第2話「さらばライバル! ボブよ永遠なれ!」

 先日行われた「ゴキッ! 春のドキドキバトルフェスティバル」、そのメインイベントであったはずのボブ対イワン。当初は関節技のスペシャリストたちによる、ハイレベルな攻防が期待されたが、蓋を開けてみれば大波乱の試合に終わった。


『拳殴蹴』の子息を名乗る『拳三十郎』なる、謎の格闘家の乱入。そしてボブ選手もまた『拳二十郎』として、拳一族であった事をカミングアウトし、まさかの敗北。スポーツ新聞では各社号外扱いでこれを取り上げ、その報道は連日続いた。


【伝説の『拳一族』! またも現る】

【三十郎かく語りき、「あんなんパンチで十分。蹴り? そのうちな!」】

【必殺「ダブルパンチ」。誰もが夢見た、驚異の新必殺技。格闘技界に新風巻き起こるか!?】

【ボブ、まさかのワンパン(笑)KO! バスケ屋はバスケやってろ】

【何よその言い方、あんたバスケなめてんの?】

【何だと、外野はすっこんでろ!】

【くきー!】


「……はあ」


 男の口から溜息が洩れる。時刻は休日の昼、太陽が照りつける健康的な時間帯とはいえ、大の大人がコートとサングラスに身を包み、一人ベンチでたそがれるには、公園という場所はあまりに浮いていた。


(バスケやってろ……か)


 男は読んでいたスポーツ新聞を丸めると、ゴミ箱へと投げ捨てる。距離はゆうに10メートルは越えているだろうか、その鮮やかなシュートに、傍を通りかかった子供が奇声を上げた。


「すっげー! 今の何!?」


 一人の少年が自転車を止めて駆け付けるなり、子供達のグループはそれに続く形で次々と自転車を止め、ベンチの大男を瞬く間に囲う。


「おじさんバスケ選手? 今のロングシュート超スゲエ!」

「体でけえ! やっぱりバスケ選手でしょ?」

「……私は……」

「格闘家でしょ?」


 見れば、少女がさっき投げ捨てられた新聞紙を広げ、まるで人相書の如く男の前へ突き付ける。


「元バスケット選手にして、『リングの魔術師』と呼ばれた格闘家、ボブ・サムトムジム選手、あなたよね?」


 少女の指摘に場が凍り付く。そして少年が沈黙を破る様に言い放った。


「おじさん、あのパンチ一発で負けちゃったボブ? なーんだ」


 少年の落胆の声に、ボブは心を痛める。そして悔しい事に、何も言い返せなかった。


「……すまない」


 ボブは擦れた声を捻りだすと、全速力で駆け出す。いくら自転車に乗っているとはいえ、子供たちをまくのは容易いことだった。


 公園を抜け、民家のレンガで出来た塀や、工事中のアスファルトを駆け抜ける。元バスケット選手は、複雑な地形や人の波に足止めされない。やがて人目の当たらない路地裏の通路で、ボブはようやく一息を付ける。


「はあっ……はあっ……」


 ボブは軽く走っただけで、息切れを起こす自分の体に驚いた。いくら試合が終わり、数週間トレーニングを怠っただけで、こうも肉体が衰えるものなのか。


 全盛期なら、飲酒や喫煙後でも力が漲る錯覚まであったというのに(無論、トレーナーに止められてから更に勝率が上がったが)。ほんの数年で、こんなに変わるものかと恐怖を覚える。


(自分は、もう限界なのかもしれない)


 それを痛感させられた試合だった。一時は相手を追い詰めたものの、原因不明の逆転であっさりと倒される。何が一番ショックだったかといえば、あれ程頼りにしていた『ボブ術』が機能しなかった事だろう。


 ボブが両腕を天井に突き出し、熊の様なポーズを取る。バスケットの経験を生かしたこの戦闘スタイルは、ずばり「防御」の型であった。長身を生かし相手を見下ろす事で、あらゆる攻撃を「確認」後、しかるべき防御や反撃へと移る。破った事のある格闘家のいない、鉄壁の防御と信じていたが……。


(あの男は、私の事など眼中に無かった)


 試合での三十郎は、ボブを見るなり勝手に恐怖し、一切手出しをしてこなかったと思いきや勝手に立ち直り、『ボブ術』を無視して殴りかかり、力付くでKOしてしまった。


 つまりは、『ボブ術』はまるで関係なく、三十郎が一人相撲をとった挙げ句、実力で負けたのである。言い換えれば長年培った技術と経験が、力に負けたのだ。


(ないわー、マジでないわー)

「ないわー、マジでないわー」


 ボブの心と誰かの声が一致する。慌ててボブが振り返ると、公園でまいたはずの、あの少女の姿があった。


「君は!?」

「本当にダメね。試合で負けてからそこまで落ちぶれるものかしら……」


 少女はやや呆れる様に言って、カバンの中からDVDケースを取り出す。見覚えのある表紙に、ボブはまたも驚いた。


「それは……」

「そう、『ボブさんのハイパーバスケットテクニック 序ノ口』あなたが昔出していたDVDよ」


 それは、ボブがまだ格闘技を始める前、バスケット選手として活躍していた頃、周りにそそのかされる形でつい出してしまった、バスケットボールのトレーニングビデオだった。


 中身と言えばスポンサーの意向で、シリーズを大量生産するためにやけに間延びした展開だったり(『序の口』はバスケ道具一式を揃える所で終わる)、挙げ句にバスケットボールが1ミリも関係ない『ボブ体操』『ボブ音頭』『ボブルンバ』といった、無理やりレコーディングされたイメージソングと、それらのミュージッククリップが入っていた。


 ついでに言えば、世間はすっかりブルーレイディスクに移行していたのに、プロデューサーがマーケティングを見誤り、DVDとカセットテープで大量生産した挙げ句、そのまま不良在庫と化してしまったいわく付きの一品であった。古本屋でよく未開封品置いてあるんだ。


「ひとーっつ、ボブより、ストレンジ~」

「ああ! それは『あっぱれボブ日和』止めてくれ! それは歌詞とかメロディがギリギリなんだ!」


 気持ち良く歌いだす少女に、ボブは慌てて止める様に懇願する。


「……ま、冗談はさておき、こんなDVDを見ただけの素人の付け焼き刃で追い詰められちゃうぐらい、疲れ果てちゃったのね」


 少女の言葉にボブは目を見開いた。自分がバスケットで培った動きを全て逃走へと活用し、彼女はそんな自分に追い付いた。しかも当時誰も歌わなかった自分のイメージソングを、彼女はそらで歌ってみせた。


「まさか、君は……」

「……そうよ。ファンだった。格闘技を始める前から……」

「お嬢様! こんな所に!」


 新たな男の声にボブは振り返った。黒のタキシードに身を包んだ、利発そうな若者の姿があった。


戸斗中ととなか!? あっきれた、こんな所にまで追っ掛けてきて!」

「呆れるのはこちらの方ですよ! 何だって病院を抜け出したりするんですか? わざわざ特別病室まで使っているのに!」


 いきなり口論を始める二人を見て、ボブは慌てて少女に尋ねた。


「話が見えないんだが……」

「……私ね、昔あなたのバスケの試合を見てね、あなたみたいになりたいって本気で思ったの。だからずっとバスケを練習してて……」

「お嬢様! ええいそこの男! お嬢様から離れないと、オレの自慢のコマンドが……」


 そう言って突進する男をボブは片手で難なく止め、さらにドリブルをしてみせた。


「申し訳ないが、話の腰を折らないでくれるかな? ミスタータナカ」

「ちがっ! オレはっ! ととなかっ! うっぷ!」


 小気味よいリズムで何度もアスファルトに叩きつけられ、戸斗中の口からは何かがあふれ出ようとする。しかし成人男性の全体重を片手で制御し自在に操るその技術は、まさに芸術そのものであった。


「で、小さなプリンセス。聞き間違いでなければ、今しがた『病室』なんて単語が出てきた気がしたのだが……」

「そうよ。私は病気。明日が手術でね……陳腐な話でしょ?」

「そうだな、実に陳腐だ。手術を恐れて病院から抜け出し、スーパースターに出会う……」

「そうね。一つ違った事と言えば、私が会ったのはスーパースターなんかじゃなくって……」


 突然少女は、ボブの手から戸斗中を素早く奪い、そのままドリブルしながら駆け出す。振り向きもせず彼女はこう言い放った。


「過去の栄光にすがり付く、哀れでチンケな大男よ」


 ボブは茫然としたまま、彼女の背中を見送る。やがて路地裏には再び静けさと、彼女が落としたDVDだけが取り残された。


(哀れでチンケな大男か、言われっぱなしは性に合わないな、そうだろボブ?)


「キボンヌ製薬」創設者の「モスコシ・キボンヌ」は、一流の科学者にして、自ら会社を設立する程のアクティブなビジネスマンであった。彼は理論上不可能とされていた「足が速くなる薬」「惚れ薬」などをはじめ、あらゆる分野で画期的な薬を作り出す事に成功し、莫大な富と名誉を手にする。


 わずか一代にして大財閥を築き上げたキボンヌは、その後日本で一人の大和撫子と燃える様な恋に落ち、運動会のクラス対抗リレーで太った小学生のラストランを飾るよりも早く結婚した。


(……その末裔が、あのじゃじゃ馬娘ってわけか)


 高層ビルの一室、自分の事務所でボブは昨日振り回されたあの少女「彩香さやか・キボンヌ」の写真を手に取った。


 大男が、娘でも何でもない少女の写真を見る。背徳的な光景であるとボブは自覚するも、彼の中にある少年の様なプライドが、昨日の彼女を許しはしなかった。


【過去の栄光にすがりつく、アホでマヌケなアメリカ人よ】


 彼女の言葉が何度も頭をよぎる。細かい言い回しは忘れたが、とにかく自分は侮辱された。彼は紳士的な態度こそ心がけてはいるが、内心は自らの力に絶対の自信と誇りを持った、飽くなきまでのファイターなのだ。


「ジョージ」

「何だいボブ?」


 ボブは窓拭きをしていた若い男を呼び止める。名前はジョージ。日本語が達者な彼は正真正銘の外国人。バスケット時代からボブを支えてきた敏腕マネージャーである。


「このサヤカ嬢の病気って何だか分かるかい?」

「おやおやボブ。何人ものセレブを自慢のディフェンスでかわしてきた君が、こんなちっちゃなプリンセスにお熱かい?」

「茶化すなよ。真面目に聞いてるんだ。身元も全て洗い出せているんだろ?」


 ジョージは元CIAにしてちょっとしたワルであったが、ボブというバスケットスターとの出会いが、彼の荒み切った人生に潤いをもたらした……。


 残念ながら今はその熱いドラマを語る時ではなく、ジョージという男がボブにとってかけがえのないパートナーである事、それだけを覚えていてほしい。


「……大財閥の子女にして、製薬会社という地盤をもってしてもなお、彼女を苦しませる病気……これだけで十分ヤバイとは思わないか?」

「いいから、その口ぶりじゃ全てを知ってるな? 早く答えるんだ!」

「OKOK、仕方ないな……いいか? 彼女の病気の名は……」


 ボブは息を呑む。そしてジョージは、重苦しく語った。


「『不治の病』だ」


 人類の英知は科学を発展させ、より豊かで幸福な未来を築き上げてきた。かつては難病と呼ばれた病気でさえ、何世代にもかけて克服してきたというのに……。


「『不治の病』……だと?」


 民間人が格安で宇宙旅行に行けるようになり、小学生がコンビニ感覚で痔の薬を買えるような時代に、何故あの少女が、よりにもよって大財閥の娘が「不治の病」にかかってしまったのか。


「ああ……ジョージ、神はこの世界にいないのか?」


 ボブは弱々しい声で、かろうじて口を開く。


「ボブ……もし神様がいるなら、そいつはたった一人で世界を見つめているんだ。彼女一人助けるなんて、それこそフェアじゃない」

「フェアじゃない……そうだフェアじゃない! 大財閥の娘と、かつては世界に輝いたスポーツ選手。この二人の力でも何とかならないのか?」

「ボブ、頼むから落ち着いてくれ……」

「ジョージ! 神は死んだのか!?」

「ボブ!」


 ジョージは堪え切れず、懐からパーティー用のクラッカーを取り出すと、ボブの眼全で炸裂させた。あまりの衝撃に、ボブは言葉を失う。


「いいから聞くんだボブ。確かに神は死んだのかもしれない。しかし、俺たちは生きている。違うか?」

「ジョージ……急に話を逸らすんじゃ……」


 反論を試みるボブの口を、ジョージは手に持っていたポップコーンで塞いだ。差し出されたポップコーンを、ボブは反射的に咀嚼する。


「もぐもぐ……ジョぉージ……」

「いいから聞くんだ……これはトップシークレットの情報だが、とある製薬会社が、丁度彼女の様な症例にあう特効薬の開発に成功したらしい。無論、商品化なんてまだまだ先だがな」


 ボブの目の色が変わる。


「察してくれたみたいだな。だがいいのか? それはおおよそ誉められた行為じゃない。何より、相手が危険過ぎる」

「……おいおいジョージ、忘れたのか?」


 ポップコーンを完食したボブは、差し出されたコーラを口に流し込むと、勢いよく言ってみせた。


「この私が、不可ゲェーップをゲェーップにするゲェーップゲェーップゲェーップ!」


 ボブの決意は半ばコーラによって邪魔された。それでも喋りを止めようとしないボブに、ジョージは鉄のような硬い意思を感じた!


「愚問だったなスーパースターよ。いいぜ、地獄の果てまで付き合ってやる」


「クロート製薬」。日本国内において「キボンヌ製薬」に並ぶ、巨大企業。「東のキボンヌ、西のクロート」なんて言葉が生まれるほどの存在である。


 そんなクロート製薬の心臓とも呼べる都内某所の研究施設、そこにボブの姿はあった。


(さすが国内トップ企業、なんて厳重なセキュリティだ……)


 比較的近い、とはいえ数十キロメートルは離れた林から、双眼鏡で施設を見る。銃をもった警備兵に、夜中でも暗闇を許すことのない巨大サーチライト、そして番犬とおぼしき複数のドーベルマンが、フェンス内をしきりに行き交いしていた。


(まるでハリウッド映画だな、おおよそ日本とは思えない光景だ)

「げっ、またお前か?」


 突然の声に振り向くと、そこには黒いベストに身を包んだ男がいた。顔と声に覚えがある、あの少女を迎えにきた執事の青年であった。


「……タナカか」

「ととなかだよ! 何で貴様がここにいる!?」

「おやおや、後から来ておいて愚問だな。おそらく目的は一緒……だろ?」


 ボブがそう言ってニヤリと笑うと、戸斗中は言葉を詰まらせる。無言は肯定の証だった。


「……私はお嬢様に拾われた。ケンカぐらいしか取り柄のない、粗野な乱暴者だ。お嬢様と会ったのも、言いたくはないがカネ目当ての誘拐だか、そんな不埒な事を考えていた時だ」


「いきなり昔話をする人がいたら黙って聞いてやれ」ボブは亡き母の言い付けを守り、彼の話に耳を傾ける事にした。


「私はお嬢様に近付き、ガードマンを軽く破ると難なくさらう事に成功した。相手は桁外れの大企業、少しこづけば簡単に大金が手に入ると思った。だが……」


「あんた、かなりの腕利きね。私のガードマンにならない?」


 ボブは驚いた。彼の話の中から、少女の声が鮮明に再生されたのだ。それぐらいボブは話に集中していたのだ。


「驚いたよ……命乞いでも泣き言でもなく、あんなあどけない少女が対当に『取引』を持ちかけてきたんだ。こんな私を、認めてくれたんだ」


 ボブは黙って頷く。隣を見れば、銃を持った警備員も、真剣な表情で頷いていた。


「彼女は私を許してくれた。何より、私の腕を買ってくれた。だが、私の中の罪は消えやしない。ならば私の人生は、彼女への贖罪に費やさねばならない」


 改めて辺りを見る。警備員の数は増えていたが、彼らは黙って話を聞いていた。


「親父は誉められた人間じゃなかった。仕事を放棄し、母には愛想を尽かされ、よくストレス発散に俺を殴り付けた」


 戸斗中の話を聞きながら、警備員はセキュリティを解除し、正面玄関に二人を案内する。


「だが、そんなクズみたいな男でも、たった一つ教訓を残してくれた。『恩は忘れるな。必ず返す事』だ」


 すれ違う警備員が二人に敬礼し、薬の場所を案内する。誰かから会釈をもらう度に、戸斗中はメガホンを下ろして会釈を返した。


「俺がお嬢様にもらった恩は計り知れない。俺の未来は、お嬢様のより明るい未来のため、全てを費やさねばならない」


 警備員が何やらスイッチを押すと、廊下中をしきりに乱反射していた赤い光線が解除される。見れば警備員は何も言わず、力強いサムズアップを返してくれた。


「……俺に素性なんてない。誇れるものなんてない。だけど男だ。守るべきものを見つけ、それを守らなければならない」

「一々堅苦しい男だ。お前の様な面倒な男に慕われ、あのプリンセスもさぞかし迷惑だろう?」


 ボブが茶々を入れると、すかさず周りの警備員からブーイングが上がった。するとボブは「冗談だよ」と言わんばかりに、笑って手を軽く振ってみせる。


「そうだな……お嬢様にとって、俺は目障りかもな」

「だけど、彼女の延命はお前の意思なのだろう?」

「……大切な人に生きてもらう。たとえ本人がそれを拒んでも、俺には彼女しかいないんだ」


 戸斗中が喋り終えると、「プププ」と音をたて、大掛りな機械が煙を吹き出し揺れる。見ればメーターは赤のラインに僅かに届かず、機械に埋めこめられた、透明なケースに入れられたカプセルは沈黙していた。


「……タナカ、君は強情っぱりだな。『守る』だの『大切』だのといった言葉に逃げて、君は本当はどうしたいのだ?


 ボブの言葉に、戸斗中は目を見開いた。


「長い前置きはいい。凝縮された真実を、君は君の意思を貫けばいい。なに、それぐらいのわがままなら、プリンセスも許してくれるさ」

「わがまま……真実……くそっ、どいつもこいつもハメやがって、ああそうさ! お察しの通りだよ!」


 戸斗中はメガホンのボリュームを最大に上げると、全力で叫んだ。


「俺はっ! お嬢様が好きなんだあっ!」


 その魂の叫びは、館内スピーカーを通じ、施設内はおろか、その周辺にまで響き渡った。


「見ろ! 最高レベルのセキュリティが!」


 警備員の誰かが指差して叫んだ。見れば厳重な装置に付いていたメーターが、「ププププ」と音を立ててその上限値に達する。途端に軽快なファンファーレと共に、機械に埋めこめられた透明なケースがごとりと落ちた。


「薬が……これで……」

「バカーっ!」


 場に似付かわしくない、かわいい金切り声が部屋を包む。振り向けば戸斗中が命を投げうってでも助けだそうとした、彩香・キボンヌの姿があった。唖然とする周囲をよそに、彼女は戸斗中に向かって一直線に歩いていく。


「お嬢様!? どうしてここにっ……!」


 戸斗中の言葉は彼女の平手打ちに遮られた。か細い少女の手の平からは、肉体のダメージよりも深い痛みを戸斗中に与える。


「本当にバカね! 何でこんなムチャをするかしら? ライバル会社に単身侵入するとか……命知らずにも程があるわ!」

「ですが、俺はお嬢様を……それよりどうして? 何で俺なんかの為にお嬢様自ら……」

「そ……それは……」


 顔を赤らめる彩香に、周囲からは口笛や「オーッ」といった祝福の声が飛び交う。その光景にボブは微笑を浮かべた。


(やれやれ、お前は大したナイトだよタナカ)


 そして、ボブは誰も気に留めようとしない透明なケースを拾うと、ある事に気付いた。


「……なあ、誰かこのケースの開け方を知らないか?」


 ボブの言葉に、周囲は一斉に沈黙した。やがて科学者と思しい老人が前へと出た。


「それは我がクロート製薬が誇る、象が踏んでも壊れないプラスチック。どんな衝撃でも破る事は出来ない……」

「どんな衝撃でも? ほう、その言葉後悔するなよ?」


 ボブはニヤリと笑うと、おもむろにケースを地面に叩きつけ、跳ね返った所をキャッチする。それを繰り返し、どんどん加速していく。


「あれは……」

「そうだお嬢さん。DVDでは手を抜いてみせたが、これが私のハイパーテクニック『高速ドリブル』だ!」


 そしてケースにヒビが入ると、やがて大きな音と共に絶対無敵のケースは割れた。中のカプセルをボブが取ると、彩香に手渡した。


「ありがとう。俺はもう大丈夫。もう一度やれるって事を君に証明してみせよう」

「それじゃ……」

「ああ、引退は止めだ!」


 ボブの瞳に再び炎が宿る。戦士は、死ぬまで戦士なのだ。


「おかえりなさいスーパースター!」


 ここは日本のアリアケ、格闘技の聖地「東京ビッグファイト」。スター選手の思わぬ復帰に、会場のボルテージは否応なしに上がっていく。


「君のいない数週間、ビッグファイトは『三十郎』というよそ者にすっかり荒らされてしまった!」


 会場のスクリーンには、三十郎がゴミを散らかしたり、リング上で携帯ゲーム機などを遊ぶ様を撮影した動画が映し出され、観客からのブーイングが飛び交う。


「ちょっと三十郎! あのあからさまな映像は何なんでヤンスか!?」


 コーナーで待機する三十郎のズボンの裾を、セコンドの二十九郎が慌てて引っ張る。


「ああ、何か金もらってやらされたんだが。行儀悪いから正直イヤだったよ」

「ムキー! ただでさえ敵が多いのに、より反感買ってどーするでヤンスか!?」


 三十郎は今や時の人である。素性不明にしてボブをあっさりと破った実力者でありながら、その奔放したライフスタイルに、格闘技ファンは全員一致で「こいつは一体何なんだ?」という感情を抱いていた。


 そんな四面楚歌の三十郎に、ボブがリベンジ戦を挑む、まさに世紀の一戦が始まろうとしていた。


「ああっ! あのコスチュームは!?」


 会場が騒然となる。ボブの服装はいつものハーフパンツではなく、バスケット選手のユニフォームそのものだったからだ。彼は軽快にドリブルをしながら、駆け抜けるようにリングインする。三十郎がニヤニヤと笑っていた。


「おいおい、ここはコートじゃないぜ」

「私は、私らしさを忘れていた。もう『格闘家』なんて気取るのは止めだ」


 ボブは手にしたバスケットボールを、セコンドのジョージにパスする。そして会場のアリーナ席にいた彩香と戸斗中を見つけ、人知れずウィンクを送ってみせた。


「三十郎、気を付けるでヤンス……」

「わかってる。あいつ、なんか吹っ切れたな」


 三十郎の表情から慢心が抜ける。本能がボブへの警戒を呼び掛けていた。


「試合前の会見では『原点回帰』と語っていたボブ、彼はバスケ時代の経験を武器に、三十郎とどう戦うのか!?」


 試合開始のゴングが鳴ると、先に動いたのはボブだった。


「ジョージ!」

「ヘイ! ボブ!」


 ボブはジョージから投げられたバスケットボールを手に取り、三十郎に目がけて投げ付けた。会場は一瞬にして気まずい沈黙に包まれ、ボールを受け損ねた三十郎は小さく「痛っ」と呟いた。


「武器による攻撃は反則だ! ボブ選手失格!」


 レフェリーがすかさずジャッジを下す。そして何が起きたか分からないボブを、スタッフが速やかに連れ出した。

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