関しては完璧メイドの月子でも、うたた寝をしてしまうことがあるらしい。
とりあえず異常がないことに安心はしたが、さてこれをどうしたものかと思案する。わざわざ起こす理由はない。しかし、このままフローリングに寝かしておくのもどうかとも思う。
「しゃーない。部屋に運ぶか」
足音を忍ばせて眠っている月子に近づく。いざ持ち上げようとして……そこで動きを止める。
(持ち上げるってことは、触るってことだよな)
当たり前のことを頭の中で確認する。
幸いにしてエプロンドレスは面積が大きく、生地も厚そうだ。妙なアクシデントは起こらないだろう。後は周自身が必要以上に意識しなければいいだけだ。
「……よし」
小さく気合いを入れる。
そうして手を、月子の背中と膝の裏に差し込んだ。持ち上げる。
(やっぱ軽いな)
人ひとりの体重なので本当に軽いわけではない。だが、体育の授業でクラスメイトの体を支えたりすることがあるが、それに比べたらはるかに軽い。
要するに、これが男女の差なのだろう。
(って、そんなこと考えてる場合じゃないな)
思考中断。
それはストッパーだった。
これ以上踏み込めば、気づいてはいけないことに気づいてしまう。今まで目を瞑って見ないようにしてきたものが見えてしまう。
それをさせないためのストッパー。
不意に――、
「ん……」
月子が吐息のような声を漏らした。
「ッ!?」
頼むからこの状態で目覚めないでほしいと思う。お互い気まずくなるのは目に見えている。とっとと運んでしまわなければ。
再び月子の口が開いた。
「シュウ……」
悩ましげな声。
いきなり自分の名前を呼ばれ、飛び上がりそうなほど驚いたが、どうにか声を出すことだけは耐えた。
(起きてんじゃないだろうな……)
下を向いて顔の覗いてみる。が、どうやら間違いなく眠っているようだ。
寝言で名前を呼ばれるというのも、かなり恥ずかしいものがある。
と――、
今度は月子の手が周の首に回された。
「!?」
驚いている間もなく、その手にぐっと力が込められ、月子の顔が近づいてきた。
「ちょ、ちょっと…タンマ……」
もとよりパーソナルスペースを侵犯するほどに近づいていた距離が、さらに危険領域までに達する。
周も首を逸らして逃れようとするが焼け石に水。
「つ、月子さ……、月姉……うおっ」
ただでさえ人を抱えた状態なのに、そこにきて上半身だけ仰け反ったものでバランスを崩してしまった。
このまま倒れるわけにはいかない。
周は身体を踏ん張り、結果、どうにか月子だけはクッションの上に軟着陸させることに成功した。
「えっ? な、なにっ!?」
ようやく月子が目を覚ます。
同時、周は尻餅をついた構造のままものすごい勢いで後ずさりし、距離をとった。
「シュウ……」
月子は未だ覚醒しきっていない目で周を見つけた。
「や、やあ、月子さん」
応える周。
「夢……」
月子は自分が下敷きにしているクッションを見るようにして視線を落とし、何やら考え込みはじめた。
「……」
「……」
周はそれを黙って見つめる。
やがて月子ははっと何かに気づき、弾かれたように姿勢を正した。といっても、クッションの上に正座という、どこかおかしな構造ではあるが。
「周様」
「はひっ」
声が裏返っているやつがひとり。
「つ、つかぬことをお聞きしますが、私、周様に妙なことをしなかったでしょうか?」
「し、してません。何もしてませんっ」
「……」
「……」
微妙に会話がかみ合っていないような気がしないでもない。
「そうですか。いえ、すみません、私の勘違いのようです。すぐに夕食の用意をします」
「お、おう」
そして、両者の利害を一致をみた結果、何もなかったことに落ち着いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます