憎まれっ子

池崎心渉って書いていけざきあいる☆

 世界チャンピオンになった日の翌々日に、ノートパソコンを二つ折りにして捨てた。

 捨てる前に、自分の名を検索してみたら、くだらない書き込みに溢れた掲示板が引っかかったので、笑いながら読んだ。

『何がチャンピオンだ、中学二年のとき不良を集めて、クラスのおとなしい奴に暴力ふるってたくせに! 北条(きたじょう)死ね!』

『コイツに腐った牛乳飲まされたせいで、学校でウンコ漏らして、さんざんからかわれた末に不登校になった。許さない』

『北条は思いやりのかけらもない人間のクズ。火のついたマッチをクラスメイトの服の中に放り込んで、大ケガさせた』

 誰でも書き込める匿名掲示板に、誰が書き込んだともつかぬ憎悪が渦を巻いている。

「嫉妬お疲れさまです」「尚(なお)規(き)くんはそんな人じゃない」「嘘を書き込んで、がんばっている人を陥れようなんて卑怯」と、擁護も同じ数あって、ヒートアップしている。

 興味と暇のある人間以外はおそらく誰も見ない、ゴミ捨て場のような、インターネットの片隅で。

「ご苦労さん」

 北条尚規本人は、まるで気に病むことなく、呆れたようにつぶやいて、パソコンごとゴミ袋に放り込む。ちょうど、キャベツの傷んでいる葉を、すみついている虫もろとも廃棄するように。

 パソコンを処分したのは、書き込みに気分を害したからではない。世界王座を奪取したのを機に、これまで以上にボクシングに専念しようと決めたからだ。

 北条を信じて、彼の代わりに怒ってくれているファンもいるようだが、残念ながら、書き込まれている悪事はすべて事実である。小中高と、北条は、誰の手にも負えないいじめっ子だった。「いじめっ子」なんて軽い言葉でくくってはいけないようなこともたくさんしたが、こういった人間を指す言葉が他にないのだからしかたがない。おまけに北条は、大人になった今でも、自分のしたことについて、まったく反省していなかった。不登校になった者や、のちに自殺した者もいるのは知っているが、すべて相手が弱かったからいけなかったのだと今でも思っている。

(弱虫がごちゃごちゃほざいてもなぁ)

 世の中は結局、強い者が手綱を握って操るようにできているのだ。ネット上で過去の悪事をあれこれ暴かれたって、現実世界の北条には、傷ひとつつけられない。

「せいぜい、狭いところで思い出話に浸って、時間をムダにするんだな」

 ふん、と軽くあざ笑って、分別していないゴミを、夜中のうちに出しに行く。

 そのまま少しバイクで走って、仲間と朝まで飲む予定だった。



 北条は、明朗快活でよくしゃべるので、勤め先の介護施設では、誰からも慕われていた。非正規職員ばかりの職場だが、「正職員にならないか」という上からの話もある。ありがたい話ではあるものの、正職員になると仕事に縛られるので、北条は「ボクシングを優先したいから」と辞退していた。

 女性の多い職場で、力持ちの北条は頼りにされている。入浴介助や車椅子での移動の際なども、人一倍働いて、お年寄りたちから感謝されていた。

「ありがとう、北条くん。うちの孫、ニートなんだけどね、あの子も北条くんみたいに人の役に立つ仕事してくれたらどんなにいいか」

「きっとなれますよ。俺はたいしたことないッスけど、村上さんみたいに」

 北条は謙遜しつつ、その場にいるいちばん年上の女性職員を持ち上げる。ちょっと太めの彼女は、「まあ」と頬に手を当てて喜んでいた。北条はとにかく要領がよくて、お世辞もうまい。いやみにならないよう、素朴な感じに人を褒めるので、好青年としてのイメージが定着している。昔いじめをしていたことなど、被害者が告発しても誰も信じないだろう。

 学生時代も、その外面のよさを利用して、追及をかわしていた。普段はクラスのリーダー的存在として人望を集め、最下層の目障りな生徒にだけつらく当たる。標的に選ぶのは、誰が見ても他人より劣っているのが明白な、おとなしくて暗い男子だ。一応、女子はいじめない。女は仲間意識が強いのと、妙なところで正義感が強いので、同性がいじめられているのを見ると、その女子が自分とは関係がなくとも、北条を憎む可能性がある。

 いじめる際も、細心の注意を払って、あくまでからかっている・いじっている程度に見えるように仕組んでいた。暴行を加えるのは裏で、人目につかないようにやる。被害者がいじめを口外しないように、下半身の写真を撮るとか、羞恥心を傷つける手口を選ぶ。

 こうして、仲間数人との絆を確かめあいながら一人をいじめ抜き、一年の間にそいつが不登校になったり、精神を病んだりするのが何よりの楽しみだった。

 勉強はよく分からなくてほとんどついていけず、スポーツは得意だったが、団体競技で団結を要求されたり、さわやかさを求められたりするのがいやだった。それでも学校生活を放棄せずにすんだのは、いじめという娯楽があったからに他ならない。

 北条は、最初陸上部に所属していたものの、「努力」とか「友情」とかダサい話を熱く語る顧問がいやで、すぐにやめた。不良仲間に誘われてボクシングジムに通い始めたら、そっちのほうが合っていて、夢中になった。そこでも、場に慣れてくると、会長やトレーナーの目を盗んで気に入らない奴をいじめ、退会に追い込んだ。やめた奴は理由もろくに語らなかったので、「根性がない」と、事情を知らない指導者たちはぼやいていた。

 北条は、いい年をして悪趣味なことをしている自分に対し、少しも嫌悪感を抱いていない。むしろ、すがすがしいくらいに、すべて相手のせいにしてあざ笑っている。

(されるほうが百パー悪い)

 この社会は弱肉強食だ。弱い者が何をしようと、意味がない。他人のレベルを瞬時に見抜き、上だと思ったら従って、同じと判定したら仲良くして、下だと感じたら踏みつぶす。それだけだ。

 実際、「クズ」と判断した者をどれだけ排除したところで、北条はまるでしっぺ返しなど受けず、順風満帆な人生を歩んでいる。ボクサーとしての戦績は、一度も黒星をつけられることなくKO記録を伸ばしているし、この間はついに世界のベルトを獲った。勤務先の施設でもみんなに愛されていて、試合があると、職員一同見に来てくれる。寝たきりのお年寄りたちも、テレビの前で応援してくれていた。

 北条は、介護が必要な本当の弱者に対しては、優しい気持ちを持っている。ずっと施設での生活で、娯楽の少ない利用者たちを喜ばせられることは、心からうれしいと思っていた。

 世界王座を奪取してからも、これまでと変わらない態度で、いや、名を得たぶんこれまで以上に、優しく接していけたらと。

 チャンピオンになってから初めての出勤の日、職場に顔を出したら、レクリエーションルームに集まっていた老人たちが、いっせいに拍手で迎えてくれた。

「おめでとう、北条くん」

 入れ歯をはめていても聞き取りづらいしわがれた声で、何度も何度も祝福された。

「ありがとうございます。うれしいッス」

 笑みを浮かべて頭を下げながら、「生きていてよかった」と、北条は素直に思う。かつて自分が死に追いやったクラスメイトは、二度とこんなふうに喜べないのだなどと、ついでに考えて自責の念に駆られることはない。どうせ生きていたところで、あんなウジ虫は栄光など掴めるはずがなく、世間に疎まれるだけだと、いじめていた当時から強く思い込んでいたのだから。

「北条くん、あのねぇ。うちの子、いじめられてるの。学校で……」

 車椅子を押して散歩へ行くとき、入所者の老婆が、ぼそりぼそりと悲しげに言った。認知症がだいぶ進んでいる彼女の息子は、もうとっくに学校を卒業して、頭頂の禿げ上がったオヤジになっている。

 それでも、彼女の中にはいつまでも、いじめられていた弱い少年だったころの息子が残っているのだ。子どもがいじめられたことがショックで、いつまでも忘れられないのかもしれない。

「それはひどいですね。俺が息子さんの友達だったら、息子さんいじめてる奴、ぶん殴ってやりますよ。……あ、もちろん、そんなことしちゃいけないですけど」

 北条は、ゆっくりと車椅子を押しながら言う。

「ありがとねぇ、アンタは、優しいねぇ……」

 涙もろい老婆は、北条の言葉に感謝して、涙を流す。拝むような仕草に、北条は少し心苦しくなった。

 いじめが、被害者の親の心にも深い傷を残すのだということにまでは、気が回らない。気づいたとしても、気づかないふりをしている。だいたい、彼女の息子と自分とは世代も違うし、今や自分の父でもおかしくないような中年男の、少年時代の姿など想像もできなかった。想像できないようなものは、目の前のものしか信じない北条にとって、存在しないのと同じだ。

 北条は、世界を制した腕で、枯れ木のような老婆の車椅子を押して、もう何度も聞かされた、彼女の息子の話に耳を傾けた。

 いつか、ボクシング界を引退する日が来たら、この施設に正規職員で就職して、彼女のような、思い出に生きる人たちを優しく受け止めたい。北条は改めて、そんな夢を抱く。拳二つに夢を託して、荒々しい世界に生きている彼にとって、介護施設は、唯一、魂がまどろめる場所だった。



「ナオ、何そんなとこぼーっと突っ立ってんのぉ? え? おしっこ漏らしたぁ? マジ、ウケルぅー」

 明るい茶色の髪の女が、自分を見下ろして、ぱんぱん手を叩いて笑い転げている。猿か何かみたいだ。

 ひとしきり笑うと、彼女は手近にあったぞうきんを放り投げてくる。何を拭いたのか、腐った臭いを放つぞうきんは、びしゃりと北条の顔に命中した。

「オラ、さっさと拭けよ、自分で。何で漏らすんだよ! オマエみたいなクズはなぁ、生まれてこなきゃよかったんだよ、本当に。生むんじゃなかったよ!」

 酔っているのか、アルコールくさい息を吐きながら、女は少年の頭を、怒りに任せて殴り、小さな身体を突き飛ばす。

 そう、この女は北条の母だ。五歳のころの、最初の記憶。

 十七歳で、望まない妊娠をした母親は、同級生と事実婚状態で暮らし始めたものの、まもなく離婚した。新しい男ができると子どもが邪魔になり、ストレスがたまっていたこともあって、北条を虐待し始めた。

 北条は、母のストレスを一身に受けたせいで、落ち着きがなくなり、突然泣いたりかんしゃくを起こしたり、お漏らししたりするようになった。

 母の新しい恋人も、北条の存在が気に食わないのか、「遊んでやる」といって、北条に暴力をふるう。今ならぜったい負けない自信があるが、幼い日の北条には、どうあがいても勝てない相手だった。

 母の罵声がエスカレートして、「死ね、死ね、死ね!」と壁に反響して部屋いっぱいになったところで、北条はいつも目を覚ます。

(何だ、またガキのころの夢か)

 シーツにくるまった裸の上半身に、びっしょり汗をかいていた。

 本人は「たいしたことではない」と忘れようとしているものの、未だに時折、このころを夢に見てしまう。こんなに強くなったのに、心のどこかにはまだ弱い部分が残っていると突きつけられたようで、北条は、この夢を見た日は、一日機嫌が悪かった。

「北条さん、今のボディー、すっげえ音しましたよね。痛かったッス」

 スパーリングで、腹を押さえてうずくまった後輩に言われ、北条は不機嫌な顔のまま、無言でうなずく。

 確かにこのラウンドは、まるで手加減できなくて、不良時代に街で喧嘩していたときのように、殺す気で攻めてしまった。なぜこんなに気持ちが荒れてしまうのか、自分でもよく分からない。

「チャンピオンになったんやもんなぁ、北条。次は防衛戦に向けて強うなっていかななぁ」

 トレーナーに、バシバシ背中を叩かれて、北条は苦笑いした。

 入会したばかりのころから、彼は父親のように接してくれている。誰に対してもそうだ。国木田(くにきだ)というのだが、北条がボクシングに惹かれたのは、この男の影響も大きい。

 最初、自分を誘った不良仲間としか口をきかず、無口だった北条を、手招きして輪に誘ったのも彼だ。ジムの近くのサウナや銭湯や、おいしい焼き肉屋を教えてくれて、試合に勝ったときは奢りで連れていってくれた。

 何より、リング上で戦っているとき、コーナーに戻った際のアドバイスや処置が誰より熱い。口に出しては言わないものの、デビュー線でKO勝利を飾ったときに思いきり抱きしめられたのがうれしくて、何度も体験したいがゆえに強くなってしまったのだ。もちろん、今では、「ベルトを守りたい」「もっと上をめざしたい」といったべつの目標が中心にあるが、最初のころはただひたすら、抱きしめられたくてやっていた。

 いい年をして恥ずかしいから、口が裂けても言わなかったし、「女々しくて気持ち悪い」と自分でも呆れているのだが。

 北条は、「寂しい」という感情を抱くことを自分に許さない男だった。寂しい、なんて自分には無縁の感情のはずだ。虐待を受けていたときでさえ、母が自分を置いて家を出ていった小学五年生のときでさえ、そんな感情は湧かなかった。男に刺されて死んだと聞いたときなど、おかしくて笑いがこみあげたくらいだ。

「ウケルぅー」

 母親だと思いたくもない女の口癖を真似して、北条は一人、トイレで、どこかが壊れたように笑い続けた。

 そうやって何事もドライに乗り切ってきたのだから、今さら「寂しい」とか「愛が欲しい」なんて、弱虫みたいな感情は抱きたくない。

 おおざっぱな性格の国木田が、北条の心の奥底まで覗かずにいてくれたのは、ありがたいことだった。

「それじゃ、次ミット打ちな。北条、こっち」

 リングの上の国木田に手招きされて、トイレから戻った北条は、少し平静を取り戻して、ロープをくぐる。

 母とその恋人からさんざん殴られた自分が、死なずにこうしてグローブをはめていることがある意味奇跡のように思われて、北条の口元に、ふっと笑みが浮かんだ。自嘲のような安堵のような、少し悲しい笑みだった。



 いじめといったって、そんなに重大なことをしでかしたわけじゃない。ちょっとからかってやったら、小枝みたいにぽきんと折れてしまったのだ。結果としての、被害者の自殺や不登校を目にして、滅入って離れていった仲間もいるが、そうでない者と北条の仲は、いじめによってより深まった。ちょうど、ライオンが群で狩りをして、絆を強めるようなものだ。

 しかし、食べるために草食動物を狩る肉食獣と違って、北条たちの目的は、ただいたぶっておもちゃにすることだけなのだから、たちが悪い。

 クラスのいじめ加害者の王の座に君臨した北条は、テレビや漫画などから知識を仕入れては、自分の嗜虐心を満足させるために、罪もないクラスメイトを生け贄にした。寒い日に、服を取り上げて空き教室に一晩監禁したり、教科書や体操着などを燃やして困らせたり。数人でよってたかって暴行を加えたこともあるし、腐った牛乳を無理やり飲ませたこともある。とにかく、人のいやがる顔、恐怖でひきつる顔、悲鳴や泣き声を聞くのが楽しくてたまらなかった。

 他のメンバーはどう感じていたのか知らないが、一度だけ、「もう、やめようぜ」と震える手で肩を掴まれたことがある。

 高校一年のとき、クラスで孤立している地味な少年が気に食わなくて、ことあるごとに罵倒したり暴力をふるったりしていた。階段から突き落として骨折させたこともある。なぜそんなに憎かったのかは分からない。彼、戌伏はただ、内気で口下手で、休み時間も勉強に費やしていただけだ。北条に危害を加えたことは一度もない。

 それなのに、いじめは日ごとにエスカレートして、北条と仲間たちは、彼を校舎の屋上に呼び出した。来なければいいのに、戌伏は足を運んでしまう。行かなければ何をされるか分からないからと、怯えているのだ。もちろん、いじめられていることは誰にも相談できずにいた。

「てめぇ、いつもいつも陰気くせえ顔しやがって、ウゼエんだよ!」

 加害者たちは、いつものように罵った後、戌伏の制服のズボンと下着をはぎ取り、自慰を強要して、その様子をケータイの動画機能で撮影した。

 ここまでは、戌伏以外みんな笑っていたし、加害者たちにとっては、悪戯の延長という認識だったのだ。

 さんざん弄んで辱めて、もう解放してやるか、と誰かが言ったのに対して、北条が首を振った。

「せっかくだし、もうちょっと遊んでやろうぜ」

 何を思ったのか、戌伏の手首を拘束し、とんでもないことを提案した。

「コイツ、マワさねえ?」

 さすがに、みんなすぐにはうなずかなかったが、リーダーとして絶対的な権力を持っている北条に逆らうのが怖くて、従った。

 北条は、この後の一時間ほどの記憶をはっきり持っていない。どうでもいいから忘れたのだと、思い込もうとしている。行為の詳細は忘れたのに、この短い時間に、自分の中に激しくフラッシュバックが起こっていたことだけははっきり覚えている。

 北条は、虐待されていた幼いころに、母の恋人から、おもしろ半分で犯されたことがある。死にたい、と自ら強く願ったのは、このときが最初で最後だ。子どもは希死念慮なんて抱かないというのは、嘘か、大人の勝手な理屈でしかない。

 何年も前のいやな記憶を蘇らせながら、北条は、戌伏に、輪姦という最もつらいリンチを喰らわせた。何度か、思いどおりにならなかった瞬間に、顔面を殴りつけたかもしれない。気づけば右手の甲が血まみれで、制服にも返り血が飛んでいた。

「北条、もう……ヤバイよ、やめようぜ」

 相手を壊してしまう寸前で、仲間の一人が止めてくれたのだが、そのことすら曖昧にしか覚えていない。当時目の前に鏡があれば、危害を加えていた北条自身も、相当追い詰められた顔をしていたのだと、気づいただろう。

 その翌日に、戌伏は自宅のマンションの屋上から飛び降りて、命を絶った。遺書は見つからなかったらしく、いじめが原因とは断定されなかったために、うやむやになってしまった。遺族は何度も高校に来たが、誰もが固く口を閉ざして何も語らなかったので、戌伏の死因は両親にも分からないままだった。残酷な真実を知るより、そのほうがよかったのかもしれない。

 北条は、高校一年の冬にあったこの事件を、春休みまでに忘れ、二年に進級したら、新しいクラスで、さっそく、新たな標的を探し出していじめ始めた。新しいおもちゃは案外もろく、夏休み前に壊れてしまって、学校に姿を現さなくなった。

 退屈していたところで、不良仲間にボクシングジムに誘われ、北条はようやく、正しくのめりこめることを見つけて、今に至っている。ジムに入ってからも、弱い者をあぶり出して排除する癖は治らなかったが、その一方で、猫かぶりもうまくなり、会長やトレーナーをはじめ、誰もが彼を厚く信頼するようになっていた。

 いじめられている者は所詮、地下からいくら呪っても、報われないようにできているのかもしれなかった。



「森口太一? 知らないですね、全然。ランキング入ってるんですか?」

「いや、まだ入ってないよ。今度、ランク入りをかけて、七位の奴とやるみたいだけどね。なんか妙におまえを意識してる。同じ階級の王者を倒したいと強く願うのは、選手なら誰でも同じだろうが、彼の場合はちょっと……」

 会長は、そこで言葉に詰まったように苦笑いする。何か、言いにくいことがあるのだろうが、北条は、こんなふうに話の途中でじらされるのは苦手だ。

「俺の命でも狙ってる感じなんすか? おもしろいッスね」

 はっ、と鼻で笑って、更衣室に入った。施設で着ている、介護用の機能的なジャージを脱ぎ捨て、手早く畳んで、トレーニングウェアに着替える。

 会議があって、ジムに来るのが遅くなってしまったが、一分でも、時間があるなら練習したい。まだ次の防衛戦の相手は決まっていなかったが、これからも戦い続けなければならないのは確かだ。

 目の前に現われる敵は、誰であろうとすべて倒すつもりだったから、これまで特別に誰かを意識したことはなかったが、さっき聞いた名が引っかかっている。森口太一というのは、どんな男なのだろう。

(俺を妙に意識してる、なんて……)

 準備体操をすませ、鏡の前でシャドーボクシングをする北条の喉が、ククッと小さな笑いで震える。まだランキングにさえ入っていないようだが、ここまで追い上げてこられたら、とことんつきあってやろうと思っている。

 北条は、試合に関して、恐怖心を抱いたことは一度もなかった。誰が相手だろうと、かみつくような闘争心をかきたてて挑んできた。黒星をつけられたこともあるが、自信を失ったことはない。「俺は強い、俺は強い」と、リングの上でも私生活でも、自分に言い聞かせながら前へ進んできた。

 以前、まだランカーだったころに、多巻幸弘という選手と戦ったことがある。相手の中に動揺があるのを見抜いてしまったから、最初から、こいつにはぜったい負けないだろうと思っていた。計量のときちらっと目が合ったものの、多巻がすぐ視線をそらしたので、話しかけなかった。べつに、試合前だからといって、相手にかけたい言葉などない。

 北条が多巻を覚えているのは、彼の顔がどことなく、自ら命を絶った戌伏に似ていたからだ。北条は、戌伏の顔の細かい造作などは忘れてしまっているのだが、あの顔に漂っていた弱者の雰囲気や、「いじめてくれ」と言わんばかりの卑屈な表情はよく記憶している。ちょうど、肉食獣が、獲物一匹一匹の特徴ではなく、獲物として追うべき生き物の条件を心得ていることのように。北条も、「いじめていい奴」の特徴を念頭に置いて、目の前に現れる者と照らし合わせているのだ。普段はどうだか知らないが、あの日の多巻は、その条件にみごとあてはまっていて、北条は即座に「殺してやる」と思った。もちろん、実際に命まで奪うことはないが、気持ちの上では、それ以外にありえなかったのだ。

 自分に負けた後、多巻が相当なショックを受けているらしいと人づてに聞いたときは、いい気味だと感じた。あれから二年近く経ち、多巻はまだボクシングを続けているようだが、ランキング入りにはほど遠い試合をしているらしい。このまま、花を咲かせることもなく、ボクシング人生を終えるのだろう。時給の安いファミレスでアルバイトをしていると聞いたが、そちらのほうがお似合いなのではないだろうか。

 北条はとにかく、弱い人間に冷たい。もちろん、高齢者や障害者や子どもなど、本当に守られるべき弱者には優しいのだが、本人の性格や能力が原因の弱者は、排除するべきだと考えている。かつて戌伏が自殺したときも、いちばんに感じたのは、罪悪感ではなく、空気を乱す者に制裁を加えたことの達成感だった。

 幼いころ、自分を虐待した母やその恋人たちを恨んでいたが、今は彼らの側に立っている。おそらく彼らも、奇妙な使命感に駆られて、自分を排除しようとしていたのだろうと、理解できるようになった。

 しかし、北条はその淘汰に負けず、生き延びてしまったのだ。そして、最も憎んだ人種と同じ種類の人間になった。今のところ、彼の周囲にそのことを知る者はいないが、真実が知れ渡ったらきっと、幻滅されるだろう。もっとも、優秀な好青年の北条と、いじめで人を追い込むような卑劣漢の間には、イメージにかなりの差があるから、誰も信じない可能性もある。

(俺はどこまでも運がいいから大丈夫だ)

 北条は、根拠もなく自信を持っていた。

 それは、非道な虐待によって傷ついた心を守るために、長い年月をかけて自分で用意した、悲しい鈍色の鎧でもあった。



 二週間後、国木田に誘われて、二人で食事をした。彼の行きつけの、韓国料理の店だ。トッポギやサムゲタン、石焼きビビンバなどの皿を前に、国木田はなぜか無口だった。いつもなら、晩飯には大勢を誘うのに。北条一人を呼びだしたのも、何か特別な話があるからだろう。

 切り出すのをためらっている彼の、深刻な表情に気づかないふりをして、北条は箸を動かした。そういえば国木田は、今日の練習の間もずっと無口で、眉間に皺を寄せていた。何か、あったのだろうか。

 沈黙に耐えかねて北条が口を開く前に、国木田が声を出した。

「北条、おまえ、森口って奴、知らないって言ったよな」

「はい」

 それがどうしたのだろう。

 怪訝な顔をした北条に、国木田が低いトーンで続ける。

「便所の落書きみたいな、ネット上の話題だから、違うかったら違うって否定しろよ。あのな……」

 ーーおまえが昔、森口太一の弟を自殺に追い込んだって噂になってるんだが、ホントか? そいつの前の名字、戌伏っていうらしいんだが、なんか心当たりないか?

「はぁ」

 北条は、べつだん驚きもしないで「あぁ」と、胸中で一人納得した。森口太一って、あの戌伏の兄貴だったのか、妙な縁もあるもんだな、と。

「もちろんぜんぶ、根拠のないでたらめッスよ。俺がそんなん、するはずないじゃないですか」

 口では完全に否定して、軽く笑う。

 料理はまだ、おいしかった。北条が動揺していない証拠に。

 もっと気の弱い人間なら、過去の悪事を暴かれて、何も喉を通らなくなってしまう局面かもしれないが、北条はこの程度では揺らがなかった。平然とサムゲタンのスープをすすり続けていた。

「そうだよな。ネットに書いてあることなんか、嘘ばっかりだもんなぁ。どいつもこいつも暇で、人を妬んだり貶めたり……。面倒な世の中だから、おまえも、人に恨まれるような人間にだけはなるなよ」

 北条の言葉を簡単に信じた国木田は、元の彼に戻って、北京ダックのおいしいところを北条にすすめてきた。

 恨まれるようなひどい人間になら、「もうなっている」と、北条は肉を食いちぎりながら思う。パソコンを捨ててしまったからもうネットはできないし、ケータイでちまちま見るのも面倒くさくて、チェックする気もないが、いったいどんな噂が出回っているのか少し気になる。

 自殺に追い込んだ話は、森口太一が広めたのか、それとも、昔の共犯者が裏切ったのだろうか。どちらにしたって、ネット上でいくら騒いだところで、現実の北条には何の影響も与えない。

 これで、森口太一が自分の命を狙っている理由が、はっきり分かった。弟の敵をうって無念を晴らしたいのだろう。

(愚かなことだ)

 漫画じゃあるまいし、と北条は相手の熱さを冷笑で受けとめる。

 北条に勝ったところで、彼の弟が生き返ってくるわけじゃない。ベルトが欲しいだけのくせに、正義漢ぶった動機づけをしたりして、滑稽な奴だ。北条は、そんな男にだけはぜったいに負けない自信がある。

「森口の試合、あさってでしたっけ? 対策立てるために、観てみます。まだチケットありますよね、きっと」

 ケータイで他の対戦カードも調べ、平日のノンタイトルの試合なので、当日券はあるだろうと予想した。

 森口が勝っても、対戦相手が勝っても、未来の挑戦者を見ることになる北条にとっては、おもしろい試合になりそうだった。



 べつに、何かが怖かったわけではない。著名人のはしくれだとアピールしたかったわけでもない。

 けれど、森口太一と彼の周囲の人間に見つかりたくなかったので、北条は、キャップとマスクで顔を隠して会場へ向かった。いつもは友人や後輩といっしょに行くのだが、今日は一人だ。後ろのほうの指定席を購入して、一般の観客に紛れていた。

 偶然にも、北条の席は、森口の応援団の陣取る赤コーナーの付近で、入場してくる森口を近くから見ることができる位置にあった。

 観戦するときは、律儀に第一試合から見るようにしている北条は、開場してすぐに席に着いた。

 リングの上では、今日の試合に出場する選手が、ウォーミングアップをして、試合のイメージを作っている。まだ初々しい感じのグリーンボーイを見ると、かつての自分を思いだして、懐かしい気分になった。

 やがて、まだほとんど埋まっていない会場の中心でゴングが鳴り響き、試合が始まる。真っ白な蛍光灯が照らす中、リング上の二人にとっては、人生のハイライトシーンかも知れない大切な時間が始まった。

 第一試合の四回戦は、青コーナーの選手がアグレッシブに攻めて、二ラウンド一分十秒でKO勝ちした。赤コーナーの選手は、デビュー線で出鼻をくじかれて、腕で顔を覆ってはけていく。

 何度も見てきた勝ちと負けのドラマが、今日も、狭い会場で繰り広げられるのを、北条は冷静な目で見つめていた。

 いよいよ、メインイベントの森口太一VS先(さき)瀬(せ)克也(かつや)戦の時間がくる。気づけば、空席は完全に埋まっていて、立ち見も多く出ていた。「必勝、度胸 イナヅマの先瀬」「江戸川の拳神 森口太一」などとおおげさなキャッチフレーズが躍る垂れ幕を、それぞれの支援者が、コーナー付近でかまえている。

 リングアナンサーが、マイクに向かって声を張り上げた。

『ただいまより、本日のメインイベント、丸丸級十回戦を行います。まずは両選手、リングに入場です』

 低く轟くロックをBGMに、まずは青コーナーの先瀬が入ってくる。お調子者らしく、高く拳を掲げて、にこやかに手を振っていた。

 次は森口か、と北条は、赤コーナーの入り口に鋭い視線を向ける。彼の顔を見るのはこれが初めてだった。

 透明感あふれるサウンドで、もったいをつけて、森口太一がようやく姿を現す。一度も染めたことがなさそうな黒髪、痛々しいほどに研ぎ澄まされた身体、太い眉に、昔の劇画の主人公みたいな、まっすぐな瞳。北条のきらいなタイプだった。自殺した弟に似ているかどうか、弟の顔がはっきり思い出せないので比べようがない。

 レフェリーが二人を中央にまねいて注意を与え、「ボックス!」の声で試合が始まった。  

 森口は、これ以上できないほどスパーリングを重ねたと、第一ラウンドのインターバルでアナウンサーが紹介したが、どうも今日は調子が出ないようだ。身体に力が入りすぎていて、うまく動けていないのが、客席の北条にもわかる。

 コンディションが悪かろうと、相手と上手にかみ合わなくて長所を殺されようと、試合は無常に進んでいく。チャンスをつかむのも、千載一遇を逃すのも、たった一回の試合で決まる上に、やり直しはきかない。パンチの一つさえも、出したものは戻ってこない。 森口太一は、第三ラウンドでダウンを奪われ、すぐに立ったものの、足にダメージを残してしまった。

「先瀬、相手ふらついてるぞ! パンチきいてる! 腹打て、腹!」

 すかさず、先瀬の応援団が声援を投げる。 森口はガードを下げ、ウィービングを効果的に使い始めて、ようやく少し持ち直したように見えたが、第六ラウンドで目蓋を切られてしまった。噴き出した血が、彼の視界を塞いでいる。

 今のアイツに、俺が見えるだろうかと北条はふと考えた。歯を見せて必死の形相になっている彼は、まさか同じ空間に憎い仇がいるとは思っていないだろう。彼の目の前に今あるのは、何なのだろうか。死んだ弟の数少ない笑顔か? 殺しても殺したりない北条の幻か? それとも、ランクを上げるという、ボクサーとしての揺るぎない目標だろうか?

 まばたきも控えて見守っていた北条の目の前で、気迫の試合は突然終わった。

 右目蓋に加えて左の目の上をカットし、さらに鼻血を流し始めた森口の傷が思うより深く、ドクターとの協議の末に、レフェリーが試合を止めたのだ。

 八ラウンド二分二十八秒。

 森口の腫れた瞳から、赤い涙が溢れるのを、北条は見た。退場する際に一瞬目があったが、相手はこちらに気づかなかっただろう。会長に支えられて、何とか歩いているように見えた。

 リング上では勝利者インタビューが始まったが、北条はそれを聞かずに、そっと席を離れる。

 試合会場から少し離れた選手控え室のほうへ、息を殺して近づいてみた。さすがに、そちらへ続く廊下には、関係者以外はいないようだが、上下ジャージの北条は、どこかのジムの練習生のように見えたのか、特に振り返られなかった。

 いちばん奥の個室のドアは、半分ほど開いている。たった今、森口が入っていった部屋だろう。中からは見えない位置で足をとめた北条の耳に、ドン、ドン、と何かを叩く音が聞こえた。壁か、テーブルか。力任せに、不甲斐なさを嘆くように、拳を叩きつけている音だ。

「きたじょぉおおおおーっ」

 絞り出すような、涙混じりの絶叫が、ふいに響き渡った。

「落ち着け、落ち着こう、な。森口……」

 会長か仲間か、彼より年上の男が必死になだめているのがわかる。

 森口は、声をあげて泣き出した。いい年をした男とは思えないような、感情をむき出しにした激しい泣き方だった。

(みっともない)

 北条は、自身も敗北の痛みが分かるのに、彼の涙を切り捨てた。この試合に負けたからというより、北条と戦って敵討ちできる機会を失ったから泣いているのだろうということを、感じ取ったからでもある。

(やっぱり、いじめられるような奴は、家族もたいしたことないんだな)

 北条は背を向けてその場を去る。

 無関係な選手として見れば、彼は確かに、最後まで折れずにいい試合をしたが、弟の敵討ちをかかげてあの程度では、自分と戦う資格はないと感じた。

 おそらく、この先、北条と戌伏の兄が戦うことはない。森口太一はせいぜい、哀れな弱虫の弟の墓参りでもして過ごせばいい、と北条は密かに口角を上げる。

 この世は間違いなく、強い者に有利なようにできているのだ。

 リングの上に限らずとも。



 森口太一が敗れて以降、注目は勝者の先瀬のほうに集まるようになり、森口太一が弟の仇を討とうとしているという噂もいつのまにか消えた。北条の過去や真実は、結局明るみに出ることもないままだ。

 森口はやがて、疲れ果てたのか、引退を表明してひっそりと消えた。先瀬との一戦が、最後の試合になった。

 北条は、視界から消えた彼のことなどすっかり忘れ、これまでどおりの、仕事とトレーニングに明け暮れる日々を送っていた。近いうちに、初めての防衛戦が控えている。対戦相手は、陣営がいろいろ協議した結果、先瀬ではなく、ランキング三位の田(た)並(なみ)という選手に決まった。二十六歳のサウスポーで、なかなか厄介な戦い方をするようだと聞かされている。

「北条くん、次の試合もがんばってね」

「わしらも、応援しとるからな」

 施設の職員やお年寄りたちに励まされて、北条は、期待に応えるべく毎日ロードワークに励んでいた。試合が近いので、仕事は休ませてもらっている。普段の勤務態度がまじめなので、みんな喜んで、いない間の負担を分かち合ってくれた。

 北条は、神社に続く長い階段や山道など、自分の気に入っているコースを走る。静かで人も少ないので、音楽を聴きながらのロードワークにぴったりだ。

 食事を減らして、感覚が鋭利になっているせいか、周囲の音や気配が、よりはっきりと目や耳に入ってくる。静かな道さえ騒がしく思えるのはそのためかもしれないが、今回は少し、いつもと違っていた。

(誰か、つけてきてるのか?)

 足音はしないが、視線と微かな呼吸を背後に感じる。

 最近、ひとけのない場所での通り魔や強盗事件も増えているし、ひょっとしたら狙われているのかもしれない。

(それにしても、気持ち悪い視線だな)

 まるでストーカーのように、じっとりと全身に絡みついてくるのが、怖い。「誰でもいい」という無差別な犯罪者ではなくて、北条個人を標的にしているのだろうか。

 殺意を含んで睨むでもなく、カメラのように感情のない目で、ひたすら北条を追ってくる。気味が悪かったが、北条は誰にも相談せず、お気に入りのロードワークコースを変えることもしないで、毎日同じように走っていた。

 ときどき後ろを振り返ってみるものの、背後にはただ穏やかな景色が広がっているだけで、誰の姿もないのだった。



 北条の初防衛戦の日に、同じジムから出場する選手がいる。皆瀬(みなせ)という、アマチュアボクシング出身の十九歳だ。伏し目がちで、控え目な性格が顔に表れている。肌が白く、睫毛が長くて、キャラメル色の髪をしている。人当たりがよくて優しいのに、練習生たちには嫌われていた。

 会長が、目に見えて彼を贔屓するからだ。北条ももちろん、彼を嫌っている。けなげで裏表のないところが、鼻につくのだ。入会したばかりのころ、亡くなった母との思い出を、幸せそうに話していたのも、何となく憎らしかった。

 北条など、世界チャンピオンになっても、親に感謝することも、親に誇りに思われることもない。永久に。いい年をしてそんなことでひがむのも虚しいので、意識しないようにしているが、顔を見るたびに、自分の中の欠落した部分が刺激されて、気分が悪い。

 会長の手前、みな、ごく普通の態度で皆瀬に接していたが、練習の後に彼を誘うことは皆無だった。合宿で民宿に泊まったときなど、部屋では誰もが彼を無視していた。

 ライセンスを所持するプロボクサーの中でいちばん若い彼は、その仕打ちに戸惑っていたが、誰かに訴えることはしなかったようだ。トレーナーも会長も、水面下のいじめに気づいていない。

 北条はそれをいいことに、皆瀬をストレスのはけ口にして楽しんでいた。べつに、そうしなければ解消できない鬱憤などないに等しいのだが、彼の場合、すでに中毒のようになっていて、常に誰かをいじめていないと落ち着かないのだ。健康な男が自慰をするのと同じ感覚で、北条は人をいじめていた。

 今の標的の皆瀬は、なかなかしぶとくて、ちょっとやそっとでは折れなさそうだ。一時期、胃潰瘍で休んでいたが、治ったらすぐに復帰してきた。リングシューズの紐を切ったり、グローブを接着剤でくっつけてしまったりして、じわじわ追い詰めているものの、それもすでに飽きてきている。

(何か、けってーてきなダメージ与えられねーかな)

 なぶり続けて針のむしろを味わわせてやるのも楽しいが、そろそろ決定打を出さなければ。

 更衣室に最後まで残って着替えながら、北条は考えている。三つ隣は、皆瀬のロッカーだった。縦長で、コートもかけられるようになっている。通い始めて日の浅い練習生のロッカーは固定ではないが、ライセンスを持っているボクサーは、自分の名前を貼った、専用のロッカーを使っている。

 北条は、躊躇することなく、皆瀬のロッカーを開けた。ジムのロッカーには鍵がついていないので、誰でも開けられる。しょっちゅう私物にいたずらされる皆瀬は、警戒しているのか、ロッカーの中に何も残していなかった。

 ちっと舌打ちして、そのまま乱暴に扉を閉めようとした北条は、ロッカーの隅に、赤黒いものが落ちているのに気づいた。携帯電話だ。ダークレッドのやや古い型のもので、暗いロッカーのすみにあると、目につきにくい。バッグから落として、気づかずに忘れて帰ってしまったのだろうか。

(おもしれぇ)

 皆瀬はどこまでも運が悪い。そして、北条はその逆だ。いじめのターゲットの弱みを、効率よく入手してしまう。

 北条は、当然のようにケータイを手にとって、中を見た。うかつにも、皆瀬はロックをかけていなかった。

 何かおもしろいネタがないかと、北条は、インターネット接続の履歴と、お気に入りリストを見る。残念ながら、天気や飲食店のサイトばかりで、特別からかいのネタになるようなものはなかった。

 次に、発着信履歴とメールボックスを確認する。発着信の履歴は、家族以外は名が登録されていないので、誰と電話していたのか分からなかった。内容が残っているぶん、メールのほうがおもしろい。

 ちょうど、十分ほど前に来たばかりのメールが、未読で残っていた。志沢(しざわ)くん、と登録されている。ジムのメンバーではないから、友人か何かだろう。

『利(り)矢(や)が今、分娩室入った』

 件名と、そのいくつか前のメールから推測すると、皆瀬と彼は幼なじみで、志沢は、彼女の利矢と結婚したばかりらしい。妊婦は体調が安定せず、出産予定の一週間前から入院しているようだ。

 最新のメールの本文を、無関係の北条は、冷たい目でなぞる。

『ミナちゃん。利矢は、陣痛がかなりキツイみたいで、ずっと泣いてたけど。俺の子、生んでくれるって(感動!)。きっと元気で生まれてくるよな。ミナちゃん、離れてるけど、応援してて!』

 なぜか、笑いがこみあげた。暗い感情に突き動かされて、北条は勝手に返信する。

『流産しろ』

 たったひとこと。件名は「Re」で相手の文をそのまま引用し、「送信」ボタンを押す。

 皆瀬と志沢がこの後どうなるかなんて、知らない。ケータイの電源を切って、元どおり、皆瀬のロッカーに放り込んだ。

 陰湿なことをして遊んでいたら、いつものロードワークに行く時間がすっかり遅くなってしまった。

 ジムを出た北条は、暗くなった街をバイクで走り抜け、一度家に帰ってスポーツバッグを置いてから、最近お気に入りの神社へ向かった。



 翌日、ロードワークの疲労で深く眠っていた北条は、昼頃になってようやく目を覚ました。仕事を休んでいる期間は、試合前の追い込みをかける期間でもあるので、身体を休めるための睡眠時間もいつもより長くなる。

 頭がはっきりするまでの間、聞き流すためにテレビをつけたら、ニュースをやっていた。昼のワイドショーの中の、ほんの数分の全国ニュースだ。

『昨夜、松野(まつの)神社付近の歩道にて、ジョギング中の会社員の男性が、刃物を持った男に刺されるという事件が発生しました。犯人の男は、男性を刺した後、自ら近くの交番に出頭して、逮捕されたとのことです』

 ここで、犯人の顔写真が出る。

「あ……」

 映し出されたのは、ついこの間引退した、森口太一だった。

『元プロボクサーの犯人は、男性とは面識がなく、出頭した際に、「殺そうと思っていた奴に後ろ姿が似ていたため、誤って刺してしまった。申し訳ない」と述べており……』

 最後まで聞く間に、すっかり目が覚めてしまった。

 会社員の男性は、命に別状はない状態らしい。警察は、森口からくわしく事情を聴いているところだという。

(殺したかったのは、俺か)

 北条はようやく、最近感じていた視線の正体に気づいた。森口は、北条のロードワークの時間帯や場所をくわしく調べていたのだろう。

 昨夜、北条が悪戯のために居残っていなければ、刺されていたに違いない。ひょっとしたら、彼の深い恨みを一身に受けて、殺されていたかもしれなかった。

(つくづく俺は、悪運が強いな)

 母や男たちからの虐待にも負けず、生き延びてしまった辺りから、何かとてつもなく強い何かが、北条を守っているかのようだ。

 その何かはおそらく、神などではなく、血も涙もない、鬼の仲間だろう。

(きっと、そいつこそが、俺に瓜二つの本当の親だ)

 この件にすらまったく動じていない自分の顔を鏡に映し、薄い笑みを浮かべて、北条は、初めての防衛戦での勝利をも確信していた。

 世界はこれからも、善悪の両面に生きる彼の味方であり続けることだろう。幼い日に、取り返しのつかないほど傷つけた、罪滅ぼしをするかのように。

                       


 終



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