No.37『燃えてる燃えてる』
佐原「ほう、油絵ですか、いいですね」
根岸「はは、趣味に毛が生えたようなものですよ」
佐原「いいご趣味ですね、のんびりしていて、羨ましい」
根岸「そちらは、ご趣味は?」
佐原「いえ、仕事が忙しくてなかなか手が回りません。何かしてみたいとは思うんですがね」
根岸「ほう、では今日はたまの休日というわけですか」
佐原「いえいえ、仕事ですよ、今日も」
根岸「これは失礼を。ときに、どのようなお仕事を?」
佐原「消防士です」
根岸「あー、なるほど?」
佐原「ええ、なるほどでしょう?」
根岸「目の前で燃えてるマンションの一室、あれの鎮火に?」
佐原「そうですそうです。あなたの絵にも綺麗に描かれているマンションの、ちょうどそう、この部屋あたりですね」
根岸「なるほど」
佐原「ところで少々、腹を探るような話をしてもよろしいですか?」
根岸「はて、痛くない腹を探られる覚えはありませんが。蓋を開けてみないことにはなんともいえませんな。なんでしょうか」
佐原「私個人としてはね、今回のこれ、放火なんじゃないかと思うんですよ」
根岸「ほう、それはまた何故?」
佐原「詳しく火元を調べてみないことにはなんともいえませんけどね、マンションの一室が燃えていて、その近くで油絵を描いてる人がいるじゃないですか」
根岸「ほう」
佐原「で、その方の油絵の、その一室もしっかり燃えているんですよ」
根岸「なるほど、これはまたなかなか面白い見解ですな」
佐原「こんな世の中ですしね、摩訶不思議なことが起きることも、あるかもしれません」
根岸「なるほどなるほど」
佐原「どうでしょうか」
根岸「描き始めた頃は、燃えていなかったんですよ、これ」
佐原「ほう」
根岸「ですからここだけ、少し厚みがあるんです。少しなら上から描き直してしまえというのもまあ、アマチュアゆえの緩さなのですが」
佐原「なるほど、それは大変失礼を」
根岸「いえいえ、今の話は大変興味深い」
佐原「ははは」
根岸「それを考えると、私にも火災の責任が少しはあるのではないかと思うのですよ」
佐原「と、いいますと?」
根岸「あの部屋、炎も含めて、二度上から描き直しているんですが……」
佐原「ほう」
根岸「一度目の描き直しの頃に、黒煙が出始めたんですよ。そして二度目、炎を描こうとしたら、炎の勢いが増したんです」
佐原「なるほど」
根岸「妙なことを言っているのは自覚しています。ただの偶然としてしまってもよいのでしょう。……しかし、気にはなるのです」
佐原「いえ、あなたの言うこともわかります」
根岸「そうでしょうか」
佐原「ええ。おそらく、出火の原因はまた別なのでしょうが、炎が勢いを増したこととは、関係があるかもしれません」
根岸「ほう」
佐原「実際、通常の火災よりも火の勢いが強いのです。本来ならばもう鎮火していてよいはずなのですが、ご覧のとおり、未だあの部屋は燃え続けています」
根岸「ふむ。それはつまり、私が何か……?」
佐原「おそらく」
根岸「油絵を描いていただけのつもりなのですが、一体私はなにを……?」
佐原「火に油を注いでいたのでしょうな。キャンバスの上で」
根岸「ははは、なるほど」
佐原「失礼を」
根岸「いえいえ、面白い話でしたよ」
佐原「……さて、そろそろ私も仕事に戻りますかな。与太話に付き合わせてしまって……」
根岸「楽しかったですよ」
佐原「それはよかった。では、集中されていたところ、水を差してしまい申し訳ない」
根岸「いえいえ。水を差すのは、さすが消防士、といったところですかな」
佐原「ははは、いやしかしあちらの火の勢いは衰えるどころか」
根岸「増してますなあ」
佐原「……」
根岸「……」
佐原「……油をうっていましたからねぇ」
根岸「ははは、そりゃあねぇ」
佐原「……少し、本音を漏らしてもよろしいですか?」
根岸「ええ、袖振り合うも多生の縁といいますし、この際です、なんでもどうぞ」
佐原「正直なところ、私としては叱っていただきたかったのです」
根岸「ほう、何に対してでしょう」
佐原「消防士が、火事を目の前にしてなにをしているんだ、と」
根岸「ああ、なるほど」
佐原「しかしあなたが想像をはるかに超えて穏やかな方だったために、私の目論見はもろくも崩れ去ったのです」
根岸「ふむ」
佐原「叱ってもらうどころか、むしろ油をうる破目に……」
根岸「なるほど、つまりあなたは、叱咤されて、それに反論し―――」
佐原「そう、つまり」
根岸「水掛け論を、したかったのですね」
閉幕
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