あなただけの歌

ぱん

本文

 その療養所は、街を出て山を二つ越えた先の小さな町にあった。けして栄えた町ではないが、自然豊かで療養にはぴったりの場所だった。

 生まれつき体の弱いハッカが、街にあった大きな病院からこの療養所へ移ってから三ヶ月ほどが経とうとしていた。療養所は、人の少ないこの町の中でもひときわ静かな場所に建っている。聞こえてくるのは風が木々を揺らす音や鳥の声ばかりで、街の喧騒が懐かしいほどだ。ハッカを見舞う者はめったになく、療養所の医師と看護師と数人の入院患者以外の人間は久しく見ていなかった。

「おはよう、ハッカ」

「おはよう」

 ハッカの病室に入ってきたのは、顔なじみの看護師だった。

「今朝は顔色がいいわね」

「うん、食欲もあるよ」

 いつものように渡された体温計を受け取りながら、ハッカが答えた。

「熱も、そんなに高くないわね」

 ハッカから受け取った体温計を見ながら看護師は微笑んだ。自分の様子や体温を書き込む看護師を見ながら、待ちきれない様子でハッカは口を開いた。

「ご飯食べたら、少し外に出てもいいかな。少しだけでいいから」

 ハッカの体調は不安定で、病室を出ることすら許されないことのほうが多かった。自分の体のことなのだから、ハッカ自身も無理はよくないと分かっていた。だが彼はつい先日15歳になったばかりの若者である。運動はできないまでも、時々は外に出て気分転換がしたかった。

「そうね。今日は天気も良くて暖かいし。朝ご飯が全部食べられたら、少しだけならいいわよ」

 看護師の言葉に、ハッカは喜びを一切隠さない笑顔を見せた。


「それじゃあわたしは少し席を外すわね。少ししたら様子を見にくるわ」

 療養所の敷地内にある庭へ車椅子に乗ったハッカを連れてきてくれた看護師は、そう言って屋内へと戻っていった。

 一人になったハッカは久しぶりの外の空気を思う存分吸い込んだ。朝からの天気の良さは続き、暖かい日差しが降りそそいでいる。ハッカがいる場所は木陰になっているので、眩しすぎるということもない。

 一息ついて、ハッカは持ってきた本を開いた。歌うたいの少年が世界中を冒険していく物語で、それはもう何度も読んでいる大好きな本だった。

 ハッカも昔は歌うことが大好きな少年だった。しかし病状が悪化してからは思うように歌うことができなくなってしまい、今では歌おうとすることもやめてしまっていた。

 ここち良い風を感じながら慣れ親しんだ文章をなぞっていると、聞き慣れない声が耳に入った。耳を澄ませて聞いてみると、それは少女の歌声のようだった。

 本にしおりを挟み閉じてから、ハッカは声のするほうへと車椅子を動かした。だんだんと聞こえる声が大きくなり、思ったよりも早く歌声の主の姿を見つけることができた。

 療養所の庭の一番大きな花壇の前でその少女は歌っていた。

 少女の歌声に、ハッカは耳を奪われた。それは聞いたことのない歌だったが、とても美しく澄んだ歌声だった。この世のものではないような気さえした。

 ぼんやりと歌う少女を見つめてしまっていると、視線に気づいたのか少女が歌うのをやめてこちらを振り向いた。知らない少女と目が合い、ハッカは慌ててしまう。声もかけずに歌を聴いていたので、盗み聞きをしてしまったような気分だった。

「こんにちは」

 咄嗟に言葉が出ずうろたえていると、少女から声をかけてくれた。

「こんにちは。きみもここに入院しているの」

「いいえ、違うわ」

 そうだろうなとハッカは思った。ここは小さな療養所で、働く人も入院する人もすべて顔見知りだ。目の前にいる少女とは全くの初対面だった。

「じゃあ、お見舞いに来たの」

「……そうね」

 考えるような少しの沈黙の後に、少女は答えた。

「ぼくはここに入院してるハッカって言うんだけど、きみは?」

「エリス」

「エリス、ごめんね。声もかけずに。とてもきれいな歌声だったから聴き入ってしまって」

 ハッカがそう言うと、エリスは少し目を丸くしてから優しく微笑んだ。

「嬉しい、ありがとう」

 暖かい穏やかな風がゆるく束ねたエリスの髪を揺らした。金色に輝くそれを見ながら先ほどの彼女の歌を思い出し、天使のようだなとハッカは思った。年はおそらく同じくらいだが、その表情は随分大人びて見える。

「あの、もしよかったら、もう一曲歌ってもらえないかな。同じ曲でもいいんだ。エリスの歌が聴きたい」

 ハッカがそうお願いをすると、エリスは一度うなずいて、歌いだした。先ほど歌っていた曲とは別の曲だった。それもやはりハッカの知らない歌だったが、彼女の歌声はすぐに体になじんだ。

 歌い終わると、エリスはそのまま黙って立ち去ろうとした。ハッカは慌てて声をかける。

「あ、待って!」

 エリスは立ち止まり、ハッカを振り返った。

「また会えるかな」

 車椅子から身を乗り出してそう尋ねると、エリスはハッカにまた優しい頬笑みを向けて答えた。

「歌が聞こえたら来て。きっとよ」

 そう言って、再び背を向けて去っていく少女をハッカは黙って見つめていた。自分の名を呼ぶ看護師の声が遠くに聞こえた。


「うん、今朝は熱は下がったみたいね。顔色も良いみたいだしよかったわ」

 ハッカから受け取った体温計を確認しながら看護師は言った。

 ハッカがエリスと出会ってから、一週間が経っていた。ハッカはまた彼女が病院へ来ているのではないかと思い外に出たがったが、熱が出てしまい叶わずにいた。

 彼女は歌が聞こえたら来てと言っていた。けれど病室から庭の大きな花壇までは少し距離がある。窓を開けていても聞こえるか分からないし、ここ数日は体調を崩していたので窓は閉め切ってしまっていた。

 ハッカは朝食を片づけに来た看護師に窓を開けてもらうようお願いをした。歌う少女と出会った日と同じように良い天気で、風がここち良かった。またあの歌が聞こえないだろうかと、頭の片隅に期待をうかべながら、いつものように歌うたいの少年と旅をする。

 初めは気のせいかと思った。けれど息を止めて耳を澄ませてみると、それは確かに聞こえた。

(エリスの歌だ)

 たった一度聴いただけだったが、絶対にそうだという確信がハッカにはあった。

 ハッカは車椅子に乗り、こっそりと一人病室を出た。ハッカは初めて、誰にも内緒で療養所を抜け出した。


 エリスは一週間前に出会った時と同じ、あの花壇の前で歌っていた。病室からここまで自ら車椅子を動かしてきたので、ハッカの息はあがっていた。

 キリのいいところで少女は歌を止めてハッカを見た。

「歌が、聞こえたから、来たよ」

 落ち着かない呼吸のままハッカは声をかけた。病弱であるとはいえハッカの息があがるほどの距離があるのだから、本来少女の歌声が病室まで聞こえるはずはないのだが、ハッカはそれを不思議に思うことすら忘れていた。エリスの歌声が聞こえたことが嬉しくて、忘れてしまっていたのだった。

「また、聴いていてもいい?」

 ハッカが尋ねると、エリスは微笑みうなずいた。

 ハッカは目を閉じて、エリスの歌声に耳を傾けた。美しい歌声を聴きながら、彼女が本当に天使だったらいいのにとハッカは思った。けして治ることのない病気を抱えて、ただ死を待つだけのこの魂を連れていってしまってほしい。見舞う者もなく、誰にも顧みられることのないこの体ごと連れていってほしいと思った。そうしてエリスの歌声だけを聴いていられたら、どんなに良いだろうか。

「ハッカ」

 いつの間にか歌は終わっていたようだ。エリスに呼ばれて目を開けると、彼女は心配そうにハッカを覗きこんでいた。

「大丈夫?苦しい?」

「え?」

「涙が……」

 ハッカは言われて初めて自分が泣いていることに気づいた。

「大丈夫、苦しくないよ」

 指で頬の涙を拭いながら、ハッカは答えた。

「本当にきれいな歌声だね。ずっと聴いていたい」

 誇張でもなく、ハッカは本心からそう思った。あまりにも真っすぐなハッカの言葉に、エリスは少し照れたような表情を見せた。

 エリスは恥ずかしさを隠すように切り出した。

「ハッカは、“骨導音”って知ってる?」

「コツドウオン?」

「そう。ハッカが聞いているわたしの歌声と、わたしが聞いている自分の歌声は少し違うのよ。自分にしか聞くことができない、自分だけの声を“骨導音”って言うの」

「そうなんだ……じゃあぼくの声も」

「そう、きっとわたしが聞いている声と違うのでしょうね」

 そう言ってエリスはハッカに笑いかけた。

「わたし、それを知った時自分だけの歌声があると知って優越感を覚えたけれど、でも同時に誰かに聞いてほしいって思ったの。わたしだけの歌を」

「エリスだけの歌……」

 それはとても魅力的な響きだった。彼女自身以外、誰も聞いたことのない歌声。

「ぼくも、聞いてみたいな」

 それが無理なことはハッカにも分かっていたが、けして冗談で言ったのではなく本当に心から聞きたいと思ったのだった。

 エリスはじっとハッカを見つめた。少女の緑色の瞳は少し悲しげな色をしていて、ハッカは不思議そうにそれを見つめ返す。

 ふと、エリスが口を開いた。

「あなたになら、いつか聞かせてあげられるかもしれない」

 彼女の目の色は変わらなかったが、その言葉を聞いてハッカの心は浮上した。たとえその言葉が嘘であったとして、聞かせたいと思ってくれたことが嬉しかった。

「じゃあその時がきたら必ず聞かせてね。絶対だよ」

 エリスは少し眉を寄せて微笑み、うなずいた。


 最後にエリスと会ってから、一ヶ月ほどが経とうとしていた。『エリスだけの歌』を聞かせてもらうと約束して以来、窓を開けていても少女の歌声は聞こえてこなかった。

 ハッカはベッドの上で横になって過ごすことが多くなった。大好きな歌うたいの少年とも、もう久しく冒険をしていない。横になったまま窓越しに雲一つない空を見上げた。

 いつの間にか浅い眠りについていたようで、ぼんやり目を覚ますと見慣れた看護師が点滴の確認をしているところだった。覚醒しない頭でそれを眺めていると、聞き覚えのある歌声がしてハッカは今度こそはっきりと目を覚ました。

 慌てて窓のほうへ目をやる。窓は閉め切られていたが、それは確かに少女の、エリスの歌声だった。

「歌が聞こえる」

 ハッカの小さな呟きで、看護師は彼が目覚めていたことに気づいた。

「歌?」

「女の子が歌ってるんだ」

「女の子……そういえば、前にこの部屋を使ってた女の子が、歌が大好きな子だったわね」

 看護師はハッカと同じように窓の外を見つめながら、懐かしそうに言った。

「そうなんだ……」

 今にも消え入りそうな声を道連れにしながら、ハッカは再び眠りへと落ちていった。


 療養所の庭の一番大きな花壇の前でその少女は歌っていた。ハッカは少女の名前を知っていた。少女の名はエリスという。エリスは一度聞いたことのある歌をうたっていた。

「エリス、見て。ぼく自分の足で歩けるようになったんだよ」

 ハッカは細い二本の足をしっかりと地面につけて、自分の足で立っていた。

「そう、良かった」

 歌っている時と同じ美しい声でそう言って、エリスは微笑んだ。やはりこの少女は天使だったのだなと思いながら、ハッカも微笑み返した。

「エリスだけの歌を、聞かせてくれる?」

「……ええ」

 二人の影が重なり、エリスの歌声が風にのって花を揺らした。

 エリスの涙が一筋、ハッカの頬を伝い落ちた。

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あなただけの歌 ぱん @pan05

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