純喫茶「tempus」

細葉 砂

純喫茶「tempus」

 付き合い始めた頃から少しだらしない人なのかなとは思っていたが、ここまでとは。


 付き合って一周年の記念にデートをしようと思って、最近ひそかに話題になっていたこの喫茶店に一緒に来ようとしたのに、彼氏が寝坊をして待ち合わせの時間をちょうど一時間過ぎた今でもまだ来ていない。百歩譲って、待ち合わせが早い朝だったのならまだ分かるが、約束したのは昼過ぎである。寝坊した、と一言だけLINEが送られてきた以外、謝罪の言葉はもちろん、何にも反応がない。怒りを通り越して呆れてしまった私はスマホを鞄に放り投げ、勝手にパフェを頼んだ。仏頂面で注文したからか、店員がこちらを窺うような視線を向けてきたが、気づかないふりで店員から目を背けるように窓へ顔を向けると、少し気まずそうにしながらカウンターの奥に引っ込んでいくのがガラスに映っていた。


 それからしばらくして運ばれてきたパフェを一人黙々と食べ進めていたのだが、グラスの半分くらいまで来たところで、どこまで行っても甘いだけのクリーム層を見ただけで胃に押し込んできたものが戻ってきそうになり、クリームがついたままのスプーンを少々乱雑に紙ナプキンの上に置いた。


 もう、うんざりだった。この甘ったるいパフェにも、彼氏にも。


 今日何度目かもわからない溜め息を吐いたとき、急に周りの景色が目に入ってきた。テーブルの上のメニューやカウンター席が、ずっとそこに存在していたものなのに、突然そこに現れたようだった。この一年で積もりに積もって高山となった複雑な感情が押し寄せてきたせいで、随分と視界が狭まっていたようだ。


 改めて周りを見回してみれば、なかなかいい雰囲気の店である。昭和の雰囲気を残したノスタルジックな店内を照らすライトは暗すぎることはなく、決して明るすぎることもない。都会の喧騒に満ちたドアの外とは違う、静かな時間がゆったりと流れている。


 ただ、静かすぎるのだ。大通りから道を一本外れてはいるが、店の前を通る人は少なくない。それに穏やかに晴れた日曜日の昼下がりで、どこかの雑誌の取材を受けたとかで話題にもなっていたはずだ。なのに、店内には私以外の客がいない。


 少し気味が悪くなって、彼からのメールを確認したが、やはり音沙汰はない。画面を消して再び鞄に放り込む。喫茶店の落ち着いた雰囲気が、心の落ち着きを奪っていく。そわそわしながら腕時計を確認すると、秒針が動いていなかった。


 彼氏は来ない、腕時計は壊れる。全く今日は散々な日だ。記念日なのに、と彼氏と自分の運の無さに悪態をついても、受け止めてくれる人は誰もいない。


 居ても立ってもいられなくなり、お手洗いに立とうとして鞄を持ち上げる。ただ、気持ちが急いていたのがまずかった。鞄を持ち上げた際にパフェのグラスを思い切り倒してしまい、テーブルの上を滑る勢いそのままに縁から飛び出して、重力に引かれて床に落ちていく。突然のことに手も足も出ず、床にクリームとガラス片が散乱する情景を想像して、弁償しないと、今日はとことんついてないな、と色々な考えが瞬時に頭に浮かんでは消える。もうダメだと投げやりになって、目を固く瞑った。


 しかし、いつまで待っても音が聞こえてこない。仮に床が硬くなかったとしても何らかの音はするものだ。不思議に思いながらそっと目を開けると、そこに異様な光景が広がっていた。


 グラスが、宙に浮いている。正確には、床を目指して羽のような速度で降下していた。あたかも、グラスが落下していくのをハイスピードカメラで撮影したのを見せられているかのように。それが画面の外側で不可解な物理現象として発生していた。私の脳は視神経を通じて送られてくる電気信号を解釈することを拒否しているのだが、私の心が理屈を超えて納得してしまいそうになっている。恐る恐る宙に浮くグラスを掴み、元の場所に戻す。そして、何かに操作されているように左腕の秒針を再び確認したその瞬間、パズルの最後のピースが嵌る音がした。時計の動きは正常。異常なのは……。


 ドアベルが、焦燥しきっている私を嘲るようにのんびりと響く。音のしたほうを振り返れば、そこには私が一時間と三分待ち続けた人の姿がある。緩慢な動作でこちらに近づいてくる彼。その顔に緊張が一時的に緩んでしまったせいか、収まっていたはずの怒りや不安やらが綯い交ぜになった、黒いモノが身体の底からぐつぐつと湧き上がってくる。彼に向かって全速力で走り出し、そのゆるんだ顔に速度を殺さないまま鞄と千円札と湧き上がってきたモノとをまとめて、音がするほど強く叩きつけた。衝撃が彼の顔の中心から外へ向かって石を投げ込まれた池のように肉の波を伝えていくのが視界の端に見えて、つい口角が上がりそうになるのを慌てて表情筋に力を入れて誤魔化す。そのままドアに手をかけ淀んだ時空間から抜け出そうとすると、私を呼んでいるのであろうひどく緊張感に欠けた、彼の声のような音が聞こえてくる。それには構わず、ドアに力を込める。


 私はもう惰性で人生を無駄にするのは止めたの。じゃあね。


 ドアを背中で閉め、ガチャリと音がするのを聞き遂げる。しばらくそのまま背中を預けていたが、よっ、と身体を剥がし、軽やかに駅の方へ向かって歩き出した。

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