COZ:

宮緒ねむ

第1話

  大船駅からバスで20分。深い緑に覆われた高台の霊園に、今年も家族揃って訪れる。皆、生い茂った緑が作る日陰に逃げ込んで汗を拭う。

 今日は風が少なくて暑い。

 陽射しに焦げたアスファルトの広い坂道の途中、僕は白い日傘を広げて深呼吸した。都会とは違う空気、緑と土の匂い、蝉の声と皆の背中。今年もいつもの風景だと、少しホッとする。 坂の上には芝生が広がり、そこにつややかな白い墓標が見えてくる。

 

 まるで天国のドアみたいだ。


 僕はこれまで、その白いドアをノックすればお母さんが顔を出す、という想像を何度もしてきた。お母さんたちが乗った旅客機が、他の大勢の乗客とともに海に落ちたのは数年前。生存者がいる可能性は極めて低い状況の中、捜索は難航し、お母さんたちの遺体や遺品はついに見つからなかった。

 

 僕の名前は、氷川聖名ひかわみな

 東からの陽を背に受け、白いドアはその輪郭をキラキラと輝かせ、ここを訪れた人をその影に包んで癒してくれる。

 少し離れた銀杏の木にもたれているのは、同い年の早和さわ。早生まれの僕と学年は同じだけど、僕は幼稚園の頃からクリスチャンの学校に通ってきたから、学校は別々だ。

 ワイシャツの袖をまくって、陽に焼けた腕で芝生に生えた雑草をむしっているのが、氷川家長男の有馬ゆうまくん。有ちゃんは僕らの中で、一人だけの社会人。僕はこの「シャカイジン」という響きに憧れる。理由は、何かカッコいいからだ。

 こちらに背を向けて、スマートフォンを弄っているのが、僕の弟の窓架まどか。お父さんの晴三郎せいざぶろうが窘めても、生返事だけで一向にやめようとしない。まったく。

 窓架は、学校が夏休みに入ったとたん、髪を緑色に染めた。お父さんは「マドがフリョーになった」と仰天したけど、他の皆は、窓架のアイデンティティが他人ほかとは少しズレていることを知っているので、むしろ面白がって歓迎した。

 お父さんは、その時みたいに小さな溜め息を吐いて、白百合の大輪を三本、芝生の上に並べた。ほんのりと香る百合は、まるでお母さんたちみたい。

 日傘をたたんで振り返ると、有ちゃんの弟の襟人えりとくんと、早和のお兄さんの理紀りきくんが手を合わせている。二人とも都内の大学に通う学生だ。僕は「ダイガクセイ」という言葉にも憧れを抱いている。高校生よりオトナで、社会人より自由なカンジだからだ。

 有ちゃんとその父・正一郎しょういちろうさんが何か話しているけど、樹々に囲まれたこの高台では、蝉の声にかき消されて聞こえない。

 えりりんから催促されて、窓架がやっとスマホを仕舞い、目を閉じて手を合わせると、わじさんがすかさずデジカメのシャッターを切った。早和とりっくんの父、和二郎わじろうさんは、僕ら子供が無防備になる瞬間を狙って写真を撮るのが好きなのだ。そのくせ自分が撮られるのは嫌がる。困った叔父さんだ。


 全員の黙祷が済むと、毎年集合写真を撮ることになっていた。

 学生服を着ていた人がスーツになり、一番背の小さかった末弟は兄たちを追い抜くという過程が見て取れる。それは僕らの成長の記録にもなっていた。

 撮った写真にうっかりお母さんたちが写っちゃった、なんてことないだろうか。とか思うけど、今まで撮った写真を全部見直しても、そんな心霊写真は一枚も無い。少なくとも僕は、お母さんたちの参加を歓迎するのに。

 願っても詮無いと分かっていても、僕らは毎年ここへ来ることで、それぞれの思い出の中のお母さんに会った気になって、心の穴を埋めるのだ。


 腕時計を見ている正さんを間に挟んで、わじさんとお父さんがこれからの予定を話し合っている。

「予約、何時から?」

「12時半・・・まだ早いな。」

「バス待つだろうし、早めに下りよう。」

「そうだな、暑いし。」

「行くか。」


 歩き出した家族の中に、弟の姿が見えないことに気付いたりっくんが、小走りに引き返していった。僕も付いていくと、早和は木陰にに座り込んでいた。

 りっくんは、そんな弟の腕を掴んで無理矢理引き上げ、そのまま手を引いて足早に歩き出した。僕も慌てて踵を返す。

 下り坂の先頭では、有ちゃんと窓架が何か話している。あの二人は声が大きいし歩くのも早い。ワカモノのスピードに追いつけない父親たちは息を切らせて後を追う。僕も日傘を広げて後に続いた。 

 

 あ、気持ちいい風。


 白い日傘がクルクルと回る。振り返ると、白いドアの前で白百合が揺れていた。お母さんたちが手を振っている様だった。


 バイバイ、またね。


 僕は手を振り返し、坂を下った。



 大船駅まで戻るバスは空いていて、ひんやり冷房が効いていた。

 一番後ろの席に有ちゃんとりっくん、正さんが座り昼食の話をしている。地元の花火大会の話で盛り上がる、えりりんとお父さんの前の二人掛けに、再びスマホを弄る無口な窓架、その横で死んだように早和が眠っている。その前の一人掛けのわじさんが、さっき撮った写真をチェックしていた。やがてわじさんは小さく息を吐いて、窓の外を眺め、眼鏡の奥の目を細めた。何だか眠たそう。僕はつり革を掴んでわじさんの前に立った。


「ガッコーどうよ?」

 と、わじさんが聞く。

「うん、楽しいよ。今度サマーキャンプがあるんだ。バーベキューとかするんだよ。」

「へえ、やっぱミッション系はイベント多いな。ほれ、あのバザーとか・・・えっと、何だっけ、サンクス・・・」

「わー、わー、その話はやめて!」

 僕が手のひらで耳を叩くと、わじさんは意地悪く笑い、過去の画像データを探り始めた。僕が本気でデジカメを奪おうと両手を伸ばしたその時、バスが駅前のロータリーに滑り込み、大きく車体が傾いたので、僕は危うく窓ガラスに頭から突っ込みそうになった。

「さわっち、着いたよ?」

 早和が起きないので、窓架が降りられず往生している。後部座席からりっくんが、後頭部を強めに叩くと、早和は動物のように低く呻いてノロノロと立ち上がる。「さっさと行けっ。」不満そうに弟を追いたてたりっくんは、ステップを踏み外しそうになった早和の腕を慌てて掴み取り、更に怒る。窓架はそんな二人を後ろからじっと見つめていたが、またスマホに視線を落として歩き出した。 

 まったく、よく前を見ないで歩けるもんだ。それでいて器用に対向者を避けて通る。僕は、窓架には何か触角のようなものがあるのではないかと考える。僕の脳裏に一瞬、緑色の未知の生物(昆虫的な)になった窓架が浮かびゾッとしてしまった。

 降車の列の最後に、伸びをしながら大きな欠伸をしながら、わじさんがステップを降りてきた。僕らはそこからJR大船駅へ歩いて戻り、根岸線で桜木町まで移動する。車窓に流れる外の景色は陰影が濃く、時折照り返しでピカピカと光る。午後の気温は更に上がりそう。


 中華街の慶珍楼けいちんろうは、昔から家族でよく食事をしている店だ。美味しい広東料理は出掛けた後のお楽しみで、事故が起こる前から、親戚で集まるとこの店を予約した。丸いテーブルの中央に回転台が付いている、昔ながらの落ち着いた個室で、オトナたちはよく冷えたビールを飲む。有ちゃんはいつもならビールの他に紹興酒も飲むけど、今日はこの後仕事に戻らなくちゃいけないそうで、ノンアルコールビールを飲んでいた。それでもとても美味そうに飲んでいる。

 アルコールが入っていないのならビールである意味はどこにあるんだろうか。切ないオトナの価値観が分からない僕ら未成年は、冷たい中国茶を注文した。普段から、あまりお酒を飲まないお父さんとえりりんは、温かいジャスミン茶である。

 僕は一生、絶対に他所よそでお酒は口にしないと心に決めている。今はまだ未成年だから当たり前なんだけど、それ以上に僕にとっては飲酒は禁忌なのだ。

 自慢じゃないけど、僕にはかつて教会のサンクスギビングバザーで振る舞われたフルーツポンチで泥酔し、醜態を晒すという黒歴史がある。ホント、自慢じゃないから。しかも、そのときの画像が、何故か現在、わじさんのデジカメに秘蔵されている。

 ホントに、何故なんだ!


 やがて円卓の大皿は下げられ、厨房からデザートが運ばれてきた。大きなガラスのボウルにたっぷりと盛られたタピオカ入り杏仁豆腐を、配膳担当の店員さんが慣れた手つきで小椀へ取り分けていく。

「フルーツポンチ・・・。」

 わじさんの呟きに虚をつかれた僕は、素早く席を立った。彼は酒が入ると、必ずその話を始めるのだ。

「わー!わー!わじさん、やめてよ!」

 手のひらで耳を塞いで聞かないように、せめてもの抵抗を試みたが、

「わっくん、フルーツポンチじゃなくて、これは杏仁豆腐だよ。」

 お父さんの突っ込みなどお構いなしに、酔っ払いはしゃべり続けた。

「僕、ちょっと、トイレ!」

 僕は堪らず個室を抜け出した。


 難を逃れてホッとすると、細い廊下に出た。やっぱりすぐには戻り辛いので、そのまま店内を散策することにする。ウロウロしていると、階段から誰かが駆け降りて来て、そのまま化粧室へ入って行くのが見えた。

 早和だった。

 化粧室の出入り口で、しばらく待ったが早和は出てこない。しかたなく、彼が降りてきた階段から昇ってみると元の細い廊下に出た。老舗店の建増しなどによる間取りの複雑化はよくあることである。実は来た道が分からなくなっていたんだけど、早和のおかげで無事に個室に戻ることができた。



 一階のエントランスは売店になっていて、お持ち帰りの月餅やタピオカ等が並んでいる。様々な種類の月餅は一個から購入可能だ。正さんが会計を済ませている間、りっくんとえりりん、お父さんの甘味好きたちが、籠を手にぐるぐる売店を回っている。中華のコースを食べた後だという大した胃袋である。中でもりっくんの持つ籠は山のように菓子が積まれており、彼曰く「ここから査定する」とのことだった。でもりっくんは、友人らへの土産も含むと言い張り、結局籠の中の菓子全てを買った。りっくんは、一人満願全席と呼ばれている。


 冷房のよく効いた店内から一歩外に出ると、午後の日差しはまだまだ厳しく蒸し暑い。慶陳楼の入口付近、大きな獅子の石像の陰で、窓架が食い入るようにスマホの画面を見つめて、スラスラと返信している。窓架は来年高校受験なわけだけど、清清しいほどに危機感が無い。よほどの楽天家なのか、大物なのか。馬鹿なのか、それとも馬鹿なのか。末っ子にありがちな要領のよさはもれなく備えているけれども、兄としては心配でならない。  


 観光客でにぎわう仲見世通りを、僕らは港を目指して歩いていった。

 昼食時を過ぎて、一層人口密度が増した繁華街で、路面店を物色していた僕は、いつの間にか迷子になりかけ、やっとの思いで緑色の頭を目印に後を追った。中華街は迷路だ。何回来ても、どこを歩いているのかわからなくなる。先を行く皆もヒイヒイ言いながら汗を拭き、歩き続ける背中にシャツが張り付く。いつもはお喋りなりっくんと窓架を黙らせることが、今日の猛暑を物語っている。やっと大通りに出ると、人が減って視界がひらけてきた。たまに生温い風が吹くと微かに潮のにおいがする。海が近い。


 氷川丸。ここが僕らのゴール地点だ。

 海を見て、船を見て、ただぼんやりと思いに耽る。

 

 氷川正一郎、和二郎、晴三郎の父、氷川光太郎ひかわこうたろうは、旧日本郵船に席を置く、氷川丸の客室乗務員だったそうだ。洒落者で歌やダンスをこなし、外国人の案内をするため英語も堪能だった光太郎おじいちゃんは、船を降りた晩年、趣味の8mm映画を撮っていた。そのフィルムに残る彼は、当時の日本人としては身長も高く、端正な顔立ちをしていた。きっと、船上では異国のご婦人方の人気者だっただろう。

 そんなおじいちゃんが妻に選んだのが、愛しの「まあちゃん」である。

 8mmフィルムに度々登場する若い頃のおばあちゃんは、恥ずかしがってすぐにフレームアウトしてしまう。小柄で愛らしい、少女のような雰囲気を持った人だった。

 山下公園を散策する度、お父さんたちは、もういない両親とお母さんたちに思いを馳せているのだろう。


 喫煙スペースで、正さんとわじさん、そして有ちゃんはゆっくりと煙を燻らせた。正さんはアイコス。わじさんはわかば。有ちゃんはアメリカンスピリッツ。僕は煙草が嫌いではない。勿論吸わないけれど、煙草を嗜む人を眺めるのが好きだった。絵的にはカッコイイと思うし、何より煙を吐き出す時の人の目が穏やかで、好きだ。

 対してりっくんとえりりんは煙草が大嫌いだ。えりりんは吸った後の人には近寄らないし、りっくんにおいては○ァブリーズを持って追いかける。そんなだからりっくんと窓架は、自動販売機でミネラルウォーターを買ってきてぐいぐい飲んでいた。えりりんはというと、お父さんと一緒に隣のバラ園をぶらぶら歩いている。あの二人は多分、気が合うんだな。お父さんはぼんやりしてるけど、えりりんはしっかりしてるもん。僕がそんなことを思いながら、潮風に当たっていると、ふと早和がいないことに気づいた。

 辺りを見回すと、自動販売機からだいぶ離れた日陰のベンチに早和を見つけた。深くもたれて首を折り、眠っているのか、微動だにしない。

「さわー?」

 呼びかけて近づいていくと、早和の上半身がゆっくり右へ倒れていき、半身を横たえた姿勢でまた動かなくなってしまった。僕が不安になって早和の肩に触れようとしたその時、

「おい!」

 という背後からの怒声に、驚いて傍から離れると、りっくんがこちらに走ってくる。

「お前、こんなところでみっともない、起きてシャンとしろ!」

 揺り起こされて、やっと早和は薄目を開けた。ゆっくりと半身を起こして頭を振る。りっくんはペットボトルを差し出して飲むように勧めたが、早和はうなだれて首を振るだけだ。

「えっと、ここ、涼しいよね。」

 どうも二人の間がギクシャクしているようなので、僕は笑って横に腰掛け、場を和ませようと試みた。

「ほらっ、早和見て。サラッサラの犬が散歩してる!」

 ベンチの前を、大きくて綺麗な毛並みのアフガンハウンドが優雅に通り過ぎる。山手に住むセレブの犬の散歩を、少し大げさに指さしてみせた。すると、早和は眉間に寄った深いしわをやっと上げ、ちらりと目線を上げた。りっくんは、冷えたペットボトルを弟の眉間に押しつけた。

「・・・っやめろよ。」

 嫌そうに早和が顔を背けたが、りっくんは尚も続けた。

「水を飲め!お前は水分を取らなさすぎるんだ、だからそうやってすぐバテる!」

 大きな声に、周りの人が振り返る。

「はずかしいだろ。」

 早和の小さな声はりっくんに届いていない。

「四の五の言わず、飲め!南アルプスの恵みを受けろ!」

 早和は観念してペットボトルを受け取り一口飲んで見せた。そしてすぐにりっくんに突き返す。その投げやりな態度にムカついたのか、りっくんは「全部飲め」と更に強引に突き返した。すると、もう面倒になったのか、早和は深く息を吐いてから一気に残りの水を喉に流し込み、空のペットボトルを投げ返した。ペットボトルはりっくんの腕に当たり虚しい音をたて路面に転がった。

「さわってば・・・。」

 りっくんは青い顔をしてペットボトルを拾い、無言で立ち去った。

「ちょっと、ふたりとも・・・。」

 僕が間を取り持つ暇もなく、二人の険悪な雰囲気は決定的になってしまった。


 帰路は山下公園から一番近い、みなとみらい線の元町中華街駅から地下鉄に乗ることになった。そのまま一緒に家に帰るはずだった窓架が、突然「友達と約束があるから」と駅に残ると言い出した。中学生を一人置いていくのは心配だとお父さん

 が言うので、わじさんが「じゃ俺が」と駅に残った。熱心にスマホ見てたのはそのせいか。友達とかなんとか言って、どうせ相手は女の子なんだろう。

 この後、有ちゃんは仕事に戻るのだし、皆それぞれ予定があるみたいなので、僕は早和とともに真っ直ぐ家に帰ることにする。閉まる電車のドアから手を振って、緑頭に別れを告げ、次の駅で正さんとりっくんが降りた。お父さんは僕ら未成年を心配して、

「じゃあ、有くん頼むね。お仕事がんばって。」

 そう言って、えりりんと一緒に別の駅で降りて行った。有ちゃんは片手を挙げて応え、長い脚を組む。カッコイイ。僕と早和は途中で降りるけど、有ちゃんは終点の渋谷まで乗って行く予定だ。シャカイジンって、カッコイイけど大変なんだな。

  空いてきた車内で、僕と早和と有ちゃんは並んで腰かけ、しばらくすると地下鉄は地上に乗り上げた。西日を反射して車窓が輝いている。僕も有ちゃんも、窓の外に流れる景色をぼんやり見つめていたその時だった。隣で熟睡していたと思っていた早和が、急にガクガクと震えだし、前にのめっていきなり吐いたのだ。

「早和っ!」

 予想外の出来事に一瞬固まってしまった僕に対し、有ちゃんの対応は早かった。真っ白な顔で、ズルズルと前にのめっていく早和の肩に手を回し、しっかりと支えた。車内は騒然となり、電車が次の駅で停車する間、早和は更に二度三度苦しそうに吐いた。僕は必死で早和の背中を擦り、声をかけ続けた。早和は自分に起こったことが信じられないみたいで、真っ白な顔で呆然としてしまっていた。やがて電車のドアが開くと、有ちゃんは早和を脇に抱えるようにして、すぐに駅のホームに連れ出した。乗り合わせた誰かが、急病人を知らせるベルを押してくれたようで、直ぐに若い駅員さんたちが駆け付けて来てくれる。二人は慣れた手つきで後片付けをしてくれて、ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、僕は居合わせた人たちに頭を下げて電車を飛び降りた。

 事態を知らせるアナウンスが流れる中、ホーム先の駅長室から、年配の駅員さんが「担架出しますか?」と声を掛けながら顔を覗かせた。

「大丈夫です。連れて行きます。」

 有ちゃんはそう答え、踞る早和をひっくり返し、抱き上げて運んで行く。どうやら駅長室の仮眠室で休ませてもらえるようだ。僕もそこへ急行した。

 仮眠室は三畳ほどの広さで、簡易ベッドが一台置いてあるだけの、正に仮眠をとるだけの部屋だった。スペースを仕切るパーティションの上部が執務室と繋がっていて、空調が効いている。有ちゃんが早和を寝かせている間に、僕は脱がせた靴をベッド脇に揃えて置いておいた。有ちゃんはテキパキと、早和の服の上下を緩めて明かりを落とし、部屋を出て行った。 駅長さんにお礼を言っている声が聞こえてくる。

 薄暗くなった狭い部屋の中、僕はどうしていいかわからなくて、ベッドに腰掛けて早和の顔を覗き込んだ。

 ひどい顔をしていた。

 血の気の無いこけた頬に、黒く長い睫毛の影が落ちている。

 濃いクマのせいで眼球部分が落ち窪んで見える。唇もカサカサで紫色だ。

 呼吸も浅くて聞こえない。薄い胸が微かに上下していなければ、完全に死んでいるように見える。

 なんだか見るに堪えなくて僕は目を閉じた。瞼の裏に今日の早和の姿がリプレイされる。

 そういえば、休んでばかりいたな。

 ずっと具合悪かったんだね、暑さにバテているだけだと思ってた。

 いつも元気いっぱいなタイプじゃないから気付かなかったよ。 

 気持ち悪いの我慢してたなんて、言ってくれればいいのに。

 ごめんね。


 しばらくして有ちゃんが戻ってきて、そっと仮眠室のドアが開く。

「どうよ。」

 僕は首を振る。すると有ちゃんは、一つ息を吐いてから、目を閉じたままの早和に顔を寄せ、額に手を当てた。

「ひでえ顔してんなあ。」

 有ちゃんは、早和の頬をつまんでみたけど、それでも目を開けなかった。

「お前、しばらくここで休ませてもらえ。俺は仕事戻るけど、わじさんすぐ来てくれるから安心しろ。」

「僕が看てるから大丈夫だよ。」

「帰るとき、駅長さんにちゃんとお礼言ってな。」

「うん。」

 部屋から出て行く有ちゃんの背中に手を振って、視線を早和に戻すと、閉じた瞼から、ひとすじ涙がこぼれていた。僅かに、唇が動く。

「何、どうしたの?」

 なんだろう、苦しいのかな?

 何かほしいの?お水かな?

 それとも、夢を見ているの・・・?

「・・・み・・・な・・・・」

 僕を呼んでる?

「早和、僕はここにいるよ。」

 それきり、早和は黙ってしまった。僕はどうしてあげればいいのか、なぜ自分の名を呼んだのかまるきり分からなかった。

 ただ、心臓はバクバクと音を立て、僕はものすごく動揺していた。

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