おおとろ

アオイヤツ

第1話

 3か月に1度、欠かさず通う寿司屋がある。

 暖簾をくぐり、私はいつもの席へと腰かけた。

「らっしゃい」

「まいど。いつものお願い」

「へい」

 カウンターに置かれた下駄の上に手拭きとショウガが盛られる。摘まむようにして指を拭き、ショウガをかじる。鼻を抜ける香りと舌を撫でる辛みが心地よい。

 大将がショーケースから取り出したのは白と赤が混ざり合った独特の存在感を持つ切り身。日本人なら誰でも知っているそれにゆっくりと包丁を入れた。

 薄く大きく切りとられた大トロ。その表面に更に細かい切れ目を刻んでいく。『肉と同じで空気に触れさせる事でぐっと旨味が増す』と、大将から聞いたことがある。

 溶けた脂で艶やかに光るトロにわさびをつけ、シャリを包みこむ様に握る。そして素早く下駄の上へ。

 美しいピンク色、なめらかな光沢。見ているだけでもよだれが出そうになる。

「トロは脂ではじくので多めに醤油をつけて、一気にバクっと食べてください」

 大将の言う通りに醤油をつけて、口の中へと放り込む。噛む必要はなかった。味わう必要もない。何をせずとも旨味は勝手に押し寄せてくる。舌が、喉が、鼻が、旨味の海に溺れていく。

 醤油の強い塩気にもけして負けない脂の甘さと旨味。赤みの持つマグロ本来のさっぱりとした味わい。切れ目の入った柔らかなネタは口の中を流れるように溶けて、体の中まで幸せで満たしていく。

 忘れていた呼吸を再開すると、新鮮な空気が口内に残る脂を撫でた。それだけで旨さがふたたび溢れ出す。いつまでも終わらない。

 永遠とも思えるような刹那が過ぎ、温かいお茶を飲んでもその存在感は消えることがない。息を吸うたびに蘇る。舌と心が覚えている。あの味わいを。


「大将、お会計を」

「へい。1500円になります」

 がま口をあけて500円玉を3枚手渡した。ランドセルを背負い、店を出る。

 3か月分のお小遣いを貯めて、私は欠かさずこの店に通う。本物の寿司を味わうために。

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おおとろ アオイヤツ @aoiyatsu

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