少女の思い出

水無月せきな

少女の思い出

 一日の授業がすべて終わり、ホームルームも済んでざわつく教室。それぞれに放課後の予定を言い合いながら教室を出ていくクラスメイトを、私は解放感に浸りながら見送った。そうして教室に残る人もまばらになり私も帰ろうとしたところで、後ろの席の美羽に腕を掴まれた。

「優佳、海に行こう!」

「は?」

 突然の海への誘い。しかし今は十一月。窓の外に目をやると、色付いた木々が時折吹く風に揺れ、わずかに葉を散らしていた。夏はとうに過ぎ、そろそろ冬の足音が聞こえ始める頃合いだ。こんな時期に海に行くなどおおよそ考えられない。

 私は誘いを断ろうと振り返ったが、目を輝かせて私を見る美羽に、はっきりと言うことはできなかった。

「美羽、この時期に海に行くのはどうかと思うけど」

「いいの、いいの!」

 やんわりと拒否した私の言葉をまるで聞かないで、美羽は私の手を無理矢理引っ張って教室から引きずり出した。ぎゅっと強く私の手を握る美羽の手を無下に振り払う気にもなれず、結局私は美羽と共に海へ行くことになってしまった。

「ねえ、どこまで歩くの?」

「ふふん、秘密の場所まで」

 学校から一番近い海水浴場を通り過ぎたが、どうやら美羽は別の場所に行きたいらしい。海岸沿いの道を歩きながら、私はしきりに海へと目をやった。心なしか微かに波が立っているように見えた。

「到着!」

 美羽が突然声を上げた。見ればごく小さな砂浜が私たちの前に広がっていた。背後には山際が迫り、砂浜との間には線路と道路が横たわっている。ガードレールの切れ間から砂浜へと入ると、美羽はすぐに靴を脱いで放り投げ、波打ち際へと走り出した。

「ちょっと、美羽!」

 慌てて私も裸足になり、私の靴と放り投げられた美羽の靴を揃えて置いて走った。波打ち際で美羽はスカートの裾をわずかに持ち上げ、波が寄せては逃げ、退いては追いかけてを繰り返していた。

「ひゃあ、冷たい!」

 幾度目かに失敗して足を波に洗われ、美羽は小さく悲鳴を上げた。

「そりゃそうでしょ」

 そう言って私は美羽の傍へ寄った。美羽の呼吸は少し荒く、頬は軽く上気していた。

「夏じゃないんだから、海も冷たいに決まってるじゃない。大体何で海に行こうなんて思ったのよ?」

「何となく!」

 毅然と胸を張って美羽は答えた。その堂々とした姿勢と答えのギャップに思わず吹き出した。

「ちょっと、何で笑うのよ!」

 ぷくーっと頬を膨らませる美羽を見て、私はついに声を上げて笑った。

「もう、いい!」

 わざとらしくぷいっとそっぽを向くと、美羽は再び波との追いかけっこを始めた。

 私は制服のポケットに両手を突っ込んで立ちながら、美羽の様子をただボーッと眺めていた。美羽に無理矢理ここまで連れてこられて私には目的というものが無かったし、海で遊ぶと言ってすぐに何か思いつくわけではなかったから、そうしているしかなかった。それに美羽を真似して波と戯れる気にもなれなかった。しかしそんな私とは対照的に、美羽は飽きずにずっと波と遊んでいた。まるで子供のようにはしゃぐ美羽の声が、小さな砂浜に響いていた。


 しばらくして、電車が近づいてきていることに気付いた。車道を走る車の音にまぎれて、ガタンゴトンという音が私の耳に届いた。振り返ってみると、今まさに電車が通り過ぎようとしているところだった。シルバーの車体に反射した日光が私の目を刺激する。

 電車から私たちはどんな風に見えているんだろう?

 ふと、そんなことを思った。

 季節外れの海で遊ぶ女子学生二人。一人は波打ち際でせわしなく動き、もう一人は砂浜に突っ立っている。きっと目を疑ったに違いない。そして見間違いでないことがわかるや否や、隣にいる知り合いの誰かと話題にするだろう。いや、このご時世だ。スマートフォンで多くの人と共有したのかもしれない。ひょっとすると、車内にいる誰もが海の方を向いてなくて、私たちを見ていないかもしれない……

 いろんな考えが、一挙に私の頭の中を駆け巡った。電車はその答えを乗せて走り去っていく。私は電車が去った方向をじっと見つめ、一呼吸置いてから視線を戻した。

  

 この時見た美羽を、私は一生忘れないだろう。


 私の視線の先にいた美羽もまた、電車の走り去った方向を見つめていた。ただその横顔は少し憂鬱そうで、悲しそうで、名残惜しそうだった。傾きを大きくした太陽の光が私の背後から美羽を照らし、いっそうその表情を際立たせていた。

 私は初めて、美羽をまじまじと見た。私が目を離すまで無邪気にはしゃいでいたのに、ほんの数秒の間に彼女は正反対の感情を宿していた。突然見せたその表情に、私はなぜかひどく心惹かれた。

「どうしたの?」

 ドキリ、とした。不意に彼女が顔を覗き込んできた。身をかがめ、小首を傾げながら私の顔を見上げる。いかにも不思議そうな表情をする彼女に、私は激しく舞い上がった。

「な、何でもないわよ」

「ふーん?」

 そっけなく返して顔を逸らすと、美羽は大人しく引き下がってくれた。

「そろそろ帰ろっか」

「え? あ、うん」

 しどろもどろに答える私の手を美羽は握った。私の手よりわずかに小さいその手は、しかし私の手以上の暖かさを持っていて、それが直に私へと伝わってきた。行きは何とも思っていなかったのに、なぜ今は意識するのか私にはわからなかった。

 モヤモヤとした感情を抱え込んだまま、私は再び美羽に手を引かれて歩き出した。

 

 一旦学校に戻って荷物を取った私たちは駅にいた。高架上にあるその駅は二本の線路が一つのホームを挟む形式になっている。私と美羽の帰る方向は違うから乗る電車は別になるが、このホームまでは一緒だ。

「いやぁ、楽しかったねえ」

「そうね」

 ホームへと上がるエスカレーターで、美羽は手すりに身を預けながら満足げにそう言った。まだモヤモヤとしていた私は、曖昧に相槌を打った。

「次は……山にでも行こうか」

「は?」

「いや、海に行ったなら、次は山でしょ!」

 ホームのベンチに腰掛けながら、美羽は計画とは名ばかりの思い付きを並べ始めた。どこに行くにしても、きっと私は無理矢理付き合わされるのだろうと思うと、苦笑するしかなかった。

 美羽の乗る電車はすぐにやってきた。ガタンゴトン、とホームへ滑り込んでくる。

「それじゃ、じゃあね」

「うん」

 互いに手を振り、美羽は電車に乗り込む。ドアをくぐるとすぐに向きを変え、美羽は再び私に手を振った。私が手を振り返すと、ドアが閉まり、電車はゆっくりと動き始めた。

 着実に私と美羽の距離は開いていき、やがて電車と共に見えなくなった。

「……ふう」

 小さく息を吐くと、軽い疲れを感じた。きっと、無理矢理付き合わされて歩かされたせいに違いない。

 でも、不思議と悪い感じじゃない。むしろ、喜んでいるのかもしれない。

 美羽と別れて一抹の寂しささえ感じていた。

 

「もう、本当に何なのよ」

 私はただ、呆然としていた。


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